タカミチから話を聞いたのは、授業が全て終わった後であった。
教室に入り、ゆったりとした足取りで教壇に立つ彼の姿を見ても、クラスメイトはまだ笑顔でいた。これから部活があるものや、友達と遊びに行くものは、それらが待ち遠しいというそわそわした雰囲気であった。しかし、しばらく口を開かないタカミチを見て、不思議には思ったのだろう。次第に教室内の口数は減っていっていた。
何かあったのだろうか、とむつみが後ろの席から私に声をかけた。むつみの声音は、不安が混じっていた。私は何も答えずに黙っていた。
顔を上げたタカミチは、ひどく深刻そうな顔であった。いつもの柔らかな様子もなく、張り詰めた表情は、クラスメイトを緊張させるのに充分であった。
タカミチも、多くの経験を積んできたのは知っている。
戦闘を知り、戦争を知り、希望も絶望も知った筈の青年だ。
それでも、そのたった一つの真実は、彼の心を痛めつけるほどであったのだ。そして、それを自分の生徒達に伝えなければいけないということも、彼にとっては何よりも辛いことであっただろう。
―――悲しいお知らせがある。
ついに、口を開いた彼から聞かされた話は、子供にとってはどうしようもないくらいに残酷で、長く生きていれば誰もが経験するありふれた話であった。
彼が口を開くたびに教室の温度は冷え切っていき、陰鬱で重たい空気が充満していく。だれかの息遣いがやけに大きく聞こえる。震えるものや一切動かないものもいる。
タカミチの話が終わっても、誰も席を立たなかった。
そんな中で、私だけは一番に立ち上がり、歩いて教室を出た。誰も私を目で追うものはいなかった。
むつみや、ゆみの顔を、見れなかった。見たくないと思った。
○
家に着いて少しすると、千雨が家に来た。
玄関の前で立ち尽くしていて、顔は沈んでおり、体が小刻みに震えている。
なかなか動こうとせず、ひたすらにそこにいる千雨に、とりあえず中に入れ、と私は無理矢理を引っ張り、部屋の椅子に座らせた。
雪姫が千雨の前にお茶の入ったコップを置いた。千雨は小声でかろうじてか細い声でお礼を言って、ゆっくりとそれを飲む。
秒針の音が鳴り響く中、しばらくすると、少し落ち着いて来たのか呼吸が安定してきていた。
この様子だと、もう、聞いているのだろう。
「……この前は、悪かった」
私がそう言うと、彼女はやっと顔を上げた。一度意外そうな顔をして、それから、泣きそうな顔で不器用に笑った。
「……いや、私こそ。今思えば、私の方が無神経だった」
千雨はもう一度、静かにお茶を飲んだ。
「……今日の夜に、通夜をやるらしい」
ああ、と私は返事をする。
憂鬱な気分だった。通夜に行けば、ゆみやむつみもいるだろう。
元気で明るいゆみの泣き叫ぶ声も、クールで落ち着いたむつみの涙する眼も、見たくなかった。その姿を見るだけで、今までの彼女達とは別の存在になるような気がしてしまう。もう二度と、今までみたいに接することが出来ないとなんて、思ってしまう。
それがどうして嫌なのか、今までも誰とも接して来なかったじゃないか。そう問いかけてくるする自分がいた。それすらも鬱陶しくて、答えを言うまでもなく振り払う。
自分の気持ちなど分からんし考えたくもない。ただ、憂鬱であったことだけは確かだった。
前を見た。
俯いた千雨の顔は影が差し込むように暗く、眼鏡の奥の瞳には精気すらないように見えた。あれだけ騒がしかった少女も、今はもう萎れてしまっている。彼女がただの10歳の少女であることは、分かっていたのに、いざ目にするとどうしてか戸惑いを感じてしまう。
「……こういう時って、どうすりゃいいんだろうな」
絞り出すように放ったその言葉は、目的もなく宙を彷徨うような言葉であり、私には受け止められなかった。
「なんか、分からないんだ」
千雨は誰に言うでもなく呟く。誰かに聞いてほしい、と言った話し方ではなく、喋っていないと気が落ち着かないといった様子だった。
「私、爺ちゃんも婆ちゃんも、まだ生きてんだ。皺だらけになって、身体は細いけど、まだ、ふつうに生きてる。だから、誰かが居なくなるっての、初めてなんだ。近くにいた人が……死ぬっていうの」
声は、震えている。コップを持つ手も揺れているからか、カタカタと小さな音が鳴っていた。
「漫画とかだとさ、友達とかが死んでも、一回凹んで、それから、絶対に立ち上がるんだよ。前に進まなきゃあいつが報われないとか、あいつの為にも頑張らなきゃって」
私は何も言わずに、彼女の言葉の続きを待つ。雪姫も、彼女の独白をただ聞いてるようであった。
「で、でもな。自分が、なると、実感がねぇんだ。もう二度と話せないとか、会えないとか、遊べ、ないとか、え、笑顔が、見れないとか、わ、分からない」
つまづきながら、千雨は話し続ける。嗚咽が、部屋に響く。こんな日に限って虫や風の音は一切しなくて、ただ、少女の静かな泣き声だけが、私の耳に届いていた。
「わからねぇ。こんな、こんなに辛い気持ちって、ど、どうすればいいんだ? 泣いても、泣いても、何も変わらないんだ。ずっと胸が穴が空いたように痛くて、頭が割れるみたいに痛い。目を瞑っても、あきほさんの顔が浮かんで、どうしようもないんだ」
眼鏡の奥からは涙が溢れるように出ている。彼女の言葉で、私の頭にもあきほの姿が浮かぶ。
『わ、私! 吉野 あきほって言います!』
私が吸血鬼と知ってなお、笑顔で自分の名前を告げた少女だった。私と、友達になりたいと言った少女だった。優しすぎる少女だった。
私は自分の唇を噛み締めたくなった。
「な、なぁ。い、いつか、この、涙は止まるのか? その時に、私は、死を受け止められているのか? 私、私は、いつか前に進めるのか? 」
私は、どうすればいいのだろう。
懸命に生きている少女が、今、死を知り、傷を受け、自分の立ち上がり方を探している。
赤ん坊が自分を起き上がらせるように。暗闇で光を求めるように。
手探りで、必死に掴める場所を探している。
だが。
私は、自分の手を見た。白く小さな手だが、その中で摘み取ってきた命がいくつあるかは分からないほどだ。
私の手は、差出せるような手ではない。
命を奪い、消してきたこの手は、純白な少女に差し出していいものでもなく、掴んでいい手ではないんだ。
こんな、どす黒く、血に塗れた、この手は―――
「つれぇよ、エヴァ……」
―――ふ、っと身体の中に、力を感じた。
泣きじゃくる千雨の顔を見たら、助けを求めるその声を聞いたら。
私の手は、意識せず、彼女の方に向いていた。
誰かに操られた訳でも、雪姫の力でもない。
私は本当に、気付いたら彼女に手を差し出していたのだ。
「……千雨、前に進もうだなんてするな」
千雨は、顔を上げた。
頬を涙の跡がいくつも流れており、鼻からは今も水が出ている。あまりに不細工であったが、そうは思えなかった。仕方がなかったから、その手で涙だけ拭いてやった。
「いいんだ。その場所で、うずくまって、泣き続けてもいい。心の痛みを乗り越えたら強くなる、立って前に進め、なんて戯言に騙されるな。痛みはずっとお前の中に残る。生きていればこれからも、傷を負い、苦しくなっていく。それでいい。泣いて、止まって、馬鹿みたいに泣け。そして、泣きまくった後に、鼻水を垂らした顔を、上げろ」
言葉は、自然と出てきた。
打算もなく、意図もなく、ただ、私は私が言うべきだと思った言葉を口から発していた。
「誰かが居てくれる。懸命に生きたお前の横には、絶対に誰かがいる。膝を折って、お前と目線を合わせてくれるそいつに、肩を貸してもらえ。立てたら、一緒に話でもしていろ。それだけでいい。いいか、無理矢理前に進まなくてもいいんだ。お前はただ、あいつの傷を負ったまま、生きればいい。出来れば、あいつの分健康に生きればいい。それだけで、いいんだ」
○
「……強い言葉だったわよ」
「ふん。あんな言葉で、正しかったかも分からん」
目を真っ赤にし、ふらついた足取りで家から離れていく千雨を窓から見ながら、私と雪姫は会話をしていた。
本当に千雨を元気付けようと言うなら、もっと適切な言葉があったのだろう。もっと言うべき人物がいたのだろう。むしろ、しっかりと前に歩けるように助言するのが良かった気さえする。
しかし私は、ただ自分の思ったことを述べたにすぎない。慎重に考えるでもなく、私に言えることはこれしかないと思ったから言っただけであった。
「心の立ち直り方に正解なんてないわ。貴女は千雨ちゃんのために、真剣な言葉をあげた。あとは、千雨ちゃんがどう受け止めるか。それだけよ」
雪姫は、目を閉じながらそう言った後、立って私に向き直った。
そして、両手を広げて、言った。
「エヴァ。貴女も泣いていいのよ」
「泣くか」
「本当に?」
「……こんなことは、もう慣れてる。泣くわけないだろう」
「慣れるものじゃないわ。貴女も言ったでしょう。傷は、貴女にも付いてるのよ」
「もう傷だらけなんだよ。今更一つや二つ増えたところで、何も変わらん」
雪姫は、私の言葉を否定するようにしっかりと首を横に振った。
「エヴァ。貴女に付いた傷も、間違いなく貴女を痛めている。確かに人より長く生きた貴女は多くの傷があるかもしれない。でも、貴女はその痛みに慣れた訳じゃない。ただ、泣き方を、伝え方を、忘れてしまっただけ」
何故か、今まで生きてきた600年が、頭の中に流れ込んできた。
荒れた大地の上をひたすらに一人で歩き続けた時があった。足は切れ、喉は枯れ、声も出ない。枯れ木を杖にして、ボロボロになった布を纏って何の目的もなくただ足を前に出していただけの時期があった。
人に見つかれば石を投げられ、焼かれそうになる。それでも私は、血だらけの足でただ歩いていた。
……辛かった。辛かった。辛かった。
でも私には、それを伝える相手が、居なかった。だから、一人で前に進むしかなかったのだ。
つれぇよ。
そう呟いた千雨に言葉が出たのは、辛いと言える彼女が、そう言える相手がいた彼女が、羨ましかったからなのかもしれない。
「……そう、かもな」
雪姫の言うことは、間違ってないだろう。
私には、弱音を吐ける相手がずっといなかった。こんな私になってから周りはずっと敵だらけで、私の助け声を聞き入れる存在がいないと悟ってしまっていた。だから、誰かに辛い、ということは忘れてしまっていてもおかしくはなかった。
「だから、私に言えばいいのよ」
「……いや、いい」
「……もう意地を張るんだから」
雪姫は、いきなり私に近付いてきた。
そしてそのまま、私を包み込むように、抱き寄せてきた。
「……なっ! 何をしている!? 離せ! 」
「嫌」
暴れる私を抑えつけるように、雪姫は腕に力を込めていた。身長差もあってか力はどう考えても私の方が弱くて、必死に間に腕を入れても、んぐ、という情けない声とともに私の顔は彼女の胸に飛び込んでいく。
「……な、なんのつもりだ」
「エヴァ、よく聞いて」
優しい声だ。どうしようもないくらい穏やかな声だ。私の髪を、さらりと撫でながら、雪姫はゆっくりと語った。
「泣くとか、泣かないとか、別にどっちでもいいの。でも、無理はしないで」
「む、無理など……」
「してるわ。わかるもの」
雪姫は、私への拘束を解く気はないらしい。金縛りもなく、単純に力だけの抱きしめを、私は振りほどくことが出来なかった。
「後悔してるの? 」
その言葉は、私の胸に刺さった。
私は雪姫への抵抗を諦めて、腕の力を抜いた。
そして気付けば、口に出していた。
「……うそを、ついてしまった」
一緒に、買い物に行けるなどと。映画に行けるなどと。
死が訪れると、知っていながらも、私は彼女に希望を持たせてしまった。
希望を持って死ぬのと、絶望のまま死ぬの。どっちがいいかなんて私が決めることではない。ただ、事実なのは、私は彼女がそんなこと出来ないと分かっていながらもそう言ったことだ。
「エヴァ。良し悪しなんて、正解不正解なんて、決められたものじゃない。事実なのは、貴女が嘘をついたことじゃない。貴女が、あきほちゃんを想って言葉を話したということ。貴女が最後に、友達に優しさで接したということ」
「……だとしても」
「自分を責めてもいい。悩んでもいい。でもね、私は知ってる。あきほちゃんも知ってる。エヴァが、彼女に対して真剣だったこと。だから、私が貴女を許してあげる」
雪姫がどんなに言葉を吐こうが、私がしたことは変わらない。あきほが消えたことは変わらない。雪姫に許された所で、何の関係もない。
だというのに、この気持ちはなんだ。
心の底を、撫でるような。胸の奥を、暖めるような。どうして、この感覚を、懐かしいと感じるのだろう。どうして、こんなにも縋りたくなるのだろう。
私が、雪姫の背中に、手を伸ばそうとしたその時。
轟音と激しい衝撃が家の壁を破壊したのが、かろうじて分かった。