その病院に足を踏み入れたのは、初めてであった。
麻帆良一大きな病院と呼ばれるだけあって建物は大きく、案内所に行かないと迷うのは明らかであった。白く清潔な屋内は薬品らしきツンとした匂いが漂っている。夜が近い時間でも人が多く、中でも老人の姿が多く見えた。白衣をきた男性は書類を手に慌ただしく早歩きをし、その後ろを看護師らしき女性が付いて行っている。
こいつら全員が人を救うという仕事をしているのだと思うと、どこか感慨深かった。私の世界には傷つけ合う人間達ばかりが目に映ってきたが、世の中にはその手を治すことにしか使わないものがいる。かつて病気が蔓延し滅びかけた都市をいくつも見てきたが、いまや知恵あるもの達が克服しそれを常識としている。
全てが純粋に善意で動いているわけではなかろうが、それでも培った技術を他人に使えるというのは、大層なことだと思った。
だが、彼等にだって救えない人間がいるのだ。
全力を出し、あらゆる技術を使っても、届かない世界がある。
そんなとき、彼等は何を思うのだろうか。
「ここね」
実体化した雪姫が、ある病室の扉の前で言った。雪姫はずっと実体化していて、私と一緒にここまで来た。あきほの病室を看護師に聞いたのも彼女だ。柔らかい物腰で丁寧に訪ねたからか、看護師は特に怪しむ様子などはなかった。今は面会できる状態ですよ、ということまで教えてくれた。
勿論、手はもう繋いでない。人前でそんな無様な姿を見せるなんて有り得ない。
なに、恥ずかしいだけだろって? うるさい。黙って聞いていろ。
「さぁ、ノックして」
「私がするのか」
「そうよ。貴女がするの」
誰でも一緒だろ、と思ったが、反抗しても仕方がないので、私は諦めて扉を叩いた。
はい、と男性の声がして扉が開く。そこには、先日あったあきほの兄がいた。
青年は雪姫を見て不思議そうな顔をした後、目線を下げて私と目を合わせた。
そして、明らかに不快な顔をした。奥歯を噛み締め、強く睨みつけるように私を見ている。
ああ、いつもの顔だ。そう思った。
他人が私を見る目は、いつも恐怖か恨みであって、彼もそうなってしまった。
前のような、優しげな青年の面影はそこにはなかった。
「何しに来たのですか」
語気が強い。警戒しているのが手にとるように分かった。
「私たち、あきほちゃんのお見舞いに来たの」
すっ、と私の前に出て、雪姫が笑顔で言う。青年は訝しげに眉を寄せた。
「失礼ですが、貴女は?」
「あきほちゃんのお友達です」
青年の警戒心は更に強くなった。部屋を塞ぐようにして、威圧的に堂々と立っている。
「帰って下さい」
「あら、どうして?」
「怪しい人物をあきほに合わせる訳にはいかない! 」
怒鳴られたが、それが当然の反応だと思った。想像した通りだ。
悪評しかない私を、弱っている家族に合わせようとする者などいないであろう。もしかしたら、先日私がお見舞いに行ったせいであきほが悪化してしまったと疑われているかもしれない。
そう思われていたとしても、私は彼を責めれない。彼は間違っていない。彼は、家族を守ろうとしているだけなのだから。
こんな風に生きてきてしまった私は他人に疎まれても仕方がないのだから。
だが、私はもう決断してしまった。
私はここに来ることを選んだ。あきほと話すことに決めた。
彼に悪いとは思うが、引く気はなかった。どんなに疑われ、嫌われても、彼女と話したいと思ったのだから。
「……お兄ちゃん、入れてあげて」
部屋の奥から、あきほの弱々しい声が聞こえた。私達の会話が聞こえていたのだろうか。
「あきほ。だけど……」
「お願い、お兄ちゃん。私、二人に会いたいの」
くっ、と口を歪ませて、青年は私達が通れるように身体を半身にした。その横を通るときも、青年は強い意志のこもった瞳で私達を見ていた。
あきほに何かしたら絶対に許さない。そう語っているようだった。
広い部屋だった。大きなベッドが一つあって、その上にあきほがいる。好待遇な部屋は、逆にあきほの病気のどうしようもなさを語っているようで、遣る瀬無い気持ちになる。
「……あきほ」
「エヴァンジェリンさん、雪姫さん。来てくれて、嬉しい」
仰向けに寝ているあきほは、会ったのは数日前というのに、ずっと痩せた様子であった。手首に繋がれたチューブが痛々しく、青白い肌は彼女が弱っているのを如実に物語っていた。
「……お兄ちゃん、二人とだけ話がしたい」
「だ、だめだ!」
青年は強く否定したが、それでもあきほは動じずに首だけを振った。
「……お願い。彼女達は、いい人だから」
「だけど……っ」
二人は長く目を合わせ、その後青年は諦めるように息を吐いた。
「分かったよ。お前は昔から、大人しそうに見えて言い出したら聞かないもんな。何かされたら、すぐ呼ぶんだぞ? あんたら、絶対にあきほに触れるなよ」
そう言いながら、彼は部屋から出て行った。
部屋は私達三人だけになり、沈黙が場を流れる。
弱々しい彼女を前に、私は口に出す言葉が見当たらない。そもそも、何を喋るつもりであったかも考えていなかった。ただ、このまま終わりたくないと思っただけなのだ。
雪姫も、何も口にしない。見守るように、私とあきほを見ているだけだ。
「……ごめんね。嫌な思いさせて」
俯いていたあきほが、沈黙をひっそりと破るように小声で言った。
「お兄ちゃん、嫌な人じゃないの。ほんとよ。ただ、今ちょっと気が立ってるの。だから、許してあげて……」
「……っ」
胸が突かれる想いだった。
この少女は、自分がこんな状態であっても、兄に煙たがれた私達の心を気遣ったのだ。兄を悪者にしまいとしたのだ。
呆れるほど、清い心で、呆れるほど、彼女らしい。
「いいのよ、あきほちゃん。私もエヴァも気にしていないわ」
雪姫が優しく言う。
「ほんと? 」
「ああ」
私ははっきりと答えた。こんなことで彼女を不安にしたくなかった。
よかった、とあきほは胸を撫で下ろした。
「そういえば、さっき千雨ちゃんも来たよ」
「そうなのか」
「うん。入れ替わりで帰っちゃったけど」
結局、あいつは一人で来たようだ。鉢合わせなくて良かった。
「ふふ、千雨ちゃん、怒ってたよ。何かしたの?」
「いや、別に」
「喧嘩したのよ、二人で」
言わなくていいだろ、と私は雪姫を睨むが、彼女はモノともしない顔付きだった。
「ちゃんと仲直りしないと駄目だよ?」
「ふん。雪姫にも言われた」
「謝れるかしらねぇ」
「うーんどうだろう? どっちも強情だから」
二人はクスクスと笑い合っている。その状況が、心地よく感じた。室内に流れる穏やかな空気は、ここが病室であるということを忘れさせた。
だが、その腕についたチューブと、彼女の服を見るたびに、私は現実に引き戻されてしまう。
「……二人は、聞かないんだね」
やがて、あきほは、そう言った。
「私が、なんて病気なのか、どこが悪いのか、いつ治るのかって」
きっと、千雨やゆみ達には聞かれたのだろう。それほど、彼女達はあきほのことを心配してるのだ。
だけど、私達は、何も言えなかった。
「私ねっ、なんとなく、わかるの。自分がどれくらい生きていれるのかって」
あきほは、わざとらしく元気な声で言う。その声が、あまりに分かりやすく無理をしていて、私は聞くのが辛いと感じた。
「昔から、体が悪くて、その度に自分の中の砂時計が、さらさらと落ちていく感覚がする。喉をゆっくり締められるような気がする。だからきっと、長生きは出来ないんだと思ってた」
彼女は、ずっと自覚していたのだろうか。
だとしたら、それはなんて残酷なことなのだろう。
そして、彼女はなんて強いんだろう。
死期が分かっていて、あんなにも平然に、私達と笑い合っていたのだ。
「エヴァンジェリンさんは、不老不死、なんだよね」
私は、こくり、と頷く。
「私、ずっと気になってた。長く生きれるって、どんな感じなんだろうって」
別に、いいことばかりだった訳ではない。むしろ、ほとんどが嫌なことだった。
だけど、それを彼女の前では言える筈もない。
「うん。分かる、なんて言う気はないけれど、きっと辛いことが沢山あったっていうのは、分かるの。なんて言えばいいのかな。貴女の人生は、私が語っていいようなものではないほど色んなことがあって、楽しい、なんて思えなかったかもしれないけど、それでも、私は、それがどんな風景なのか、知りたかったんだぁ」
私が何も言わずとも、彼女は一人で語る。
布団を握る手の力が、強くなったように見えた。
「何故だ」
思わず、私も握り拳を強めて訊いてしまう。
「お前は、自分が短命だと分かっていたのだろう?知ってたんだろう? なのに、何故他人を敬う。何故他人の為に動く。もっとワガママになっていい筈だろう! もっと、勝手に生きていい筈だ! 」
短い時間を、自分のために使わないなんて、おかしいと思った。長く生きる私がこんなに好き勝手にしてるのに、短く賢明な彼女が人の為に動くことが、酷く不条理に思えた。
「ふふ、違うよ」
彼女は、私と初めて会った時と、全く同じ表情で言った。
「私がしたいから、するの。私はエヴァンジェリンさんが思うより、ずっと勝手に生きてるよ」
「だが……っ!」
「私が誰かを敬うと、その人の笑顔が見れる。そうすると、私は嬉しい。私も、人の為に生きていると実感出来る。それが、私にとって一番だったの」
「そんなのおかしい! おかしいぞ! 」
「……優しいね、エヴァンジェリンさんは」
そう言って、彼女は、私の手をそっと握った。弱々しい手だ。
「…………でも、寂しいなぁ」
ぽつり、と呟くように、あきほは言った。
「やっと、仲良くなれたのになぁ。ゆみちゃんと、むつみちゃんとも一緒に、仲良くなったのなぁ」
彼女の瞳からは、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちている。彼女はそれを、拭おうともしない。
「私ね、想像したんだ。私とゆみちゃんとむつみちゃんとエヴァンジェリンさん。それに、千雨ちゃんも一緒に、遊びに行くの。洋服を見たり、映画を見たり、カラオケに行ったりするの。千雨ちゃんとエヴァンジェリンさんは気付いたら言い争いしてて、それにゆみちゃんが混じってぐだぐだになって、私とむつみちゃんが笑って見てるの。たったそれだけなのに、どうしようもないくらい楽しいの」
涙が止まる気配はない。小さな少女の、精一杯の独白は、私の胸に痛いほど響いた。
「たったそれだけ。それだけでいいのに、届かないの。寂しいなぁ」
どうして、あきほなんだろう。もっと意地汚い人間がいる。親や子供に手を出すような奴だっている。それなのに、何故この少女が死ぬのだろう。
私はその現実に、納得がいかない。
ゆるせなくて、遣る瀬無くて、だから、この世界が、嫌いなんだ。
泣き続ける彼女を前に、私は、なんて言葉をかけるべきか、悩む。
零れるその涙を、そっと拭うようにしたのは、雪姫だった。
「あきほちゃん、届くわよ」
あきほが、ゆっくりと顔を上げる。
「心配しないで。貴女のそのささやかな願いは、届くわ」
「……本当に?」
ええ、と雪姫は、優しく笑う。
「ああ、届くよ」
私も、そう言っていた。
「服を見るのも、映画を見るのも、私は結構好きなんだぞ」
―――優しい嘘、なんて言葉は大嫌いだった。
「カラオケだって、そこそこ歌える」
―――でも、この少女が泣いているのはもっと嫌だった。
「千雨と言い争い、はするかはわからんが、まぁ自然となるだろう」
―――私の、最初の友達が、寂しいと泣いたままだなんて。
「うるさいゆみがそこに混じれば、まぁその気も失せるだろうがな」
―――人を想える友達が、泣いたままだなんて、許せなかった。
「だから、さっさと治せ」
―――だから、これが嘘じゃなくて現実になればいいと。そう願った。
○
ひとしきり涙したあきほは、その後疲れたように眠ってしまった。
私と雪姫は、起こさないように静かに部屋を出る。
廊下で、あきほの兄が前から歩いてくるのが見えた。その横には、壮年の男性もいた。
すれ違いざまに、雪姫がお辞儀をしたので、私も合わせて軽く会釈をする。
壮年の男性の目つきは、あきほの兄より更に敵意の篭ったものであった。殺意が溢れるほどの憎しみを感じる瞳を横に感じながら、私は歩く。
通り過ぎた後も、その男性は私を睨んでいる気がした。
○
あきほが亡くなったと訊いたのは、その次の日だった。