4月28日
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マニラよりの方位225度、二十八浬の海面下に一隻の潜水艦が息を潜めていた。
「マニラとの距離は?」
伊162潜水艦の艦長 若島晴一(わかしま せいいち)少佐は航海長 宮地晃(みやじ あきら)大尉に聞いた。
「二十八浬です」
宮地は汗を拭いながら返答する。
台湾に展開している第十一航空艦隊、第八航空軍、第五飛行集団の三個航空部隊は、大本営の戦略方針に従い、ルソン島への航空攻撃を一切実施していない。
だが、偵察は攻撃と反比例するかのように活発に行われている。
連日、海南島や台湾からは九七式大艇などの長距離偵察機が発進し、南シナ海や東シナ海では多数の潜水艦が海中から深海棲艦の動向を探っている。
伊162潜水艦も、第二十九潜水戦隊の僚艦と共にマニラ偵察の任務をおびているのだ。
しかし、発進した偵察機はルソン島の手前で敵機の接触を受け、偵察目標となっているマニラどころか、クラーク・フィールド飛行場姫までたどり着けていない。
隠密行動を得意とする潜水艦にとっても同じだ。深海棲艦アジア艦隊が停泊していると思われるマニラ湾に接近しようとしても、イ級駆逐艦や甲型戦闘機が厳重警戒を敷いており、撃沈される可能性が高い。
事実、マニラに近づいた十隻以上の伊号潜水艦が消息を絶っているのだ。
「二十八か…近いな」
若島はぼそりと呟いた。
二十八浬はかなり近いと言って良い。今まで三十浬以内まで接近できた潜水艦はいない。いずれも撃沈されるか、偵察を断念している。
伊162は十日をかけて禁断の海域まで辿り着いたのだ。
「潜望鏡深度まで浮上しますか?」
宮地が聞いてくる。
現在、伊162は深度70mで慶弔状態にある。今、浮上して潜望鏡を覗いたら、正面にマニラのバタンガス半島やコレヒドール島などが見えるだろう。
若島は即答しなかった。
「水測、周辺に敵艦の推進音は聞こえるか?」
「いえ、何も聞こえません…。静かなものです」
水測室でヘッドホンを付けながら海中に耳を澄ましている水測員が返答する。
周辺にイ級駆逐艦はいないようだ。イ級から攻撃を受けて生還した潜水艦乗組員によると、爆雷のような物を搭載しているという。発見されたら、かなり厄介な敵である事は想像に難しくない。
「……よし、浮上しよう。宮地、メインタンクブロー、潜望鏡深度まで浮上!」
若島は数秒間考えた後、命令した。せっかく十日もかけて接近したのだ。敵の拠点があると思われているマニラを偵察し、少しでも味方に情報を送ろう。そう思ったのだ。
「メインタンクブロー、深度一〇に付け!」
宮地が発令所の伝声管に怒鳴り込み、伊162が浮上を開始する。
「五〇……三五……一〇……潜望鏡深度です!」
宮地が海面下十メートルに達した事を報告する。
「潜望鏡上げ!」
若島が言うと、瞬時に潜望鏡のアイピースがせり上がって来る。
今の時刻は午後13時40分、南洋であるこの海域では、痛いほどの日光が海面に照りつけているだろう。
そんなことを考えながら、左右の把手をつかみ、アイピースに両目を押し当てた…
「わッ!」
外部の様子が見えた途端、若島は頓狂な声をあげた。
レンズに、墨汁のような黒い液体がこびり付いているのだ。
潜望鏡に写っている、向こう側の景色の半分も見えない。
若島はアイピースから両目を離し、軍服の袖でレンズを拭いてから、再度覗いてみるが、視界は変わらない。
どうやら海面から突き出している方のレンズにこびり付いているようだ。出航直後に覗いた時はいつもと変わらなかったから、この海域で付いたのだろうか?
「どうかしましたか?」
宮地が聞いてくる。
「これを見てくれ……」
若島は宮地にアイピースを覗くように促した。
宮地は怪訝な顔でアイピースを覗くと、驚きの表情に変化する。
「なんですか?これ…」
「海から突き出してる方のレンズにこびり付いているようだ…」
宮地の問いに若島は即答した。
宮地もこの正体はわからないようだ。
(もしかしたか海水か?)
その時、一つの記憶が脳裏をよぎる。
確か、ハワイの偵察を行っている米海軍潜水艦部隊の報告書にも、同じような事が書いていた。
ハワイ諸島周辺の海域が真っ黒だ…という内容だ。
伊162の潜望鏡レンズにこびり付いている黒い液体は、ここ周辺の汚染された海水かもしれない。
「浮上だ…」
若島は宮地に言った。
「了解。メインタンクブロー、浮上せよ!」
宮地は、先と同じように伝声管に怒鳴り込むと、艦が浮上する。
直後、壁から滝のような音が響き、伊162は水上に踊り出した。
浮上した瞬間、素早く見張り員がハッチを開け、艦橋に上がって周囲を警戒する。
「全周360度、敵艦、敵機なし!」
見張り員長である長谷川道夫(はせがわ みちお)兵曹長が報告を上げ、若島と宮地は梯子を登って艦橋に上がった。
上がった瞬間、新鮮な美味しい空気にありつけると思ったが、強烈な生臭い匂いが鼻を突いた。
若島は周囲を見渡すと、「これが原因か…」と呟き、双眼鏡を握り締めた。
伊162周辺の海は、墨汁を垂らしたかのように真っ黒なのだ。
水面には、魚の死骸や、元がなんだったのか分からない肉塊まで漂っている。それらが生臭い匂いの元だろう。
「なんなんだこれ?」「汚染されてんのか?」といった声が、見張り員から聞こえてくる。
「深海棲艦と何か関係があるのでしょうか?」
宮地は若島に聞いた。
「多分、あるだろう……」
若島はそう言うと、長谷川を呼んだ。
「見張り長。海水のサンプルを採取せよ」
「了解」
長谷川は部下と共に艦橋から甲板に降り、斜め下げバックから試験管を取り出して、海水を採取する。
(これで深海棲艦の事が、少しは分かるかもしれないな…)
若島がそう思った時、見張りが悲鳴じみた声で報告した。
「右90度、敵機接近。高度二〇!(約二千メートル)数一、甲戦です!」
周辺を哨戒中だった甲型戦闘機が向かってきたのだ。恐らく発見されたであろう。
報告を聞くや、若島は今までにない程の大声で下令した。
「急速潜航、深度四〇に付け‼︎」
素早く見張り員がハッチに滑り込み、宮地も入る。
海水を採取しに、甲板に降りた長谷川と、もう一人の兵も全力で突っ走り、艦橋に上がってくる。
艦の左右から黒い海水が押し寄せ、伊162は潜航を開始する。
若島は、残った兵がいない事を確認してから、ハッチに滑り込んだ。
ハッチを閉じようと、把手に手を伸ばした時。伊162を横なぶりの衝撃が襲いかかり、盛大に左に傾いた。
おそらく、襲来した深海棲艦の甲型戦闘機が対潜爆弾を投下し、それが伊162の真横で炸裂したのだろう。
若島は生臭い海水をもろに浴びる事になってしまったが、ハッチを閉め、厳重にロックする。訓練で何百回と繰り返した動作だ。間違える事はない。
海水の音が、周囲を満たす。
敵機の攻撃はそれだけだった。伊162は深度四十メートルまで沈降する。
「深度四〇に到達……」
やがて、深度計を見ていた宮地が報告を上げた。
「沈降停止。機関停止。無音潜航……」
若島は、立て続けに三つの命令を出す。
若島の命令に従い、伊162は深度四十メートルの海中で停止した。
命令通り、皆が無音を保つべく一言も口を開かない。
今の攻撃だけで、深海棲艦が易々と逃してくれるとは思っていない。
多分、敵機の連絡を受け、駆逐艦が向かって来ているだろう。
「水測より発令所。推進音二、方位四十五度より接近。距離三〇」
伝声管から報告が上げられる。
「速さは?」
「あまり速くありません。二隻とも十ノット程度です…」
十ノットは時速18.5キロだがら、十分程でここに来る計算だ。
「発令所より全部署。音を立てるな…」
若島は命令した。
味方潜水艦からの情報によれば、深海棲艦の駆逐艦も人類の駆逐艦と同じく、海中の音を聞いて潜水艦を探知するようだ。
やがて、スクリューの海水を撹拌する音が聞こえてくる。
潜水艦乗りにとって、死神の足音に匹敵する凶々しい音だ。
もし、気付かれると爆雷という名の鎌が容赦なく魂を削りに来る。
(気付くな……気付くなよ……)
音がますます大きくなっていく。
「敵艦、本艦の直上……!」
水測員の切迫した声が響いた。
「来るか?……どうだ?」
若島は小声で呟く。
今にも水測員から「爆雷着水音、多数!」の報告が入るかもしれないのだ。
そして…。
「直上を通過しました……!」
水測員から報告が入る。
緊張の面持ちで、頭上を見上げていた兵や下士官達の表情が安堵した物となる。
「まだだ……」
若島は、右手の人差し指を口に当てながら言った。
二隻目がいる。
再び、スクリューの音が聞こえて来る。二隻目のイ級駆逐艦だ。
「こんな汚ねぇ海で海水浴はごめんですね」
宮地が薄く笑いながら言った。
こんな状態で軽口を叩けるとは、大した根性だ…若島はそう思いながら返答する。
「まったくだ……」
その時だった……。
カァン!
カァン………カァン………カァン………
伊162潜水艦の外郭を何かが叩いている。
「……‼︎」
直後、若島は声にならない叫びを上げた。
この耳をつんざく甲高い音。何度聞いても忘れようがない。
深信音だ。
(深海棲艦は音波探信機も持っているのか…‼︎)
ソナーには大きく分けて二種類ある。パッシブ・ソナーとアクティブ・ソナーだ。
パッシブ・ソナーは伊号潜水艦にも搭載されている機材で、聴音装置を使いながら海中や水上の敵を探知する。
アクティブ・ソナーは、自らが海中に超音波を発し、物体からの反射で、敵艦の方位や位置を探知する装置だ。
敵駆逐艦はアクティブ・ソナーで超音波を放っているのだ。
先の甲高い音は、伊162が敵の音波を跳ね返していた音だろう。
今頃、反射されて帰ってきた音波によって、伊162の位置を敵に探知されている事は確実だった。
「海上に動きです。一番艦反転、二番艦増速!急速接近!」
「ベント全開、メインタンク注水。海底まで潜れ!」
水測員の悲鳴染みた報告が耳に入るや、若島は大声で命令する。
「ベント全開、きゅーそく潜行おーー‼︎」
宮地が復唱し、艦が沈降を開始する。
アクティブ・ソナーから逃れる方法は一つしかない。
海底にくっ付き、息を潜めるのだ
潜水艦と海底が一体化すれば、アクティブ・ソナーは海底と伊162の判別ができずに失探する事になる。それに、海底の地形が入り組んでいると、ソナーから発射された超音波が乱反射し、伊162の探知は更に難しくなるのだ。
幸い、この海域の海底は入り組んだ凸凹の多い地形になっており、潜水艦が逃れるにはもってこいの場所だ。
伊162は沈降を続ける、深度百十メートルの海底を目指して。
「海面に着水音多数‼︎」
新たな報告が上げらる。
「来た……!」
若島は呻いた。深海棲艦が爆雷攻撃を開始したのだ。伊162潜水艦が海底に逃れると、探知が出来なくなる事を理解しているのかもしれない。
爆雷攻撃第一波は、伊162潜水艦の頭上で炸裂した。
頭をハンマーで一撃されるような衝撃が襲いかかり、炸裂音が海中を通じて艦内に轟く。
「第二機械室に軽微な浸水!」
伝声管を通じて報告が上げられる。
若島がそれに対して対処命令を出そうとした時、第二波が炸裂する。
一発が真横で炸裂し、他の爆雷は伊162より下の海中で炸裂した。
炸裂した瞬間、凄まじい衝撃が艦全体を貫き、伊162は横ロールする。下からも衝撃波が届き、艦が若干突き上がる。
艦の照明が点滅し、壁に張り巡らされているパイプの一部から海水が勢いよく噴き出す。
「宮地!海底まであと何メートルだ⁉︎」
若島は炸裂音に掻き消されないように大声で言った。
「現在、一〇〇!あと一〇メートルです‼︎」
それを聞いた直後、第三波爆雷攻撃が炸裂する。
周辺で一斉に炸裂し、伊162は無茶苦茶に翻弄される。
「よーし、いいタイミングだ!深海野郎!」
周りの兵や下士官は驚いた顔で若島を見た。
この状態で何が「いいタイミングだ」だ!この艦長は状況が見えていないのか⁉︎
誰もがこう思っていたに違いない。
だが、若島は今の状態を伊162乗組員の中で一番理解していた。
「最大戦速‼︎」
若島が宮地に命令すると、宮地は若島の考えがわかったのか、ニヤリと笑った。
スクリューの回転数が上がり、伊162潜水艦は海底を這うように進む。
現在、海中では、爆雷の炸裂で発生した泡と騒音でソナーが役に立たない。
若島はこの状況に紛れ、この海域を離脱しようとしているのだ。
第四波爆雷攻撃は来ない。
どうやら伊162は敵駆逐艦の目を欺き、離脱に成功したのかもしれない。
「速力、三ノットに減速」
数分進んだあと、若島は宮地に言った。
徐々に海中の状態がクリアになって来ている。
海底付近に来ているため、敵のアクティブ・ソナーは役に立たないが、パッシブ・ソナーに探知される可能性がある。
若島はその事を考慮したのだ。
イ級駆逐艦は伊162潜水艦を完全に見失ったらしい。
敵艦の攻撃は無かった。
若島や宮地などの乗組員は知る由もないが、この時、持ち帰った黒い海水のサンプルは、人類の来るべき大規模反攻作戦の成否を左右する
重要な情報となる……。
ルソン島のアメリカ極東軍への補給作戦開始までは、あと2〜3話挟みます。