「老師、演武を見て欲しいアル」
そんな古菲の言葉に誘われて、俺は今世界樹広場で彼女の姿を見つめている。
ひらひらと笑顔で古菲は俺に手を振ってくる。
その仕草に手を振り返し、俺はぐっと腕を組んで背中を壁に預けた。
麻帆良学園は中等部の修学旅行が終わり、学園全体がこれから行われる学園祭へと向けて動き始めている時期。
いつもなら適当な理由を付けて断る古菲の申し出を、俺は今日結局受けてここに居る。
珍しく、どんな理由を付けても引き下がらなかった彼女の熱意に押されてだ。
――なんでも古菲はネギ先生に弟子にしてくれと頼まれたらしい。
自分はまだ未熟だと古菲は俺に言った。
だが弟子を取れば自分も成長できるのではないか、という俺の提案に、彼女は得心したように相槌を打った。
そして、俺に自分の演武を見て欲しいと頼んできたのだ。
提案した手前、断る理由を思い付けなかった俺は今、この場で彼女の姿を見ている。
チャイナドレスを身に纏い、いつものほにゃんとした表情を捨て去り鋼のように顔を引き締めて、古菲はペコリと一礼した。
――彼女の演武が始まった。
ギャラリーは俺以外にも数十名ほど。
毎年学園祭の時期に行われる武道大会ウルティマホラを二度制し、女子中等部三年生という身ながら幼等部の生徒から大学生まで、更には社会人の人間も所属している麻帆良中国拳法研究会の部長である彼女の演武。
武道系の部活に入る人間からカルト的な人気を誇る古菲の凛々しい姿を一目見ようと、続々とその人数は増えていた。
一方と注目を浴びる古菲自身はそんなギャラリーを気にした様子でもなく、落ち着いたたたずまいをみせている。
――やがて彼女は中学生という衣も女という衣も脱ぎ捨て、研鑽と練磨の果てに昇華された一人の武人として動き始めた。
緩やかながら鋭いその姿は俺の本能を強く、強く、脈動させる。
踏み込むと同時に両の拳を斜め上に押し上げ、古菲は跳ねあげるように左脚を振り抜いた。
そして息を付く間も与えもせず両の手を爪に見立てたかのように開き、下へと空間を引き裂いた。
――俺は、普通にこの時代を生きている俺は、空想上の生物である龍など見たことがない。
見たとしてもそれは絵画の中で、本の中で、俺の視界に質量ある生物として見たことはない。
だが今確かに、俺は古菲の背後に雷雲を纏い飛翔する龍の姿を見たのだ。
そして次々と、かわるがわる、そこに存在しないはずの獣が俺の視界に移り込んできた。
叢に忍び飛びかかる虎を、変幻自在に飛び回る猿を、駿く力強い馬を――俺は見せつけられた。
中国拳法には象形拳と呼ばれる拳法がある。
龍や虎や熊などの強そうな動物から猿や鶴や燕などのいかにも弱そうな動物まで、彼らの動きの特徴を取り入れひとつの技術形態として昇華させたのだ。
人間はそもそもと、肉体的には脆弱な生物である。
故にこそ、野山を縦横無尽に駆ける彼ら動物に強さを見たのだろう。
未だ十四そこらの少女に過ぎないはずの古菲は、そんな先人たちの願望を体現してしまったのだろうか。
だからこそこんなにも明瞭に、ただの人間に過ぎないはずの古菲の背後に多くの――実に強靭で甘美な生物の姿が俺の眼には映るのだろうか。
――誰かが噂を流したのか、ギャラリーは次々と集まってくる。
その中に二つばかり、良く見知った顔があった。
二人は俺の姿を見つけると、迷うことなくこちらへと寄って来る。
――古菲と合わせて感じる俺の苦手な生徒たちだ。
「やぁ範馬先生、貴方も見学かい?」
フランクに手を掲げ、190を越える俺よりも僅かに小さいだけの少女は俺に声をかけてきた。
隣に居たサイドポニーの少女はあわせるようにぺこりと頭を下げた。
「……まぁな、龍宮、桜咲」
ふっと眼をつむり心を落ちつけ、俺は両の太腿で俺自身を強く挟んだ。
ぎりりという男特有の痛みが這いあがってくるが、それを気にしている余裕はない。
――俺の少し後方で、窺うように注がれる視線を感じるのだから。
例えばの話、この世界に何よりも強き龍がいたとしよう。
龍は恐らくどんな形状をした他の生物が敵意を己に向けたとて、有象無象と断じ棄てるだろう。
何故ならその龍は地上最強――何を媚びる必要も、何をへりくだる必要も、その龍にはないのだ。
どのような敵意も、どのような害意も、どのような悪意も、その龍は何の感慨も抱く必要がないのだ。
所詮向かってきたとして傷一つ付けることが出来ないという尊大な自負心があるのだから。
だが――俺は違う。
地上最強の生物という概念は、貧弱な人間の肉体に収容されている。
人間は弱い――いかに知能が高くとも、その肉体はひどく弱い。
人間は日本刀を持って初めて猫と対等というのはいき過ぎかもしれないが、素手の人間は一体どのような生物になら勝つことが出来るのだろうか?
とにかく人間は肉体的には脆弱な生物。
だからこそ、本来そのような生物には自身へと降り注がれる危機感を察知する能力を持っている――いわゆる第六感というヤツだ。
――故に、俺はまた強く太腿に力を込める。
起立しようとする俺の欲望を――生徒に欲情しようとする下種ひた欲望を、必死に抑え込むために。
そんな決意が下半身へと伝わったと同時に、俺の視界が細い指で覆われ、背中にやわらかな感触が添えられる。
「だ~れでござるか?」
「……とりあえずござる口調だと意味がないな」
俺は脳内で裸のおっさんが抱き合う姿を妄想していた。
「確かにそうでござるな」
納得したかのような声をあげて、長瀬は俺の隣へと移動してくる。
眼はいつものように、糸のように細められていた。
「しかし――相変わらず凄まじい功夫だね」
「で、ござるな」
龍宮の言葉に長瀬の視線が俺から古菲へと移行してゆく。
古菲は熊を背負ったまま脚を閉じて立ち、左の手の平で右手の拳を包み込むようにして、深く息を吐いた。
途端、一斉にギャラリーから歓声が噴き上がる――どうやら終わったようだ。
演武を披露していた古菲はギャラリーに囲まれてもみくちゃにされている。
俺はその姿を確認し、一歩踏み出した。
「どこへ行かれるんですか?」
抜き身の刀剣のように鋭い――だが最近やわらかくなったと感じる桜咲の声に、俺はぴっと指をさす。
突きだした指の先には喫煙所。
煙草でも吸って気を落ち着けねば、古菲の余りにも魅力的過ぎる演武に、傍に居た強い女の芳香に、俺はどうにかなりそうだった。
「先生、私は自販機のコーヒーで勘弁してあげよう」
「では拙者は炭酸でも飲むでござるかな」
「あの……私はお茶で……」
そんな事を言いつつ当り前のように着いてきた三人へポケットから取り出した安物の財布を投げつけて、俺は足を速めた。
脳裏では新田先生が淫らに俺を誘っている。
心の中で新田先生へ謝罪をしながら、俺はようやく喫煙所へと辿り着いた。
強張った表情が顔に張り付いているのがわかる――俺が近付くと同時にそこに居た何人かが蜘蛛の子を散らすように去っていったのだから。
五本ほどまとめてフィルターを咥え込み、ライターへと手を伸ばす。
焦っているせいか、それは卵の殻のようにぐしゃりと握り潰れた。
液化していたガスが無情にも四散していく。
俺はその惨状に天を仰ぎ、しばらく考え込んでからカパリと口を開いた。
そして口の中へと含んだ煙草をそのまま租借し飲み込んだ。
――本来煙草一本を水に溶かし、それを呑んでしまえば致死量のニコチンを摂取することも可能だが、その程度でこの肉体は壊れてくれない。
脆弱な器に強靭過ぎる概念を持つこの矛盾した肉体は、結局人間を越えて強靭過ぎるほどに強靭なのだ。
そうでなければ息を吸うように畳を踏み抜くことなど出来るはずがない。
母の給金の、俺の給金のどれだけがアパートの畳の修繕費に充てられたか――百から先はもう覚えていない。
「老師、見てたアルか?」
新しい煙草に懐から取り出したマッチで火を付けて、ようやくと煙を吸い込んだ頃、古菲はいつもの元気な声を伴なって現れた。
五分少々程度だった演武であるが、彼女の肌は玉のような汗で覆われていた。
それほどまでの緊張感を持って演じきったということなのだろう。
「ん、カッコ良かったぞ」
真っ直ぐと俺を向く純粋無垢な瞳を、俺は正面から受け止めることが出来ない。
すっと微かに視線を逸らして、俺は灰皿へ先程まで吸っていた煙草を押しつけると、またくわえて火を付けた。
「むぅ~……ホントにホントアルか?」
「あぁ、カッコ良かった。俺は武術のことは良くわからねぇけど、カッコ良かったのは間違いないぞ」
これは本当で嘘だ。
前世で空手を習っていて、畑違いの中国拳法は詳細まで解らないが、それでも今の古菲の演武に何が足りないのかは解ってしまうのだ。
器の所為か、概念の所為か、それははっきりしないが、俺は――
「すまない、少し良いかい」
ふてくされた古菲の視線に晒されて頭をかく俺の耳に、そんな言葉が聞こえてきた。
「急にこんな申し出をするのは失礼だとは解っている。だがどうしてもお願いしたい――お嬢さん、俺と手合わせをしてくれないだろうか?」
声は真っ直ぐと、視線も真っ直ぐと、強い意志を感じさせる天津神さんの問いかけは真っ直ぐと古菲に伝えられた。
「へぇ、あの人が天津神先生の双子のお兄さんか」
「しかし何と言うか……その……」
「似てないでござるなぁ」
首を傾げるような三人の言葉を隣で受けつつ、俺は対峙する天津神さんと古菲の姿を注視していた。
向かい合い、二人が礼をする。
拳を握り、相手を捉え、構えたその姿は奇しくも同様の構えであった。
左足を前へ、右足を後ろへ、身体を閉じるように足を地面に置き、つま先が相手を捉える。
左腕は肩に沿って上げられ、手の平は相手を掴むように開かれていた。
右腕は腰辺りに、力を抜いて添えられている。
「形意拳だな。これはさすがに知っているだろう、刹那?」
「……龍宮、お前は私を何だと思ってるんだ」
からかうような口調に、ぶすっとため息を漏らして返答する桜咲。
きりりと引き締められた眼は決して外すことなく向かい合う天津神さんと古菲に注がれたまま、桜咲は少しだけ上がるような調子で口を開いた。
「太極拳や八卦掌と同じで中国武術の代表格だろう。というよりも前もこんな話にならなかったか?」
「成程、刹那は前の話でようやく形意拳を知ったということか――勉強不足だぞ」
「お前は――龍宮は、私をからかいたいのか?」
「気付くのが遅いということは罪だよ刹那くん」
くつくつと喉を鳴らす龍宮に、じとっとした冷たい視線を投げかける桜咲。
だが件の龍宮本人は暖簾に腕押しぬかに釘、どこ吹く風といった様子できりりっと真面目そうな顔で対峙する二人を見つめていた。
「まぁまぁ刹那も抑えるでござる。それよりも――クーが仕掛けるようでござるよ」
いつもの糸目は切れ長に見開かれ、長瀬ののんびりおだやかな声はまるで円錐の底面から頂点へと進むように徐々に尖っていき、鋭い音で俺の注意を一層天津神さんと古菲へとひき付けた。
――先に動いたのは古菲だった。
最初の構えから微動だにしない天津神さんにしびれを切らしたのか、出す手を足を右へ左へ交互に変更しながら距離を詰めていく。
そして――突き出されている二人の手の平が触れ合おうとするところで、古菲の拳が奔った。
「破ッ!」
目標点は推察するに下腹部。
気合いの乗った踏み込みを伴なって放たれた中段突きは――素人では知覚することも出来ない速度のそれは――しっかりと合わされた天津神さんの左腕によって弾かれ。
お返しと言わんばかりに打たれた天津神さんの右拳は、吸いこまれるようにして古菲の腹へと突き進んでいった。
――だが次の瞬間、天津神さんの身体は無情にも宙を舞い、無慈悲に石畳の地面へと落下した。
ほぅと、誰からともなく溜め息が漏れた。
「靠、か」
思わず洩れた俺の言葉に、にゅにゅっと覗き込むような二対の視線が送られてくる。
にやついた顔の龍宮と、感心したような顔の長瀬だ。
桜咲はそんな二人の顔をちらちらと見やると、途端笑顔を作って俺の方を見てきた。
後悔先に立たず――はじめに吹っ掛けてきたのは龍宮だった。
「ああ靠だね靠だとも。しっかりと範馬先生の眼にも映っていたみたいだ。それに良く知っておられる」
「……そうだな」
楽しげな顔で、大きな玩具でも見つけたかのような顔で、龍宮は更に続ける。
「肩からだったな」
「あいあい。範馬先生もしっかり見ていたようでござるが、たしかに先のクーの靠は肩でござった」
「――だなっ!」
妙なタイミングで割って入った桜咲の言葉はひとまずと、俺は対峙していた二人へと纏わりついて来る好奇の視線を振り払って意識を捧げた。
靠とは要するに、肩から入り腕の組み方でその種を変える体当たりのことだ。
接近戦での体当たりを中国拳法では多く体系化し、利用している。
恐らく先程――合わされた天津神さんの右拳を身体を捩じることでかわし、脇へと背中を叩きつけたあれは日本でも有名な靠、八極拳の鉄山靠だろう。
しかし――尋常では無い動体視力と反応速度だな。
確実に天津神さんの拳が打ち込まれたと思ったんだが――これが、生まれ持った素質の差というものなのだろうか。
「謝謝、強的人」
天津神さんが立ちあがったのを確認して、古菲はそう強く宣言して頭を下げた。
古菲のその対応に、天津神さんもまた頭を下げて踵を返し、再び出来あがっていたギャラリーの中へと消えていった。
「ところで刹那、靠とは何かわかって話に参加してるんだろうな?」
「あっ、当り前だ。その……体当たり――」
「あいあい」
「そう、背中からの体当たりだ!」
やんやヤンヤと盛り上がる三人の声を意識の後ろに流し込み、ニヘヘッと興奮した様子で駆けよってくる古菲の姿と立ち去って行った天津神さんの後姿を想い浮かべながら、俺はふと思いを馳せる。
「老師、見たアルか! 勝ったアル! 凄く強い人だたネ!」
かつては武を志し、武に憧れ、今は己の力に脅える俺は――何の為にこの力を望んでしまったのだろうかと。
悔しさに溢れる背中と嬉しさに溢れる笑顔に抱く――この想いはきっと羨望なのだ。