私——脇坂衛(わきさか まもる)は慰問団『わらわし隊』の第一回公演が終わった後、兵隊たちがごった返す即席の演芸会場から離れようとする。
すぐに2回目の公演が行われるために、出ていく観客と入ってくる観客の両方の人の大群が会場に押し寄せてくる。とても動き辛いが、なんとか人の波をかき分け、会場を後にした。
建物の裏にまわると、会場で響き渡っていた兵隊たちの笑い声も流石に小さくなる。粗く漆喰を塗った壁にもたれかかりながらタバコを一服吸い付けた。
(モスクワのスパイとしてこれまで動いてきたが、スパイ・ハンターなんて厄介なものが来るなんてな)
私は天皇制という兄を殺した古き体制を打倒して新しい体制を創り上げるべく、今までKという者と連絡を取りながらモスクワのスパイとして暗躍してきた。
資本主義などという自然と労働階級の弱者が増え、上ばかりが得をする不当な思想及び体制から、日本国民を解放するために。
日本政府が前線部隊の判断を優先するという馬鹿げた方針をとってからは、軍医として前線部隊に潜り込み、ここでも努力してきたつもりだ。
Kから前線部隊の『スパイ狩り』なるものが行われ、次々と同志達が狩られていると聞くまでは。
スパイ狩りは前線部隊を回っている慰問団『わらわし隊』との関係がある可能性が高いことと、スパイ狩りを行なっているスパイ・ハンターの暗号名には『笑わぬ男』という名が使われているとの報告があった。
それまでならまだいい。今まで通り、気をつけなければいけないと思うだけでよかった。もう一つの報告を聞くまでは。
——大日本帝国陸軍内の秘密諜報組織、『D機関』。
今回のスパイ狩りを行なっている組織の名前だ。
K曰く、「どれだけ調べようともその実態は明らかにすることができない」だとか。唯一分かるのは一人の陸軍中佐によって設立され、その後も彼の下で全ての作戦が実行されているらしい、とのことだけ。
その陸軍中佐の通り名は——
ベルゼブル。
蝿の王。
旧約聖書『列王紀』に登場する異教の神。悪魔どもを率いて、人間を地獄へと引きずり込む魔王のことだ。
魔王(ベルゼブル)の配下の悪魔が我々を地獄へと引きずり込むべくやってきた。
『魔王』だなんて大それた名前で呼ばれるその存在にゾッと背筋が冷たくなるのを感じた。普通はそんな大それた名で呼ばれない。恐らくはそれ程までに恐れられているからこそ、『魔王(ベルゼブル)』などという異教の神の名で称されているのだ。我々を陥れる魔王と。
その配下の悪魔が私を見つけようとしている。気味の悪いギョロリとした目を凝らして、私を探す化け物の幻想が脳裏によぎった。
だが、私はそんな幻を鼻で笑ってみせる。
(確かに油断ならない敵だ。しかし、負けるつもりはない。必ず私が見つけてみせる)
慰問団が来るまでに色々と調査を行い、ある程度の目星もつけた。更には魔王からの使いのスパイ・ハンターを炙り出すべく、仲良くしていた隊長の机の上にも『西村久志二等兵がスパイだ』という紙も置いておいた。
スパイ・ハンター以外の者がスパイとして騒がれれば、きっとスパイ・ハンターは一瞬でもその表情を崩すだろう。その一瞬を見つければいいだけの話。私になら必ずできるだろう。
そう思いながら夜へと移り変わる空を見る。その空へと伸びて行くタバコの煙を視界に入れつつ、不意に西村久志二等兵のことを思い出す。
(記憶障害にしては不思議なやつだったな、あの男)
昨日、腕を撃たれた挙句、頭を強打したことにより軽い記憶障害に陥った西村久志二等兵。彼が意識を失っている間、手当てをしたのは私だ。
その時、西村は意識を失いながらも魘されていた。きっと戦いの恐怖で魘されているのだろうと同情しながら彼の傷を見ていたのだが、寝言がおかしかったのだ。
——英語でうわ言を呟いていた。
その瞬間、フッと自分の心に重みが掛かるのを感じたものだ。
D機関という秘密諜報組織がスパイ狩りを行っていると聞いていたので神経質になっていたのだろう。どんどんと心が冷えるのを感じた。
本来なら、英語でうわ言を無意識に呟けるほど流暢に西村が話せるはずはないのだ。今の時代、こんなにも話せる者は余程賢い者であるか、はたまた金持ちであるか——そのぐらいだ。そんな人間が二等兵という低い地位についているのは明らかに『可笑しい』。普通ならばもっと上の地位にいるか、それか通訳という立場にいる場合が多いからだ。
(まさかこいつがスパイ・ハンター?)
もしかしたら下手を打ち、敵にやられたスパイ・ハンターがこの西村の可能性が高い。魔王とまで称された者の配下が簡単に敵兵にやられているなんて少々拍子抜けではあるが——まあ、あり得なくはないのだ。所詮は日本政府などその程度であるのだろう。
確証はない。だが、調べてみる価値はあった。
もしかしたらこの英語のうわ言も何か意味があるのかもしれない。そう思って、目を閉じながら魘される西村へと耳を傾けた。
「カステラがァ…カステラの大群がァ…襲ってくる…!」
「は?」
まさか私の翻訳が間違ったのか…? 英語でカステラの大群が襲ってくるなどと呟いていているんだが。いや、そんなわけないy「もう無理、カステラもう無理…」…カステラってやはり呟いているな…。信じたくなかった…。自分の優秀な耳がはっきりと聞き取ってしまった…。
というか何故カステラ。顔を物凄く真っ青にさせながらカステラをひたすら呟いているんだが、大丈夫なのか。
普通、そこは敵兵を恐れる言葉を呟くところじゃないのか。ここは戦場だぞ。何故カステラ。
(ハッまさか何かの暗号…?!)
一瞬、様々な暗号文が脳裏によぎったが、直ぐさまそれはないなという判決に至った。そんな馬鹿な暗号があってたまるか。いや、あるかもしれないが、『カステラの大群が襲ってくる』などという馬鹿げた暗号とかは勘弁してほしい。
しかも、現在魘されている西村はカステラしか呟かない。カステラに襲われすぎだろう。こいつはカステラにトラウマでもあるのか。
その前に何故この男は英語でわざわざカステラを呟いているんだ。この魘され具合は本当に夢でカステラに襲われているのだろう。演技でできるとは思えない。馬鹿なのか、馬鹿なのかコイツ。
「そうか。こいつ、賢い馬鹿なのか」
偶にいるのだ。賢い馬鹿が。私の幼少期の友人にも一人いた。
何ヶ国語も話せる上に成績も良いのだが、何故か馬鹿な行動を取っていた私の友人。突然目の前で頭から地面に転がって全治数ヶ月の怪我をしたり、土下座し始めたりするような馬鹿だった。あの奇行の数々には呆れたものだ。
それを思い出して半目になりつつ、私はこう決断を下した。
——この男はスパイじゃないな。あまりに馬鹿すぎる。
だが、万が一ということもある。
故に、『西村久志二等兵がスパイだ』という偽のスパイ密告文を隊長の机の上に置くことに決めた。スパイ・ハンターを炙り出し、尚且つ、西村は何者であるのかを判明させる為に。
流石に上官に追い詰められれば西村も色々と話すだろう。その時に英語を流暢に話せる理由も聞けばいい。
(まさか目が覚めて記憶障害になっているとは思わなかったが)
だからこそ、机に置く文章を『猪熊軍曹がスパイだ』という文に変えてしまおうかとも考えたが、やはりそのまま西村でいくことにした。もしも万が一、何かスパイ・ハンターと関係がある者ならば、そこら辺をうちょろされては困る。正直、目障りだ。捕まってもらっておいて欲しいのが私の本音だった。
そうこう考えながら、会場に戻ろうかと身体を回転させる。後もう少しで西村のスパイの件で周りが騒ぎ立てる頃だろう。西村を捕まえようと屈強な兵士達が彼の元へ行くに違いない。
踵を返そうとした時、黒い影がヌッと私の前へ来た。驚いて身構えるが、その黒い影が先ほど舞台で公演をしていた『わらわし隊』の芸人の一人だと気が付き、強張らせた身体の緊張を解く。
そして、フッと内心で笑ってみせた。
(これは好機だな。彼から色々と話を聞くとするか)
タバコが欲しいと言われたので渡しながら、これ幸いと『わらわし隊』の内部の人間を探ることにした。『わらわし隊』とスパイ・ハンターは関係があるかもしれないとKという私の上司に報告を受けている。そんな中で『わらわし隊』の芸人と話せるのは好都合だった。
だが、彼と色々と話している内に『あり得ない話』が出てき始める。それに思わず目を見開く。そんなはずは…と思いながら、私は慌てて偽のスパイ密告文を置いた、隊長の部屋へと急ぐのだった。
隊長の部屋の前の兵士達に挨拶をして、入室して思ったのは一つ。
(やられた…!)
偽のスパイ密告文の『西村久志二等兵がスパイ』と書いた紙がない上に、自分の時計が備え付けの時計よりも早められていた。あの偽のメモがないのはまだ分かるが、何故自分の時計の時間が早められているのだ?
そう考えた瞬間、スッと背後に人の気配がした。慌てて振り向くと、鳩尾に鋭い痛みが走る。そして、そのまま意識が真っ暗になった。
♂♀
——自分のポケットを漁られている。
ガサガサ、ゴソゴソという音を聞いた瞬間、私はハッとしたように目を覚ました。直ぐさま私は周りの状況と自身の身辺に意識を向けた。
長い間、寝た時のような身体のだるさがない。恐らく、少しの時間しか寝ていないのだろうと瞬時に推測する。
そして、周りの状況を見ようと起き上がろうとするが、上から押さえつけられている為に顔を後ろにすら向けることが出来ないことに気がつく。内心で深いため息を吐いた。
(ついに、この時が来てしまったか)
スパイなんて仕事をやっている人間だ。いつかは捕まる可能性があるとは思っていた。だが、こんなにも早くとは思わなかったのだ。
そして、Kから与えられた情報にあったD機関のスパイがまさか『彼』だとは思わなかった。その事実にギリギリと思わず歯ぎしりしてしまう。
『わらわし隊』の笑いのプロが唯一、『笑っているようで、笑っていない』と言わしめた人物。
それと同時に、その芸人へと『脇坂先生が会場裏でタバコを吸っている』と伝えた人物。
——その人物は『あの男』だった。
「どうしてお前がここにいる。『西村』…! お前は記憶を失っている筈ではなかったのか!」
西村は何も言わない。だが、それが逆に恐怖を煽った。地面に身体を押さえつけられながら私は静かに戦慄する。
西村は確実に軽い記憶障害に陥っていた。医者で、尚且つ、この私が直々に診察をしたのだから、まず偽れる筈がない。自分には見抜ける自身がある。アレが到底演技で出来るわけがない。
最近の情勢も知らず、自分が何者かすらも知らない反応を西村は見せた。確実に普通で凡人で没個性な人間の反応だったのだ。記憶障害と戦争という事実に怯え、必死に不安を紛らわそうと私に話しかける、ただの一兵士でしかなかった。
(あれが演技だったというのか。それとも——)
本当に記憶障害になりながらも、任務を遂行したというのか。
それを想像した途端、ゾッと背筋が冷たくなるのが分かった。
そんなことができる人間がいるというのか。そんな人間がいるというのならば、それは『化け物』だ。記憶障害に陥ろうとも、任務において正しい判断ができるなど、化け物でしかない。そんな人間がいるというのか。そんなことが出来る人間が存在するのか。
(いる筈がない。ならばアレは演技だったのだろう。私が演技を見抜けなかっただけの話)
そう信じたかった。だが、そんな目立つことをスパイがするかという考えもあったが、私は必死に目を閉じる。どちらが本当で嘘かが分からない。踊らされているのは間違いなく、私だった。小さく拳が震える。
しかし、そんな私を嗤うかのように西村は口を開く。一度聞いても印象に残らないような、平坦で何処にでもいそうな、ありふれた声だった。
「全く、記憶障害に陥るとは思わなかった。あの時は世話になったな、先生」
「本当に記憶障害だったのか…?! だが、どうやって貴様、記憶を取り戻した…?」
「さて、どうだかな。記憶障害も嘘かもしれないぞ、先生。しかし、もしも私が本当にあの時、記憶障害だったとしても、どうやって記憶を取り戻したかなど貴様が知る必要のない情報だ」
本当に記憶障害だったのか、そうでないのか、分からないような返答だった。のらりくらりと躱され、私は静かに歯を噛みしめる。
(彼が記憶障害だったのか、そうでないのかはこの際どうでもいい。スパイとしては捕まってしまったが、アレさえ知られていなければ別にいいのだ)
そう、私の生きた証——ワキサカ式と呼ばれる情報の手渡し方を彼に知られていないのならば、後はどうでもいい。
余談だが、その情報の伝え方とは、手足や頭がもげていない支那兵の死体(腐敗しないように処理済で、野犬に食い殺されないようにもしている)に情報を入れて渡すというものだ。
あれさえ知られていなければ、同志達があの手段を使って再び活動できるだろう。例え、私がここで折れようとも、私の志は折れない。未来永劫続く、私の生きた証。
——だが、西村はそんな希望すらも打ち砕く。
ワキサカ式の細かい詳細まで彼は知っており、更には私が姿すら見たことがないKの正体も調査済みだったのだ。私は拳の震えが止まらなかった。
しかも、彼は本当なら私をそのまま泳がすつもりでいたらしい。誰の手で、いつ、どんな情報が流されたのかさえ把握していれば、情報戦はむしろ有利に進められるから、と話した。
ならば何故今更私を捕まえると問うと、彼は「殺したろ?」と言う。それを聞いた瞬間、ハッとなる。
10日前、五体満足の支那兵が見つからなくて近くにいた老人を殺した。それが西村にとっては邪魔だったのだ。どうやら西村は目立ちたくないようだったから、簡単に彼の気持ちが察することができた。
(確かに老人は殺したが———…本当は殺したくなかった。崇高な理想の為には仕方がなかったんだ)
だが、それが問題だった。
彼が記憶をなくしている際に、会話を交わしており、その話が少し出たが、私は顔を少し顔を歪めただけだった。それこそが彼にとっては問題だったのだろう。
記憶障害になりながらも、本懐を遂げるなんてあり得るのだろうか。彼は無意識の内に私を観察していたことになる。自然と話を持っていき、尚且つ、記憶を簡単に取り戻す——そんなことができるのだろうか。
だが、このスパイはやってのけた。まるで休憩の合間にする、なんてことのない日常かのように。
何故だか、手が再び震えていた。
そんな風に考えていると、西村は続けて、「ずっとお前を見ていたが、これからもそういう事態に陥れば、お前はきっとまた殺す。今の表情がそれを証明している。それは困るんだよ」と抑制のない声が静かにそう語った。それをそれを聞いて、目を見開く。
(私が殺す? そんなまさか。だって、私はこの国の国民を守る為に活動しているのだから、そんなはずは——)
「時間だ」
静かに西村はそう言った。その瞬間、私は気がつく。
私の時計の針を五分早めたのも、この部屋に来る隊長を来る時間を見越してだったのだろう。記憶を思い出して直ぐにしたのか、それとも他に何か方法があったのか、私には分からなかった。いや、分かりたくもなかった。
——だだ、理解したのは彼が化け物だということ。
部屋から出て行く彼の後ろ姿を見る。逆光で西村の顔は見えなかったが、その影が得体の知れない生き物に見えた。恐るるべき、化け物に見えたのだ。秘密を衣にして身を飾り、全てを欺く、人知を超えた存在。
蝿の王の配下たる化け物、西村。
きっと彼は魔王からの使者なのだろう。黒き影が自分を飲み込んで行くのを感じた。
不意にその瞬間、西村は笑う。まるで女と見間違うような妖艶で、真っ暗な笑み。その笑みに私は一瞬だけ囚われた。
そして何故か、亡くなった兄の姿と幼少期の友人の姿が被る。
——A secret makes a woman woman.
女は秘密を着飾って美しくなるのよ——。
♂♀
「戦場からの帰還ヒャッフゥ!!!!!!」
静かに船から降りた後、私は日本の地を踏みしめる。そして、私は小声で雄叫びをあげながらもガッツポーズをした。小さなガッツポーズだが、全力で拳をギリギリしている。
もー本当に嬉しすぎる。野宿とかもしなくていいし、何より命がけの殺し合いもしなくていいし、人も周りで死なないから最高! 日本よ、私は帰ってきた!!
(記憶障害になるとは思わなかったな…)
しかも、まさかの今世の記憶だけブッ飛んで、前世の記憶のみが残るなんて奇跡的すぎるだろ。 打ち合わせでもしたっけ??
後さ、記憶障害中の私はなんなの? 憑依じゃね?! とか騒ぐ前にツッコむところ色々あるだろ。というか何故憑依という結論に至った。漫画の読みすぎだよあの馬鹿。昔の私マジで馬鹿。
(よくもまあ、記憶を思い出せて、尚且つ、任務も遂行できたよ…)
結城中佐曰く、「不測の事態によって記憶に混乱をきたすことはスパイにとって容易に想定される事態だ。しかし、任務に必要な情報を無意識のレベルに刷り込む方法を体得すれば問題はない」らしいからね。
それを講義で聞いた瞬間、「いや、できねーよ! できたら化け物だよ! そう言えば波多野は『誤算』のお話で確かに出来てたけど! 私は無理!!」と思っていたのに…。まさかできるようになっていたとは…。マジで怖すぎ。やめて欲しい。
自分が人外になっていっているのが分かって、項垂れそうになる。
でも、私のレベルではまだまだなんだろうな。あいつらは記憶障害に陥ったとしても、もっと私より賢いやり方で対処できるだろう。例として挙げるならば、波多野さんである。マジであいつは化け物。
それを考えて余計に凹んだ。
ちなみに、記憶障害中のあの時、私はなんとか自分に対して、無意識レベルで指示ができた。
その中で、あの部隊にいた『協力者』にタバコを使って『私を殴れ』『脇坂先生の時計の時間をズラせ』と指示をしたのだ。無意識のレベルに身体に刷り込ませた、不測の事態にあった時にのみ発動する動作である。
余談だが、無意識レベルの刷り込みは死ぬ気でやらされた。
それにより私は協力者に殴られ、記憶を復活させることができたのだ。
(本当にやめて欲しいよね…。というかあのまま記憶障害だったのならば、スパイを辞めれたかな?!)
そのまま兵士として活動していれば、結城中佐も諦めて…!! ……いや、無理だろ〜な。普通にぶん殴られて記憶がカムバックしてただろう。結城中佐が一応はそれなりに動ける私を手放すわけがない。そのままにしておくなど、養成費用の無駄だ。世の中辛すぎ。スパイを辞めたい。
(まあ、結城中佐の説得は今無理だとしても、それは忘れよう。なんたって私は現在、フリーなのだから!!)
あの『蝿の王』の任務が終了してから、私は直ぐに軍を抜けた。自分が今持てる全てを使い、全速力で中国の戦場から脱出。そして今、自己ベストが出せるくらいの速さで日本に到着した。
——全ては、休みのために!!
だって、うちの職場って殆ど休みがないに等しいんだよ!! 仕事の合間に自主的に休む、みたいな。ふっさげんな!! 私は休みたいんだよこの野郎!!
その為に私は中国の地を全速力で駆け抜け、約束の日にちよりも一日早く日本に到着したのだ。全ては休みのために。のんびりとするために。未だに銃弾を受けた腕が痛むが、そんなことは知ったこっちゃねえ!! 私は休むんだ!! 引きこもるんだ!! インドア最高!!
そう思って、足を動かした瞬間だった。
「あれ、藤原か?」
「波多野、なんでお前ここに——?!」
「いや、俺も丁度仕事が終わって、船から降りたんだよ」
「そうか…」
別の船から降りてきた波多野をギョッとした顔で見つめる。船を見るに、恐らくあれはフランスからの便。波多野がフランスから帰って来たということは時期的に『誤算』のお話が終わったんだろう。なんという偶然。偶然すぎて怖かった。
(いや、まてよ? こんな偶然あるか?)
不審に思ってあたりを見回すと、向こうの方に杖をつきながら歩く、見慣れた人物——結城中佐がいたのだ。私はそれを見て、ギョッとする。そして、結城中佐はそんな私の方に視線を寄越すと、フッと小さく笑ってみせた。その瞬間、ぞぞぞぞと寒気が走る。
(バレてるーーーーーっ!!!!!!)
やっべえ、私が全速力で日本に帰って来て、休もうとしていたのバレてた! だから、敢えて波多野が帰る便と私の便が鉢合わせるようにしてたんだ! こっっっわ! マジでこっっわ!! 働けって事ですか結城中佐ァ!! 本当にすみませんでした! この藤原、全力で働くんで、あんまり危険な仕事を回してこないでください!! うわあああああああああああ!!
私は諦めて波多野と帰ることにした。内心で泣きながら。
藤原は知らない。気がつかない。
これからもきっと。
※無駄に藤原は優秀に見えますが、完全なる運です。