身体を突き抜けた衝撃と唐突な浮遊感は、ナッシェがそれを理解するよりも早く彼女の身体を傷つけた。
強制的に止められた呼吸は、地面に叩きつけられてからも再開できず、わけの分からない閉塞感だけが少女の感じる全てであった。
「かっ…………ぁ?」
見えていないのに明滅する視界。
何が起きたんだろう。
よく分からないけど、全身が熱い。
おなか、いたい。
「う、ぁ」
チカチカと光る脳裏に、レオンハルトの振るった
直感的に、お腹に強烈な攻撃を受けたんだと悟る。
ジャギィシリーズの防具では受け止めきれないような、そんな一撃だったはず。
同時に、得体の知れない何かによって殺されるのだと思った。
それはまさに、
漠然としていた死の影が少女の身体を包み込む。
だけれど、これはしょうがないことだろう。
自分が今まで斬り殺してきたマッカォの数を数える。
強くなるために、自分の幼い夢のために、たくさんの生き物をおびき寄せて殺した。
この世界は、殺し合いの原理が働くところなのだ。
所詮箱入りだった自分には、
格が違う。世界が違う。
一瞬でも、あの偶像の隣に並んだような幻想を抱いた自分が愚かしく思える。
あの時感じた違和感をキチンと受け止めて、アイマスクを外して逃げれば良かったのだ。
私も、あの人みたいに。
そんな夢を持ってしまったのが、いけなかったのだ。
急に、喉元に異物感がせり上がってきた。
軋む身体を起こしたナッシェは、慌てて口元に手を当てたが、
「こぷっ」
奇妙な音がして、たくさんの生暖かい液体が口から漏れ出てきた。
体内からごっそりと大切なものが抜けていく。
ふわふわとしていた死の感覚が、少女の胸を鷲掴みにした。
ああ、本当にここまでなんだ。
穏やかに笑う父の顔が思い出される。
日だまりの中でのんびりと紅茶を飲む母の横顔、楽しそうに劇を観る兄の後ろ姿、変なことばかり言い続ける姉の退屈そうな歩み、大好きだったメイドの困ったような笑顔。
貼り付けた笑みを片時も崩さない受付嬢、男の人の家に入り浸っている踊り子みたいなハンター。
私の王子様の、大きくてかっこいい背中。
結局、後ろ姿だけしか見れなかったなぁ。
暖かくて幸せな家庭に生まれて、何一つ不自由なく暮らして、物語を求めて家を飛び出して、寒い夜空の下で泣いて、美味しい卵料理を作ってくれたお姉さんに助けてもらって、卵欲しさに狩り場に足を踏み入れて、あっさり捕まって、私史上最悪のばっちぃ思い出を手に入れて。
「ハンターになるんだったら」と護衛クエストを斡旋してもらって、いるはずのないイビルジョーに遭って、王子様に助けてもらって。
なかなか、悪くない人生だったんじゃないでしょうか。
刺激的で、物語みたいで、結局人間は死ぬわけで、それがちょっぴり早くなっちゃっただけで、こうして振り返ってみると、
「…………いやだ」
口の端から血を流す少女は、アイマスクをしたまま、地面に這いつくばりながら、土を掴んで逃げようとした。
何から?どこへ?
無駄なあがきだと分かっていた。
どうせ死にそうだと、そんなことは分かっていた。
劇的な展開は物語の主人公にしか許されていなくて、「現実は物語じゃない」確かにその通りで、事実私は死ぬわけで。
それでも、こんなのってあんまりだ。
「死にたくない、よぉ…………」
ジャリジャリという音。
音の蘇った耳をつんざくような雄叫び。
「ガァァアアアアアッッ!!」
「ひっ…………」
見えない恐怖を拭いたくて、ナッシェは目を覆っていたアイマスクを取り払う。
まず、赤い血だまりが見えた。
次に、それが自分の身体から流れ出て出来ていると知った。
キリキリと鋭い痛みを発しているお腹は、相当ひどい傷になっているのだろう。
それから、咆哮を上げていたモンスターのいる方向へと目を向けた。
群青色の体躯を見せつけるそのモンスターは、血に飢えた赤い瞳を爛々と輝かせてナッシェを睨みつけてきた。
突き出した頭と異形の腕には、黄土色とも緑色ともつかないコケのようなものが付着している。
“砕竜”ブラキディオスの太ももが縮められる。
跳びかかりだ。
さっきまで見ていたマッカォの動きと全く同じ彼の行動に、ナッシェは歯を食いしばりながら、涙を流して見つめていた。
視線がかち合う。
このモンスターが、自分を殺すのだ。
自分を殺す者から、目を離したくなかった。
このブラキディオスから視線を反らしたら、自分の中にある大切な何かが失われてしまう気がしたのだ。
命が失われる直前に何を言っているのだと、わずかに残った理性が呆れ顔で指摘する。
なりふり構わずに逃げろと本能が警鐘を鳴らす。
命より大切なものなど、あるはずがないのだと。
それでもナッシェは、怒れるブラキディオスとじっと見つめ合った。
それは、つかの間の時のことであったが、少女は確かに、死の間際で本当に欲しかったものを手に入れたのだと思えた。
ドンッッ!
巨大が地を蹴り、一瞬で宙へと躍り上がった。
太陽を背に、圧迫感のある死の影が降りてくる。
ナッシェの視線は変わらない。
その碧眼は、美しい人魚の浮かべる涙と、獣のような激しい闘争心とが混ざって、片時もブラキディオスのゴツゴツとした身体を睨み続けた。
死ぬ寸前まで目を離さない。ずっと見続けてやる。
真っ直ぐに少女へと飛びかかってくるブラキディオスは、勇ましく吠え猛りながら、死神の如き右拳を限界まで振り上げ――。
――ナッシェの背後から
一瞬遅れて、ガンランスが白い閃光を放って爆発した。
遠隔起動式竜撃砲、炸裂。
「……………………ぇ」
口から煙を吹き上げながら、勢いよく頭上をすっ飛んでいくブラキディオスの巨躯を、呆然と見送るナッシェの耳に、聞き慣れた足音が近づいてきた。
「ナッシェ!!」
振り返るとそこには、頭防具を外して青ざめた表情のレオンハルトが。
「ぇ、せ、先生?」
自分が助かったという事実が理解できず、半ば夢見心地で言葉が漏れた。
「ああそうだ、レオンハルト先生だ。…………すまなかった」
駆け寄ってくるレオンハルトの姿に、まだ現実感が湧かない。
「大丈夫、じゃねぇよな。ほら、秘薬だ。飲め」
そう言って、懐から取り出した茶色い丸薬を二粒、ナッシェの赤く濡れた唇を指で割って突っ込み、舌を引っ張りながら顎を上げて、血液と共に無理やり飲み込ませた。
「んむっ!?」
ズボッと指を突っ込まれたことに目を見開いていた少女は、舌先にに当たる彼の手の感触が現実だと悟る。
ほんわりと心に暖かな熱が灯った。
ちゅぷっという音を立ててレオンハルトの手が引き抜かれ、朱の混じった唾液がつつと糸を引いた。
されるがままに嚥下したものが秘薬だという認識を持ったのは、あまりの痛みで麻痺していた全身が急速に感覚を取り戻して、同時に身に覚えのある薬効が回り始めたのを感じてからだった。
「とりあえずの応急処置だ。立て」
レオンハルトに肩を抱えられて、覚束ない足で立った。
反射的にガッツポーズを取るナッシェ。
秘薬の牙が身体からすうっと抜けていく。
身体の芯にまで擦り込まれたガッツポーズの動作は、副作用に犯される寸前の強烈な痛みと吐き気とに調教された結果のものだった。
人、それを“パブロフの犬”と言う。
ズキンッ!
秘薬によって回復したはずのナッシェを襲ったのは、強烈な腹部の痛みだった。
痛いところにそっと手を当てると、べっとりと温かい血に濡れた防具の感触が。
刺さっている。
なんとなくそう感じて、ナッシェはビクッと手を引っ込めた。
頭がぼうっとする。
突然視界が暗くなり、力の抜けた身体がぐらりと傾いて、慌てたレオンハルトに支えられながら地面に座り込んだ。
あれ、やっぱり、死んじゃう感じ?
そんな思いをぼんやりと抱きながら、ナッシェはそっと彼の顔を見た。
「……どうしてブラキディオスが古代林にいるんだ、聞いてないぞ、クエストも来ていない、お呼びじゃねぇんだよ、ふざけんなよ…………」
そこには見たこともない表情をしたハンターがいて、なんとなく、身体が熱くなったような、そんな心地になった。
「…………しばらく横になっていてくれ。腹の傷が酷い。秘薬じゃ治らない。後で俺が看る。……俺は、先にやらなきゃいけないことがあるから。ほんと、すぐに終わらせてくるから」
途切れ途切れになる意識の中で、一瞬、優しさに溢れた目と視線があった。
「ガア゛ア゛ア゛ァッ!!」
ブラキディオスの、しゃがれて耳障りな咆哮が響く。
だけど、そんなことはどうでも良かった。
「…………うるせえなぁ」
ナッシェの視界には、
「俺、今、過去最ッ高に怒ってるんだよね」
爛々と輝く真紅色の瞳、血に飢えて剥き出しになった犬歯、
もはや、一片の悔いもなかった。
ああ、私の王子様。
ヒロインの窮地に颯爽と現れて、圧倒的な力で敵をなぎ払い、
夢見るハンターの少女は、お腹からドクドクと血を流しながら、全く幸せな気持ちで眠りについた。