1
第一艦隊はルソン島のよりの方位80度八百二十浬の海域(フィリピン海のほぼ中央)で、10月5日の夜明けを迎えた。
第一艦隊の針路は真東であり、正面の水平線に朝日が顔を覗かせ始める。
顔を出した太陽は、瞬く間に天空へと昇り、暗闇から紫紺へと空の色を変えてゆく。
赤道近くでの、特徴的な朝だ。
昼と夜の境目がとても短く、すぐに昼間のような暴力的なまでの日光が照りつけ始める。
「大和」に陣取る第一艦隊司令部は、すでに幕僚達全員が艦橋に集合しており、今日にも会敵するとされる敵太平洋艦隊に備えていた。
「全艦に通達。索敵機、発進せよ」
第一艦隊司令長官高須四郎(たかす しろう)中将がそう言ったのは、太陽が昇りきった、丁度その時だった。
通信長が素早く高須の言葉に反応し、艦橋の扉を勢いよく開け、通信室へ向かう。
やがて、高須の命令は「大和」の通信アンテナから各艦に飛んだ。
各艦は、夜通し水偵の準備を進めており、すでに射出できる状態にまでこぎ着けている。
そのため、命令が来てから実行されるまでの時間が短い。
数分後には、後方から射出音が響き、カタパルトから勢いよく飛び出した二機の零式水上偵察機が、「大和」を挟む形で左右から上昇していく。
「大和」の正面に位置する第七戦隊の「最上」「三隈」「熊野」「鈴谷」、後方の「長門」「陸奥」からも一、二機ずつの水偵が射出され、大空へ舞う。
索敵機を繰り出すのは、これら七隻だけではない。
「大和」を中心とする第一群の右後方を後続する、第二群の「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」「妙高」「羽黒」からも、ほぼ同数の零式水上偵察機、零式水上観測機が飛び立ち、第一群の左後方に位置している第三群の「飛龍」「蒼龍」「龍驤」「千代田」「五ヶ瀬」「天塩」からも、索敵機が勢いよく飛び立つ。
零観、零偵、九七艦上攻撃機、合計三十六機。
第一群を中心にして全周360度を10度間隔で区切り、そこに一機ずつの索敵機を割り当てるのだ。
射出された各偵察機は、素早く上昇し、自らに課せられた区画の方角へと向かって飛んでいく。
高須は、それを確認すると、「大和」の正面を見やり、次いで左右後方の第二、三群を見やった。
ーー現在、第一艦隊は三つの群に分かれて航行している。
自らが所属する第一群は、第一戦隊を中心に、第七戦隊、第三水雷戦隊で構成されており、第二群は第二戦隊の旧式戦艦四隻を中心に、第五戦隊、第四水雷戦隊にて構成されている。
以上の二個群が、第一艦隊の主力である。
通称「主力隊」だ。
第三群は、山口多聞(やまぐち たもん)少将率いる第二航空戦隊の空母三隻と、水上機母艦「千代田」、第八戦隊の軽巡二隻、三水戦・四水戦から分配された二個駆逐隊八隻からなっている。
戦艦同士の水上砲戦が生起した場合、第八戦隊の軽巡二隻は「主力隊」と合流する予定だが、その他は「主力隊」の遥か後方に占位し、主力を支援することが求められていた。
通称「航空隊」である。
いずれの群も、対潜用の第一警戒航行序列を形成している。
各群の駆逐艦部隊が、逆V字型に展開し、その後方に巡洋艦、戦艦、又は巡洋艦、空母が単縦陣で後続するのだ。
これらの周辺には、常時対潜装備の九七艦攻が厳重な警戒網を敷いている。
日本海軍には、苦い思い出があった。
四ヶ月前に生起した第二次ルソン島沖海戦の折、帰還途中の第二艦隊が、大規模な敵潜水艦部隊の襲撃を受けたことがある。
主力艦のほとんどが魚雷を喰らい、「高雄」が撃沈されるという大損害を受けてしまったのだ。
その戦訓に鑑みて、第一艦隊は決戦前に主力艦を戦列外に失うことがないように、対潜警戒を厳重にしていた。
「北方や南方はともかく、西方にまで索敵機を送り込む必要があったのか…甚だ疑問ですね」
放った三十六機の索敵機が水平線上に消えた頃、第一艦隊首席参謀の津ヶ原伊織(つがはら いおり)大佐が、ぼそりと言い、さらに言葉を続けた。
「敵艦隊の最終確認位置は、グアムよりの方位210度八十浬です。二日間の空白があるとは言っても、第一艦隊の後方、すなわち西に回り込んでいるとは考えにくいのですが…」
津ヶ原の発言に、第一艦隊参謀長小林謙五(こばやし けんご)大佐と航海参謀の東山吉武(ひがしやま よしたけ)中佐が反応する。
反応した、と言ってもピクリと片方の眉毛を動かすだけだった。
この二人は、10月4日の索敵計画を立てた張本人である。
索敵機が出撃した後なのに難癖をつける津ヶ原に、何か思うところがあったのかもしれない。
ーー第一艦隊が索敵機を放ったことからも分かるように、真珠湾を出撃した敵艦隊の詳細な位置は不明だ。
伊58号潜水艦が敵艦隊を追尾していたが、伊58潜水艦は10月3日に消息を絶っている。
よって、伊58から受けた最後の報告のグアム島よりの方位210度八十浬の最終確認位置を最後にして、敵艦隊の正確な位置は判明していない。
敵艦隊の西進阻止を目標とするだけに、正確な敵位置の確認はどうしても必要なことだった。
東山が反論する。
「敵艦隊の現在位置には、多数の可能性があります。敵艦隊の巡航速度が我々の予想よりも速かった場合、第一艦隊の西方に回り込んでいる可能性も捨てきれません」
それを聞いた津ヶ原は二、三頷き、東山に向かって言う。
「その理論に頷けるところは多々ある。しかし、だ。三十六機の索敵機をもってしても、全周に向けて放てば、索敵網が薄くなってしまうのではないかな?それでは発見できる敵も発見できなくなってしまうかもしれんぞ?」
東山に続いて、小林が津ヶ原に向けて発言する。
「そもそも、これは賭けのようなものだと思う。まだ見ぬ敵艦隊が東方にいるのなら、津ヶ原が言ったように、西に索敵機を送り込まないほうが結果的に良いのかもしれない…西に向かう索敵機を東に送り、索敵網を濃くしたほうが賢い選択だろう」
だが、と…小林は言葉を続けた。
「誰も『敵艦隊は西にはいない』と、断言できる人はいないし、逆説的に『敵艦隊は西にいる』と言える人もいない。そうなった場合、無難な全周索敵に徹する他ない」
「………」
痛いところを突かれたのか、津ヶ原は押し黙った。
若干の沈黙が、艦橋内に広がる。
それを破ったのは、高須だった。
「まだ賭けに負けたか勝ったかはわからん。今は、索敵機搭乗員を信じて報告を待とう。必ず敵艦隊を見つけてくれるはずさ」
2
軽巡「五ヶ瀬」から発進した零式水上偵察機二号機は、方位50度から60度の索敵区画を担当してる。
時刻は7時45分、「五ヶ瀬」を発進してから二時間近くが経過していた。
今のところは、平凡な飛行が続いている。
周囲には敵艦隊どころか、漁船一隻見当たらなかった。
右前方上方に太陽が見え、赤道近くの暴力的な太陽光が、コクピット内に差し込んでくる。
計器盤や風防が、強烈な日光に反射して照り輝いていた。
色付きの飛行眼鏡をつけていなかったら、目が眩んで索敵などできなかったであろう。
そう思わさせるほどの日差しの強さだった。
「阿久津、現在位置は?」
「五ヶ瀬」搭載水偵二号機の機長を務める矢次勝己(やつぎ かつみ)飛行兵曹長は、操縦桿を握りながら、後部座席に座る航法士の阿久津晋助(あくつ しんすけ)上等飛行兵曹に聞いた。
「第一艦隊よりの方位50度、二百三十浬です」
矢次の問いに、阿久津は淀みなく答える。
「五ヶ瀬」二号機は第一艦隊から二百五十浬の海域上空まで進出し、その後は百浬南下してから、方位60度線に沿って引き返す予定になっている。
針路変更まで二十浬。零式水上偵察機の巡航速度なら、三十分とせずに飛行できる距離だった。
矢次はそれを聞くと、すぐさま視線を周囲に移す。
天候はカラッと晴れており、雲量も少ない。
眼下にはどこまでも広い太平洋が広がっており、機体の八方に水平線を望むことができる。
航空偵察にはベストな状態だ。かなり遠くの艦も発見することができるであろう。
(わざわざ
矢次は、周囲の海面から目を逸らさずにそう思った。
第八戦隊第二小隊の「五ヶ瀬」「天塩」は利根型軽巡洋艦の三、四番艦であり、各六機ずつ、合計十二機の水上機を運用することが可能だ。
もともとは第二航空戦隊と同様、第一航空艦隊に配備される予定だったが、第一艦隊の索敵力を補うため、同艦隊に配備されたという経緯がある。
第一艦隊司令部。強いては、一航艦の護衛を減らしてまでそのような配置換えを決断した連合艦隊司令部の、期待を背負っているのだ。
日本の命運を決める海戦は、すでに火蓋を切っている。
その緊張感と使命感に身を包まれ、三人の水偵搭乗員は任務に当たっていた。
ーーー二十八分後。
「右前方、敵艦隊!」
電信員を務めている倉本譲(くらもと ゆずる)飛行兵曹が、緊張した声を上げた。
左手を見ていた矢次は、反射的に右前方を見やる。
「いやがった…」
敵艦隊の姿が目に映るや矢次の口からは、その言葉が漏れていた。
素早く左手で双眼鏡を握りしめ、右前方の敵艦隊へとその筒先を向ける。
二つの丸い視界の中に、十数倍に拡大された敵艦の姿が見え始めた。
矢次は筒先をゆっくりと後方にずらし、深海棲艦の大艦隊を観察する。
ーー敵艦隊の艦艇総数は、およそ四十。
戦艦と思われる大型艦八隻を中央に据え、中型艦、小型艦の単縦陣がその周辺を固めている。
数え切れない数の白い航跡が、東に伸びている。
極東を目指して、西進しているのだ。
「戦艦八、巡洋艦八、駆逐艦二十ってところですね」
阿久津は、そう当たりをつけたようだ。
「そうだな…もう少し詳しく言うと、戦艦八隻のうち六隻がル級で、残りの二隻がタ級、て感じか」
敵艦隊の大型艦八隻を観察したところ、三番艦から後ろの戦艦は三脚マストを据えており、三連装砲を前部と後部に二基ずつ背負式に搭載しているのがわかる。
間違いなく、深海棲艦の主力戦艦ーール級戦艦であろう。
だが、先頭の二隻は、ル級とは似ても似つかない艦影をしている。
全長はル級より長いのに、全幅は狭い。
三連装なのはル級と同じだが、前部に二基、後部に一基と三基九門しか主砲が搭載されていない。
なんと言っても、艦橋が深海棲艦艦艇を特徴づけていた三脚マストではなく、がっちりとして、なおかつ巨大な箱型艦橋に変化している。
人類の戦艦に例えるならば、英海軍のキング・ジョージ五世級戦艦に近いものを感じさせていた。
ーー6月24日のマニラ湾で初めて確認された、タ級戦艦である。
ル級と違って、人類が手合わせしたことがない艦種であり、まだまだその力は未知数だ。
火力は四十センチ砲九門を誇っており、こちらに「大和」がいるとは言え、油断ならない敵であることに変わりはない。
「倉本、司令部に打電。“ 我、敵艦隊発見ス。戦艦八、巡洋艦八、駆逐艦多数。戦艦ハ『タ級』二隻ヲ含ム。位置、〈ルソン島〉ヨリノ方位85度、八百浬。敵針路270度。
矢次は早口で言うと、操縦桿を右に倒した。
零式水偵が右に傾き、右前方に見えていた敵艦隊が正面に移動する。
「打電終了」
零式水偵が、敵駆逐艦の単縦陣上空に差し掛かった頃、倉本が打電終了の報告を上げた。
「これからどうします?」
阿久津が聞いてくる。
「もう少し進んでみよう。第一艦隊のように艦隊を分けてるかもしれないからな」
矢次は躊躇うことなくそう言った。
敵艦隊の上空を通過し、その先の海域へと向かう。
矢次は敵艦隊から対空射撃が来ると思っていたが、敵は撃ってこなかった。
たった一機の航空機など、放っておいても良いと判断したのだろうか?
(その考え方が、命取りだ。深海棲艦)
矢次は、眼下の敵艦隊にそう言葉を投げかけ、ニヤリと笑った。
今頃、先の電文は第一艦隊の各艦で受信され、素早く暗号解読が進められているはずだ。
暗号が解読され、敵艦隊の正確な位置が知れた暁には、第一艦隊の第一群と第二群は敵艦隊へと針路をとり、第三群の第二航空戦隊からは待機中の第一次攻撃隊が出撃するであろう。
索敵機に発見されてしまったことが、貴様らの敗北への第一歩だ。と、矢次は続けて思っていた。
敵艦隊が大規模であっても、零式水偵が上空を通過するのは早い。
すぐに敵艦隊は後方に過ぎ去り、薄っすらとしか見えなくなる。
さらに零式水偵は50度線に沿って進む。
十分ほど飛行した時だった。
後方の敵艦隊が水平線に消えた頃、矢次の目に「それ」は写った。
たくさんの筆で凪いだような、複数の白い航跡が東に伸びている。
第二の敵艦隊だ。
「正面、敵艦隊!」
矢次は、自分でも思うほど頓狂な声で、そう叫ぶ。
敵艦隊は一つだけではなかった。
第一艦隊と同じ様に、複数に分散させていたのだ。
「戦艦二隻を中心とする部隊のようですね」
阿久津が言った。
それを聞いた矢次は、先と同じように双眼鏡の筒先を新たな敵艦隊に向け、対象を凝視する。
「いや……違う」
「何がです?」
矢次の言葉に、阿久津は首をかしげた。
敵艦隊は、二隻の大型艦を中心に、輪形陣を形成している。
深海棲艦の大型艦といったら、ル級戦艦かタ級戦艦だ。
阿久津もそう考え、二隻の戦艦を中心としている、と言ったのだろう。
だが、二隻の大型艦は、ル級でもタ級でもなかった。
ル級戦艦に匹敵する巨体の上には、艦首から艦尾まで、まな板のような甲板が載っている。
その甲板の右側には、やや小さめの艦橋が据えられており、戦艦には到底見えない。
「敵空母だ!」
矢次は叫んだ。
(深海棲艦は、空母を保有しているのか!)
深海棲艦は、人類と酷似した海上兵力を多数有しており、「深海棲艦は空母も保有しているのではないか?」という憶測は、日本海軍内部や米海軍内部で囁かれていた。
だが、敵空母との交戦記録は無く、目撃情報もない。
従って敵航空兵力は、飛行場姫のみと判断されており、深海棲艦は空母を保有していない、というのが通例となっていた。
しかし、今日、その通例は覆されることとなる。
矢次、阿久津、倉本の三人は、人類で初めて深海棲艦の空母を目撃した張本人となったのだ。
「左正横、敵機!」
阿久津が悲鳴染みた声で報告する。
矢次は、反射的に操縦桿を左に倒した。
零式水偵が大きく横転し、左に旋回しつつ降下を始める。
刹那、奔流のような多数の射弾が、矢次の頭上を左から右に通過し、自らが発した弾丸を追うように、二機の敵機が続く。
「倉本!司令部に打電だ!」
敵機が頭上を風を巻きながら通過した直後、矢次は怒鳴った。
戦艦八隻を中心とする敵艦隊を発見した際、敵機は現れなかったが、今回は二機の敵機が現れた。
それを鑑みても、眼下の大型艦二隻が航空機運用能力を有しているのは間違いない。
航空機が戦艦を撃沈した事例はまだないが、第一艦隊が敵航空部隊の先制攻撃を受けた場合、戦艦だろうと致命傷を受ける可能性がある。
それを阻止するためにも、深海棲艦の空母機動部隊の出現を司令部に伝えなければならない。
攻撃をかけてくる敵機ーー甲型戦闘機ーーは二機だけではなかった。
新たに、四機の甲戦が上昇してくる。
計六機、一機の偵察機に対しては過剰な数だ。
敵機動部隊は、自らの位置をなんとしてでも知られたくないらしい。
上昇中の四機と、降下しながら相対する。
左前方に一機、右前方に三機の甲戦が見え、右前方のほうが近い。
矢次は敵機の進路を見極め、操縦桿を倒すべき瞬間を待つ。
「今だ!」
と、短く発した矢次は、操縦桿を無造作に右に倒す。
次の瞬間、右前方から接近していた甲戦の機首に真っ赤な発射炎が閃らめき、驟雨のような多数の弾丸が突き上がって来た。
放たれた計三条の火箭は、零式水偵の左主翼をかすめ、後方に消える。
風防が、敵弾に反射してオレンジ色の染まった。
敵弾はかわしたが、安心するのも束の間、三機の甲戦と、ぶつかりそうになりながらも、高速ですれ違う。
左前方から向かって来た甲戦にも、同様に対応した。
機体を捻り、紙一重の距離で射弾に空を切らせる。
零式水偵の直下を、機銃を乱射させながら甲戦が通過した。
次の刹那、矢次はバックミラーを見ながら、操縦桿を力一杯手前に引く。
正面に見えていた海面が視界の外に吹っ飛び、水平飛行に移行した。
バックミラーには、初撃を加えてきた二機の甲戦と、たった今すれ違った四機の甲戦が反転しようとしているのが見える。
二機との距離が近い。すぐに発砲してくるだろう。
矢次がスロットルを絞って操縦桿を奥に倒すのと、先頭の二機が発砲するのは、ほぼ同時だった。
速度を大幅に落とし、お辞儀をするように機首を下げた零式水偵の正面を二条の火箭が通過する。
一拍の差を開けて、二機の甲戦が頭上を後ろから前へと向かう。
今回の攻撃も、間一髪でかわしたのだ。
だが、これがいつまでも続くとは思えない。
早く司令部に敵機動部隊の情報を伝えなければならなかった。
「まだか、打電は⁈」
矢次が大声で聞いた直後、反転を終えた四機の甲戦が、零式水偵との距離を詰め、射弾を放つ。
矢次は操縦桿を倒して回避を試みるが、五、六発が命中してしまったようだ。
後方から、複数の打撃音が届く。
「阿久津、倉本、無事か!」
矢次が、二人の無事を確認するため、風切り音に負けないような大声で聞く。
「阿久津、無事です!」
「負傷してませんが、通信機破損!」
倉本の返答を聞いて、矢次は絶句した。
通信機が破壊されてしまったら、味方艦隊に敵情を伝えることができない。
矢次の零式水偵は、味方への連絡手段を封じられてしまったのだ。
「くそ!」
矢次は罵声を発した。
このままでは、第一艦隊は敵艦隊が一隊しかないと思った状態で戦いに挑むであろう。
その時に空母に横を突かれては、第一艦隊といえ無傷では済まない。
しかし、零式水偵はその事実を味方に伝えられない。
「いや。まだだ!」
矢次は自らに言い聞かせるように叫んだ。
敵機を振り切り、艦隊に帰投してから直接伝えればいい。
まだ、諦めるつもりはなかった。
今度は、正面から三機、右前方から三機が接近して来る。
こっちも必死だが、敵も必死だ。
零式水偵を何としても撃墜する、という執念を感じさせる。
「来やがれ!」
矢次が挑発するように叫んだ刹那、六機の甲戦が一斉に発砲した。
ぶちまけたような数の敵弾が急速に迫まる。
矢次は、左フットバーを踏み込み、操縦桿を荒々しく左に倒した。
零式水偵がくるりと左に横転し、機体が左に滑る。
大半の敵弾が胴体や翼の脇を通過して逸れるが、数発がまとまって命中し、機体が大きく揺らいだ。
矢次の直下から何かがねじれる異音が響き、二発の敵弾が風防を叩き割る。
けたたましい破壊音がコクピット内にこだまし、右中央のガラスが粉々に吹き飛んだ。
無数のガラス片が宙を舞い、空いた穴から風が入り込んでくる。
矢次は、すぐに自らの身体を確認した。
幸い、怪我はない。
衝撃でぶつけたのか、身体のところどころが痛いが、操縦に問題はなかった。
だが、後ろを振り向くと、風防の内側にべっとりと大量の血がこびり付いており、阿久津が頭から血を流しながらぐったりとしている。
目が虚ろで、チャートを握っていた右手は力なく垂れ下がっていた。
「阿久津!」
矢次は叫んだが、阿久津は反応しない。
倉本からも反応がない。
「阿久津!倉本!」
帰ってくるのは、無言。
二人の水偵乗りは、敵弾を頭部に喰らい、即死してしまったのかもしれなかった。
更に、零式水偵の安定性が著しく落ちていることに気がつく。
操縦桿を動かしていないのに、機体は右へ左へとぎこちなく動き、心なしか高度が下がっていた。
矢次が、首を突き出して機体下部を見てみると、二つあるはずのフロートが一つしか接合していなかった。
先の被弾時の、何かがねじれるような異音は、フロートがちぎり飛ばされた音だったのかもしれない。
これで、矢次は敗北を悟った。
フロートは機体のバランスを取っていると共に、大量の燃料を搭載してある。
索敵ラインぎりぎりまで進出した零式水偵にとって、フロートの喪失は燃料不足による帰還不能を意味していた。
不安定な状態の零式水偵を見て、好機だと思ったのか一機の甲戦が接近し、とどめと言える一連射を放つ。
放たれた射弾は、零式水偵の右主翼を叩き割り、エンジンを粉砕した。
機体がこれまで以上に振動し、エンジンが真っ黒な煙を吐き出し始める。
「畜生…畜生…畜生…畜生!」
操縦不能に陥り、錐揉み状態で海面を目指す零式水偵のコクピット内で、矢次の胸中では、凄まじい悔しさを湧き出させていた。
噛んでいた下唇から血が漏れ、顎を濡らす。
だが、そんなことはどうでもよかった。
深海棲艦の空母機動部隊を発見しながら、味方に伝えられない。という事実が、途方もなく悔しかったのだ。
やがて、視界一杯に海面が広がりはじめる
矢次が目を見開いた瞬間、凄まじい衝撃が襲いかかり、零式水偵の機体は、木っ端微塵に破壊されていた。
次回は航空戦です!
PS.高校生活大変だ…。