私は今でも、あの日のことを思い出す。
ひときわ存在感を放つ満月がぽつりと浮かんでいて、それでも、それを囲む空の闇夜の方が圧倒的に濃くて。周りに星の一つも見えない中、寂しく浮かぶ大きな月は、孤独の中にいるように見えていた、あの夜。
確か、あいつと出会ったのは、そんな日だった筈だ。
○
月が好きか、と問われたら、私はううむと首を捻るだろう。
吸血鬼なのだから満月ならばいつもより力は出るし、あの金色に近い輝きには趣きがある。
ただ暑苦しく、起きたくもない朝に強制的に光を浴びせるくせに、沈む時だけ同情を釣るかのようにわざと光を弱々しくしていく太陽に比べたら、月はずっとずっといい。
何より、月見大福も月見そばも旨い。
だが私は、夜の暗い静かさの方が好きだった。月の一つもなく、雲の一つもなく、ただ拡がる黒い空が、好きだった。
人は皆一人であると、是非もなく一方的に私達に言い付けるあの圧倒的な空気が、好きだった。
だから、あいつと出会った時に浮かんでいた月を、私は悔やんだ表情で見ていたような気がする。あの月さえ無ければ完璧だったな、と、心の中で唱えていたのかもしれない。
そんなどうでもいいようなことを考えながら、人の気配もなく明かりすら乏しい外れた街道を、私が一人で歩いていた時だった。
「いらっしゃい」
真横から、しゃがれた声が私に声を掛けた。
屋台のように簡易に作られた出店は紺色のカーテンで周りを囲っていて、夜に合わさって不気味な雰囲気が溢れている。店の真ん中に座る老婆は、黒い三角帽子を被り、如何にも自分は魔法使いである、と主張する様子が、逆にコスプレ臭くて仕方がなかった。
「いらっしゃったつもりはないんだがな」
暇潰しにそう答えながら横を通り抜けようとすると、老婆の笑い声が聞こえた。ヒヒヒ、と不気味に笑っているつもりだろうが、作られたその声はつまらないB級映画を私の頭に彷彿させた。
「そう言わさんな、お嬢ちゃん。いや、真祖の吸血鬼よ」
情けのないことに、そう言われただけで私は立ち止まってしまった。私の情報など調べたらどこにでも出てくるようなもので、見知らぬ誰かに知られていることなんて日常茶飯事であったのに、その呼び名で呼ばれたことが久々で、反応してしまったのだ。
「だったらなんだと言うんだ」
「そう怖い声を出さんでおくれ。私はただ、商売がしたいだけさ」
そう言って、聞いてもいないのに老婆は自分の身元を明かし始めた。
曰く、自分はただの魔法に憧れる婆であると。
魔法使いの家系に生まれたが一切の才能もなく、それでも魔法に関わることに憧れ続けて、気付けば商人になっているだけのものだと。
この麻帆良のように魔法使いが存在する街に出向いては、気まぐれに魔力を宿るものや魔法世界のものを商品として並べているらしい。
「あんたと会えて嬉しいよ」
魔法使いは本当に嬉しそうに言った。魔法に憧れる老婆にとって私の存在は伝説的であるらしく、まるでお伽噺に出てくる登場人物に遭遇したかのような気分だと、皺だらけになった頬を高揚させて語った。
「ふふん。そうか」
悪い気分ではなかった。
「どうせなら、商品を見て行ってくれないかね」
「悪いが手持ちはない」
「貴方ほどの巨悪なら、金など払わず私を吹き飛ばして全てを持っていきそうなものだと思ったが」
「私ほどの巨悪なら、そんなどうでもいいことに悪を振り撒いたりはしないんだよ」
私の答えが気に入ったのか、老婆はまた嬉しそうにして、これ以上下がらないと思わせた筋力の抜けた目尻を更に下げた。
「なら、売り物ではなく、ガラクタを貰ってくれ。持っていても仕方ないものや、一向に売れないものは、もう処分したいのさ」
老婆はどうしても私に自慢の品を見せたいらしく、そう理由を付けた。
正直に言えばあまり興味はなかったのだが、かといって特にやることもなく、老婆の格好は取り繕うのに自分の身元は偽りなく語る性格に妙に好感を持ってしまったため、私は言うことを聞いてあげた。
「……本当にガラクタばかりだな」
「……本気かい? これも? これもかい」
「ガラクタだよ」
私が溜め息混じりに言うと、老婆は悲しそうにした。
歳をくっても表情筋は意外と動くものだな、と私はどうでもいいことを思う。
「結構珍しい拾い物をしている自信はあったんだがねぇ」
珍しいと言えど、有用性がなければそれは塵に近い。もしくは芸術性でもあればまた別なのだが、老婆の趣味はあまりいいものとは言えず、特に目に惹かれるものはなかった。
そんな中で、唯一、一つだけ、私の目に止まったものがあった。
「……ん」
「おお! 何かあったかい!」
「うるさい」
興奮した老婆を黙らせ、私はそれを注意深く見る。
それは、玉だった。
4つの木の柱に支えられたガラス板の中に、宙に浮いて存在している。
ビー玉ほどの大きさしかなかったが、その金色は淡い光を放っていて、まるで小さな月のようだと、私は思った。
「……これはなんだ」
「あぁ、それはだね……」
そこから話を続けることなく、老婆は黙ってしまった。
「おい。なんなんだ」
「すまない。それが何かは分からないんだ。それこそ本当に拾い物で、かなり昔から存在している物だとは分かるんだが、それだけだよ」
老婆は申し訳なさそうにしていた。
それから、老婆は他の商品の説明を熱心にしてきたが、私はその玉だけをずっと見ていた。
「……これは、いくらだ」
「おいおい。それはただの玉だよ、吸血鬼。欲しがるものなんていやしない」
「ならただで貰ってしまうぞ」
「いいけどさぁ」
老婆は自慢の商品がただの玉っころに負けたことが悔しいのか、不貞腐れた様子を隠す気もなく笑わしていた。その豊かな表情は相変わらず年齢を感じさせなかった。
「あんた、なんでそれを欲しがるんだい。それの良さを見抜けなかった私に、そこだけは教えておくれよ」
私はそれを手にしてから、もう一度集中して見た。
「この箱自身に、幾つか魔法が掛けられている。意識操作、感覚低下、まぁつまりは認識阻害か。誰から見ても特に注目されない物のようにされているな」
「それは……何のために」
「知らん。だが、それだけでこいつがまともで無いってことは分かる。むしろお前はよくこれを見付けられたよ。常人ならこいつは道端の石ころと変わらん」
老婆は誉められたことで照れ臭そうにした。
「……じゃあ、その中の玉は、結構危ないもんなのかい」
「多分な。私の見立てでは、何かしらの呪いが掛けられているように見える」
「呪い」
老婆は魔法使いの格好をしているくせに、呪い、だなんて言葉に恐怖を感じたらしい。
「危ないじゃないかい」
「かもな。だが、ちょうどいい。私は今呪いについて色々調べていたからな」
貰っていくぞ、と声を掛けて、私はそれを持ち去ろうとする。
老婆は名残惜しそうに小さく言葉を漏らしてから、大きな声を出した。
「吸血鬼よ! また来るよ! その時はまた顔を出してくれ!」
どこまでも元気な老婆だった。
私は彼女に背を向けながら少しだけ微笑んで、軽く手だけ上げて返事をしておいた。
○
「……ご主人。なんだよソレは」
「拾い物だよ」
家に戻ると、茶々ゼロが私の持つものを不審そうに見つめた。
これを手に入れた経緯を1から説明する気はなかった。理由は単純に、面倒だったからだ。
「結構禍々しい感じがスルが」
流石に私の従者なだけあって、これの危険性を察知したようだった。
「多分、呪いが掛かってる」
「開けたらどーなるンダ」
「呪われかもな」
「オイオイ」
魔力がないために動くことも出来ない人形は、呆れるように私を見た。
「これ以上呪いを重ねる気カヨ」
「それもありかと思ってる」
この時の私には、既に呪いが掛かっていた。
登校地獄、という馬鹿げた呪いだ。
実際は学校を嫌がる子供に無理矢理行かせる程度の呪いだったのだが、これを私に掛けた人物が異常であったため、おかしな因果に囚われた呪いとなってしまっていた。
居場所を制限され、行動を縛られ、力も無くされた。
下手くそが呪いに手を出すと録なことはないとは知っていたが、ここまでのことになるとは思わなかった。それほどあいつの魔力が異常だった、ということなんだろう。
かつてはこの呪いを解くために四苦八苦していたが、この時の私にはもう打つ手が無くなっていた。
だから、呪いの重ね掛けだなんていう、自暴自棄に近いやり方をしようとしていたのだろう。
もしかしたら新しい呪いによって、効果が変わったり上書きされたりするかもしれんと、期待していたのだ。
玉の入った箱を、上から押さえ付ける。
認識阻害の魔法を解くために力を入れたら、意外と簡単に出来た。
「本気でやる気カヨ。もっと酷いことになるかもしんネーゾ」
「これ以上酷いことなんて、ある訳無い」
本当にそう思っていた。
何もすることなく、馬鹿な餓鬼達と一緒にお勉強だなんて、苦しくて仕方がなかった。
毎日が、苦痛だった。どこにも行けず、何にも期待出来ず、ただ生きるだけの日々が、辛かった。
昔は独りでいることなど何てこともなかったのに。
中途半端に光を知ってしまったせいで、孤独をより色濃く感じるようになってしまった。
これも全部、あのアホのせいだ。
迎えに来るというのは、嘘だったんだ。
ナギのことを、待っていた。
死んだ、という情報が出回ってからも、私は待っていた。
ナギがそんな簡単に死ぬか、と思いながら、私は暫く待ち続けた。
いつかこの呪いを奴が解いてくれると信じてたから。いつも通りの適当な笑い顔で現れて、颯爽と私を撫でてくれると信じていたから、待っていられた。
だが、もう駄目だった。
いつまで経ってもナギの新しい情報は出てこない。
つまりは、奴は死んだのだ。
帰らぬ人をいつまでも待てるほど、ロマンチックに生きてきたつもりはない。
事実は事実として私の中にしっかりと刻み込まれ、ただただ痛々しい思い出となっただけだった。
だからもう、抜け出したかった。
この日常から去ることが出来るなら、呪いでも何でも良かった。
「開けるぞ」
茶々ゼロの返事はなかった。何を言っても私が止まらないことを知っていたのだろう。
ガラス板を割るように力を入れる。
ひび割れが高い音を鳴らしながら、それは壊れていく。
パキン、と呆気ないほど簡単にそれは割れた。
剥き出しになった黄色の玉が、光る。
夜だというのに、部屋の中に太陽が昇っているかのような明るさが私達を襲った。
それから、黒い魔力が螺旋状に舞い上がって、私を囲んだ。
身体に熱が籠る。血流は速度を増し心臓は五月蝿いくらいに唸った。
黒い渦は、どんどんと速度を増していって、私を覆い被せる。家具や食器が大きく揺れて、家中が下手くそな演奏会をしているかのようだった。
「ご主人!! 」
「来るな! 茶々ゼロ!」
どんな物だろうと、受け入れるつもりだった。
変化が欲しかったんだ。
この糞みたいに退屈な人生に、何か新しい風が吹き込んで欲しかったんだ。
――だから、驚かなかったよ。
突然部屋が元通りになって、私の頭の中に直接声が聴こえるようになっても。
『……あら』
一切の物音が消えてから、その声は、ぽつり、と頭に響いた。
優しい、声だった。
落ち着いていて、静かで、淀みがなくて、水面に垂れた雫のように、スッと透き通る声だった。
『今度の相手は、随分可愛らしいわね』
クスクス、と小さな笑い声が続いて聴こえる。
辺りを見回すが、誰もいない。
茶々ゼロは今にも動き出しそうな様子で私のことをじっと見ている。
『貴方には悪いけれど、取り憑いてしまったわよ』
慈悲をそのまま音に乗せたかのような声と共に、黄色の玉は、ピカピカと点滅するように光っていた。
私は理解した。これが、呪いなのだと。
『……しばらくの間、宜しくね。可愛らしいお嬢さん』
まるでウインクと共に発しているように、その声は軽快に私にそう告げた。
これが、私と、呪いの玉との出会いだ。
正直、呪いだなんて唱っておいてこの程度だったことにはがっかりしていたよ。
仕方ないだろう? この身に何が起こるかと期待していたのに、頭の中に女の声が聴こえるだけなんだ。
結局何の変化も起こらないのと大して変わりはない。
だが、もう少しだけ聞いておけ。
この出会いは私にとって大きなものだったと気付くのは、もう少し先のことなんだ。