数メートル先で対峙するイノシシが勢いよく地面を蹴った。瞬時に迫り来るその姿に俺は恐怖を隠せなかった。
何度見ても気味が悪い。姿形は現実のそれと見紛うほどに精巧に再現されているのに、体毛は青く眼は赤いのだ。現実と非現実が混ざり合った結果、強烈な不気味さが生み出されている。
だが怖気付いてなどいられない。ゲームの世界であるが、ここで殺されてしまったら現実の俺の命も奪われるかもしれないのだから。足が竦みそうになるのを堪え、半身に構えつつ腰を落として防御姿勢を取った。直後、鈍く重い打撃音が鳴り響く。
「ぐっ…!」
盾を持つ左手に重い衝撃が走り、そのまま体ごと押し込まれる。視界の端ではHPバーが僅かながら減少し、恐怖心は更に増幅されるが、それを無理やり頭から締め出して体全体で踏ん張り続ける。1メートルほど押し込まれたところでイノシシは漸く停止した。
防御には成功したが、ここで終わっては意味が無い。残った胆力を搾り出して右手の簡素な片手直剣をすかさず振り上げる。一瞬タメを作ってスキルを発動させ、あとはシステムアシストに完全に身を任せた。直後、片手剣の単発斜め斬りスキル《スラント》がたてがみ付近に命中した。
「ギイィッ…」
イノシシは断末魔と共に地面に転がった。残り2割強だったHPバーも急速に減少し始め、それが全て尽きると同時に静止し、ガラスの割れるようなSEとともにポリゴンの欠片となって散っていった。ウインドウが自動で開き、加算された経験地と所持金額が表示される。
今ので10匹目なので、1日のノルマはこれで達成だ。緊張が抜け、思わず大きめに息を吐く。剣を腰の鞘に収めると、腰のポーチからポーションを取り出して口に流し込む。その微妙な味に顔をしかめながらも飲み干すと足元の草原に腰を下ろし、周りの草原を何気なく眺めながら、3割ほど減っていたHPの回復を待つ。
「何やってんだろ、俺…」
誰もいない草原に向かって、思わずそんな言葉を漏らしていた。
ソードアート・オンライン』がデスゲームに変貌して今日で4日目。
絶望と混乱が未だ収まらない中で、早くも動き出している者たちがいる。推定900人前後とされるβテスト経験者達だ。彼らの多くは先行した知識と経験を生かし、スタート地点である『はじまりの街』を出て、草原と森を抜け、続々と次の村へ辿り着いているという。中には初日からそれをやってのけた兵もいるのだとか。
そして、この俺もテスターなのだ。他のテスターと同様にスタートダッシュを決め、恩恵に最大限与る野望を持っていた。装備を揃え、パーティーを組み、先へ先へと進む予定だったのだ。
だが現実は、このように初期装備すら更新できぬまま最弱モンスターのみを相手に一人でショボい狩りを続ける毎日だ。次の村どころか、スタート地点である『はじまりの街』の半径500メートル内すら出れていない有様なのだ。
こんな事になるんなら、あの時・・・
などと脳内で愚痴たれ始めた直後、前方で新たなイノシシが湧き出るのが視界に入った。これ以上の戦闘をこなす精神力はもう残っていない。回復アイテムもさっきの1個で尽きている。HPバーが満タンまで回復したのを確認し、俺は小走りでその場を走り去った。夕日に染まる草原を駆けて数百メートル先の城門に着くのに、そう時間はかからなかった。
* * *
イノシシ戦で貯まった安い素材を売り払い、商店で食料を買い込み、宿屋に着くと既に陽は完全に沈んでいた。そのまま中に入り、自室の扉の前まで辿り着く。
「はぁ・・・」
今日何度目か分からないため息を吐きながら、右手を重々しく上げて扉を叩く。直後、それは勢いよく開け放たれた。
「先生お帰り!遅いから死んじゃったんじゃないかとかと思ったじゃん!」
「ちょっと失礼でしょ、バカな事言わないでよ!お、お帰りなさい先生!」
「なんだよ、お前相当心配そうだったじゃん。それより飯にしようぜ!」
「べ、別にそんなことないわよ!」
騒がしく俺を出迎えたのは、まだ年端もいかない少年と少女。
デスゲームが開始された直後、この二人に出会ってしまった事が不幸の始まりだった。
俺の現実での職は、塾講師。
そしてこいつらは、俺の勤務先の学習塾の生徒なのだ。