僕は何かに憑りつかれたかのように、急に思い立って電車に飛び込む。
荷物はなく、ポケットには財布とハンカチだけ。
目的地は生まれ育った懐かしの地。

全ては"遠い過去"のため――。

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あの日の夏風

「はぁっ……はぁっ……」

 

コンクリートで舗装された道から雑草混じりの土の地面へ降りてから僅か40分、全身から汗が石油のように吹き出て、着ているTシャツは絞れるくらいになっていた。普段まともに運動しない僕の足にこの山道は堪える。子供の頃に駆け回っていたのが遠い過去のように思えてくるほどだ。

 

 

そう、その"遠い過去"のために僕はこの町に戻ってきたのだ。

 

 

頭の見えないビルが建ち並ぶ都会から電車を乗り継いで3時間余り。いつの間にか灰色の風景は緑や黄色に変わっている。空調の利いた冷たい電車も乗り換えいくうちにみるみる旧くなっていき、最後のは扇風機すら搭載していなかった。なんとか窓を開けて暑さに耐えていたが、夏の日射しがそれを許さなかった。

電車を降りてホームに立ち止まる。単線だからホームはこの1つしかない。電車は僕だけを残して発進していく。身体の熱が奪われた感覚がしたのは、電車の風圧のせいだけではないだろう。

 

2つだけの改札をくぐると、そこが"凪岡町(なぎおかちょう)"だった。

 

町――といっても人口4000人ほどで、山中にあるため町の5分の4が坂になっている。現代の田舎具合を測る基準にはコンビニの数も一般的になってきているが、ここ凪岡町には無論1つも無い。山あいにあるだけあって山菜が豊富に採れる。唯一の旅館である『たなべ旅館』では、根曲がり竹の味噌汁やご主人が撃ち取った熊肉が振る舞われているらしい。

 

照りつける日射しを右腕で覆いながら、ポケットに入れたままだったハンカチで額から垂れてくる汗を拭う。ジーパンも蒸れているため取り出したハンカチもわずかに湿っている。

 

「あんた、タケちゃんかい?」

 

日光を避けるためにどこかの日陰に潜り込もうと辺りを見回していると、不意に声を掛けられた。振り向くと頭にタオルを巻いた腰の曲がったお婆さんがいた。

 

「チイばあちゃん!?」

 

僕は急いでハンカチをしまうと、お婆さんの元へ駆け寄った。

 

「お元気そうで何よりです。よく僕だって分かりましたね」

 

「分かるよー。随分と大きくなったね」

 

「おかげさまで。チイばあちゃんはどこかお出掛けですか?」

 

「お出掛けってほどじゃないよ。佐藤さんとこにお茶飲みにいくだけだよ」

 

「勝子おばさん!懐かしいなぁ」

 

「タケちゃんはどうして戻ってきたの?」

 

その質問に僕の顔から笑顔が消え失せた。口をきゅっと締めて思考を巡らせる。溜まっていた汗が玉になって、顎から落ちて地面に染みを作る。そうかと思ったら20秒もしないうちに蒸発してしまった。

そして、覚悟を決めて僕は言葉を発する。ぽつぽつとではなく、一息ではっきりと。

 

 

「ちょっと"降風山(おりかぜやま)"に登ろうと思ってね」

 

 

「よく……気軽に登ってた……もんだ……」

 

息も絶え絶えで歩いていた僕だったが、体力の限界を迎え脇の斜面へへたり込む。湿ったジーパンに土が染み込むのを感じる。しかし、気持ちの悪さよりもようやく一時の休息ができる身体の悦びの方が大きかった。左足の運動靴を脱ぎ、靴下を引っ張り抜いて足の裏を覗く。踵と親指の付け根辺りが黄色がかっている。運動不足の足が悲鳴を上げ、皮が固くなっているのだ。さっきから痛んでいたのはこれのせいらしい。それと右の太腿も胴と歯車が噛み合っていないみたいにギリギリと痛む。体力的にも肉体的にも限界だった。上へ上へという精神だけが逸っている。

 

「風が気持ちいいな」

 

木々の隙間から吹いてくる風が汗ばんだ身体を乾かしていく。昔からここの風は特別に感じる。降風山は代々、風神様が立ち止まる山という謂われがある。人々は縁起物を奉納して無病息災を祈願している。そうは言っても、普段は参道の入口に後から作った祠に参拝するくらいで、わざわざ頂まで登る人は稀だろう。余程大きな病気を祓ってほしいだとか、かなりの好き者でもない限り、こんな山道を歩こうなどとは思わない。

しかし、地元の子供たちは別だろう。元気に満ち溢れている子供たちにとっては絶好の遊び場であることは間違いない。確かに降風山を生半可な気持ちで登山するのは大変だ。けれども、それは今の僕のように平地で暮らし、移動に車や電車といった現代技術の産物を利用している者においての話である。こうしたアウトドアを趣味にしている者はもちろん、生まれから山の中で育っている者には、ちょっとそこらに気分で行ける。頂上までの道のりこそは長いが、傾斜はかなりなだらかなのだ。切り立った崖なども無く、大人たちも目を離して遊びに行かせられる。この暑い夏ならば、昆虫採集がかなり捗るに違いない。

 

 

それでも一向に人影を見ないのは"あの事件"が理由なのだろう。

 

 

「すみませーん!」

 

「はいはーい!今行きますよー!どっこいしょ、はいはいお待たせ……って、武瑠(たける)くんじゃない!!」

 

僕が奥に声を飛ばすと、中から花柄の服に白いエプロンをつけた中年のおばさんが出てきた。この『三ツ屋商店』のハツおばさんだ。

 

「お久しぶりです。みんな僕だって分かるんですね」

 

「そりゃあこんなにちいちゃな頃から面倒見てたからね。今日は彩子さんたちは?」

 

「僕一人で来たので、母は今の神奈川の家です。父は単身赴任で名古屋にいます」

 

「そうなの。一人で里帰りしに来てくれたの?」

 

「はい。今は大学も夏期休暇なので。それで久々に凪岡に」

 

「あらー嬉しいわね。あ、ちょっと待っててね。竹彦(たけひこ)、上にいるから」

 

そう言うと、ここから少しだけ見える階段の下まで小走りで向かい、壁を叩きながら竹彦の名前を呼ぶ。けれども、応答はなくハツおばさんは苦笑いしながら戻ってきた。

 

「ごめんねー、あの子昼間だってのにまだ寝てるみたい。わざわざ来てくれたのに」

 

「いえ、目的はお店の方だったので大丈夫ですよ」

 

「あら、何か買っていってくれるの?」

 

ハツおばさんは自慢げに大きな身体でふんと胸を張る。ここ三ツ屋商店は生活雑貨の他にお菓子なんかも取り揃えている。僕も子供の頃は駄菓子を買ったり、学校で必要な文房具を買ったりしていた。おばさんは毎朝早くに、自家用のトラックを運転して麓の町まで商品を仕入れに行っているらしい。

 

「はい。水筒と少しの食べ物を」

 

「どこか出掛けるの?」

 

「……降風山に」

 

その言葉を聞いた途端、ハツおばさんの顔が曇る。さっきのチイばあちゃんと同様に、お互い無言のまま時間が過ぎる。あちこちで騒いでいる蝉の声だけが喧しく響いている。

いつまでもその命懸けのコーラスが続くと思われたが、突然おばさんが大きく息を吐き出して壁の前に置いてある棚に歩き出した。そして背中を向けたまま呟くように店内の静寂を破る。

 

「……何年前だったかしら」

 

「…………11年前です」

 

小さく、「そう」と言葉を溢すと何やら漁っていた手を止め、天井を見上げる。そのままぜんまいの切れてしまったからくり人形のように停止したが、今度の無言の時はそう長くなかった。

 

「そんなに経つのね」

 

この場には僕とハツおばさんの2人しかいない。それなのにおばさんの声は僕に届けようとしたものではない。独り言のようであってそうではない。なんと言っていいのか分からないが、そんな気がした。

 

すると唐突におばさんがこちらに振り返ると、僕に向かって何かを投げてきた。焦って飛来物を受け止める。運良くキャッチすることができたが、取り逃したらどうするつもりだと驚いて目をパチパチさせながらおばさんを睨む。しかし、ハツおばさんは視線を合わせようとしない。仕方なく僕は手の中の物に目線を落とす。少し埃を被っているが、それは紛れもなく水筒の入った箱だった。幼稚園児が遠足で首からぶら下げているような、400ミリリットルしか入らない水色の水筒。

 

「ハツおばさん、これ……」

 

「あいにく今はそれしか置いてないの。それ、あげる。食べ物も好きなの持っていきなさい」

 

「えっ!?それは何というか……」

 

「いいのよ。昔のよしみ。それと……"桃香(ももか)ちゃん"によろしくね」

 

「…………はい!」

 

突然の申し出に僕は戸惑った。だが、すぐにおばさんなりの気遣いだと判断して感謝をする。その意図を完全に理解することはできないけれど、僕がすべきことは元気と笑顔でおばさんに応えることだけだった。

 

 

しかし、この時の僕は上手に笑えていただろうか。

 

 

少し休憩したから体力もある程度回復し、僕は再び歩き始めていた。あまり人が通っていない証拠に、踏んだ地面が微かに沈み、固まった土がポロポロと転がり落ちる。胸の前では水筒の水がちゃぷちゃぷと音を立てて揺れている。端から見れば大学生には不釣り合いな幼児用の水筒を持っているのだろうが、まともにリュックすら用意していなかった僕にとっては首に掛けて両手をフリーにできるのがありがたかった。時折足を取られ、躓きそうになっているからだ。

 

ただひたすらに頂上を目指す僕を囲むように、あちこちで蝉が鳴いている。右足を出したら次は左足、左足を出したらまた右足……と決まった動きしかしていない僕にとって、無限に反響しているように感じる蝉の声は、気を狂わせるにはもってこいだった。さらに木の葉で日光が遮られているとはいえ、蒸し暑さが回復したばかりの体力を奪い去っていく。

だから僕は、暑さや疲労を忘れるように別のことを考えながら単純作業を続ける。

 

降風山に人が寄らなくなった理由は、以前ここで小学生が行方不明になったからだ。凪岡町は玄関の鍵を開けていても空き巣に入られる心配が無いくらい平和な町だ。そんな所で大きな事件が起きれば騒ぎにならないわけがない。集まった住民と警察500人がかりで山を捜索したが、それでも靴1つ見つけることができなかった。先も述べたが、降風山には崖などの危険な場所は存在しない。それなのに発見できないとなると、自然と挙がってくるのは誘拐の可能性だった。

田舎での女児行方不明などマスコミの格好の的である。事件を聞きつけて訪れた取材陣がプライバシーも何のその、住民に付きまとってインタビューを繰り返していた。「一刻も早く見つかることを願っています」などと上っ面だけの偽善を語っていたが、何も進展が無いまま半月経った頃には外の人々の記憶から次第に忘れ去られていった。だが、住民たちにとって家族同然の1人が欠けたことはいつまでも忘れることはできずに、心に大きな傷を残した。

 

だから今でも警戒して子供はおろか、大人でさえあまり降風山に近づこうとは思わないのだ。理由が風神様ではなく、誘拐犯を恐れているというのが何とも皮肉なものである。

 

「うっ……!」

 

意識を内側に集中させていた僕は、自身の外について疎かになっていた。顔に蜘蛛の巣の糸が引っ掛かったのだ。指でへばりついた糸を摘まむように払うと、気持ちの悪さに顔を歪める。

僕は蜘蛛が苦手だった。たくさんの脚、予想外な動き、細かい毛で覆われている身体、いつの間にか張られている巣――挙げていけばきりがないが、とにかく嫌いなのだった。幸いなことに、今しがたまとわりついてきた巣には蜘蛛がいなかったらしい。僕はほっと胸を撫で下ろした。

 

 

子供の頃からそうだったが、輪を掛けて蜘蛛が嫌いになったのは降風山行方不明事件のせいでもある。

 

 

いつからそこにあるのか、苔むした祠がぽつんと建っている。代わる代わる参拝に来ていた人もいなくなってしまったのか、お供え物を乗せる台座には土が積もり、雑草まで生えている。この道を進んでいくと降風山の登山ルートに入る。

形だけ祠に向かって手を合わせていると、突然大声が辺りを包み込む。

 

「おい、裏切り者!!」

 

ビクッと驚いて、反射的に声のした方向を向く。なだらかな坂の下に1人の青年が立っている。ツンツンとした短い頭髪、紺の甚平。その面影には見覚えがあった。

 

「……竹彦?」

 

顔をゆっくりと上げた彼は、かつて毎日のように遊び回っていた親友だった。

 

「今さらどのツラ下げて帰ってきたんだよ!」

 

「久しぶり」

 

「都会人になって話すら聞けなくなったのか?裏切り者は」

 

「……さっきから何なの?裏切り者裏切り者って」

 

「忘れたとは言わせないからな。お前が桃香や俺たちから逃げたことをな」

 

竹彦は深呼吸をすると黙ってこちらに歩いてくる。そのまま僕の横を通り過ぎ、祠を撫でるように手を乗せた。背の小さかった記憶の中の竹彦はもうそこにはおらず、反対に今の僕が背伸びをしなければ届かないだろう。

 

「毎年祭りはあるけど、毎日のように風神様に合掌してるのは桃香の母さんだけだよ。無事に帰って来てくれますようにってさ」

 

「竹彦は?」

 

そう問い掛けると、きっと歯を食いしばる。祠を触っていた手を握り締め、軽くこつんと叩いた。しかし、横顔を見るとその感情は怒りではなかった。憎しみ、いや悲しみだろうか。祠を見下ろしている竹彦の目は、まるで懺悔をしているようにも感じられた。

それから手を解くと、傍にあった岩に寄り掛かった。

 

「……もう諦めた。何年経ったと思ってるんだ?11年だぞ。待ち続けて待ち続けて、それでも待ち続けて、まだ見つからない。桃香の母さんはよく発狂しないよな。いや、もう狂ってるからこそこんなに長い間待っていられるんだろうな」

 

太陽の光が僕のうなじをじりじりと焼き付ける。それに呼応するようにさっき摂ったばかりの水分が汗となって排出される。足元にはひっくり返ったまま動かない蝉がいる。折り畳まれた中から1本だけ腕を伸ばして固まっている。最期まで足掻こうとしたのか、それとも諦めて力を抜いたのか。

 

「それもこれも武瑠、お前が桃香を1人にしたからだ」

 

「1人にしたって……あの時僕だって死にかかってたんだよ?」

 

「それはお前が馬鹿やったからだろ。目を離さなかったら桃香は……行方不明なんかにならなかったのに!!」

 

日が雲に隠されたのか、周囲が薄暗くなる。僕らの会話も一旦そこで区切れ、お互いが固く口を閉ざしている。昆虫たちの鳴き声が聞こえてこなかったら、音が失われている感覚に陥っていたに違いない。

また太陽が顔を出して鋭い光を飛ばす。急な光線が竹彦の目に入ったのか、逸らしていた視線をまたこちらに向ける。

 

「もしかしたらお前が犯人なのかもな。誘拐とか、殺人とか」

 

「大人になった今だからそんなこと言えるけど、あの頃はまだ子供だったんだ。無邪気に走り回るだけで楽しいって思ってたのにするわけがないよ」

 

「どうだか。やましいことがあったから都会に逃げたんじゃないのか?」

 

「……あの時の僕たちの気持ちも分からないくせに」

 

「あぁ、分からないな!俺たちを裏切って、のうのうと都会で生きているような奴なんてな!!」

 

足の裏で寄り掛かっていた岩を蹴ると、跳ね起きるかのように立ち上がる。何も言わない僕に嫌気が差したのか、横に唾を吐いて歩き出す。

 

「……お前は変わっちまったな。もう子供の頃の武瑠じゃない。今のお前と一緒にいても、イライラするだけだ」

 

そのまま坂を下って去ってしまうと思われたが、10歩くらい進んだ所で立ち止まる。大きな背中。しかし、何故だろう。どうして僕よりも背の高い竹彦が、こんなに小さく思えてしまうのだろうか。それはきっと、年齢だけの問題ではない。

動きを止めた竹彦が、すっと姿勢を正す。それでも僕に向き直るようなことはしなかった。

 

「降風山に登るんだろ?だったらその前に桃香の母さんに挨拶していけ。まだ寄ってないだろ」

 

「……聞いてたの?」

 

「あんなボロい家の1階で喋ってたら、嫌でも聞こえてくるからな。……ずっと待ってるんだ。俺はお前の顔なんて見たくないけど、桃香の母さんは違う。謝りに行けって言ってるわけじゃない。あの日のことを話してやれば、少しは救われるんだよ」

 

「11年前に僕が知ってることは全部話したよ」

 

「もう一回同じ話すればいいだろ。……いいか、絶対顔見せに行けよ?」

 

僕の反応を待たずに、竹彦は再び動き出す。こちらを振り返ることはなく、真っ直ぐ前を向いている。僕はどんどん小さくなっていく竹彦の背中が、見えなくなるまで瞬きもせずにじっと眺めていた。坂を下る後ろ姿は下半身から消えていき、最後には頭が地面に隠れていった。

 

僕はふらふらとさっきまで竹彦が腰掛けていた岩まで近づき、傍に胡座をかいて足を折り曲げた。上を見上げると、空を分割するかのように飛行機雲が伸びている。

変わってしまったのは僕の方なのか、竹彦の方なのか。

 

 

それとも、時代の方なのか。

 

 

僕は生まれてから8年間を凪岡町で過ごしていた。大都市からは遠く離れているので、周りはほとんど年寄りばっかりだった。年頃の若い者はここを離れ、みんな都会へ移ってしまうのだ。

そんな中、僕の近所には嬉しいことに同年代の子供が二人いた。竹彦と桃香だった。田舎にとっての近所はお隣同士なんて距離ではなく、歩いて30分くらい掛かるが、それでも同じ町に子供がいるというのは遊び相手に困る心配がなかった。桃香は僕の1つ上、竹彦は2つ下だった。小さい頃から3人は町中や山中を日が暮れるまで駆け回っていた。時には竹彦の家の三ツ屋商店でお菓子を食べたり、時には川まで降りて水泳をしたり。今のゲームや携帯が無くても僕たちは幸せだった。

 

時が過ぎ、僕は小学校に通うことになった。全校生徒18人の小さな学校で、凪岡町など4つの町から子供たちが集まってきていた。教室は1つしか使わず、先生は2人しかいなかった。1年生から6年生までまとめて面倒を見ていたから、今にして思えばかなりの重労働だっただろう。

現在では通う子供たちもいなくなり、2年前に廃校になってしまったらしい。

 

学校に通い始めた僕は不安でいっぱいだった。今まで両親など大人の目の届かない所で遊んでいたが、学校はまた別の空間だった。居心地の悪いそこはまるで異次元のようで、突然鳥籠に閉じ込められてしまったような感覚だった。そんな僕の面倒を良く見てくれたのは、既に通っていた桃香だった。

 

桃香は僕だけじゃなく、誰に対しても面倒見がよかった。年下はもちろん、上級生、ましてや忙しい先生の手伝いもするくらいだった。幼なじみの彼女は、いつもその長い黒髪から名前の通り、桃のような甘い香りを漂わせていた。容姿も性格も美人な桃香に、いつしか僕は友達以上の感情を抱いていくようになっていた。

 

それから2年、遅れて竹彦が小学校へやって来た。しかし、新鮮な感じはしなかった。というのも、僕たちが小学校に行ってしまって1人になってしまった竹彦は、帰りを今か今かと待つように通学路の途中でいつも待っていたからだ。もちろん毎日のように3人で遊んでいたためでもある。学校でも仲良しな僕と竹彦は、『武竹コンビ』と称されるくらいだった。

当初の不安はどこに消し飛んだのか、同年代のみんなと一緒に過ごす学校生活は第二の家だと感じるくらいにまでなっていた。

 

 

僕はこの楽しい日々がずっと続くと思っていた。そう、"あの日"までは。

 

 

竹彦が入学した年の夏。その日は今日のようにとても暑く、あちこちで蝉が騒いでいた。小学校の夏休みまであと1週間、そんな日の教室に竹彦がいなかった。どうやら夏風邪をひいてしまったらしく、休んでいたのだ。昼間は暑くても、夜は風が吹き込んで涼しかったりもする。昨夜は特にそうだったから、竹彦は腹を出したまま眠ってしまったに違いない。

放課後、僕と桃香は三ツ屋商店に立ち寄り、竹彦のお見舞いと明日の学校の予定をハツおばさんに告げた。お礼にと氷菓子を貰い、食べながら歩いていると、今日はどこで遊ぶかという相談になった。そして決まったのが降風山だった。

 

降風山へ遊びに行くのはこれが初めてではない。それどころか、数えられないくらい訪れている。山でさえも、自分の家の庭のようなものだ。この日もいつものように、昆虫採集に行くという目的で山に登ることになったのだ。

一度家に戻り、網と虫籠を持って2人だけで向かった。時折登山道を逸れ、道なき道を進み、獲物を捜し歩いた。当時はありふれていたカブトムシやクワガタも捕まえ、2つの虫籠の中には気持ちの悪いくらい昆虫が蠢いていた。今でこそヘトヘトになりながら登っているが、疲れ知らずの子供は虫に導かれるように休みなく頂上に辿り着いた。

 

降風山の頂には、小さな神社がある。神社と言っても本殿と大きな鳥居が置かれているだけで、目ぼしい物など何もなかった。比較的なだらかな山であるから周りの木々に邪魔をされ、景色を眺めることもできないので、好んでやって来る者も稀であった。僕らのように参拝以外の目的で訪れる人の方が多かったりもするだろう。それくらい辺鄙な場所でもあった。だから当然、神主のような管理している者もおらず、はっきり言って神社と称するのも正しいのか分からない。ただ、神社を模した空き地なのだった。

僕たちはこの境内に生えている巨木に登って一休みするのが好きだった。ご神木なのかもしれないが、注連縄は巻かれていない。過去、巻いてあったのかもしれないが、現在ではそれを確認する術は無い。普段は竹彦を加えた3人でその頑丈な枝にしがみつき、日が暮れるまで談笑することもあった。上へ上へ伸びる枝葉は鋭い日射しを妨げ、夏の日中でも涼しかったのだ。この日も例に漏れず、手荷物を根元に置いて太い幹をよじ登り始めた。

 

記憶とは曖昧なもので、ここで桃香と何を話したのかははっきりと覚えていない。学校のことだったかもしれないし、竹彦の心配だったかもしれない。1週間後に控えた夏休みの予定だったかもしれない。

もしかしたら、桃香に僕の胸に秘めた思いを告げたのかもしれない。

そんな一世一代の決心だったとしても、過去の思い出など薄れゆくものである。それで3人の関係が崩れてしまうなんて子供ながらに悩んだ日々も、遠い昔なのである。僕の脳裏にうっすらと残っているのは目を伏せて、顔を紅潮させている桃香の姿しかなかった。

 

その時、幹を押さえていた僕の左の手の甲に違和感を覚えた。すすすっと気味の悪い感触。ぱっと横を向くと、3センチにも満たない小さな蜘蛛が僕の身体を通過しようとしていたのだ。これが蟻や毛虫であったら、摘まんで投げ捨てるだけであった。蜘蛛であると認識した途端に、肉体が拒絶反応を起こす。僕は半狂乱になって異物を振り払う。不安定な足場で暴れたらどうなるかは目に見えている。しかし、僕にはそんな冷静な判断などできるはずもなかった。いつの間にか、隣にいた桃香が僕の視界の上にいる。

 

何が何だか上手く理解ができない。整理して考えようにも、その判断する頭がガンガンと痛む。身体も思うように動かない。精一杯目を開けようとしても、薄目でしか見られず、左目に至っては開くこともままならない。薄目を開けた右目も、まだ夕暮れではないのに世界が真っ赤に染まり、モザイクのようにぼやけている。視界の隅っこに桃香のシルエットのようなものが見えるが、その声は耳まで届かない。次第に開いていた目も閉じていき、赤色に染まった世界も漆黒に飲み込まれていった。

 

 

意識が消滅する最後の瞬間に覚えているのは、甘い香りを包んだ風だった。

 

 

次に僕が目を覚ましたのは、白いベッドの上だった。両親と看護婦さんが傍にいて、僕に気づくと大声を出して騒ぎ立てた。包帯まみれの頭に響いて痛かった。それからすぐに、駐在さんや見覚えのない警察が僕に話を聞きに来た。いつもの自転車に乗って屈託のない笑顔を振りまいていた駐在さんはどこにいったのか、初めて見る真剣な表情にどこか冷たい雰囲気を感じて怖くなった。

そこで僕は知ったのだった。桃香が行方不明になったことを。

 

余談だが、僕が発見されたのは日がすっかり沈んで真夜中になってからだった。発見が遅かったので、下手をしたら出血多量で死んでいたらしい。後遺症もなく回復したのは、奇跡にも近いと言われたくらいだった。

 

あれこれと桃香の行方について尋ねられたが、生死を彷徨っていた僕が知る由もない。その後大規模な捜索が行われたが、それでも桃香が見つかることはなかった。警察は事件と事故の両面で調べていたようだったが、手掛かりは何一つ掴めなかった。不審な人物も目撃されておらず、そのまま事件は迷宮入り。

そうともなれば、疑い始めるのは身内、住民の犯行だった。そして真っ先に疑いを掛けられたのが、僕の家族だった。既に警察に調べられて、潔白なのは明らかだったが、それでも当時一緒にいた僕が誤って事故を起こしてしまって両親がそれを隠蔽したのではないかと噂になったりもした。事実無根であるから何かされたことはない。けれども、周りからの視線、それが僕たち家族に鋭く突き刺さっていた。

結果、僕たちは噂が薄れてからもずっとあの眼差しに怯え、逃げるようにこの町から去ってしまったのだった。

 

 

これが、11年前の出来事。

 

 

山道に突然、石段が現れる。神社に続く30メートル手前から敷かれているのだった。少し上を見上げると、懐かしい鳥居が立っている。記憶の中のものと全く変わっていない。元から古びていたせいもあって、朱塗りの鳥居は色が剥げ、木本来の色と砂が付いて灰色っぽくなっていた。思い描いていたものがそのまま残っていて、僕は無性に嬉しくなった。自然と階段を上る足も速くなる。

あれだけうるさかった蝉などの虫も、太陽が近くの山に隠れて暗くなるとミュートにしたかのように静かになる。コオロギなんかが鳴いていてもおかしくはないが、その音さえ聞こえて来ない。耳に入ってくるのは、僕の足音と心臓の音だけだった。まるで、世界に僕独りだけになってしまったような感覚が襲ってくる。でも、不思議と心寂しくはなかった。

 

結局、桃香の家には行かなかった。"行けなかった"が正しいか。今さら桃香のお母さんに顔を見せに行ったところで、話すことは何もない。そう頭で言い訳をでっち上げているが、実際は足が動かなかったのだ。理由は分からない。単に気まずかったのか、心が拒絶したのか。何にせよ、僕は寄り道せずにここまで登ってきてしまったのだ。行かなかったことを竹彦が知ったら、また怒鳴られるだろうか。だが、その機会があればの話だ。

 

あと3段で頂上といったところで足を止める。両手を膝について息を整えているのだ。前を見れば、荒んだ本殿が情けなく構えている。しかし、僕の視線はそれを捉えてはいなかった。

大きく深呼吸をして、一気に残りの段数を跳び越す。そして、ゆっくりと歩いて鳥居を潜る。その瞬間、僕を迎え入れるように吹いた風を浴びて、再び立ち止まった。

 

 

甘い香りが漂う、特別な風。

 

 

「逢いに来たよ、桃香」




ここまでお読みいただきありがとうございます。

初めましての方は初めまして。
お久しぶりの方はお久しぶりでございます。
碓氷 修夜です。

完全な短編を執筆するのは五か月ぶりになります。毎度短編を書く際には試験的にちょっと変わった書き方などをしているのですが今回は、
・場面転換の繋ぎ
・想像の横幅
の二つを意識してみました。

私は物語を書く際、なるべく場面の切り替えを多くしないようにしています。というのも、シーンが目まぐるしく変わってしまうと、受け手がそれについて来られなくなってしまうからです。文章然り、芝居然りです。しかし、TVドラマなどはスポンサーのCMを挟むために仕方なく区切りを入れます。そこでチャンネルを回されないように、気になるように引っ張りを作るのです。そのため今回は、あえて現在と過去の場面を繋げずに行ったり来たりさせています。もしかしたらそれで読みづらくなっているかもしれないですね、申し訳ございません。

そして、ラストは読み手の皆さまに押し付けるのではなく、果たしてどうなのだろうという想像の余白を作ってみました。一見、投げやりのようにも思えてしまいますが……。

普段は連載の方で短編のネタを消化してしまっているのですが、今回は息抜き代わりに向こうでできなそうな物語を書いてみました。久々でしたが、たまにこうやって短編も書いていければなんて思っていたりもします。


それでは改めまして、ここまでお読みいただきありがとうございました。


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