それは確か、ちょうど蝉が鳴き始めたくらい時期だった筈だ。
小学校の夏服を着た私の腕に、まとわりつくようにしっとりした汗が付いていたのを覚えている。
照りつける日差しは強くて、あー紫外線っていうのはこのことか、なんて覚えたての言葉を浮かべながら私は公園のベンチに座っていた。
何をしていたのかって?そんなの、覚えている訳ないだろ。
ただ、ランドセルを背負ってた覚えがあるから、きっと放課後だろうな。
学校が嫌で陰鬱な気分になっていたのかもしれないし、両親と喧嘩して家に帰るのが億劫になっていたのかもしれないし、暑いのが辛くて木陰のあるベンチで暇を潰していたのかもしれない。
分からないが、多分ネガティブなことがあったんだと思う。何もなければすぐ家に帰ってダラダラとパソコンでもしてるし、そもそも当時はあまり楽しかったという思い出もなかったから。
そこ、悲しい小学生とかいうな。自覚はあるが。
話を続けるぞ。
とりあえず、当時の私が何か意味のないことを考えて座っていたら、声を掛けてくれた人がいたんだ。
「あのぅ、すみません」
そう言われたが、あまりに弱々しい声だったから、最初は私に話しかけてるのではないな、と思って無視したんだ。
そしたら、また同じボリュームで、同じことを言うんだ。
普通は2回目は声を荒げたりするよな? そんなこともしないから、それじゃ聞こえんだろ、と思って顔を上げた時、目の前にその人がいた。
思わず驚いてしまい、ランドセルを落としそうになった。すかさず、だ、大丈夫ですか、と本気で心配されたので、私は手ぶりで大丈夫ということを伝えて、その人のことを見た。
その女性は、中等部の制服、つまり今の私たちと同じ格好をしていた。背丈は低く、肩につかないくらいの黒髪は内側に少し巻かれていて、ボブと呼ばれる髪型に近かった。
そうだな、雰囲気は宮崎に似てたよ。目は前髪で隠れてなかったけどな。あと、中学生にしては幼い顔つきをしていて、年上、という印象はあまり抱かなかった。
「これ、あなたのですか? 」
そう言って彼女が差し出してきたものは、小学校の学生証だった。
そこには年度の初めにとった目付きの悪い私の写真が貼られていて、それが他人の手にあると言う事実がどうしようもなく恥ずかしく思えた。分かるだろ? 写りの悪い写真を他人に見られたくないって気持ち。
落ちてましたよ、と笑ってくれる彼女に目も合わせず、私はひったくるようにそれを奪って、どうも、とどもりながら言った。相当に態度が悪かっただろうに、彼女は笑顔でどういたしましてと返してくれた。
「小学校の近くにある駄菓子屋の前くらいに落ちてたよ」
買い食いでもしたの、と続ける彼女に首を横に振り否定した。多分、たまたまそこで靴紐を結び直した時に胸ポケットから落ちたのだろう。しかし、気になることがあったから、私は訊いた。
「……あそこからここまでってかなり遠いですよね。もしかして、ずっと探してくれてたんですか?」
「ないと気付いたら、困るかなって思って」
なんというお人好しなのだろうって思った。
拾わず無視することも、小学校の誰かに届けることも出来た筈だ。それなのに私を探して届けてくれるのは、結構な労力だろう。彼女の笑顔の裏には打算なんて全く見えなくて、人のために、なんて言葉は偽善と信じて疑わなかった当時の私にとって、その行動は衝撃的でもあった。
「わざわざありがとうございます」
流石に私もお礼を言ったと思う。
「ううん。大丈夫だよ。ああ、でも、ついでに少し聞きたいことがあるのだけれど、いいかな」
あくまで下手にでる彼女に、私は頷いた。すると彼女は一枚の紙を私に見せるように拡げてきた。どうやらこの街の地図だった。
授業以外で街の地図を見るなんて経験はそれが初めてで、なんとなくそれだけでこの人は真面目な人なんだな、という印象を受けた。
「ここに行きたいのだけれど、ちょっと道が分からなくて……」
指さすところを見れば、街の少し外れにある林の方へ行きたいようだった。
なんでそんなところにって、それはもう少し訊けば分かる。そん時の私もきっとお前らと同じことを思っただろう。
「えっと、この道をまっすぐ行って、小川を上流に沿うように歩けば近いとこまで行くと思います」
「ありがとう」
私は小学生だというのに、彼女は気にする様子もなく丁寧に頭を下げてくれた。
「私、あんまり外を出歩いたりしないから、道とかよく分からなくて……」
確かに、そんな街の外れの道は近所にいなければ行くこともないし、そのくせ見渡しが悪いから土地勘がなければ迷うのも分かった。
頬をかきながら困ったように彼女は言ったから、わたしは反射的にこう言ってしまった。
「……そこまで、案内しましょうか?」
自分でも驚いた。極力人に関わることを避けて来た筈なのに、そんなこと言うなんて。彼女のお人好しさに当てられていたのかもしれない。
しかしそう言ったあと、これは悪い提案ではないと思えた。
苦労して私を探してくれた彼女に、言葉でだけお礼してハイおわりとするのは、私自身納得いってない所があったからだ。
「でも、悪いよ」
「……いえ、私は全然。時間あるので」
一瞬だけ気温の高さに憂鬱を感じて後悔したけれど、ずっと学生証を持って私を探してくれた彼女にそんな風に言う訳にはいかなかった。
彼女は私のことをおもむろに見つめた後、柔らかく笑った。
「それじゃ、お願いします」
○
案内をしながら、成り行きでお互い自己紹介することになった。
彼女の名前が、吉野あきほ、というのもその時初めて知った。
当時の私は、中学生という人達は、もっとしっかりしてて、大人で、怖い存在に思っていた。
今のお前らを見ていても全くそうは思えないが、上級生や上の学校の人が怖いって気持ち、なんとなく分かるだろ?
親と過ごす実家暮らしから寮暮らしへと変わって、大抵のことを自分でやるようになり、ランドセルを背負わなくなったその日から、小学生という殻を破った大きな存在。それが中学生だと思ってた。
でも、その少女は全くそうは見えない。言ったら悪いが、弱々しくて、小学生とそう変わらないようにも見えた。
しかしその一方で、落ち着いて、優しげで、その雰囲気は本当の大人っぽさて感じがして、私はなんとなく憧れを抱いたりもした。
「それじゃあ、吉野さんは休んだクラスの友達のところに届け物をしに行くところだったんですね」
「うん……そうなの」
少し困ったように返事をしたので、疑問に思うと、彼女は呟くように話してくれた。
「友達、って私は思ってるよ。でも、あっちはそう思ってくれてるか分からないの」
「……そうなんですか」
私に気の利いた返事なんて出来る訳がない。友達とも碌に話さないのに、年上の相談になど乗れる筈もない。
「それより、敬語喋りにくかったら普通に喋ってくれてもいいんだよ?」
「でも、自分小学生ですけど……」
「私だってまだ中学生だよ? そんなに変わらないよ」
学校というのは、学年の差で先輩か後輩かが既に決めつけられていて、その関係は絶対に変わることがなく、下のものは先輩に逆らえず敬語で話し続けなければならないというルールがあるものだと思っていた。小学校ですらそうなのだから、中学ではより厳しいと聞いていたのだが、この人はそういうことを全く気にしない人であった。
本当に。本当に友達のように、私に話しかけてくれるんだ。
私が年下だからといって上に立とうとする気もなく、同じ目線で話してくれる。
「そうだ。千雨ちゃんって呼んでいい?」
それでも、そう言われた時は正直かなり気恥ずかしかった。名前で呼ぶなんて友達でもいないくらいだ。断りたかったのだけれど、その純真で無垢な瞳にしっかりと見つめられたら、嫌です、とは言いづらかった。
「はぁ、まぁ、いいですよ。」
結局私は承諾した。
しかし、こんなことだけであきほさんは頬を緩めて嬉しそうにしていて、私はなんとなく対応しづらかった。
優しさに溢れたその笑顔は、私の周りにはいないタイプで、どう接するのがいいのかよく分からなかった。
「でも敬語は別にいいので、使わせて下さい。それで、その友達って、どんな人なんですか?」
あきほさんはうーん、と考えてから話した。
「すごく綺麗な人。金色の長い髪が素敵で、白い肌は雪を見ている見たい。話す時にね、ちょっと緊張しちゃうの」
「それは、すごいですね」
そこまで手放し褒めるので、私は純粋に興味が湧いてしまった。芸能人を見る感覚、というのに近いのだろうか、美しい人がいると言われたら、同性でも見てみたいと思ってしまう。
○
本当にこんなところに住んでいる生徒なんているのだろうかと、案内している途中で思った。
周りには店もなく住宅もなくあるのは木々だけ。もしかしてあきほさんは騙されているんじゃないだろうか。クラスの苛めっ子にありもしない住所を教えられ、そこにちゃんと届け物しろよ渡すまで教室入るんじゃねぇぞ、なんて言われて。純粋なあきほさんで遊んでいるのではないだろうか。
そう思うと、私が胸が熱くなるくらい苛ついた。まだ会ったばかりの人だが、こんないい人を騙すなんて許せねえ、とまで思った、
「千雨ちゃん、どうしたの?」
「いや、その、あきほさんって……」
虐められてるんですか、なんて率直に聞けるはずもなく、私がゴニョゴニョと言い淀んでいた時、あきほさんは、手を前にして指をさした。
「あ、あったよ。ほら、あそこじゃない?」
え、と思いながら見て見ると、そこにはたしかに家があった。
ログハウスと言われるものを実際に見たのは、それが初めてだった。
木で組み立てられたその家はまるで作り物みたいで、私は柄になく感動してしまった。
「ここ、玄関だよね」
あきほさんは意外と臆すことなくドアの前に立って、ドアを見つめる。
「呼び鈴、ないね」
そう言ってそのドアをこんこん、と鳴らした。
「はあい」
少し経ってから女性の声が聞こえて、ドアが開いた。
現れた女性は、とても綺麗な人だった。
肌が白く、背は高く、腰まで届くような金髪はまるで宝石のように輝いていて、私は思わず息を飲み込んだ。
なるほど、確かにこの人と話すなら緊張してしまう、と思った。
「あら、あなた……」
「あ、あの、私、エヴァンジェリンさんと同じクラスの、吉野あきはと言います。あの、今日エヴァンジェリンさん休まれたので、プリントとか、持ってきました」
あきほさんはたどたどしくその女性にそう言った。そして私は、この人があきほさんの友達でないことにやっと気付いた。普通に考えればこんな中学生がいるわけがない。綺麗という情報で判断してしまったが、この人はきっと母親なのだろうと、私はもう一度その美しい女性を見ながら推測した。
「あきほちゃん、ありがとね。それで、そっちの子は」
「え!? えっと、私は……」
「私の友達の長谷川千雨ちゃんです。ここまでついてきてくれました」
口籠る私の代わりに、あきほさんは私を紹介してくれた。それが頼もしくも恥ずかしくも感じて、私は、ども、と短くお辞儀をした。背中に背負うランドセルが場違いのような気がして、すぐにでも降ろしたいと思った。
「あの、エヴァンジェリンさんの体調は……?」
「ああ、もう大丈夫よ。ただの風邪みたいだし、しばらく寝たら良くなったみたい」
「良かった……」
胸を撫で下ろすようにして心から安心しているあきほさんの目線に合わせるように、女性は少し脚を曲げた。
「せっかくだから、顔を見ていかない? あの子、喜びはしないけど、驚くわよ」
悪戯っ子っぽい笑みを浮かべたその人は、急に幼くなったように見えた。
しかし、喜ばないとはっきり言うのはどうなんだと思った。
「で、でも」
「いいからいいから、ほら、貴女もどうぞ。お茶くらい出すわよ」
そう言って、女性は私たちの背中をぐいぐいと押して家の中に招き入れた。私はそこまでするつもりなどなかったのだが、押しに弱いのであっさりと迎え入れられてしまった。
家の中は洋風で、人形などの小物が沢山飾ってあった。どれも手作りのようだがとても良く出来ていて、じっくり見て見たくも思ったが女性が私達を先行して進んでいくので立ち止まりにくかった。
一つの部屋の前に立ち、コンコンと女性が扉をノックする。
「エヴァ、入るわよー」
そう言って、返事もしないうちに扉を開けた。プライバシーも何も感じなかったが、家族ならそういうものだろうと私は納得した。
「……お前、まだその姿でうろついていたのか」
部屋に入れば、ベッドの上に、少女が座っていた。まるで人形のような少女。
彼女がエヴァンジェリンで、その時が私たちの初対面だった。
……今言うのは少し気恥ずかしいが、あきほさんの言うことも分かると思った。美しい女性とよく似たこの少女と話すのは、緊張してしまうかもしれない。
少女は機嫌が悪いようで、眉を寄せた表情で女性を睨みつけていた。
「その格好を辞めろと言っただろう。さっさと私の中に戻れ」
「だって、あのままじゃ看病も出来ないじゃない。貴女、強いくせに風邪なんかにかかっちゃうから」
「うるさい。呪いで抵抗力も弱まってるんだ。それと、なんでその格好だ。私の姿を使う必要があるか」
「正確には、貴女が幻でみせる大人になった姿ね」
「どっちでも一緒だ」
その時は、その会話の意味が全くわからなくて、私もあきほさんも呆然としていただけだったと思う。
少ししてやっと、エヴァは私達に気付いた。
「……なんだそいつらは」
「あきほちゃんとそのお友達ですって」
「そういうことを聞いてるんじゃない。なんで家にいてしかもこの部屋にまで連れてきてるのか聞いてるんだ」
「学校のプリントを届けに来てくれたのよ」
「そうでもなくて、なんでわざわざ私の前に連れて来たのかを……。はぁ、もういい」
頭を抱えるようにしてうな垂れたエヴァは、心底疲れているように見えた。
「あ、あの、エヴァンジェリンさん。風邪なのにごめんね? 大丈夫? 」
「ああ、大丈夫だ。だからお前は置くものを置いてさっさと帰れ」
私は、その態度にカチンときた。
わざわざこんなところまで届け物をしてくれたあきほさんに、その態度はないだろう。
「あんた、普通はまずお礼を言うもんじゃないのか?」
「ああ? なんだそのガキは」
「あんただって、背丈はガキと変わらないじゃねえか」
「なんだと?」
「千雨ちゃん、私は大丈夫だから、落ち着いて。ね?」
睨みつけてくるエヴァに、私も睨み返す。
その間に入ってくれたあきほさんは困った顔をしていて、私は少し心苦しかったが、それでも怒りは収まらなかった。
その時、コン、という音が部屋に響いた。
女性が、エヴァの頭を軽く叩いたのだ。
「エヴァ、千雨ちゃんの言う通りでしょ。まずはお礼よ」
「別に頼んでないだろう。なんで私が……」
「エヴァ」
「……はぁ。わかったよ」
そう言って、エヴァはあきほさんとしっかり向き合った。
「届け物、助かった。これでいいか?」
「あんたなぁ、もっと言い方が……」
「千雨ちゃん、いいの。エヴァンジェリンさん、どういたしまして。勝手に部屋まで入ってごめんね」
やっぱりあきほさんは凄く出来た人で、自分が悪くなくてもしっかりと頭を下げて謝っていた。それを見て、私がこれ以上ややこしくするのはきっと間違っていると思い、私は怒りを胸にしまった。
「お母さんも、エヴァンジェリンさんに会わせてくれてありがとうございました」
「いいのよ、私が連れてきたのだから」
そう言って、女性は優しくあきほさんの頭を撫でていた。
すると、エヴァはまた機嫌の悪くなった顔をして、おい、と私達に言い放った。
「誰がお母さんだ」
「え、あの、この人がそうかと……。ごめんなさい。違ったの? 」
ああ、姉だったのか、と私は一人納得した。母親にしては若い人だとは思っていたから特に不審には感じなかった。
「違う、そいつはただの……居候みたいなもんだ」
「はぁ? こんなにそっくりなのに、そんなことあるかよ」
「あるんだよ」
ぶっきらぼうに言うエヴァは信用出来なくて女性を見るが、その人は否定もせずにいたので、まじかよ、と私は呟いた。
「すみません勝手に勘違いしてて……。あの、貴女のお名前は……」
「ああ、そう言えば名前を付けてなかったな。タマとかそんなんでいいんじゃないか」
「なんであんたが名付けるんだよ。ペットじゃねぇだろ」
「ペットみたいなもんだ」
「お前……!」
流石に無礼すぎて、私はまたエヴァに対して怒りをぶつけようとしたが、それを遮るように、しん、と心に響くように聞こえた声があった。
暑い筈の日だったのに、汗はすっかり引いていた。喧しく鳴いていた蝉の声も、いつのまにか聞こえなくなっていた。私達は皆、その女性に注目していた。
「雪姫よ」
女性は、雪姫さんは、自分の胸に手を当てて、もう一度言った。
「私の名前、雪姫って呼んで」
長らくお待たせして本当に申し訳ありません。
これからはちょいちょい投稿していきますので、どうか宜しくおねがいします。