暑い真夏の昼下がり、俺と青葉は散歩にでかけた。
別になんということはない、とある日のできごと。
「ふう……今日も暑いなぁ」
「そうね。でもここらは木陰が多いからまだ涼しいわね」
「確かに……。まあ、この辺一帯は都会に比べれば、ヒートアイランド現象がないだけまだマシだしな」
「ところで、目的地はまだなの?」
「ああ、聞いた話によるとそろそろ……ああ、きっとあそこだ」
◇ ◇ ◇
「散歩?」
「ああ。偶には二人で散歩も悪くないだろ?」
今の季節は夏真っ盛り。
毎日太陽はとても元気で、地球の地表と大気の温度をガンガン上昇させている。
そんな真夏のある日の事、農作業を終えた昼過ぎに俺は青葉を散歩に誘ってみた。
普段は家事の為にどうしても家の中に籠りがちな青葉に、ちょっとした気分転換の為の提案だった。
「そうね。偶には二人でぶらりと歩くのも悪くないわね」
軟らかく微笑みながらそう答える青葉。彼女もなかなか乗り気の様子。
「ああ。それで今日はちょっと足を延ばしてみようと思うんだが……どうだろうか?」
「あら、私の旦那様はどこへエスコートして下さるつもりなのかしら?」
「この間、農作業の合間に佐々木さんとこの爺さんから聞いたんだが、山の方にちょっとした穴場があるらしいんだ。だからそこまで行ってみようと思う」
「山の方へ行くの? だったら、和服じゃ拙いかしら?」
この田舎に引っ越して来て以来、相変わらず青葉は和服でいる事の方が多い。
「そうだな。もう少し動き易い服の方がいいんじゃないか?」
「そうね。じゃあ、ちょっと着替えてくるから少し待っていて」
「了解だ。別に慌てなくてもいいぞ」
なんて会話を交わした後、Tシャツにジーンズという身軽な服装に着替えた青葉──Tシャツとジーンズという見慣れない格好の青葉に少々見とれてしまったのはここだけの秘密──と一緒に、町の中を通り抜け山の方へ歩いて行く。
山の裾に辿り着いたら、そのまま道なりにしばらく歩くと、小さな川に出くわす。そして今度はその川に沿って走っている小径を山の中に向かって歩く。
ここまでの所要時間はざっと20分ぐらい。さすがにこの辺りでは山だの川だのといった自然には事欠かない。都会で20分歩いたぐらいでは、せいぜい児童公園ぐらいにしか辿り着けないだろう。
川──というより最早これは沢だろうか?──沿いの少々傾斜した小径を登って行く。
さほど標高が高い訳でもないが、木陰と沢を通り抜ける風は程よく冷やされていて気持ちいい。
それでも真夏の昼間の事、歩いていればどうしても汗は吹き出してくる。
ふと隣を歩く青葉を見やると、どういう訳か彼女は汗をかいていない。
そう言えばかつての高屋敷家でも、青葉が汗をかいている所をほとんど見たことが無かった。
当時はこいつの血管には血の替わりに冷水が流れているんじゃないか、と半ば本気で考えた事もあったっけか。
「どうかして? 司」
「ああ、いや、青葉はあまり汗をかかないなと思ってな。そういえば、青葉は男の汗が苦手じゃなかったか?」
確かに、以前の高屋敷家でそんなやり取りをした覚えがある。
「ええ。確かに今でも男の汗は苦手ね」
「そうか……じゃあ少し離れて歩こうか?」
「その必要はありません」
「えっ? だって……」
「あなたは私の夫。私にとってあなたは、そこら辺に棲息している塵芥に等しい有象無象の男どもとはかけ離れた存在なの。それに以前に言わなかったかしら? 私はあなたの全てを愛すると。司の汗なら私は嫌じゃないわ。だから司。あなたは私の隣を歩きなさい」
「……あー、その……、なんだ……」
青葉のあまりにも直球な言葉に、思わず赤面してしまう。
いくら周りに人が居ないとはいえ、こうもきっぱりと断言されると照れる。
そして照れ臭さから顔を逸らしている俺に、青葉は尚も追い打ちをかける。
「……ふふ。それに司の汗がだめなのなら、あんな事できないでしょう?」
「へ?」
「毎晩のように閨の中で二人で汗まみれになってるじゃない?」
「がああああぁぁぁっ!」
吠えた。もう思わず所かまわず吠えた。山に向かって力一杯。
更に赤面しながら吠えている俺を見て、青葉は楽しそうに笑っていた。
◇ ◇ ◇
それは景観だった。
山道を歩くこと約15分。それはいきなり俺たちの目に飛び込んできた。
俺たちが辿ってきた山道にそって流れていた川。その上流には一つの滝があった。
もちろん、滝といってもそんなに大きなものではなく、精々落差2メートルちょっとといったところだろうか。角度も真下に落ちるようなものではなく、岩盤にそって流れるように落ちる滝だった。
だが、周りの山の木々、滝を囲む岩々、そして長い年月を掛けて水の落差に削り取られてできたのであろう、滝の真下の深く透明な水を湛えた淵。
それらをすべて絶妙に配置する事で、壮麗な景色が出来上がっていた。
滝の近くは河原も広く、まるで山中に突然現れた別空間のようだ。
「これは……なんというか……すごいな」
「ええ。静かだけど、何か力のようなものを感じるわ」
「こういうのを大自然の驚異と言うんだろうな……」
山道から河原に降りる小径があったので、降りて淵の傍まで近づいてみる。
淵の水深はかなり深そうだ。水中に目を凝らしてみると、大小沢山の魚が泳いでいるのが見えた。
「うーむ……これだけの深さと広さがあれば、大人でも泳げるよなあ。しまった、水着を持ってくれば良かった」
炎天下を1時間近く歩いて来た俺にとって、この淵で泳ぐという案はとても魅力的な誘惑だった。
そもそもここに来た理由は、近隣農家の佐々木さん(齢73歳でまだまだ現役で農作業をしている元気な爺さん)に、この滝の存在を聞いたからだった。
だが、大人が泳げるほどの淵があるとは想像もしていなかった為、水着の準備を怠ったのだ。
そんな後悔に苛まれている俺に、青葉はさらりと言ってくれた。
「いいわね。泳ぎましょう」
「おいおい、泳ぐって言っても、水着を持ってきてないだろ?」
それとも、こうなるを見越して青葉は水着を持参して来ているとか? いや、見た限り青葉はそんな荷物を持っていない。
では、あのTシャツとジーンズの下に水着を着込んでいるのだろうか?
「あら、水着なんか無くても裸で泳げばいいじゃない」
……………………はい?
今、我が奥方は何と仰しゃいましたでしょうか?
「水着なんか無くても誰も見てないわよ。そうね、もし見ているとしたら山の鳥たちか川の中の魚ぐらいなものよ」
そう言うが早いか、青葉はさっさと着ているTシャツに手を掛ける。
そしてTシャツを脱ぎ捨てた青葉は、今度はジーンズを何の躊躇いもなく引き下ろした。
唖然としている俺の前で、彼女はとうとう上下の下着をも脱ぎ捨て、産まれたままの姿になると悠然と淵の中に入っていった。
◇ ◇ ◇
俺は呆然とそれを見ていた。
青葉はまるで、初めからその中に存在していたかのように周りの自然と一体となっていた。
それまで何か『力』のようなものを宿していたここの風景は、青葉という存在が介入した事で、ある種の変化を起していた。
真夏の真っ青な空と、その中に浮かぶ白い雲、遠くに佇む山々の緑を背景に。
メインとなるものはやはり滝。
そしてその滝の両脇を固める、水に濡れて微妙な色合いの変化を見せる岩。
滝の下には澄んだ水を滔々と湛える淵と沢の蒼碧。
淵と沢を取り囲むように拡がる石ころだらけの河原の白。
更にその河原を包み込む山の木々の深緑。
そんな色溢れる中で、一際目立つのは淵の中に静かに立つ青葉の、白い肌と黒い髪のコントラスト。
陽光溢れる中に展開されたその光景は、まるで一枚の絵画のような、静けさの中に溢れんばかりの生命力を湛えた、神々しささえ帯びたものだった。
「司は泳がないのかしら?」
呆然としている俺に、青葉が声を掛ける。
「本当にどうしたの? 心ここにあらずといった感じよ」
「あ、ああ。正直に言って……青葉に見蕩れてた」
「……もうっ。バ、バカね……」
俺のストレートな賛美に、青葉はその秀麗な顔に朱を散らしてぷいっと顔を背ける。
「そんな事より、早くいらっしゃいな。水が冷たくて気持ちいいわよ」
「おう。今行くよ」
言うが早いか、青葉に倣って衣服を全て脱ぎ捨てた俺は、彼女の待つ水の中に駆け込むのだった。
◇ ◇ ◇
陽も傾き始め、辺りに朱色の光が溢れ出した頃。
俺たちは家に向かって並んで歩いていた。
「ありがとうあなた。今日は楽しかったわ」
「はは。お褒めに預り恐悦至極」
「ふざけないで」
「悪ぃ、悪ぃ。でも楽しんで貰えたのなら何よりだ。佐々木の爺さんに今度お礼言っとかないとな」
「そうね。今度会ったら私からも言っておくわ」
髪から水を滴らせながら青葉が微笑む。尤も俺の髪も似たようなものだが。
本来泳ぐ予定など無かったので、タオルなどといったものは俺たちは持ってきていなかった。
しかし、濡れたまま服を着る訳にもいかず、水から上がった俺たちは、大きめの岩の上──もちろん、林道から死角になる位置──に座って体が自然乾燥するのを待った。
まあ、やや傾きかけたとはいえ、真夏の日差しを浴びていれば体などすぐに乾いたのだが、髪まではそうはいかなかったのだ。
二人して髪から水を滴らせながら歩く俺たちは、他から見れば奇異に写ったかも知れない。
だけど、今の俺たちには些細な事だった。それぐらい今日は楽しい一日だった。
「またいつか行きましょう、司」
「ああ。でも、今度はちゃんと準備してから行こうな。誰かに見られるんじゃないとヒヤヒヤしながら岩に座っているのは流石に勘弁して欲しい」
「あら。その割にはいつもより激しかったわよ。やっぱりああいうシチュエーションだと興奮度は増すのかしら?」
「ぐうぅ……」
「ふふ。でも、水の中であなたに抱かれるのも悪くないわよ?」
「だああぁぁっ! ううぅ……もう勘弁してくれよ……」
「さあ。どうしようかしらね」
そんなバカな話をしながら俺たちは道を歩く。
「……次は皆と行こうな」
「……そうね」
今はまだ、ここにいないあの連中を思い浮かべながら。
いつかは、ここに集うと信じているあいつらの事を考えながら。
俺と青葉は家に向かって歩いた。
俺達の高屋敷家に向かって。
それは、暑い真夏のとある一日のそんな出来事。
何か、随分と昔に書いた古いデータを発掘したので投稿してみる。
これ、同じ『家賊計画』の『ぷかりぷかり』よりも更に古いデータだなぁ。日付みたら2005年だった(笑)。
こんなのでも大丈夫だろうか?