薄暗がりであるのは雲が月を隠していることが理由だった。太陽がすっかりと地平線に潜ってから夜の明かりは
一週間前に起こった王都での騒動は警備を強固なものと変えた。喋る一羽の鳥に王都中が右往左往したことは記憶に新しい。あんなことはリ・エスティーゼ王国兵士として二度とあってなるものかと、普段さぼりがちな見回りもまじめに行うようになった。それゆえに一人の不審人物が捕えられたのは当然であった。
ロ・レンテ城の兵士の駐屯所。その地下には犯罪者が囚われる牢獄がある。牢獄は一本の通路の両側にそれぞれ向い合せになるように設置されている。
夜通し監視のための兵士が出入り口にいるのだが地下牢の明かりは当然コストの安い蝋燭の光である為にその奥まで見張ることはない。気流の揺らめきで敏感に揺れる光は多くのうす暗がりを生み出す。
光が揺れると影も揺れる。ゆらゆらと不定の形状を地面に投影する。
ぐちゅりという粘着質の音が地下で鳴った。あまり大きい音ではなかったが、その音の発生源に近くではやけに大きく聞こえた。一番奥の牢獄である。その隣の牢にいた囚人は寝付けずにいたためにその音を明確に聞いてしまった。
不審に思った囚人は鉄格子に顔を近づける。よく見えないが、通路の近くに寄ったことで気が付いたことがあった。水だ。地下牢の中央を通っている通路に水があった。それは徐々にその範囲を広げているようでやがて囚人の足元にも届いた。
好奇心からその水を指先で掬い、一舐めしてみる。しょっぱい。しかしそれ以上にもっと飲みたいと思った。
地下牢の土まで舐めとってしまっていることも気付かずに囚人は一心不乱に水を舐め続ける。
そんな囚人を覆い隠すような影が横ぎった。床を舐め続ける囚人は気づくことはなかったがその向かい側の囚人はその影に気が付いた。
びちゃりびちゃりと水の音を鳴らしながら目の前を歩く影。ふと顔を上げるとそこにはこの世のものとは思わざる異形の怪物がいた。
彼は一目見た光景を信じることができずにずっと見ていた。その瞬間。怪物と目があった。数秒もなかったはずだが、彼にはそれが無限にも思えた。その中で彼がとることのできた行動は無言を貫き注目されないようにするということだけである。声を出して気を引かないように。目をつけられないように。まるでギガントバジリスクの石化をくらってしまったかのごとく動かなくなった彼はこの日から言葉を話すことができなくなった。
同じようにこの光景を見てしまった囚人がいた。彼の行動はいたってシンプルである。見ないように、聞かないようにガタガタと震えながら縮こまっていたのである。しかし耳をふさいでいてもあの粘着質な音が。水辺を歩くような足音が聞こえてくる。耳の中に音が住み着いてしまったかのような地獄が絶えることはない。
やがて音の発信源は出入り口へと至った。小さく何事かの言葉をつぶやくとゆらりと煙のように消える。そのまま音の行方は分からなくなった。
地下牢で音が消えてから一時間ほど後。宝物庫の警備を担当していた兵士は不審な物音に気が付いた。
それは宝物庫の中から聞こえてくる。大きな音こそたっていないものの、小さいがさごそという物音がする。ネズミか何かかとも思った兵士たちであったがその予想は崩れ去った。
「――なんだ、ゴミアイテムか」
確かに人の声がした。
「おい」
「あ、ああ。俺にも聞こえた。人の声がしたよな?」
宝物庫の扉の前に立っていた二人の兵士は顔を見合わせる。ゴクリと生唾を飲み込み、一人は槍を構えてもう一人は燭台を持ちながらゆっくりと扉を開ける。
廊下の明かりと燭台の明かりが室内に光をもたらした。ゆらりと揺れる炎によって見通しが悪いものの視認には十分である。
がさりとまた音が鳴る。勢いよく振り返る。ゆっくり歩いていくとそこには何かがあるわけでもない。
宝物庫は出入り口が一つしかない。完全な密室である。だからこそ一人の兵士が槍を構えて扉の前で待ち、もう一人が蝋燭片手に確認を取っているのである。だから、槍を持った兵士は気が付く。おかしい。
目の前の光景に違和感を抱く。何がおかしいかまではわからないものの、変なのだ。あるべきものがないというか、あらざるものがあるというか。
よく目を凝らすと気が付いた。影だ。炎のゆらめきに対応する影のゆらめきが変なのだ。
目の前の影もその変な影の一つだ。それを槍でつついてみる。
感触がない。槍はどこまでも吸い込まれていき、やがて自分もその闇の中へと吸い込まれそうになる直前に肩を強く引き戻された。
「おい! おい何やってんだ!」
燭台を持った男が傍らにいた。なぜ邪魔するのだろうと男は思った。自分はこの闇の中こそが居場所であるはずなのになぜ彼はその邪魔をするのだろう。
敵だからだ。きっと彼が自分の敵であるからそういうことをするのだ。
なぜ持っているかは分からないが自分の手には刺殺に役立ちそうな槍がある。
ずぶりという感触は闇の中へと槍を突き入れたときに似ていた。燭台を持った敵の喉元に槍を突き入れるとあっけなく男は倒れた。何かを言いたげだが槍によって喉がつぶれているためか言葉を発することはない。男は笑った。これで邪魔をするものはない。そしていいことが分かった。
闇は敵の体の中にある。あの槍を突き入れる感覚。あれこそが自身の居場所である。
兵士だった男は槍を片手にフラフラと歩いていく。狩人のように無感情に人を殺す彼は朝までに三十一人の兵士を殺害した。
ラナーはパチリと唐突に目を開いた。そのまま体を起こす。
部屋を見渡すが何もいない。天井裏かと思い部屋の中をぐるりと歩き回ってみるが何かが動き回るような音も聞こえない。首をひねる。自分がこんな夜更けに勝手に目が覚めるなんてのは刺客や侵入者がある時くらいである。しかし何もいない。おかしいと思いカーテンを開けてみる。空はまだ曇っていた。明かりは自分で用意するしかなさそうである。
部屋に置いてあるランプをつける。暗闇は幾分かその面積を減らしたが何者もそこにはいなかった。
念のために衣装ダンスやベッドの下、机の下なども確認してみるが何もいない。
気のせいかとラナーは嘆息してランプの明かりを消す。そのままカーテンも閉じようとしたところ、おかしなことに気が付く。窓から差し込む明り。きっと雲が晴れたのだろう。その月明かりが一つの影を生み出していた。
先ほどまで何もなかったはずだがと影の元をたどっていくと床が水浸しであることに気が付いた。
長靴のような分厚い靴。ズボンも同じように分厚く、羽織っているジャケットは限界まで水を吸っているようでぽたぽたと裾から水が垂れ落ちている。
袖から除く手はおおよそ人のものではない細長い鉤爪のような形をしており、何よりも目を引くのはその顔である。
細長いいくつもの吸盤のついた触手がぐねりぐねりとそれぞれに意思があるように動き犇めいている。その奥の瞳を見たときラナーは理解した。
これは、この存在はまずい。こいつが少しの気まぐれを起こしただけで自分の命は蝋燭の灯より簡単に消えることだろう。その上、自分について何か思っている様子でもない。自分はこいつにとってみれば家具と同じような存在なのだろう。
「んん~? おかしいなぁ」
怪物が声を出す。それだけで心臓が止まりそうだった。一瞬のうちにいくつもの思い出がよぎる。ほとんどがクライムのことだがその中で今の状況に役立ちそうな情報が唯一あった。ラキュースとクライムが話している時の記憶である。対処しようのない敵に出会った時にどうするかという話だったと記憶している。
目を合わせて。ゆっくりと下がる――。
「ああ、おいそこの女」
目を合わせれば当然話しかけられる。そんなことも普段であればわかるようなことであるはずだが今は唯一垂れ下がってきた蜘蛛の糸に縋り、見事に落ちた。
「この部屋に黄金とかいうのがあるらしいんだが、知らないか?」
生き残るためにはなんと返答すべきだろうか。ラナーの優れた頭脳は現状について冷静にそろばんをはじいた。この怪物は幸いにして自分を殺そうとしてやってきたわけではなさそうだ。黄金を求めてやってきたとすれば金品であろうか。まさか自分の呼び名である“黄金”を勘違いしたわけではあるまい。
「え、ええ、黄金でしたらこの部屋ではなく宝物庫にあると思うのですが」
怪物はその顔をゆがませてため息をつきながら口を開いた。機嫌を損ねてしまったかと身を固くする。
「宝物庫は五宝物とかいうのを頂戴しに行ったがとんだゴミアイテムと粗悪な装飾品しかなかったぞ?
ああ、そうだ。ついでに五宝物とかいうのについても教えてくれよ。あんたこの城に住んでるってことは偉いんだろ?」
ラナーは怪物が話しているうちにいくつかのことに気が付く。まずこいつはそこまで気性が荒いというわけではない。そしてその上で自分たちとは倫理観が異なる。また、尺度が違う。
宝物庫にあるものは他国からの贈り物や歴代の王が集めた高価なものばかりだ。五宝物もそこに安置されている。そこにすでに行き、そして先程のような評価であるということはこの怪物はあれらのものでは当然ながら満足しないということだ。
ラナーは床に膝をついて首を垂れる。
「申し訳ございません。この城には宝物庫にある以上の金銭的価値のあるものはございません」
頭を下げながらラナーはどうか怪物が愛想を尽かせて去ってくれることを祈った。怪物から広がる水たまりは自分の膝元まで広がってきていることがわかる。現実感のない現在のこの状況を水の冷たさが現実であると教えてくれる。
怪物がうなる音が聞こえた。そのまま水たまりの波紋から怪物が動いたことがわかる。明確な死がどうにか動いた。そのことに恐怖を感じるがこの場に自分を助けるような存在はいない。
そう思っていた。しかし現実は違った。
「あの、姫様よろしいですか」
扉がノックされる。勢いよく振り返る。まさか、なぜ。
いくつもの思考が入り乱れていったが結論はいたって簡単でなんとかクライムを部屋に入れないようにするということだけだった。思考の端々ではノックしないように言いつけたのに何でノックしてるのという現状にそぐわないものまである。
「どうかしたのか?」
怪物が聞いてくる。今のノックが聞こえていないのだろうか。聞こえたうえでこちらを嬲る意図で聞いているのかもしれない。
怪物に向き直る。怪物の異形の表情から感情を読み解くことはできないが相変わらずこちらのことを何とも思っていない無感情だけは感じ取ることができた。
「い、いえ、その、何でもありません」
「姫様? 寝ていらっしゃるのですか? このような時間に申し訳ございません」
未だにドアはノックされ続けている。怪物はそれを聞こえないふりをしているようで、水たまりの中を歩きながら窓へと向かっていった。
「宝物庫にあるものがこの城の宝のすべて……じゃあ特に欲しいものもないし帰るとするか……」
怪物の発言は心の底から安心できるものだった。願わくば、クライムが入ってくるまでに何とかこの怪物にはお帰り願いたいものである。
その時、怪物の影が消えた。月が雲で隠れたようだった。それと同時に水たまりも消え、怪物のいたところには一人の人が立っていた。
服装は特に変わらない。変化したのは体つきのみ。しかしその目は全く変わっていない。油断ならない怪物であるのだ。
「うん? ああ、姿が変わったから驚いているのか。月の光は本当の姿を暴く。死者は骨になるし人はタコになる。月光によって俺の擬態は無効化されてしまうんだ」
お分かり? と語る怪物はどう見ても人間以外には見えなかった。
「そんじゃま、これ以上居たって仕方ないし、とっとと退散するかな」
そう言って窓枠から身を乗り出し、背中から蝙蝠のような翼をはやして飛び立っていった。
怪物が完全に見えなくなると床にへたり込む。何故あんな理不尽な存在がこの城の自分の部屋に来たのだというやるせない怒りがわく。
理不尽を嘆くがそれ以上に対処しなくてはならないことがある。扉の前にいるであろうクライムのことである。
どうしようかと考える。怖い夢を見たといって抱き着いてあたふたする姿を見てもいいかもしれないし、一緒に寝ようといって甘えるのもいいかもしれない。
「まったくもう、どうしたんですかこんな時間に」
クライムの求めるお姫様の演技をして扉を開ける。先ほどまでの恐怖によって少しのぎこちなさが混ざるが彼なら気づかないことだろう。
「……クライム?」
扉を開けるも返事がない。おかしいなと思いながら廊下を見る。誰もいない。変だ。先ほどまでクライムがノックしていたはず。
彼に限ってこんな悪戯をするとも思えない。ノックした後に急な用事か何かでどこかへ行ったのだろうとあたりをつける。
これは今度会ったときに文句を言わなくてはならないなと考えて、この日の夜は眠りについた。
本当は、気が付いていたのだ。その真実に。
「まったく、クライムったらひどいんだから」
次の日に頬を膨らませながら可愛く怒る。クライムはあたふたとした様子で自分をなだめる。ああ、この平穏な光景を彼と二人でずっと過ごしたいと思いながら昨日の夜のことについて言う。
「え? 昨日の夜……ですか?」
クライムは不思議そうな顔をする。予想とはずいぶん違う反応だ。謝罪のために慌てふためくと考えていたのだが、そうではないようである。
「ええ、扉をノックして、寝ているんですかとかなんとかって言っていたでしょう?」
「……姫様、その、自分は昨日の夜兵舎から外に出ておりません」
「……本当?」
クライムは疑問を抱くように首をかしげながら続けていう。
「ええ。きっと夢でも見たんでしょう」
そういったクライムを見ているとなんだか昨日の夜の出来事が想起される。月の光によって暴かれる真の姿。もしかするとクライムも……。
「ねぇクライム。あなたは人間?」
「? ええ、そうですけど……」
「……ごめんなさいね。まだちょっと寝ぼけているようで」
クライムは変わらないように見える。しかしそれ以外はわからない。もしかするといつもいるあのメイドも、庭師も、父でさえ人に化けた怪物である可能性があるのだ。
本当に、夢だったらよかったのに。ラナーは窓枠についた泥を見て心の中でそう思った。
無駄な設定
地下牢誕生
・兵士が駐屯する場所があるんなら当然犯罪者とかもそこで面倒見るだろう
・でも実際兵士の訓練場とか王城の中にあるわけだけど王族が住む場所の近くに普通に犯罪者置くか?
・まあ地下に埋めとけばいいだろ
不定の狂気
・偏執症
・失語症
・幻聴
・殺人癖
・妄想
ラナーさんはダイスロールで激烈に運が悪かったら沙耶の唄状態にする予定だった