「追え! 捕まえろ!」
背後から聞こえる怒声と、ずっと近くから轟く足音。
時おり何か爆発音がし、続いて液体がばら撒かれる音が森の中に響いた。
バルダもリーフも、それが何かは十分わかっており振り向くことすらしない。
ただひた走る姿からは焦燥感が漂っていた。
「身を隠せる場所無いよ、ここら辺!」
「分かってる! とにかく走れ!」
走るだけでは解決しないが、しかし走らないことには詰んでしまう。
どうしてこんな場所で憲兵に出くわすんだとリーフは内心で己の運命を呪った。
辺りは森。あるのは木々と背の低い茂みのみ。
これでは木々の間をすり抜けて憲兵を攪乱するぐらいしか出来ない。
しかし奴らは犬のように鼻が効く。一度捕捉されてしまっては、何らかの誤魔化しをしないと逃げきれない。
この辺には浮浪者もいないし、どうしたものか。
走りながら必死で考える。
「川でもないかな、匂いを誤魔化せる」
「泳いでいる所を奴らに狙い撃ちされるだけだ!」
「じゃあもう死体でも生ゴミでもいいから匂いのきついもの持ってこいよ!!」
「無茶言うな!!」
言い争いながら足を動かす。しかし背後の音は確実に近づいていた。
このままでは追いつかれる。
戦うか。いや、多勢に無勢だ。奴らには飛び道具まである。敵いっこない。
いっそのことバルダを転がして――――。
その時ふと、鼻腔をくすぐる匂いに気が付いた。
それは道を外れた先から漂ってくる。甘ったるい、腹の虫を刺激する匂いだ。
「バルダ、こっちだ!」
「よし!」
考える間もなく、二人は匂いの方向、藪の中を駆け進む。
先ほどまでの、土が踏み固められた正規の道ではなく、長らく人はおろか獣すら入っていないと思われる道なき道だ。
ほんの少し進んだ先は下り坂になっていて、二人は枝を折り小石につまずきながら転がるように駆け下り、終いには地面に身体を叩きつけられた。
一足早く落ちたリーフの隣でドスンと一際豪快な音が響く。
痛みに呻く暇もなく、頭上から憲兵たちの声が聞こえてきた。
「どこへ行った?」「道を逸れたぞ!」そんな声だ。
憲兵たちはリーフたちを見失っている。
隠れるなら今しかない。
「バルダ、入って!」
リーフは背中の透明マントを広げ、己とバルダを包み込んだ。
背中の痛さに呻いていたバルダはその意図を察し、慌てて口を塞ぐ。
二人、息をひそめてじっと石のように動かなくなった。
いよいよ鮮明に憲兵たちの声が聞こえてきた。
「こっちか? ……落ちたのか」
「匂いが辿れん。すももの臭いだ。この辺りは……あぁ、そうか」
憲兵の声音が変化した。
直前までの獲物を追う獰猛さは剥がれ落ち、今や憐れむ様な、それでいて堪えきれない愉悦が満ち満ちている。
「追う必要はない。ここは魔女テーガンの領地だ。――――どうせ死ぬ」
そう言ったのを皮切りに、憲兵たちは元来た道を引き返していく。
笑い合い、語り合いながらリーフたちの最後が見れないのを口々に惜しんでいた。
リーフは寝転んだ体勢のまま憲兵たちが過ぎ去るのをじっと待つ。
やがて気配が消え音も聞こえなくなった頃、ようやく二人は起き上がった。
「運が良かった……のか……?」
「…………」
バルダが安堵の息をこぼす横で、リーフはあまり身の無事を喜んでいなかった。
いや-な予感がしてならない。なんとなく、腰のベルトを手でまさぐった。
宝石はしっかりついている。
「……念のため、もうしばらくはここにいよう。ここなら臭いを誤魔化せるし、視界は藪で遮られている。戻って来ても見つかることはまずない」
「もう夜だよ」
「……野宿だな」
バルダはやおら起き上がった。
今まで寝っ転がってたおかげでその身体には泥がこびりついている。
見れば、リーフ自身も土ぼこりで汚れていた。
水浴びでもして綺麗になりたい気分だった。
「川はないかな」
「ないだろう。ここに来るまでもなかった。水音も聞こえん。近くにはないな」
リーフは思いっきり溜息を吐く。
憲兵に遭遇した時に分かっていたことだが、本当に運がない。
今日はこのまま夜を越すことになりそうだ。
「燃えそうな枝集めてくるよ」
「なら俺はこのモモが食べられるかどうか見ておこう」
「自分の口にねじこんで毒味かい?」
「動物が食った跡がないか見るだけだ」
それは残念。
リーフはそう言って茂みの中に入っていった。
バルダは暫しその後ろ姿を見送って近くの木を見る。
丁度、虫がモモを這っている。
少し様子を眺めていると虫は一口モモを齧った。
虫に変化はなく、何事もないまま食べ進んでいる。
食べられるモモだ。
これを食べればリーフも機嫌を直すだろう。
そう思って、いくつか小奇麗な物を摘む。
片手に持ちきれない程も摘んだころ、バルダの耳に微かに聞こえてきた。
消え入りそうな音量で「バルダー」と呼ぶ声が聞こえた。
紛れもなくリーフの声だ。何かあったのか。
バルダはモモを放り投げ、草木を掻き分けながら呼ぶ声の元へ走った。
ほんのわずか進んだところで、バルダはリーフの姿を見つける。
リーフは茂みに身を隠すようにしゃがみ込み、何かの様子をうかがっていた。
「リーフ……?」
「しー」
静かにと人差し指を立て、茂みの向こうを指さした。
目を凝らすとうっすら明かりが見える。信じられないことに家が一軒建っていた。
「こんな場所に家……?」
「怪しすぎると思うんだよね」
「ああ。しかし、隠れるには絶好の場所であることは確かだ」
「……行くの?」
「様子を見に、な」
「もう君一人で行きなよ」
「運が良ければ暖かい飯にありつける。風呂だって浴びれるぞ」
それを言われては弱い。
丁度今さっきまで望んで止まないものだった。
欲望にリーフは勝てない。
今までずっと運悪く来たのだから偶には幸運が舞い降りてくれてもいいじゃないかと、そう思った。
ゆっくりとバルダは歩を進める。
リーフも周囲を警戒しながら続いた。
音を立てないように慎重に歩く二人。
その足が、わずかに色の違う草を踏んだ――――はずだった。
「なに――――!?」
何かに足をとられた。
ずぶずぶと埋もれる感触。足元を見ればそこに固い地面はなく、まるで獲物を咥えて放さんと言わんばかりに沈み込んでいる。
色の違う草に見えたそれは、底なし沼だった。
やばいと二人は思った。
何たる不幸か、ほぼ同時に二人とも呑まれていた。
先を行っていたバルダはもちろん、周囲を警戒していたリーフも、よもや足元に罠が仕掛けられているとは思わず、何の警戒もなしに踏み抜いていた。
「しまった、底なし沼か!?」
「暴れたら余計沈むって? だったらもう手遅れだね!!」
既に二人とも腰まで呑まれ、何故か陸地は手が届かない距離にある。
この時点で行動の如何にかかわらず、二人の死はほぼ約束されたようなものだった。
それでも何とか生き残ろうと懸命に足掻くバルダ。だがやはりもがけばもがくほど沈んでしまう。
その横で万策尽きたことを承知したリーフは自棄になっていた。
――――このベルトが重いのか! ていうか全部これのせいだろう!
こんなことになった元凶、全ての原因であるデルトラのベルト。それを高々と掲げて振り回す。
これがあるからこんな目に遭っているのだと、最後の力を振り絞ってどっかあっちの方へぶん投げるつもりだった。
傍から見て、高々とベルトを掲げるその姿は「せめてベルトだけでも……!!」と抵抗しているようにも見える。
少なくともバルダはそう勘違いした。
「リーフ……!!」と感極まった声を漏らす。その時だった。
「るてっかかっひがかば!」
「ぞるつでみあ! みあだみあ!」
そんなことを言いながら、家から二人の老夫婦が大急ぎでやってきた。
うち一人が縄をもってリーフたちの方へ放り投げる。
目の前に落ちたそれにバルダが掴まり、「おい、置いてくなよ」とリーフはバルダのマントに掴まった。
老夫婦により、ゆっくりと家に向かって引き上げられる二人は、まるで釣り上げられた魚の様で酷く滑稽な姿であった。
沼を横断し岸に打ち上げられた二人は肩で息をしながらうずくまる。
バルダが荒い呼吸を整えながら礼を述べた。
「すまない。助かった。感謝する」
こいつこればかり言ってるなぁとリーフが横でぼんやり思い、言われた老夫婦はニコニコと無垢に笑いながら、口々に意味不明な単語を羅列する。
「だことおおおなうそまう。なだうそまうにかるはりよびちのちっそ」
「いいてっくがれおついこ?」
「なういかば! だんぶうとに。けといまもでにけたははびちのちっそ!」
「……言葉が分からんな」
「いや、でもなんか侮辱されてる気がする」
自分への悪口に敏感な辺りはさすがリーフと言う所である。
しかし、この時はあんなチンケな沼に嵌ったことで馬鹿にされているとしか思わなかった。
改めて見てみれば、毒々しい色の底なし沼。
普段なら絶対に近づきはしないだろうこれを、どうして見落としてしまったのか不思議でならない。
リーフは頭を捻った。
その間にも老夫婦は二人を家に案内しようとする。
相変わらず言葉は通じず、その表情は笑顔で塗りたくられているが、その笑顔に疑いの目を向けるのがリーフだ。
詐欺師は笑顔で近寄ってくると、経験から知っているからである。
「うおまちっくてせらむね、あさあさ」
「だんさんばたっまにちま、あやあや」
「うょりくょしのいかで」
「うょりひはびち」
「だうそちごのりぶしさひ」
まるで歌の様にそれぞれ言葉を発し家へと招く。
歩く動作一つとっても上機嫌その物で一定のリズムを刻んでいた。
その貼りつけられた笑顔の裏には、やはり何か邪悪な思惑がある様な気がしてならない。
あとやっぱり侮辱してる気がする。
「これは……歓迎されてるのか?」
「いやーな感じがするなあ……」
言いながら、満身創痍な二人は招かれるまま家へと足を踏み入れた。
清潔感溢れる室内。壁のどこを見ても染み一つなく、鍋やフライパンなどは照明が反射するほどピカピカに輝いている。
丁度夕食を作っている所だったのか、美味そうな匂いが腹の虫を刺激した。
「おおぉ……!!」
バルダは感激の声を漏らした。
対するリーフは――――。
「おおぉ……?」
染み一つない壁を見て、これはありえないだろと目を擦った。
瞬間、かすかに化けの皮が剥がれる。
――――あれ?
口にするのも憚れる汚部屋が見えた気がする。
腹を刺激する匂いも、その時ばかりは嗅ぎ慣れた死臭に変わっていた。
もう一回、目を擦る。
やはりほんの一瞬だけ汚部屋が見えた。
――――なんだこれ。
今度は逆の手で目を擦ってみた。
しかし何事も起こらない。
右手で擦った時だけ汚部屋が見える。
これは一体どうしたことだろうか。
ついに呪いでもかけられたのだろうか。リーフは頭を悩ませる。
そうしている間に、バルダは愛想よく老夫婦からスープの盛られた器を頂いていた。
老夫婦は頭を捻るリーフの眼前にもスープを置いていく。
何か言っていたようだが、やはり理解できない言葉に、リーフは反射的に微笑んでいた。
それは詐欺師顔負けの上手な笑顔だった。
老夫婦はその笑顔を見て、何か思う所があったのかすごすごと隣部屋に消えて行った。
スープからは食欲のそそる匂いが漂っている。
だがどうしてだろう。一向に手を付ける気にはなれない。
取りあえず、リーフは右手で目を擦ってみた。
一瞬だけ見えた真実の世界。
器に盛られたスープは、ギトギトしい色の植物と見たことの無い虫を煮込んだものだった。
リーフの食欲はナイアガラのごとく垂直落下する。
どうしてこんなものが見えるのか。
こんなことは初めてで、ということは原因は最近に限られるわけだが。
腕を組んで悩む。
最近……変化……旅……。
もうそこまで考えれば答えは一つだけだった。
デルトラのベルト、トパーズ。
十中八九これが原因で、リーフはデルトラの書の一節を思い出した。
『精神力を高め、真実を見抜く力を与える』
――――これだ!
気付いたリーフは自画自賛に手を叩いた。
「わかったぞバルダ!」とバルダを見る。
「リ……ィフ……」
だが時すでに遅く。
とっくにスープを口に含んでいたバルダは顔を真っ青にし、苦しそうな様子でリーフに助けを求めていた。
とりあえず、リーフはバルダの手を掴んで腰のトパーズに触らせる。
途端、真実を見たバルダ。直前に自分が飲んだスープを見て、胃の中身をその辺にぶちまけた。
倣ってリーフもトパーズに触れる。
瞬く間に幻想は掻き消え、曇り無き眼には真実が映された。
真実とは先ほどから一瞬だけ見えていた汚部屋。
老夫婦が消えた部屋からは刃物を研ぐ音が聞こえてきている。
「まだかな、まだかな? もう食べようよ。ねえ?」
「急ぐな、急ぐな。もう少し。あのチビは警戒していた。もう少し様子を見よう」
なるほど、そんなことを言っていたのか。
チビにチビと言われて、道理でイラッとしたわけだ。
「身体動くかい?」
「……動かん。情けない」
「いや、ほんとにね」
思えば、気づいて然るべきだった。
憲兵の言葉。不自然に引っ掛かった底なし沼。綺麗すぎる家。親切な老夫婦。
こんなのどこをどう見ても罠である。
気付かなかったのは、それも魔法のせいだろうか。
「さて、僕一人だけ無事なわけだから、とっとと逃げてもいいんだけど」
「……そうしろ。家の周りは沼が広がっている。どういう方法で渡るにしても、俺を担いでは渡れんだろう」
リーフは意外そうにバルダを見た。
バルダはてっきり、見捨てずに助けろとでも言うかと思ったのだが。
「……こんな見え透いた罠にあっさり引っ掛かるような奴は、例え助かってもこの先足手まといだ。ここらで死んだ方がまだましかもしれん」
バルダは言う。それを聞いたリーフは安心した。
いやに悟ってるなと思ったら、なんだ、またいつもの諦観か。
しかしそんなことを言われてしまっては、リーフとしても見捨てる選択を取らざるを得ない。
さよならバルダ。地獄でも達者で。
リーフは腰を浮かしかけた。
デルトラの未来は任せてくれ。
冥土の土産に、そんな心にもないことを言おうと口を開きかけていた。
――――コンコン
その全てを遮るように、窓を叩く音が聞こえる。
反射的にリーフは振り向いた。
黒い羽毛。鋭利な嘴。小さな体。
「カアー」
窓の外に、見覚えのある黒いカラスが一羽止まっていた。
「え……?」
呆けた声がリーフの口からこぼれた。
あれ……クリー? なんで君ここにいるの?
それから間を空けず、扉が開く。
室内に風が入り込んできて、髪がなびく。
リーフは眼を見開いた。
扉の向こう。
そこには少し前に別れ、もう二度と会うことはないだろうと思っていた女の子が立っていた。
「……え、なんでいるの?」
「…………」
彼女は無言のままリーフを見て、バルダを見て、最後に溜息を吐いた。
「……助けに来たわよ」
仏頂面で、不満そうに不服そうに、命の恩人ことジャスミンはただそれだけを言った。