お腹へった。
頭がまわんない。
おなかへった。
よくわかんない。
肉。
おいしいおにく。
おにくはどこ……────。
「…………て」
無心に古代林を駆け続ける飢餓状態のナッシェの意識に、突然妙な声が入り込んできた。
「…………う?」
耳を澄ませても、何も聞こえてこない。
空耳だっただろうか。
どこかで聞いたことがあるような、とても耳に慣れている誰かの声だったような、そんな音を聞き取った気がしたけれど…………。
「…………お待ちになって」
「…………ッ!?」
今度ははっきりと聞こえた。
耳元で囁くようなその声に、はっと急停止して振り返ったけれども、ナッシェの視線の先には苔蒸した岩場しかない。
透き通った水が湧き出て、ピチャピチャと流れる小川が近くを通っている。
耳を澄ませても、清らかな水音と遠くの木々のざわめき以外に聞こえてくる音はなく、静けさの満ちた森があるだけだ。
「…………こちらです」
「ッ!?」
はっきり聞こえた声に、バッと右肩を振り返ると、小さな滝のようになっている小川の流れの上に、一人の少女が立っていた。
湧水にも劣らぬほど清らかな碧眼に、綺麗なブロンドのボブヘア、簡素で高級感のある純白のドレス、深窓の令嬢の如く華奢な身体。
まるで、
「…………だれ?」
僅かに目を細めて、短く問う。
どこかで見たことがあるようで、話したことはない誰か…………。
「お忘れですか?」
いたずらっ子のような表情を浮かべて、問いに問いを返す少女。
「…………分からない」
警戒を緩めずに、ナッシェはジリと右足を引いた。
声の在処が、見える彼女とは別の所にあるような違和感が、ナッシェの警戒心を強めていた。
「……ふふ、
金髪の少女は口元に手を当てて、くすくすと上品に笑う。
ナッシェははたと気がついた。
それで、変な既視感があったのだ。
疲労と極度の空腹の果てに、ついに幻覚まで見るようになってしまった。
やんぬるかな。
「つまり、
だって、私は一人しかいない。
確かに、空腹感が危険水域に突入しているのは事実だ。
最近は、寝ても覚めても真っ赤な景色が広がっていて、夢と現が混じってしまうこともある。
この状況で、現実を幻に侵蝕されてしまうというのは致し方ないことかもしれない。
だけれども、何にせよタイミングが悪かった。
「私はナッシェよ。貴方が私なら、分かるでしょう? 貴方はもう捨てられたの。ナゥシエルカはいないわ」
暇だったらお茶でも淹れたのに。
今急いでいるから、と白いドレスの幻から視線を外したナッシェに、
「貴方だって、御承知のことではございませんか? 貴方はナゥシエルカです。貴方の根幹から、ナゥシエルカは消えません。貴方はどうしたってナゥシエルカです」
“ナゥシエルカ”が丁寧に返した。
自分に対しての発言だからだろう、その慇懃無礼な物言いがしゃくに障る。
が、所詮は幻覚の戯言だ。
ナッシェは苛立ちを抑えながら、自分に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「…………レオンハルト先生に、一刻も早くこの武器を届けなければいけないの」
「まさか。そんなことはないでしょう」
「…………どういう意味?」
「貴方がこのまま、すんなりと戻れるはずがありません」
一瞬、森の静けさが大きくなった。
お腹をさすりながら、幻はナッシェをジッと見つめて続けた。
「貴方はもう、お腹がすき過ぎてしょうがないのでしょう。私は貴方ですから、食べ盛りになった貴方の限界も分かります。
例え全ての気力を振り絞ったとしても、朝食を食べていない貴方が全力で二十キロを走りきれるハズもありません。それ以上動いたって、途中で倒れてしまうでしょう」
「…………それで、どうしろと言うの?」
確かに、空腹感がラージャンの如くナッシェのメンタルをぶん殴りに来ている現状、先ほどまでのように走り続けることは難しいかもしれない。
現に、脚は疲労に震え、ナッシェが見ている幻覚は、これ以上走ることを拒絶する身体の防御反応であるかもしれないくらいだ。
ナッシェのぶっきらぼうな問いに、幻は上品に笑って、
「少し食べものをお召し上がりになっては?」
そう言って幻覚が指し示したのは、朽ちた木に群生しているニトロダケだった。
「こんなもの食べたら普通に死ぬんですが」
レオンハルト先生ともなれば、ニトロダケくらいは余裕で飲み下せると思うけれども。
「…………あら?」
口に手を当ててすっ惚ける幻覚は、うふふと面白そうに笑う。
カッチーン。
頭にきました、ええ。
ナッシェは空腹もあいまって苛立ちが募っていく。
そんな少女の様子を見て微笑む性格の悪い幻は、
「では、こちらはどうでしょう」
と、木々の隙間の向こう側に見える、ピンク色の翼竜──“イャンクック”を指し示した。
「…………ぁ」
クック先生──レオンハルトがそう呼ぶよう指導した──の肉は、確かに高級な鶏肉のようなうまみがあって、とても美味しいのだ。
クック先生肉のソテーを食べたときの感動が蘇ってきて、ナッシェの口の中が潤った。
食欲の泉が氾濫して、身を苛む飢餓感が脳髄へ染み込んでいく。
大丈夫、クック先生なら狩りなれている。
この【
丸まったクンチュウをコロコロと転がして戯れる、可愛らしいクック先生。
脚の肉を少し頂戴して、下処理して、ポーチの中の肉焼きセットで焼いて…………。
クック先生肉。
“ナゥシエルカ”の声が響く。
クック先生肉。
無意識にその言葉を繰り返した。
クック、せんせい、にく。
なんて甘美な響きだろう。
くっく、にく。
視野が狭まっていく。
明るい日だまりの揺れる金色の森の中で、無邪気に生態系ピラミッドの煉瓦を積んでいるクック先生が、ピクニックで猟銃片手に追い回した白ウサギにしか見えない。
だって肉だし。
あるいは、台所でシェフの火入れを待つステーキ肉のようだ。
だってピンク色だし。
「…………ハッ……ハッ……ハッ…………」
獲物を見定めるその青い瞳は、どこか焦点を失ったように揺れ動いていた。
目が回りそうだ。
クック肉、美味しそうなお肉、先生は肉。
滴る血の芳しき香りが想起されて、憎いくらいに苦しい。
頭が痛い、全身が熱い。
クック肉、だめよ、落ち着いて。
……ああっ、もう辛抱堪らない!
クックに駆けて、クックに飛びついて、クックに刃を立てクックに歯を立て、クック肉!
「…………はっ!」
食欲の海へと投げ出されていたナッシェは、ギリギリの所で踏みとどまった。
片手剣の柄に手をかけていたナッシェの頭には、よだれを撒き散らしながら満たされない飢餓感を満たそうと暴れるイビルジョーと、イビルジョーを狩るレオンハルトの姿が浮かんでいた。
「…………食べません、私は食べませんよ」
今のナッシェなら、クック先生を狩ってしまうことなんて造作もない。
お腹が減ったと、理性もなく強大な力を振り回して、命を奪ってしまっては、イビルジョーと何も変わらない、それは悪しきモンスターなのだ。
先生から受け継いだ技は、自分の暴食を満たすための器ではない。
「行かなければ」
そう呟いて歩き出したナッシェの背中へ、純白の悪魔が妖しく囁く。
「まだ早いのでは?」
「早くない。時間をたくさん無駄にしてしまった」
耳を貸してはいけない。
「いいえ、まだ早い」
聞きたくないとばかりに、ナッシェはだんだんと歩みを加速させていく。
そんな少女に、つかず離れずの位置で幻覚は囁き続けた。
「先生は、イビルジョーと戦っている。ピンチなんだ。私が行かなきゃ」
「先生は、
「ピンチに陥るはずがないわ。だって先生は強いもの」
「矛盾してる」
「それでもいい。レオンハルト先生はいつだって勝者。真っ赤で綺麗な武器を瀟洒な太刀筋で振るい続ける。それで、必ず勝つの。絶対に負けない。それが全てだもの」
「信頼しているのね。でも、信頼されてるの?」
「当たり前でしょう…………っ!」
ナッシェは煩わしさを振り払うように駆け出した。
それでも、しつこい幻はナッシェの頭に直接響くような声で少女を誘惑する。
「本当に信頼されているのかしら。分からないわ。人に頼られたことなんてないもの。本当はもっと私を頼って欲しい。先生は私をちゃんと見てくれるわ。
だけど、それだけじゃ足りない。もっと私を頼って、私を見て、私を好きになって欲しい。これってどんな気持ちなのかしら。
恋? 恋は一方的に想いを懸けるだけ。もっと強い気がする。
愛? そう、愛。ええ、愛が良いわ。この気持ちにぴったり。愛は、お互いに想いを懸け合うことを、期待し期待されるものですもの」
「うるさいっ!」
思わず叫んで、両耳を塞いだ。
その言葉の奔流は、まるでナッシェの心の奥から湧き上がってきた水のように、自然と馴染んできたのだ。
聞きたくない、本当に聞きたくない。
まるで、自分の汚い所を曝されているような、そんな苦しさが胸を締め付けた。
けれど、“声”は変わらずナッシェの脳髄に侵蝕し続ける。
「フルーミットがくれた愛。懐かしいわ。あの子はいつも私のために頑張ってくれた。お父様の愛。あまりお話ししたことが無かったからよく分からない。でも、私をお城に住まわせて下さっていたのだから、愛されていたのかもしれないわ。そうしたら、私はお父様を裏切ってしまったのかしら。ああ、ごめんなさい、お父様。愛を裏切ることは、何より重く人を傷つけると、悲しい物語に書かれていたわ。本当にごめんなさい。どうか、親不孝な娘を許して下さい。
けれど、どうしようもなかった。愛されているなんて、遠くに離れてしまうまでは気がつかなかったんですもの。お父様の愛を感じられなかったのはどうしてかしら。
愛を知ったから? いいえ、私はフルーミットのことを姉のように慕っていたわ。では、何故?
愛が見えなかったから? ええ、愛は形じゃないもの、お話もお手紙も無かったら、見えるはずがない。愛は、相手に伝わらなければ愛にならないのね。だって、相手を愛して相手に愛されることを期待するのが愛なんだから。知らなかったわ。でも、今分かった。
たとえ愛を定義できなくても、感じられるのならば愛になる。
それなら、相手に気付いてもらえる愛でなくては。それなら、おとぎ話で読んだ愛の告白は、愛の実存証明だったということかしら。ああ、愛はアピールから始まるのだわ。貴方を愛しています、そうやって相手に伝えて、相手の気持ちを確かめてないと。言葉でなくてもいいわ。だって、どんなアピールも愛を成立させるもの。
そうね、よく考えてみたら、私にはアピールが足りていないのかもしれない。私が愛しているというアピールが足りていない。貴方は先生に頼ってばかり。手の掛かる後輩の席はもう取られているわ。逆らえないような女王様の席も埋まっている。あの人の気を引くにはどうしたらいいのかしら。好きなんでしょう? ええ、好きです、好きですとも。大好き、愛してる、泣きたいくらいに好きで、苦しいくらいにお慕いしているわ。私の王子様。素敵な人、貴方を助けてくれた人、私を導いてくれた人。ずっと私の隣にいて欲しい。どんなに辛くても一緒に居られる。そうなるように努力出来る。誰にも盗られたくない。愛はお互いの幸せを想うものよ。利己的な所なんてどこにもない。家族愛、親子愛、仲間愛、師弟愛、恋愛。どんな物語も、互いを、互いの幸せを想っていたでしょう? だけど、恋慕の情から生まれた愛はそれだけじゃないわ。誰にも奪われたくないの。私が、この私が彼を幸せにしたいの。いいえ、彼を幸せにするのは私だけよ。それが愛よ。他の人じゃダメ。私が、私だけが、彼を愛して、彼に尽くして、彼に愛される。他の人は関係ない。ただ私と先生、ナゥシエルカとレオンハルトがたった二人の王国で、幸せに暮らしていればそれでいいの。ええ、欲しいのはその場所なの。あのブラキディオスの時みたいに、王子様の凱旋を待つ特等席。あのディノバルドを狩った時みたいに、二人だけでワルツを踊る広間。あのイャンガルルガを討伐した時みたいに、頑張って練習したダンスをお披露目する舞台。彼の隣にずっといられる、そんな場所よ。ええ、彼の隣なら、レオンハルト先生の隣ならそれでいいの。誰にも埋められていない彼の隙間で、私がすっぽり占領出来て、誰にも邪魔されることのない、彼に最も近い場所が欲しいわ。それはどこ? どこにあるの?」
景色は後ろへと過ぎ去っていくはずなのに、ナッシェはどうしてか、その場から一歩も動けていないような錯覚に陥っていた。
頭が動かない。今、走っているのかどうかも、この声の主が誰かも分からない。
今喋っているのは
ジャリと踏み込んだ先に木の根っこが飛び出していて、足元が疎かになっていたナッシェは受け身をとることも出来ぬまま、どしゃ、と深い落ち葉の絨毯へ身を投げ出した。
「あうっ」
顔から突っ込んでしまった。
フルーミットのことを思い出す。
痛くはなかった。
柔らかな地面が優しく受けとめてくれたのだ。
ほのかに湿った土の香りがツンと鼻を突く。
くきゅるるるるる…………。
お腹が減りすぎて、起き上がろうとしても力が出ない。
今の今まで、ふらふらの状態で走っていたことに初めて気がついた。
それくらいに、少女は消耗していた。
陶然と語り続ける幻覚は、反論する気力もつきたナッシェへ、最初から知っていたかのような確信を持って結論を下した。
「そんなの決まっています。仲間です。頼れる仲間。いつもレオンハルト先生の隣にいて、彼と背中を預け合うんです。死と隣り合わせの戦いの中で、真にお互いの心を通わせながら、
仲間。
そっか、仲間か。
一度聞いてしまった言葉は、まるで最初からそこにあったかのように、ナッシェの心の中を占めてしまった。
ゴロリと身体を返して、空を仰いだ。
青い空を広く覆うのは、無数の葉をつけた森だった。
音もなく舞う落葉、二十メートル以上はありそうな緑の天井から降りてくる優しい木漏れ日。
動きを感じずとも、古代林の静かな鼓動は確かに聞こえてきて、ナッシェの小さな胸いっぱいに広がった。
「そうです、休んでしまいましょう。先生がピンチになるまで、少し時間が必要ですから。ほんの少し休んでしまえば、体力も回復します。そうしたら、また走り出せばいいんです。あの日のように。私をおとぎ話の世界へ導いてくれたあの日のように、ちょうど良いタイミングで介入して、彼の一太刀を代わればいいんです。仲間のために前に出て仲間を守る。
ええ、あの日私に恋心の芽生えがあったように、先生だってきっと貴方のことを気にせずにはいられなくなる。これ以上ない強烈なアピールになる。さあ、目を閉じて。少しだけ、幸せな夢を見て、それから先生のことを想って走れば良いのです。大丈夫。誰も、十四の女の子が二十キロを走破できるなんて思わない。これはちょっとした悪戯よ。貴方のことを見てくれない先生への、かわいい悪戯」
言葉もなく空を見つめ続けるナッシェの耳元に顔を寄せて、甘くて残酷な呪詛を紡いだ。
「だって、愛されたいのでしょう? 愛されたかったのでしょう?」
その言葉に、肯定も否定もせず、ナッシェは感情の凪いだような青い瞳を静かに閉じた。
とくん、とくんと、小さな心臓が脈打っている。
耳に聞こえてくるのは、古代林の密やかで雄大な息づかい。
どこか遠くでモンスターが嘶き、色鮮やかな鳥が飛んで、木の実が地面に落ち、今寝転がっている地面の下で芽吹きを待っている。
なんて大きいんだろう。
優しい涼風が汗ばんだ額を撫でて、ふわりと消え去っていく。
全く静かな場所で、何も脅威のない穏やかな空間。
大切な人に見守られているような、心地良い場所だった。
ああ、もしも、私の隣で先生が寝ていてくれたら。
ゾクリと、背筋が震えた。
それは、狩りで感じる恐怖でも、冷たい水に浸った反射でもない。
見てしまった夢の、心地良く気持ちいい味を感じた故の震えだった。
どんなに幸せな物語にも負けない、天国のような夢。
ああ、先生、待っていてください。
ナッシェの心は、一点の曇りもなく澄み切っていた。
背中に大地の鼓動を感じながら、ゆっくりと息を吸って、呼気の代わりに言葉を吐き出した。
「好きなんて言葉じゃ、ぜんぜん足りない」
プチンと儚い音がして、ナッシェはパチリと目を開いた。
「私の想いは、どうしたら伝わるの? 『愛してる』? 『貴方のためなら死んでも良い』? 『この世の誰よりも好き』? 『私とちゅっちゅペロペロして』? 全部ダメ。全部
幻覚の言うとおりにすれば、もしかしたら上手くいってしまうのかもしれない。
けれど、そんなことではダメなのだ。
「仲間? そんな生易しいものじゃダメ。本当に愛し合っている二人なら、仲間なんかじゃ満足出来ない。本物の愛よ。本当に心の通じ合った二人が、死に分かたれようと消えない絆で結ばれる、そんな愛が欲しい。
今のままではいけない。
分かっているわ。分かっているの。
私はこんなに好きなのに、先生がちっとも気付いてくれないのはどうして?」
ギュッと手を握り、身を起こしたナッシェは、レオンハルトがいると思われる方向を向きながら、はっきりと言い切った。
「私の愛が足りていないから。それだけ」
幻覚のことなど見なくても良い。
口に出さなくてもいいけれど、言葉にして言ってしまいたかった。
あの人の目は、いつもどこか遠くを見つめている。
小さな愛では、あの人の視界に入らない、足りていない。
足りていないなら、足してしまえばいいんだ。
だって、こんなにも好きなのだから。
どんどん心が溢れてくる。
空腹で倒れてしまいそうだった身体の奥底から、山奥の泉のように活力が湧き上がってきた。
全身の疲れはすっかり取れてしまっていて、酷使に震えていた両脚には底なしの
そういえばと腰のポーチに手を入れると、そこにはあるべきキノコの感触がなかった。
「貴方は、ドキドキノコの幻だったのね」
ナッシェは全く晴れやかな気持ちで、“ナゥシエルカ”に向き合った。
一点の曇りもなく、恍惚とした面持ちで頷く彼女は、きっと自分と同じ顔をしているのだろう。
私は私、想う人は一人、見ている者もただ一人。
抱く心が、違うはずもない。
「貴方はもう用済みよ。“ナゥシエルカ”は捨てられたもの」
「…………私は、また捨てられてしまうのね」
ええ、とナッシェは心の中で頷いた。
きっと、お城に帰っても居場所は存在しない。
他の人が入る隙間も、私の中に存在しない。
ナッシェはポーチから、手探りで薬草の束を掴み出した。
「愛を始めるのに、アピールなんて必要ない」
ドキドキノコのびっくりな
ナッシェは、さようならと前を向き、レオンハルトがそうするように、ワイルドに薬草を噛み千切った。
「先生は絶対に私を愛してくれる。そうに決まっている」
ダッと駆け出したナッシェの頭の中には、これから訪れるであろう素敵な未来予想図が描かれていた。
「私は、レオンハルト先生の腕の中にいられれば、それでいい」
血が全身を駆け巡る。
トウガラシの辛さはほとんど感じなくて、むしろ、薬草独特の甘さと苦さが喉元を過ぎ、ナッシェの胃へと消えていった。
空腹は未だ感じているけれど、そんなことは問題ではない。
何かを狩っている暇なんて無いし、山菜採りをして調理する暇もない。
真っ直ぐ、愛する先生の元へ。
「私を、褒め、て…………?」
そして、違和感に気がついた。
唐突な、それでいてこの上なく強烈な眠気がナッシェを襲ったのだ。
全身に巡った毒のような睡魔が、一瞬で少女の意識を暗がりへと落としていく。
モンスター?
毒?
待って、おかしい、そんな、こんなの。
わたし、まだ、先生に褒められてない。
ふと、手元を見下ろすと、右手に握っていたのは青白い薬草。
トウガラシじゃない。
「ネム…………」
抗うことも叶わず、ドサッと地面に倒れ込んでしまった。
起き上がろうにも、投げ出された四肢が動こうとしない。
強大なモンスターさえ一瞬で昏倒させる薬草、“ネムリ草”を生で咀嚼した少女は、黒く落ちていく意識の中で、ピンク色の怪鳥が舞い降りてくるのを見たような気がした────。