――いつもと同じ曜日、いつもと同じ時間、いつもと同じ場所で。
「卒業おめでとう、エヴァ」
私は私の手の中の、小さな箱を隣に座ったエヴァに手渡した。
エヴァの小さな手を取って、箱の上に重ねて。
私の顔は今きっと笑っているんだ。
「うっ、うむ」
詰まったようなエヴァの言葉。
――嬉しくなかったのかな、喜んでくれてないのかな。
そんな感情が私の中で生まれる。
でも、だけど、そんな感情を私の感情で押し流すんだ。
――きっと喜んでくれてる、ちょっと恥ずかしがってるだけ。
エヴァは意地っ張りで恥ずかしがり屋だ。
だから素直にありがとうって言えないんだ。
それは私の手の下で、箱をしっかり握ってくれてるエヴァの手が私に教えてくれているから。
「ふっ……ふははははっ、まぁ大学程度私にかかればひと捻りだからな」
「うん、おめでとう」
高らかなエヴァの笑い声が私の耳に飛び込んでくる。
眼にぐるりと巻かれた包帯の向こうのエヴァの顔は、きっと自信に満ちた笑みが溢れているんだ。
――エヴァは無事大学受験を成功させた。
卒業式も終わった3月の今日の日、彼女は大学のための準備もあるんだろうけど私にいつものように時間をくれた。
思いだしてみたら、受験勉強で忙しい時も必ずエヴァは私に会いに来てくれた。
こんな外を恐がり外を拒絶する私に――まだ一度も顔を見合わせて笑っていない私に。
そう思えば思うほど、私の気持ちが沈んでいくのが解る。
胸の中で私が私に言っている――エヴァと普通に話したいって。
だけど胸の中で私が私に言っている――エヴァとは普通に話せないって。
「……どうかしたのか?」
心配そうなエヴァの声。
俯いた私の顔の下から、持ち上げてくれるみたいにやさしく問いかけてくる。
「なんでもないよ」
私はかぶりを振って、出来るだけ緩んだ顔でエヴァに答える。
「――そうか」
エヴァはそれだけ言うと、私の渡した箱を握る手に力が籠った気がした。
エヴァはきっと、もう深くは追求して来ない――これまでがそうだったから。
――エヴァは私が包帯で眼を塞ぐことになった理由を知らない。
万華鏡写輪眼のことを話した訳でも、私は私のせいでクラスメイトを一人壊してしまったことを話した訳でもない。
でも、エヴァは私なんかよりずっとずっと頭が良い人だ。
もしかしたらもう私が何をしてしまった人なのか、どんなひどいことをしてしまった人なのか、エヴァは知っているのかもしれない。
だけどエヴァは私が昔の――あの時のことを思い返して黙りこくってしまった時も、深くあの時に沈み込んでエヴァの前で吐いた時も、何も言わずに私の手を握ってくれていた。
エヴァはやさしい人だ。
だから私はエヴァの顔を見て、エヴァの眼を見て、私に何があったのかを何時か話したい。
大学生になったら私と会ってくれる時間はたぶん減るんだろう。
エヴァは意地っ張りだけどとってもかわいい女の子だ――彼氏だって出来るだろう。
だから私は――
「そう言えば話しは変わるんだがな、ゴールデンウィークにでもだな――」
エヴァはごほんと咳払いをすると、言い淀むみたいにちょっとずつ私に言葉を投げかけてきた。
「どうかしたの?」
「あ~、そら、なんと言うか、だな……私と一緒に旅行にでも行かないか」
私の頭の中のエヴァはそっぽを向いて、気恥かしそうな顔で私に言ってくれているはず。
私からの答えを気にしながら、だけど自信満々に、それでもちょっぴり不安を滲ませて。
――エヴァは私なんかよりもずっと、ママと同じくらいに、パパと同じくらいに、やさしくてあったかい人だ。
ゴールデンウィークなんて、大学生なって初めての長い休み。
その大事な友達と遊ぶための時間を、私にくれようとしている。
だから、だから私は――
「外に出れる算段が付いたというか、なんというかな。とにかく貴様さえ良ければ私が計画している旅行に招待してやっても構わんぞ」
「うん」
「私は貴様を連れていくのはどっちでも良かったんだがな、一緒に行く茶々丸とチャチャゼロがどーしてもというから仕方なく貴様を誘ってやっているんだからな、そこを勘違いするなよ」
「うん、うんっ」
だから私は――私の眼でエヴァの眼を見て話したい。
眼を見るのは恐いけど、眼を見られるのは恐いけど、それでも私は――
「おぅ、エヴァじゃねーか」
――そんな時だった。
私が一緒に旅行に行きたいって、エヴァに私の気持ちを伝えようとした時だった。
私とエヴァが座るベンチの後ろから、唐突に声がかかった。
「何の用だ」
鋭くて、触ったら痛い声だった。
私とエヴァが初めて会ったとき、エヴァが使っていた冷たい声だ。
「何の用ってエヴァと話そうと思ってな、めんどくせー仕事ほっぽり出して会いに来たぜ」
拒むようなエヴァの声とは違って、透き通るみたいなその人―少し低いからたぶん男の人―の声は親しげだった。
――まるでずっとずっと昔からエヴァを知っているみたいに。
「エヴァ、何度も言ってるが俺だけはお前の味方だ。めんどくせーがお前を貶める奴がいるならどんな奴でも俺が殴りとばしてやる、闇の中から光の中に引きずりあげてやる」
「それは凄い」
投げやりに聞こえたエヴァのそんな言葉に、男の人の声は加速して廻る。
まるで物語の中の英雄みたいな、私の生きる現実世界だったら使う機会のない台詞。
――もしかしてエヴァは告白されているのかな?
そうだったら私ってすごく部外者で、すごく邪魔者だよね。
この人私に気付いてるのかな?
「俺だけはお前を理解してやる――俺がお前の家族になってやるよ」
前言撤回、プロポーズだった。
家族になってやるって、理解してやるって――私が知らないだけで、私の友人は遠い世界に言ってたんだなぁ。
「てか……誰だ、お前?」
男の人の声はいつの間にか後ろじゃなく前に来ていて、私の方へと投げかけられていた。
疑いだけを込めて――私を声が、眼が見つめる。
カタリ、骨の奥から震えた気がした。
懐疑と奇異の視線が私にささるように、私の肌を刺す。
――朱い眼の、瞳の中の車輪が疼くように痛んだ。
「貴様っ、何をしてくれた!」
エヴァの怒声が耳に響いたとき、私の口は酸っぱさで溢れて、胃は熱さで覆われていた。
鼻につんと刺激的な臭いが伝わる。
――ゴメンねエヴァ。
私のせいで、せっかくプロポーズされたのに、一生の思い出を。
「なんだコイツ、めんどくせえ」
――ゴメンねエヴァの彼氏さん。
私のせいで、せっかくプロポーズしたのに、一生分の勇気を。
「貴様ッ、天津神っ!」
びりびりとエヴァから気迫みたいなのが伝わってきた。
それは私が前世で呼んでいた漫画の表現みたいに肌を震わせるものじゃなくて、冬の寒い日に外に閉め出されたような気分で。
段々と私の意識は胸のおさまらない熱さから溶けはじめていて。
「――――ッ」
何か声が、音が、私の感覚の外で飛び交っていて。
遂に沈んむほんの少し前に私の耳に残ったのは、エヴァにプロポーズした男の人に良く似た声。
男の人の声が空のように澄んでいるとするなら、最後の声は大地のように粗だらけで、ずっとあたたかなママやパパやエヴァを思わせるような声。
そんな声に安心して、私は意識を彼方へと飛ばした。
――その場に居合わせたのは、本当に偶然だった。
3月、桜が舞う季節。
いつものように自分の仕事区域での掃除をしていた俺は、班長からの指示で別の区域へと応援に出されていた。
そこは麻帆良学園でも有名な路地である桜通りにほど近く、この季節になるといつも風に舞った花びらが眼に映る景色を彩っているような、そんな場所。
掃除をすればこの美しい光景が消えてしまうのだが、掃除をしなければ花びらが石畳に張り付き厄介な事態になってしまう。
だからこそ今日も掃除をするのだが――そこで俺は弟を見かけた。
先日知り合いになった田中くんから弟のことを、零児のことを聞かされた。
田中くんは俺と、そして弟と同じ転生者らしい。
恐らく前世でそのことを聞かされたならば、俺は宗教か何かか、頭の少し変った人かと相手にもしなかっただろう。
だが今の俺は俺自身という前例があり、弟という確信に近い事例があり、すんなりとはいかないが彼の言い分を理解し納得することが出来た。
彼は彼なりに、何か考えがあってこそ俺に近付いたのだろう。
しかし田中くんが何を考えていようと、俺にとってはたいした問題にはならない。
俺にとって重要な事は、この世界できちんと弟と向き合うことで――昔のように笑い合うことなのだから。
あとはそれなりの生活が守ることが出来れば十分だ。
この世界で大きなことを成そうなどという野望じみた感情を持っている訳ではない。
――俺がその日、弟を見かけたとき、弟は二人の少女と向き合っているようだった。
金髪の少女は麻帆良女子中等部の制服を着ていた姿を見かけたことがある。
まるでフランス人形のように整った容貌は、俺の知る限り端正な顔が多いこの世界でも際立っていて、印象に残っている。
金髪の少女の隣に座っている包帯を巻いた少女もまた、俺は見掛けた覚えがある。
やさしげな風貌の母親らしき女性と歩いているところを、やはり得意ないでたちが印象に残ってか、ほんわかとした空気が彼女と母親を包んでいたためか。
とにかく二人の少女に俺は見覚えがあった。
そんな二人と弟は、遠巻きに映る俺の視界の中では楽しげだった。
――実を言うと、俺は弟が教師として赴任してきたという話を新田先生より聞いて、不安が胸をよぎっていた。
前世では自分の世界に生き、外と他者を頑なに拒絶していた弟だ――心配するなという方が無理だろう。
だからこそ、そんな様子を見た俺は、正直うれしかった。
俺の知らないところで過ごした二十年で、弟は社会に馴染んだ一人の大人として成長していたのだと。
生徒であろう二人と交流を深める弟を見て、俺は胸が熱くなった。
――田中くんは弟と接触を計る場合は一報をくれと言っていた。
彼が言うに、弟は強い力を持っているらしい。
なんでも魔法だとか、魔物だとか、そんなもののある世界で弟は畏怖と尊敬を以て接するべき相手だと認定されているそうだ。
もしかしたら俺に危害が及ぶかもしれないと、慎重に接触して下さいと俺に告げる田中くんの顔はあくまで俺を心配するもので、俺は素直にその言葉を受け止めて頷いた。
だから俺は田中くんの言葉に従い、のんびりと弟との交流を深めていくということにしていた。
弟が生きる世界のことを少しでも理解し、弟の話をやさしく受け止められるようになるために。
元々二十年近く離れて暮らしていたのだ。
弟は目の前に居る――焦る必要はない。
それに弟は大人として成長していたのだ。
教師にならんと弟がしたのも、世界の財産である子供たちを脅威から守るためなのかもしれない。
――弟は欲望ではなく、高潔な理念を心に秘めているのだ。
俺の考えを人に聞かせれば、幸せな奴だと笑われるのだろう。
それは美化し過ぎだと、苦笑いされてしまうだろう。
だとしても、今ただ俺の胸に在るのは――これからがきっと俺にとっても、弟にとっても良い未来が訪れるだろうという予感だけだった。
馬鹿にされたとしても、からかわれたとしても、俺はその予感を信じたかった。
――故に、気分を悪くしたのか包帯を巻いた少女が吐いてしまったとき、俺は迷わず弟の方へと駆け寄った。
ただ弟の手助けをしたいという一心で。
そして俺が三人に近付いたとき――
「なんだコイツ、めんどくせえ」
飛び込んできた弟の言葉に俺の予感は砂山のようにあっけなく崩れ去った。
弟の前で吐いている少女は恐らく弟の生徒か、そうではないとしても教師立教え導くべき子供。
だというのに、弟の口から出たのはそんな慈悲の欠片もない、人として疑うべき発言で。
――後から考えれば、そのとき弟の腕はベンチの上から地面に崩れ落ちそうな少女を支えようとでもするかのように、伸ばされていた。
腰も僅かにかがめられていたし、抱きかかえて保健室に運ぶつもりだったのかもしれない。
だとしても、俺は弟の口から放たれたその言葉がただ許せず。
それはあまりに少女たちへの気遣いのない言葉をかけたためか、あるいは俺の予感を粉々に砕いた腐った言葉の槌のためか、俺自身にも良くわからない。
「零児っ、お前は何を考えてるんだっ!」
ただ俺は罵声でも浴びせかけるように荒い口調を伴なって、三人の方へと走っていった。
俺の声に弟の、零児の手はピタリと止まり、真っ直ぐと立ち上がって俺の方を見つめた。
朱と蒼の眼は昔とまるで変わらない色をしていた。
「――んだよ」
薄く形の整った唇に乗せられた声も、昔と変わらなかった。
俺は三人の下へ駆け寄ると、胸から喉へと伝わる感情を抑えつけて、ベンチの脇へとしゃがみこむ。
そして吐瀉物で作業服が汚れることも気にせず、倒れていた包帯を巻いた少女を抱えあげた。
「君はこの子の友達かい?」
「あっ、あぁ。貴様は――」
「俺は天津神一人。零児の双子の兄だよ」
ギッと鋭い目つきで弟を睨んでいた少女に答えつつ、俺は少女の身体を腕で感じていた。
包帯を眼に巻いた少女は細く、とても軽かった。
拒食症か何かだろうか――そんな事を思いながら、俺は金髪の少女に尋ねる。
「保健室の場所はわかるかな」
「案内する」
「零児、お前も来い」
鼻息ひとつ、弟から視線を外した金髪の少女は難しげな表情に心配の瞳を乗せて、俺を誘うように一歩足を進めた。
だがその半面、弟からの返答は――
「良いわ、めんどうだし」
冷たく素っ気ないものだった。
「教師、じゃないのかお前は」
「とにかくエヴァ、さっき俺が言ったことは本気だからよ。あとコイツは俺のクラスの生徒じゃねーし、アンタがいるなら俺がいなくたって良いだろ?」
それだけ言い残すと、弟はひらひらと頭の上で手を振って、金髪の少女が向かおうとしている方向とは逆の方向へと歩き出した。
その朱と蒼の双眸は本当に昔と何一つ変わっておらず――
まるで俺と包帯を巻いた少女が見えていないかのように、画面の向こうの空虚な幻想を見つめるような眼で、金髪の少女だけを見つめていた。