頭上の木の葉がざわめき、風に吹かれてなびく雲は西に傾き始めた月の光を遮ることを止め、太古の海を泳いだその遺骸が静かに趨勢を見守る。
「――おうおう、まだ立つのか」
そう呟く鋭い眼光の男――レオンハルトの視線の先に、土煙を振り払って堂々と佇むディノバルドがいた。
既に頭部へと反り返った背熱殻はその幾つかが粉々に砕かれ、威容を誇った顔には数多の殴打痕がこれでもかとつけられている。
脚部を護る甲殻も見る影はなく、あちこちから血を流し、満身創痍と言うより他はない体の彼はしかし、王者たるの矜持を未だ失わず、眼前の敵を叩き潰さんとする意志と底なしの闘志を燃やして立っていた。
「名持ちでもおかしくないタフさと攻撃力だぜ。相変わらず、ギルドの調査の杜撰さが業務に支障を来す勢いだぜ。まあ、アイツ等にこいつレベルを正確に調査させんのはブラックどころの話じゃねえけどな」
レオンハルトと“コトノハ”の連撃を全身に打ち込まれ、この戦闘が始まってから三度目の爆撃を食らって、尚も王者はその膝を折ろうとはしない。
清められた水と鈴の音に翻弄され、儚げな朧月夜に捧げられた神楽舞のような連撃に全身を打ちのめされ、それでもディノバルドは自らの命を賭して立つ。
対して、レオンハルトは掠り傷一つない防具を翻して、全身に傷を負い、完全な劣勢に立たされて尚もその闘志と殺意を失わないディノバルドに、敬意と殺意を以て相対していた。
いくらダメージをモンスターに与えようと、彼らは個体としては、完全に人間のそれを上回るポテンシャルを秘めている。
どこまで追い詰めようと、彼我の生物的な差は埋まらず、死は常に隣で笑っている。
手負いの獣に見せる隙などどこにも存在しない。
あるのは純然たる“狩り”の意志のみ。
ぐっと“コトノハ”を担ぎ直すと、レオンハルトは重量のある物を背負っていることなど微塵も感じさせないような軽い足取りでディノバルドへと接近していく。
その足取りは、僅かに右に傾いている。
「ほら、来いよ」
彼我の距離二十メートルと言うところで、レオンハルトの挑発に誘われてか、間合いと判断したのか、ディノバルドが大地を揺るがす突進を行い――
「ッ、チッ!」
――レオンハルトの眼前で飛び上がり、バク転のような動作で鋭利な刃物のような尾を振り上げ、古代林の地面ごとレオンハルトを斬りにかかった。
「そう簡単には騙されないってことか。やっぱお前、他のハンターと戦ったことあるだろ」
そうブツブツと呟きながら後退するレオンハルトの視線の先は、ディノバルドが跳躍した場所の少し手前──落とし穴を設置した場所。
余所見をするなとばかりに叩き込まれてくる斬撃を後方に飛んで避け、身体を返してディノバルドへと迫り、“コトノハ”を振る。
シャラン、シャリンと音を立てながら、ゴスッ、ガスッ、とディノバルドの傷をえぐっていく神楽鈴。
差し込む月明かりを反射して、薄桃色の鈴は清らかな旋律を奏でる。
音の刃に身を打たれ、ディノバルドの身体から血が吹き出すが、彼は構わずに尾の斬撃を繰り出した。
横に転がり、後ろへと下がるレオンハルトと、つかの間にらみ合い、ディノバルドは自身の蒼い尾を牙へと当てた。
死力を尽くして自分を殺そうと迫るディノバルドの意図を察して、レオンハルトは全身の力を抜いた。
「よし、決着といこう」
なんでもないことのように呟くハンターは、中腰になって神経を研ぎ澄ませる。
ギャリリリリィィッッ!
牙の間に挟まれた尾から死の研磨音が奏でられ、金属質の堂々たる刃が、その鋭さを一層の高みへと昇華させる。
飛び散るオレンジ色の火花は、刹那の生を駆け抜ける生き様そのものだった。
その時間、僅か一秒足らず。
必殺の斬撃が、熱と共に放たれた。
「――苦しまずに、死ね」
ジャリィィィンッッ!!
硬いものを斬るかのような、鋭い切断音。
溜めに溜められたディノバルドの代名詞たる“斬竜の尻尾”の一撃が、彼の全力を以て炸裂した。
空間ごと切り裂くかのようなその一撃に、レオンハルトは敢えてその必殺の剣へと突貫し、身を捻りながらの回避を決めて見せた。
勢いを反転させて放たれる振り上げのカウンターがディノバルドの左側頭部を打つ。
たまらず右側へと身体を倒したディノバルド。
ズボッッッ!!
その巨躯は、無慈悲なまでに計算されて、先ほど難なく飛び越えた落とし穴へと落とされた。
「ギャッ、ギィ、ゴァァァァッッ!!」
怒りからだろうか、追い詰められた焦りからだろうか、己が命を燃やしながら、なんとか人間に陥れられたその穴から脱出しようと足掻くディノバルドに、レオンハルトは自らの全力を向けた。
鈴によって加重された“コトノハ”を、まるで流れる水のごとく滑らかな動作で体軸を斜めに回転させながら、ディノバルドの身体を打ち据えた。
ドゴッッ、ドゴッッ!!
二撃、三撃と、“コトノハ”がディノバルドの頭部へと吸い込まれる。
容赦のない攻撃は、せめてもの情けだ。
――――。
一瞬、世界から全ての音が消えた。
鈴の音も、虫の鳴く声も、木の葉の立てるざわめきも、ディノバルドの唸り声も、そよぐ風さえもが黙り込む。
レオンハルトが大きく息を吸い込み、“コトノハ”の
狩猟笛使いの狩技、“音撃震”。
ジャラァァアアアッッ!!
“コトノハ”が絶叫した。
狩猟笛の狩技の一つ、音撃震は、ハンターがその精神力を振り絞って楽器たる笛に息を吹き込み、圧縮した空気の圧倒的な震動によって敵を討つ攻撃。
熟練の狩猟笛使いが使用すれば、その威力は大タル爆弾Gをも凌駕するほどのものである。
使用後はかなりの疲労感と賢者タイムのごとき虚無感とを抱き合わせて感じるために、使用どころを間違えると致命的な隙を晒しかねない。
逆に、勝負所で持ち出すことで、一気に決着へと持ち込める大技である。
果たして、レオンハルトが放った渾身の音撃震は、ディノバルドの頭蓋を見事に吹き飛ばし、古代林の王者に揺るぐことのない死を与えた。
赤く染まった地面に飛び散る脳漿。
力無く倒れ伏したディノバルドの全身から流れ出る赤い血液が古代林の地面へと染み込み、新たな命の糧へと成り変わっていく様を見つめながら、レオンハルトは静かに呟いた。
「……ああ、寂しいな」
自然界の王者として君臨していたディノバルドの末路は凄惨であった。
全身をズタズタになるまで砕かれ、威風堂々を誇った甲殻は跡形もなく、殺意と闘志に爛々と輝いていた瞳は力無く閉じ、その代名詞たる尻尾は刃こぼれして破壊されていた。
だが。
その死相は、完封と言っていいほどの狩り、屠殺と表されるような圧倒的な死を与えられてなお、憎らしさに歪んだものではなかった。
堂々とした死に様。
傷一つ負うことなく自身を殺した
心静かに、何も思い残すことなどないと、穏やかな矜持は静かに古代林に沈んでいった。
どこからともなく、虫のなく声が聞こえ始めた。
完全な勝利を背に、紅蓮のハンターは戦場を後にする。
“コトノハ”の流麗な鈴の音が月光の差し込む道を祓い清め、古代林には殺し合いの騒がしさが消え、再びの静寂が舞い降りる。
彼女の身体はすでに水で洗い清められていて、血糊一つ残っていない。
燐光の仄かに漂う、黒洞々たる夜はさし曇り、やがて神楽舞に清められた月の道をも影に隠した。