――深い水の底で
胸に重い圧が掛かっていて息苦しく、同時に、水に揺られる心地よさについつい身をゆだねてしまう。
ここは、どこだろう。
私、何をしていたんだっけ。
閉じているのか、開いているかも分からないまぶたの裏に、ピンク色の壁が浮かんできた。
図鑑で見たことがある、輪っか付きの星や、黄色のお月様、流れ星が描かれている。
後ろを振り向けば、天蓋の下のふわふわとしたベッド、数え切れないほどたくさんあるぬいぐるみの贈り物、梯子付きの本棚、丸いテーブルとティーセット、人の何倍もある大きなガラス窓、その向こうに広がるのは、手が届かないくらいに高くて蒼い空と、たくさんの家、羽のついた人や馬が飛んでいる天井────。
いつも一緒にいてくれた人は、どうしてか姿が見えない。
寂しくて、退屈な部屋だった。
ふと、足元に一冊の本が落ちているのに気がついた。
茶色の分厚い表紙に、金色の文字で刻まれている題名は、“狩人叙事詩”。
この狭い部屋の中に持ち込まれた、広い世界が詰まった本だ。
あの子が、秘密で持ってきてくれた本。
しゃがみ込んで、本の中ごろを開いてみる。
何度も読み込んで、すらすら暗誦できるほどに覚えてしまったその一節は、“ジンオウガ”というモンスターに囚われていた姫とハンターの物語だった。
朱い紅葉の降る川の底は綺麗なエメラルドの宝石を敷き詰めたようで、よく晴れた月夜の晩に、ハンターと狩人は血に飢えた獣のように吠え猛り、悲鳴一つ上げずに見守る若き姫君の眼差しの向こうで、命を削って殺し合うのだ。
浮かんでは消えていく不思議な文字列を目で追っていく。
『ああ、生きるとはまさにこのことだ。お前を討たんと心が叫ぶ。この身捨てんと脳が震える。何物にも賭けぬ命など死んだにも等しい。たとい我が命が尽きようと、貴様の喉笛を引き裂いてやろう』
かぁっと身体の芯が熱くなるような感覚。
同時に、ここではないどこかへ飛び出してしまおうと、どうしようもなく心が疼く。
「ああ、姫よ。私はあの気高き狩人を殺せれば、それで良かったのだ。もう何も思い残すことはない。貴方はもうお帰りになればいい。私はここで死ぬのだから」
見えてる世界の向こう、ここじゃない場所に行きたいのなら。
文字列が浮き上がって、自分の周りを走り始める。
ぐるぐると廻ってキラキラ光る文字たちは、やがて一羽の白ウサギになった。
ぴょんぴょんと跳ぶウサギが、傍らから勢いよく跳ね出して行く。
待って!
慌てて立ち上がり、揺れる長耳を追いかけながら、ナッシェは英雄譚を口ずさむ。
「私を置いていかないで、王子様。私は貴方の隣にいたいの」
不可視の入り口をくぐり抜ければ、そこに広がるのは満天の星の海だった。
再びひとりぼっちの場所。
けれど、ここは寂しくない。
花開く無数の星の瞬きをかき分けながら、ナッシェは急いで前に進む。
『ナゥシエルカ様、足下にお気をつけください!』
大丈夫よ、じいや。私は転ばないわ。
『ナッシェ様の頭の中は、お花畑みたいですね』
そうよ、フルーミット。
私の中には、まだ見たこともないたくさんの花があるの。
咲いては散って、こぼれて、また咲いて、そうして私の手を引いて、見たこともない場所に連れて行ってくれるのよ。
いつの間にか、星の花園を跳ねていたウサギはいなくなっていて、代わりに蒼く輝く蝶たちが、一羽、二羽とナッシェの周りを飛び始めた。
可憐に輝く蝶々たちは、やがて星の花畑の中からたくさん飛び出してきて、まとまって、ナッシェの前にキラキラと光る道を作り上げた。
群青色の空の彼方へと続く道の向こうには、白く輝くものがある。
蝶の階段が導くのは、白銀の太陽のような場所。
さあ、行こう。
あの場所を目指して、走り出そう。
ブロンドの髪が揺れて、夜明けの入り口へと駆けていく少女。
『私、貴方から一生────』
それから、視界は白一色に包まれた。
▼ △ ▼ △ ▼ △
まどろみの泡が弾けるような、唐突な目覚めだった。
夜空に瞬く幾つもの星は、夢の中で見たものよりも、少しだけ少なくて、それでもこの上なく綺麗な輝きを持っている。
パチパチと爆ぜる薪の音は、すっかり聞き慣れた野宿の声だ。
火にかけられた小さな鍋から、ほんのりと良い香りが漂ってきた。
ふと、身体に毛布が掛けられているのに気がついた。
誰が、と考えて、思い当たる人物は一人しかいない。
「……お、起きたか」
暗闇の向こうから届いた声に首を向けると、アスリスタシリーズの蒼い防具に身を包んだ一人のハンターが、薬草の塊を抱えながら歩いてきた。
「…………おはようございます、先生」
「ああ、おはよう。まあ、夜だけど」
きっとクエストで依頼された品だろう、古代林の上層に生えている緑色の山を地面に落としたレオンハルトは、木と木の間に吊した洗濯物をくぐって、ナッシェの枕元に寄ってきた。
「痛むところはあるか?」
そう聞かれてから、ナッシェは眠る前のことを思い出した。
初心者防具でブラキディオスに殴り飛ばされるなんて、私はなんて貴重な経験を積むことが出来たんだろう。
「大丈夫です。どこも痛みません」
ナッシェはほんのりと笑みを浮かべて答えた。
横になったままお腹にそっと手を当てると、そこには服の感触があり、中を触れば、かさぶたや傷痕一つ感じない肌を感じた。
記憶には残っていないけれど、きっと朦朧とした意識の中で、レオンハルト先生の手当てを受けて、身体に侵入した秘薬に反応してガッツポーズでもとったのだろう。
無意識にガッツポーズを取れるようになったら一人前のハンターだそうだ。
一人前のハンターになる前に、ブラキディオスにぶん殴られて死にかけるなどという体験をするハンターは、世界広しといえども私くらいのものだろうと、ナッシェはよく分からない満足感を覚えていた。
何にせよ、推定世界初である。
数日間に渡るレオンハルト式詰め込み学習の中で学んだ、ハンターとして最低限身につけておくべき基礎知識の中に、“砕竜”ブラキディオスのこともあった。
曰く、全身が黒曜石を含む群青色の硬い外殻に覆われている獣竜種のモンスターであること。
曰く、『殴る』ことに特化した柱の形状の腕と頭角を持ち、種として非常に獰猛で攻撃的な性格を持っていること。
曰く、衝撃によって爆発する『粘菌』なる生物と共生関係にあり、唾液腺から分泌する液体に大量に含まれている成分が粘菌の爆発作用を増加させると言うこと。
曰く、腕には小さな爪があり、その爪によって地面を掘って、地中を進むことも出来るモンスターであること。
曰く、環境への適応能力が非常に高く、餌となる肉が存在すればどんな狩り場にも出現する可能性があるということ。
曰く、獣竜種であるその骨格から、大型モンスター全体を見ても類い希なほどの強靭な脚力を持っており、フットワークは極めて俊敏で厄介なこと。
上記の理由から、ブラキディオスを殺すときは、尻尾に気をつけながら後ろ脚の腱を狙い、ズタズタにして動きを封じてからなぶり殺しを開始する、または、口腔内にある唾液腺を破壊すべし。
「…………唾液腺破壊のためにガンランス投げたんですね」
「ん? …………ああ、ブラキディオスのことか? まあ、あれはナッシェが危なかったし、正直に言うと、咄嗟にガンランスを投げちったんだよ」
ガンチャリオットもぶっ壊れたし、と、レオンハルトは後ろを指差した。
そちらへ目を向けると、黒や紫、群青色のモンスターの素材と共に、ガラクタになったガンランスのなれの果てが転がっていた。
確か、あれってリオレウス希少種の素材から作ったガンランスだったはず…………。
貴重な武器を意図せず破壊させてしまったことに申し訳なさを覚えながら、ナッシェは同時に、そんな貴重な武器を投げ捨ててまで自分を守ってくれたことに、気恥ずかしさと嬉しさを感じていた。
やだ、私、すごく愛されてる…………。
ブラキディオスに殴られたかいがあったというものだ。
そこで、ナッシェは一つの疑問にたどり着いた。
「あの、先生」
「ん、どうした?」
「あのブラキディオス、どうやって倒したんですか? ガンランス、壊しちゃったのに……」
「ああ、それか」
アレを使ったんだよ、と彼の示す先には、赤く燃えさかる炎のような、いっそ禍々しいくらいの外見を持つ一振りの大剣が木に立てかけられていた。
「すまなかったな。イャンガルルガが出てな、ディノバルドの大剣の、燼滅剣アーレーって武器を使って斬り殺してたんだが、爆破属性でな。ボカンバカンと斬っていたら、ブラキディオスが地面を掘る音が聞こえなかったんだ。
さすがに、ナッシェにブラキディオスは重すぎた。俺のミスだ。ブラキディオスは、アレで尻尾と両腕両脚を切り落として、眼窩から脳天を一突きだったからな。唾液腺潰していたこともあったけど、あのブラキディオス、他のモンスターとの縄張り争いに負けたのか、弱っててさ。動きも遅かったし、ダイナミック田植えのキレも悪かったし、怒りで視野が狭まってたのもあったのかな、討伐の時間はそんなにかからなかったよ」
相変わらず、要領を得ないトークである。
「…………?」
まだ完全には回転していない頭に、ペラペラと容赦なく流し込んできたレオンハルトの話を噛み砕くのに、ナッシェはしばしの時間を要して、
「ぇ」
待って、ダイナミック田植えって何?
ブラキディオスの目に大剣突っ込んだの?
彼の話からブラキディオスの最期を想像して、とてつもなく惨たらしい死体がナッシェの頭の中に現れた。
強靭な後ろ脚と脅威的な腕をもがれ、尻尾を引きちぎられて、抵抗の出来ないブラキディオスの脳髄へと無慈悲に突き入れられる爆破属性の大剣…………。
「…………なるほど、さすがは先生です」
少女は思考を放棄した。
言いたいことはたくさんあるが、とりあえずは納得しておくのだ。
世の中には、知らなくていい未知もある。
今晩は、仰ぐ星空が綺麗です。
「いや、助けるのが遅れてしまった。本当にごめんな。いや、報告では地中から出現するモンスターは確認されていなかったワケだけど、自分のいる場所以外に気を配るって意識が足りなかったのかも知れない。うん、これは言い訳だな。とにかく、本当にごめん」
申し訳無さそうに謝罪を繰り返すレオンハルトに、ナッシェは大丈夫ですよと微笑んで、
「助けてくださって、ありがとうございました」
「…………いやぁ、まあ、ね? 俺、先生だし、助けるのは当然と言いますか? いや、本当に起きてくれて良かった。俺、かなり心配したよ。なにしろ、自分以外の怪我を治すのは初めてだったし、なかなか起きないからさ。うん、鍛えた身体は嘘をつかないね」
視線を反らして照れるレオンハルトの横顔に、ナッシェは心が温かくなるのを感じた。
思わず頬が弛む。
レオンハルトのレオンハルトによるナッシェのための訓練は、彼女の身体を大いに鍛えてくれたはずだ。
あの地獄のような毎日のおかげで、ブラキディオスの会心の一撃を浴びてなお生き残ることが出来たのかも知れない。
そう思うと、ナッシェは無性に素振りをしたくなってきた。
そう言えば、アナスタシアさんはレオンハルト先生から教わったことはないのだろうか。
もしそうだったら、あの人にもこの『レオンハルト式』を教えてあげたい。
レオンハルト宅に入り浸っているようなハンターだし、きっとあの人も相応に強いのだろうけど、私が初弟子なら、この鍛練のことを知らないかもしれないし、『レオンハルト式』を実践すれば、絶対にもっと強くなれる。
少し──思い出せる限りでは本当に僅かだけど──お世話になった間柄だし、帰ったら教えてあげるべきだ。
少女は、人生最大の命の危険を回避した反動で、帰ってからのことに思いを馳せ始めていた。
いつか、ブラキディオスの狩りにも挑戦してみたいと思った。
あのブラキディオスとは、本当の意味で人生初の敗北だったのだ。
やられっぱなしではいけない。
きっと、ブラキディオスを惨殺できるこの人のような、強いハンターに――。
くぅぅ……。
「…………」
頬が弛んだついでに緊張も緩んだおかげで、小さくて可愛らしい音が、完治した少女のお腹から響いてきた。
「お、腹減ったのか。うん、良い傾向だ。腹が減るのは元気な証拠だからな。待ってろ、食べやすいものはもう用意してあるんだ」
嬉しそうにそう言うレオンハルトの脳みそには、悲しいかな、女子の恥じらい心に関する情報が致命的に欠けている。
「…………ぃ、いえ、これは違います」
「ん?」
「どうした?」と彼女の方を振り向くが、ナッシェはその様子を見て諦めの境地に達した。
どうやら、あの受付嬢はそういった隙を晒さない人のようである。
教育がなっていない。
「なにしろ、一日半くらいずっと寝てたんだからな。そりゃあ、腹も減るよな。人間だもの」
「一日半も…………」
「ああ。まあ、血を失っていたからな」
そんなに寝込んでいたのかとナッシェは驚き、一日半であんな怪我も治ってしまう秘薬の素晴らしさに感心して。
「…………ぇ?」
遅れて、致命的な事実に気がついてしまった。
小さな鍋におたまを突っ込んで味見をして、「うん、美味い」と頷くレオンハルトは、小さな金属のお椀にとろっとした粥状のものをよそって、目を見開いたまま固まるナッシェへと歩み寄ってくる。
ピシッと、心のどこかから音が聞こえた。
「…………せ、先生」
「なんだ? あ、これか。これはな、ブラキディオスの肉を一晩じっくりと煮込んで、トロトロになるまで溶かしたお粥だ。美味しいぞ?」
「そ、そうではなくて」
嫌だ、これ以上はいけない。
これ以上の場所に踏み込んだら、確実に大切な何かを失ってしまう。
「…………そ、その」
「どうした。…………まさか、どこか調子が悪いのか?」
ピシッ。
自分の懸念とは的外れなところを聞いてくる師匠に、また一つ、大切な何かにヒビが入る。
「…………あの」
言い淀む少女は、毛布の下でそっと腰回りに手を当てた。
大丈夫、穿いている。穿いているんだ。
これ以上いけない。コレイジョウイケナイ。
「…………お、お…………、ぉ…………」
「“お”? …………お腹が痛むのか」
ペシッ。パキッ。
違う、違います、ちがうんです。
心配そうに顔を寄せてくるレオンハルトに、少しドキッとする自分がいて、そんな自分を冷めた目で見つめる自分もいた。
今はそんなこと考えている場合?
今だからこそ、だよ。
今は緊急事態よ?
今、私は一歩踏み出せるんだよ。
どこに?
――新たな世界に。
視界の隅でちらつく洗濯物、あそこにちょうど一日前に着ていたはずのズボンと、ぱ……下着があるように見えるのは気のせいだ。うん、キットソウダ。
視界がぐらつく。
寝ているのに、大地が揺れているかのような揺れを覚えて、世界がぐにゃりと歪みながら、音を立ててヒビ割れていくかのような、悪夢の如き刹那の時間。
コレイジョウイケナイ。
「ぉ……ぉ…………」
「お?」
「ぉ…………
パシッ。
ああ、言ってしまった。
「お花摘み? …………ああ、トイレのことか。大丈夫だって、行ってくればいいよ。まだ熱いし。あ、立てるか?」
パリッ。
デリカシーの欠片もないその返答に、ナッシェは一筋の光を見いだした。
それは、今まで見たことも、見ようとしたこともなく、これからだって見るはずもなかった世界から射し込む、邪悪な光。
この人だったら、多少の羞恥心があってもやりかねない。
だって、この人は頭がおかしくて格好いいんだもの。
そうだよね、しょうがないよね、人間だもの、そう言うことだってあるよ、誰しも必ず経験している道だし、王様も、お母様も、美人なメイドも、老執事も、レオンハルト先生も、アナスタシアさんも、澄まし顔なあの受付嬢も、みんな絶対にやってしまっているのだ。
寝たきりの状態で致してしまったことに、何の恥じらいを覚えることがあろうか。
だって、下腹部に
ある程度のことを察してしまったナッシェは、到ってしまった悟りの境地の中で、どもることなく質問を発した。
「私が寝ている間、お手洗いのお世話をしてくださったのは、どちら様でしょうか?」
いたいけな少女が汚れちまった悲しみと共に紡ぎだした言葉は、さしものレオンハルトをして動きを止めざるを得ない悲壮感が込められていた。
年頃の少女である。
異性に対するそれらの反応は、人一倍に強いはずだ。
レオンハルトは、珍しくそれらの背景をしっかりと読み取って、視線をナッシェと合わせながら、安心させるようにこういった。
「大丈夫、俺、そういうのは妹ので慣れてるから」
パリィィィン…………。
ああ、違うんです、レオンハルト先生……。
この夜、純粋なまま遥か高みを目指していた少女は、大切な卵の殻を突き破って、新たなステージへと到達した。
その確かな萌芽を、少女は笑顔を浮かべて受け入れたのだった。
人はそれを“大人になった”と言う。
そして、歳をとってから気付くのだ。
アレは、間違ってしまった最初の一歩だ、と。
ああ、これが、『好き』という感情。
さようなら、昨日までの私。
こんにちは、新世界。