東方project × ONE PIECE ~狂気の吸血鬼と鮮血の記憶~ 作:すずひら
・鴉天狗、白狼をお風呂に入れる
・鴉天狗、白狼を調教する
「今日もありがとうございました、射命丸様」
白狼の彼女はそう柔らかく微笑んで眠りにつく。
私の隣、一糸纏わぬ姿で柔らかな寝息を立てる彼女を見て、気づかれないようにため息をこぼした。
どうしてこうなったのか、気がつけば私とコイツの付き合いはもう五年ほどになる。
出会ったあの日。
汚いからと風呂で丸洗いし、久々のお風呂をのんびりと堪能し……いつの間にか湯船で寝入っていたコイツを抱きかかえてベッドまで運び、夕食の準備をして、結局夜になっても起きてこなかったので私も天狗座りで寝た。
翌朝、平謝りしてくるのを適当にあしらい、せっかく作ったので夕食を朝食の代わりに食べ、のんびりと一日を過ごした。
コイツはそんな私のあとをカルガモの雛のようにちょこちょことついてきて、何かにつけて世話を焼こうとしてきたので、されるがままに任せていた。
そんな生活を数日続けるうち、名前がないのが不便に思い、適当に名をつけることにした。
付けた名は、
天狗にこき使われる
“
だというのに、彼女はそれはもうすごい喜びようで……顔や態度で取り繕ってはいても、千切れんばかりに尻尾を振っていてはバレバレだ。
私は生まれたその時から、フランさんとメイリンさんにもらった“射命丸文”というこの名前があるから、名前のない彼女の気持ちはよくわからなくて。
そんな姿を見て少しだけ不憫に思い――後日、下の名前だけはちゃんと付けてやることにした。
付けた名は、
彼女の小さな手と綺麗な赤い瞳からの連想だ。
音の響きもまぁ、悪くはないんじゃないかと思う。
そんなこんなで名前を付けてからというもの、なんだか愛着がわいてしまった。
あれだ、捨てられていた子犬を拾ってペットにしてしまったのに近い。
不器用で世間知らずながらも私の言うことには何でも従う従順なペット。
なんでもないようなことでもいちいち大袈裟に喜ぶものだから、ついつい調子に乗ってしまったというのもある。
思えば私もこの数百年間、他人から正の感情を向けられることがなかったから――フランさんやメイリンのあの優しさを知らず知らずのうちに求めていたのかもしれない。
そうして長くても数週間ほど滞在する予定だったのが気が付けば数か月たち、ずるずると予定を先延ばしにした結果、いつの間にか季節が一巡していた。
別に何かしなければいけないことがあるわけでもなく別段焦る必要もなかったのだけれど、なんとなくこのままだとあのひきこもりの鴉天狗と同列に見られてしまいそうで嫌だった。
椛の前でいつものんべんだらりと過ごしていたから、たまには仕事をしているところでも見せて威厳を保ちたかったのかもしれない。
それで、久しぶりに新聞を作ることにした。
すると当然、いつでもどこでも私の後ろをついてくる白狼が興味を示した。
まぁちょうどいいので新聞製作の手伝いでもさせてみようかと思ったところ、なんとこの駄犬は字の読み書きができないのだという。
私はそこから教える羽目になった。
そうしてまた季節が一巡した。
新聞製作のノウハウを教え込み、字の読み書きどころか一般教養もこれでもかと詰め込んだので、最低限助手としては使えるようになった。
そこで――ようやっと――ミンクの里に彼女を伴って取材に出かけることができるようになった。
本当は統一王国の首都で取材を行いたかったのだけど、私が遠くに行こうとすると打ち捨てられた子犬のような目で見つめてくるので断念し、代わりに近場のミンクの里でお茶を濁すことにしたのだ。
私がミンクの里に来る前は、「統一王国が黄金の都と名高いシャンドラという大都市国家を攻め滅ぼした」という大ニュースが駆け巡っていた。
ところが私はそのころちょうど別のことに関わっていて、その事件の取材の機を逃してしまっていた。
このことは私の短くはない記者人生の中においても結構なミスだったから、未練がましくその後の動向を取材するよりは、さっぱりと断ち切ってしまったこちらの方がよかったのかもしれない。
ミンクの里に来たのも、一仕事終えたものの、スクープを逃して意気消沈していたからお風呂で疲れを癒そうと思ったのが理由だっけ――。
まぁとにかく、ミンクの里を取材することにして、その取材に椛も付き合わせることにした。
随分と抵抗されたが、嫌がらせ兼人見知りの更生のためだ。
ベッドの中で一時間ほども
アイツは普段は従順だけど、たまにこうやって可愛らしい抵抗を見せる。
結局従うことになるのだから反抗する意味もないのだが、やはり駄犬は駄犬らしく学習能力がないということだろう。
里中を連れまわしてみると案の定びくびくして全く使い物にはならなかったが、里の者たちの態度はそれまでとは異なっていた。
私にとっては――予想通りではある。
椛自身は、いままでのように恐れられ嫌悪されると思っていたようだが、まったくもってズレている。
今、里の者たちから彼女に向けられる感情は恐怖と嫌悪ではなく、畏敬と羨望。
そりゃ当然。
椛の持つ、ミンク族の誇りである
その美しさは筆舌に尽くしがたいし、目を奪われる。
そして何より、ここ数年の間妖怪である私と常にともに過ごし、毎晩一緒に妖力の溶けた風呂に入り、妖力のコントロールの仕方もみっちり仕込んだ。
そのせいで――自覚はないようだけど――今では見る者が見れば明らかに過ぎるほどの強者のオーラを放っている。
覇王色の覇気、の妖力版が漏れ出しているといった感じだろうか。
そのせいで毛艶もいいのだ。
自分で自覚し制御できていない分まだまだ未熟ではあるけど、私の隣に立つなら最低限ってところか。
一応フランさんに見せても恥ずかしくは……ないと思う。
椛はもともと素質があったのか、悪魔の実を食して覚醒したのか――とにかく彼女は妖力に対する適性が非常に高く、私の妖力をスポンジで水を吸うように受け入れることができた。
ヒトからは――普通のミンクの枠組みからは外れ、妖怪化してしまうだろうことは伝えたけれど、それでも一切の拒否をせず受け入れた。
それならばと調子にのって注ぎ込みまくった結果がこれである。
妖力の適性は私も想定外だったので珍しく素直に心から賞賛したところ、舞い上がって狂ったように自分でも鍛錬していたからそれも一因だろう。
幼少の頃、彼女は確かに異物で排除される対象だった。
しかしそれは、彼女が幼く弱い存在だったからだ。
周囲と違い異端であることは、周囲をねじ伏せ黙らせる力さえ得てしまえば、それは弱みではなく武器や魅力といったものに変わる。
人間であればそううまく行かないこともあるだろうけど、こと本能に従い生き、力を信奉するミンク族に限れば、驚くほど簡単に彼女は受け入れられた。
あれよあれよと祭り上げられ、ついには里を治める二人の長との決闘に巻き込まれ、ごくあっさりと二人まとめて叩きのめして――舞台の上、涙目で狼狽する彼女を見て私は苦笑するしかなかった。
久しぶりに発行した新聞の一面トップには、二人の長が転がる横で半泣きのままオロオロしている白狼の写真がデカデカと載ることになる。
余談だけど、椛に負けた二人の長が椛に敬服し、名前を欲しがった。
――というよりあれはどう見ても惚れ込んで、「俺の姓を名乗ってくれ」ってことだろうけど、あの馬鹿は全く気がついていない。
「俺の名にお前の名が欲しい。絶対に強い後継ぎになる。代々語り継がれる名だ」とかなんとかカッコつけて口説いた結果、見事に勘違いされ――気がつけば二人の犬族と猫族の長はそれぞれ
しかも、長の名として代々それを名乗り継ぐことになっていた。
これにはまあ、私を含め観衆も大爆笑である。
ちなみに後日また正式に、今度は直球で求愛されたそうだけど、アイツは「私は文さんのものですから」と言って断ったそうだ。
……自分の分をわきまえているのはいいけれど、二人きりの時以外は射命丸様と呼べ、という言いつけを破っていたので折檻することにした。
しかしまあそんなことがあっても私達の生活は特に変わらず、小さな一軒家で二人のんびり過ごす日が続く。
そうしていつしか五年もの月日が経ち、幼さを残していた少女が美しい年頃に成長した頃――事件が起きた。
最初の異変は、津波。
ミンクの里は平原と森を含む山あいの土地にあり、ほど近くに海もある。
しかし、海魚が好きなミンクが時たま漁をする程度でそれほど生活には関わっていない。
だから、徐々に波が高くなっていることに誰も気が付かなかったし、海が荒れていることにも然程注意は払われなかった。
そしてある日、目のいいミンクの一人が山の上から海の方を眺めて――そこに山があることに気がついた。
その山は、鳴いた。
★
「射命丸様、あれは一体……」
ある日突然、里のまとめ役たちが緊急招集されました。
私達の周囲には森を治める猫一族の長、平原を治める犬一族の長、草原を治める牛一族の長などの有力者が一堂に介しています。
そこに加えて文さんと私も何故か呼ばれました。
文さんは、世界中を飛び回っていたのでその知識量はとても凄いし頭の回転も早いし頼りにされるのは当然だけど、私はなんで呼ばれたんでしょう。
ともかく、そうして呼ばれて山に登ってみれば、海の先にある巨大な物体を見せられました。
未だ遠くにあるはずなのに既に天を衝く程に大きい。
そしてゆっくりとだけど動いています。
「あやややや、あれは災厄の巨象では……?」
流石文さん、なんでもご存知!
しかし、私が聞いたことのある名前ではありませんでした。
「災厄の巨象、ですか?」
「ええ、と言っても呼ばれ方は地域で様々ですが……以前アレに襲われた町をいくつか取材したことがありますが、酷いものでした。ふらりとやってきてすべてを滅ぼす……捕食を目的としているわけでもなく、ただ戯れに地形ごと町を破壊していくのです。避難さえ間に合えば人的被害は抑えられるでしょうが、山は吹き飛び森は根こそぎなぎ倒され……そこに町があったことが疑わしいほどの惨状でしたよ」
文さんの言葉を聞いて、私と長たちの顔が青ざめました。
なぜそんなモノが……。
「どう見てもこちらに向かってきていますねえ……到着までは目算で一日以内でしょうか。いや……あまりに早い……半日以内……っ、どれにせよ早めに避難を始めるべきでしょう」
「避難!? 我らが里を見捨てて逃げろと!?」
「……まだ何も起こっていない。そんなうちから尻尾を巻いて逃げ出すなど、ミンク族の恥よ!」
「……まあそうでしょうけど、いざその時が来てからでは遅いと思いますが」
「射命丸殿は里の発展に寄与されてはいるが、ミンク族の誇りを分かっておらん!」
「里は開祖が神に授けられ、先祖代々守り発展させてきた神聖な土地であるぞ! それを捨てるなど、ご先祖様に顔向けできぬ!」
「……知っていますよ」
ポツリと呟いた文さんの言葉は、隣にいた私しか聞こえないだろう声量の、弱々しいものでした。
私は、文さんが実はとても長生きで、ミンク族の誕生の場に居合わせていたことを本人から寝物語に聞いて知っています。
文さんは謙遜していましたが、彼女はミンク族にとって長いことその発展を見守ってきてくれた守り神のような存在であると、私は分かっています。
ともすれば、今を生きる私達よりも、里への思い入れはよほど……。
「なんとか、ならないんでしょうか……」
言ってから、しまったと後悔しました。
文さんがこう言った以上、既に取れる手段はないということなのに……無駄に彼女に心労を強いてしまうことを言ってしまうなんて。
「……椛なら、わかるでしょう。アレは生命力の塊……私よりも遥かに強い。どうにもできません。恐らくは尋常の生命体ではなく、フラン様の……」
人前では私の名前を頑なに呼ばない文さんが、思わず椛と呼び、そのことに気がついていない。
瞳は忙しなく揺れ動き、細かく震えていました。
恐怖か、無力感か、はたまたもっと別の感情か……私にはとても推し量ることはできませんが。
「……失礼します」
ギュッと抱きつきました。
華奢で柔らかい体……その実私よりも強靭で、でも今は震えているその肢体。
ふわりと鼻に香るのは、先日私が調合した花の香油。
お風呂上がりに互いに塗りあったそれは、結構喜んでもらえたと思う。
いつも体温は私よりも低く、ひんやりとした体。
それなのに温もりを感じるのはなぜなのでしょう。
「も、椛?」
「……ごめんなさい、射命丸様。少し、怖くなってしまって。もうちょっと、こうしていても、いいですか?」
「――ま、全く椛はしょうがないですね。いつまでも子供の気分が抜けていないんじゃないですか。そんなことでは呆れてしまいますよ」
「……はい、ごめんなさい」
何百年も生きてきた貴女からしたら、私はいつまでも子供なのは事実で。
でも、子供でも、あなたを癒すことができるならそれでいい。
「…………」
普段は飄々としていて何事にも動じない文さんの、初めて見せる動揺した姿に――私もそれこそ、子供のように不安に感じていたのは事実だ。
だけど、だからこそ私が何とかしてあげたい。
もう守られるだけの子供じゃなくて、孤高に空を舞う貴女の隣についていけるってことを証明したい。
頭を撫でてくれる文さんの優しい手を感じながら、考える。
長たちは喧喧囂囂の言い合いをしながら徹底抗戦の姿勢を崩してはいないけど、今は遠くに見えるあの象が近づいてきたら――山よりも大きい巨体に恐れおののくだろう。
その時になって逃げきれるとは思えない。
あの巨体が海中の抵抗があるにもかかわらず目に見えてわかる速度で接近しているということは、実際の動きはとんでもない速度のはずだから。
里を見捨てて逃げる――これが一番楽で確実なのは間違いない。
しかし、長たちが抵抗している今逃げるということは里の住民も皆見捨てるということ。
文さんと私だけなら簡単に逃げ切れる。
でもたぶん、文さんはそれをよしとしない。
長たちを説得する――たぶん無理だ。
これはもう、本能に近い。
戦う前から逃げ出すことができないんだ。
文さんに運んでもらって長たちだけを先に戦わせて……いや、死んでしまうかもしれないし現実的じゃない。
長たちをぶん殴って言うことを聞かせる――可能、かもしれない。
文さんに鍛えてもらってそれなりに腕には自信があるし、たぶん屈服させて従わせることはできる。
ああ、でもだめだ。
長たちが言うことを聞いたって、その下につくミンク族の皆が、何も言わずに素直に逃げてくれるとは思えない。
ミンク族は生まれながらの戦闘種族――頭を使って要領よく戦いを避けるように立ち回るなんてできっこない。
そうか、ここで長たちを何とかしても、どれにせよミンクの里は――。
ハッとして顔を上げると、文さんは困ったように微笑んでいました。
ああ、やっぱり文さんは誰よりも早くこの結論に達して……だからあんなに震えて……。
私には、どうすることもできない。
「……どうします、椛。二人だけで逃げちゃいましょっか?」
文さんは悪戯っぽくそう言いました。
たぶん、私が頷いたら――私を抱えて、どこまでも遠くの空に連れて行ってくれる。
「私は……」
私には、どうすることも。
なら、いっそもう二人だけで――いや、私には?
私には無理で、長たちでも無理で、あの文さんでも無理で?
――なら!
「文さん!」
「は、はい?」
「私を空に、空高くに連れて行ってください!」
「え、ええと……?」
予想外の答えだったのか文さんが珍しく混乱していました。
しかし、これしか方法がありません!
「私が”目”で
「え、お母さんを……?」
「文さんが話してくれたフランドール様ならこの状況だってなんとかできるのではないでしょうか」
「そ、そりゃフランさんならだいたいなんでもできるだろうけど……いえでも、こんなことで手を煩わせるのも……だいたいどこにいるかわかりませんし」
「だから! 私がこの”目”でフランドール様の居場所を探します! それに、私が話に聞いていたフランドール様なら、きっと文さんに、自分の娘に頼られる方が嬉しいと思うはずです!」
「し、しかし」
「
「わ、わかったわよ……」
そう言うと文さんは私を抱えて飛びたちました。
ぐんぐんと急上昇し、一気に雲の上まで突き抜けます。
少し寒く、息苦しいけれど、耐えられないほどじゃない。
「でも椛、あなたの”目”ってそんな人探しなんてできるの? 聞いたことないけど」
「できません」
「はぁっ!?」
「――できないので、やります」
私の”目”――千里先まで見通す程度の能力――は、遠くの景色を間近に見る、ということしかできません。
失せもの探しなんてできないし、そもそもどこまで遠くの景色が見えるのかもわからない。
でも、やるしかない。
全ての妖力を目に集める――すると肌寒かった程度の気温が一気に極寒にまで下がりました。
「…………」
「だ、大丈夫?」
見る、見る、見る。
およそ肉眼では見えない距離を飛び抜けて、たった一人の人を探す。
息が苦しい……頭がガンガンしてきた……。
ガチガチと犬歯が嫌な音を立てる……身震いが止まらない……。
「も、椛!? 大丈夫ですか?」
「だい、じょうぶ、です……」
文さんが強く抱いてくれて、それが少し温かい。
舌を出して、ハッハッハと息を荒げる様は少し見苦しいと思うけど、許してほしい。
「……周囲200キロはすべて”見”ました。フランドール様は服はナイトキャップのような白い帽子、真紅の半袖とミニスカート……それに綺麗な金の髪と宝石のついた枝のような翼……でしたよね?」
「ええ、そうです。凄まじい妖力……狂気の波動は内に隠しているかもしれませんが、おそらく見れば一目でわかります。――って、それよりも周囲200キロってどうやったんですか!? まだ一分も経ってませんよ」
「……視界を16に増やしました。すべて同時に見てますが……」
今の私の視界は昆虫の複眼のように複数の視界を束ねて見ている。
今までやったことはなかったけれど、目の前の景色と遠くの景色の二つを同時に見られるんだからできると思った。
2つ、4つ、9つ、と増やし、そして今は16の視界が別々の窓のように目の前に広がっている。
それらはそれぞれ高速で移動しながら、捜索対象であるフランドール・スカーレットの姿を探している。
でも、まだ足りない。
25……いや、36……まだいける……。
「16って、そんなの人間の脳で処理しきれるわけが……椛!?」
タラリ、と鼻から血が流れた。
目じりからも一筋。
ごうごうと全身を凄まじい勢いで血が巡る音が聞こえる。
耐えきれなくて毛細血管が破れてしまったのかもしれない。
いや、でもこれでいい。
血の巡りがよくなって寒くなく……むしろ暑くなってきたし、目も乾いてきてたから血で潤う。
今はまばたきの間さえ惜しい。
文さんの顔は溢れた血で見えなくなったけれど、今は目の前の視界はいらない。
もっと、遠くへ――。
「椛! 椛!? ああもう、いったん地上に降り――」
「だ、だめです、直線で見える方が視界がいい……むしろもっと上空に上がってください……いまの視界で見える範囲は見終わります……」
「――っ、この馬鹿! 駄犬! なにもそこまで、あなたが体を張る必要はないでしょう! 里からさんざん疎まれてきたあなたが、なんでそこまでして――」
「……文さんが」
「…………」
「私は、みんなが、里が、好きです。それに……文さんが、守ってきた里だから……私も守りたくて……文さんの大事なものは……私も大事だから……」
ああ、まずい。
意識が朦朧としてきた。
どれくらい時間が経っただろう。
感覚はない――半刻か、一刻か……。
まだこの星の10分の1も見られていないのに……。
「……この、ばか。死んだら、絶対に許さないわよ」
「……はい」
ふわっと体が軽くなる。
手足の感覚はもうほとんどないけれど、温かいものに包まれている感覚だけはあった。
――ふいに、口がふさがれた。
途中からは無呼吸状態になっていた私の口を覆うように、なにか柔らかいものが。
ああ、この感触は知っている。
少し意地悪で、ほんとはとっても優しい――。
力なく半開きになっていた口に、空気が送り込まれる。
同時に、凄まじい濃さの妖力も流れ込んできて、朦朧としていた意識が少し、覚醒する。
「……あんたは、ほんとにばかよ。大馬鹿。この駄犬。自分の価値を低く見て、簡単に命を放り出すような真似をして……そこまでして守りたいものが、ずっと自分を疎んできた里で……普通じゃ考えられないわ」
何か、冷たい雫が頬に落ちてきた。
いや、冷たくない。
とても――熱い。
「それに、あんた勘違いしてるわよ。私はミンクの里の事、別にそんなに大事に思ってないし……ミンクの里なんて、所詮、
「…………」
私は、文さんがどれだけミンクの里の事を大事に思っているか知っている。
世界中を飛び回って、ミンクの里に関する情報を操作して、侵略者を近づけないようにしていたことを知っている。
里の外では今、統一王国というとても力の強い国が、世界を統一するためにあらゆる場所に侵略戦争を仕掛けているのだという。
ミンクの里の事を知られれば、どうなるかは想像に難くない。
ミンク族は生まれながらの戦闘種族。
捕らえて兵士にすることも、高い身体能力を見込んで無理矢理働かせることも、体の仕組みを知るために研究材料にすることも、あるいはそれ以外にも”利用法”は色々とあるだろう。
そうならないように、一人で世界を相手取って、誰にも気づかれずに戦っている鴉天狗を、私は知っている。
私にも、直接そんな話をしたことはないけれど。
これでも結構、素直じゃない文さんの事は理解しているつもりだ。
だから、そんな里よりも大事だと言ってくれたことは――。
お礼が言いたくて、口を開こうとして――再び口をふさがれた。
呼気と妖力が流れ込んでくる。
視界は血で赤く染まって見えるけれど、それに負けないくらいにとても赤い顔が、目の前に見えた。
★
結局、水平線の見渡せる範囲にフランさんは見つからなかった。
仕方なく地上に降り、それでも椛は諦めず、水平線の向こう側――星の裏側に至るまでを”見”た。
それでも、星のすべてをくまなく探しても、フランさんは見つからなかった。
椛はよくやった。
だけど、届かなかった。
そして同時にタイムリミット。
巨象が襲来した。
私は倒れた椛の頭を撫でながら、山の上からその姿を見る。
巨象は体に対して足が異常に長く、いままで海の中に隠れていた足が地上に現れるといささか以上に奇妙に見える。
しかし、その巨体を支えているだけあって、その足の力強さはすさまじい。
一歩踏み出すだけで地形が変わる。
山を蹴り飛ばし平地にし、川を踏み抜けば流れが変わりそこに湖ができる。
長を含めて戦士団が襲い掛かるも、蚊ほどの痛痒も与えられていない。
表皮が厚すぎて、剣も爪も牙も
逆に彼らは、巨象の足が動く際の風圧だけで吹き飛ばされている。
文字通り、歯牙にもかけられていない。
足だけではなく鼻もすさまじい。
足同様に長い鼻から放たれる海水は、地形ごと全てを押し流す。
大雨洪水どころか、局地的な大津波だ。
既に里の半分は壊滅し、流されてしまった者たちの救助に全力を傾けている。
もはや戦いの体裁すら保てていない。
それなのに、ミンク族は諦めない。
子供に至るまでもが無謀な突貫を繰り返し、徐々に死者も出始めている。
それでも、今更逃げろと言ったところで聞く耳なんか持たないだろう。
すでに里を壊した巨象は彼らの敵で、ここで退いて逃げることなんてできないのだ。
そういう馬鹿な種族なのだ。
星のすべてを見るも成果がなく、目を酷使しすぎてついに気絶してしまった馬鹿な白狼も含め、そういう種族なのだ。
対して巨象は徹底抗戦の構えを見せるミンク族を殺そうとしているわけではない。
小さなその抵抗を嘲笑い、全てを壊されていく絶望を味わわせる――そんな目的しか感じられない。
ようは遊び、気晴らし――そんな程度のものだった。
ギリ……と無意識に奥歯を噛みしめていた。
間近に見てよくわかる。
アレに、私は勝てない。
例え椛に妖力を渡しておらず、十全な状態であったとしても、無理だ。
皮膚を貫く攻撃はできるだろう、目などの急所を狙えば手傷を負わせることもできる。
だけど、そこで終わりだ。
妖力は奴の強大に過ぎる生命力――覇気に阻まれる。
風を起こしても彼我の体格差からほとんど意味はない。
手傷を負わせ、少々の血を流させたところで、残るのは怒りに荒れ狂って、本当にすべてを破壊しつくす巨象だけだ。
私にできることはただ――里の終わりを見つめることだけ。
始まりがあれば終わりがある。
全ての物事には終わりがある。
そんなことは、とっくの昔に分かっている気になっていた。
けれども、今、それを目の当たりにして。
何もできない自分に嫌気がさす。
記者としての活動なんかしないでただひたすらに鍛錬を積んでいれば、あの象を単身で排除できただろうか。
それとも、里の中に籠っていないで外に出て情報収集をしていればもっと早くにあの象の接近に気が付けただろうか。
意味が無いとわかっていても、在り得なかった別の未来を想像してしまう。
私が何もできなかったから、腕の中の白狼はこんなにもボロボロになっている。
目は力なく閉じられ、
いや、目だけではなく鼻や耳からも血を流していた。
全身の毛細血管も断裂したのか、体中のいたるところに青や黒のあざ、内出血の痕がある。
白く美しい肌は、今は見る影もなく悲惨な姿だ。
命に別状はないけれど、感じられる妖力も今はとても弱弱しい。
椛がこんなにも頑張っていたというのに、私がしたことはせいぜい空へ連れて行き妖力を分け与えたことくらい。
私は……。
「……あや、さん」
「っ、もみじっ!? 大丈夫!?」
気絶していたと思っていた椛が声を発したことに驚いた。
そしてそれ以上に、声に”力”があったことに驚いた。
声自体は弱弱しいのに、そこに込められた気持ちは何よりも強い。
「みつけ、ました。ふらんどーる、さま」
「!?」
「この、ほしじゃなかった……うえ、です。つきに、います……」
「そうか、月に……」
話には聞いたことがある。
月には昔先進的な文明があって、地上に、ラフテルに襲撃を仕掛けてきた。
一度はフランさんをも殺し、その逆鱗に触れてすべてを喪ったとも。
月の文明はむやみに広げてはならないと、私は行くことを禁止されていたけれど。
「いま、つきからおりて、きています……ゴフッ、ゴホッゴホッ……あぁ……ましたに……まだ、まにあう……」
「わかった、分かったからもう喋らないで」
血の塊を吐いた椛を抱き起こし、側臥位に寝かせる。
「ごめん……なさい、じかん、かかって……あとは……」
「黙れと言ってるでしょう、この駄犬。――よく、頑張りました。あとは、任せてください」
「……えへへ」
にへら、と力ない笑みを浮かべて、傷だらけの白狼は今度こそ気絶した。
頭を一撫でして、そっと離れる。
次の瞬間にはすでにトップスピードに乗っていた。
音を置き去りにする速さで月の下へと飛ぶ。
もう一瞬でも無駄にはしない。
自分で何とかできないからと母親に頼ろうとする情けない娘だけれど。
それでも今だけは、全力で助けを求める。
持てる限りの力を使い、風を操り、誰よりも、何よりも速く。
犬走
犬走りは城郭や土手、軒下などに作られる細長い通路状の道のこと。
キャットウォークと互換されたりするのが面白いですね、犬と猫。
ひきこもりの鴉天狗
(今はまだ)根暗な感じではなく、めんどくさいことが嫌で引っ込んでるだけ。
実は今後かなり大きな原作人物に影響を与える人。
さて誰でしょう。
ベッドの中
ベッドの中、ベッドの上、どっちが表現として適切なんだろう。
上、は単に場所を、中、はそこで行われる行為に主眼を置いている感じだろうか。
つまりここでは……ニャンニャンニャン。
狼狽
狼も狽も伝説上の狼の一種。
狼は前足が長くて後ろ足が短く、狽はその反対で、両者が離れると歩けなくなって慌てふためくことから、
って説と、狼が「乱れる」、狽が「よろける」を表すっていう説、
と別に字に意味なんてなくて擬態語だよって説、がある。
狼つながりでネタ仕込もうと思ったけど予想以上に難解。
文より強いゾウ
現在は原作の千年前。
原作時の疲れて老いたゾウではなく、イケイケでヤンチャしていた頃のゾウです。
足とか細い棒のようではなくムッキムキ、鼻も太くて眼力とか凄い。
文の実力は三大将や元帥に無断で密着取材を敢行できる程度。
このときのゾウは万全のマリンフォードを正面から鼻歌うたいながら踏みつぶせる程度。
上空の気温
富士山頂が-15度の時、飛行機などが空を飛ぶ上空1万メートルでは-50度くらいだそう。
椛は最初妖力で身を守っていたので大丈夫でしたが、目に集めたことで通常のミンク並の防寒機能に落ちました。
側臥位
いわゆる回復体位。
意識のない人にとらせるのに適している。