prologue
00
時折、青年は思い出す。
まだ彼らが一つだった時代。
冷たくて残酷な世界であったけれど、確かにあった温かくて優しい時間のことを。
「先輩、先輩っ!」
異界存在研究機関の長く、無機質な廊下を歩く青年の背中に快活な少女の声が掛けられた。
青年が後ろを振り向くと、既に見慣れた少女の姿が視線の先にあった。
研究に関するレポートをまとめたファイルをいくつも胸に抱えながら、少女は青年の所へと走って来る。後頭部でまとめてある黒髪のポニーテールが、彼女が動くたびに、尻尾のようにぴょこぴょこと動くのが青年の笑いを誘った。
「ぷぷっ」
「どうしたんですか、先輩?」
「いや、なんでもない。で、何のようだ?」
青年はいつものように問うた。
すると、どうしてだか少女は半目になって青年を睨んだ。
「…………先輩……もう少し口調を柔らかくした方が良いですよ」
「すまない、性分だ。そも、ある程度付き合いがあるお前に気を遣っても今更だろう?」
「関わってきた時間の問題ではないのです。女の子に対して、もっと優しく接するべきですよ」
「らしくない言葉だな。お前のそれではないな?」
「はい、彼女の言葉です」
大変嬉しそうに少女は笑う。
「って、先輩っ!話を逸らさないでください!」
「いや、話は逸らしてないと思うが」
「先輩が原因ではあります」
「確かにそうだが、既知の事実である以上―――」
「ああっ、もうっ、別にどうでも良いことじゃないですかっ」
「どうでも良くない。責任の所在は重要な問題だ」
「じゃあ、先輩持ちでお願いします。男気を見せてください」
「勝手に決めるな。」
少女は無視をする。青年の言葉に聞く耳を持たず、青年の横を通り抜けた。
釈然としない青年だが、肩を竦めるだけで問い詰めることはしない。女心はよくわからないものだ、といまいち的を得ていないことを思いながら、彼を置いていった少女の後を追い、そして聞く。
「で、一体どうしてそんなに嬉しそうなんだ?」
「よくぞ、聞いてくれましたっ」
えっへん、と少女は胸を張って言った。大変得意げな様子である。
(現金な奴だな……)
毎度のことだが、少女の態度の変わりように青年は心の中でぼやく。いや、青年にとっては既に慣れたことなのだが、毎度毎度そう思ってしまうのは青年の性だ。
「実はですねぇ、ムフ」
「推しキャラを前にしたマックみたいな顔をしてるぞ」
「先輩、それはひどいですっ!あんなキモイ人と一緒にしないでくださいっ」
「そこまで言わなくても良いと思うが……」
「以前女の子のフィギュアに頬ずりしてたのを見ました。流石に気持ち悪かったです」
「あー……それは……」
「オタク趣味は否定しませんけど、やっぱり許容できる限界があります。人形を愛でるのは全然構わないのですが……どうにも……受け入れ難いです……」
「仲間だけの閉じた場でなら、その流儀に則っていくらでも楽しめば良い。でも、公共の場では自重しなければならない。当然の配慮だな。分りやすい例えは、いくらバイクを乗り回すのが好きだからって、暴走族みたいに人に迷惑をかけるようにはなってはいけない。つまりはそういうことだ」
「まったく、その通りです―――って、なんでこんな話してるんですかっ」
「お前が『ムフ』とか言ったからだな」
「先輩が突っ込んだからです。つまり先輩の責任です」
「―――まぁ、そうだな……間違ってない……」
「なんですか、その煮え切らない返事は」
「その場合だと、さっきの案件はお前の責任になるが…」
「過去のことを持ち出す面倒な男は嫌われますよ」
「徹底的に回避したがるな……」
そこまで回避したがるのは少女にトラウマでもあるのだろうか?
「なんかあるなら、相談しろよ?」
「なんですか急に!」
「いや、辛いことがあったら、な?」
「今は、先輩が話を聞いてくれないのが辛いです」
少女は心底呆れた様子で青年に言った。呆れた、ではなく諦めたとしても良い。
そうして、ようやく二人の会話は本題へと移る。
「実はですねぇ。今度の日曜日に彼女と一緒にオーストラリアの某ネズミのテーマパークに行くことになったんです!」
「おおっ」
「しかも二人でですよ、二人で!ちゃんと彼女の自由行動許可証ももらいました!」
勢いよく少女はファイルの束から取り出した一枚の紙を青年に見せつける。それは対異界存在兵士の任務外での自由行動を認めるという内容が書かれた国連の正式な書状だった。
「これで無粋な監視役なしで休暇を楽しめます」
「よく許可が下りたな」
「私の人徳と功績故ですね」
「百パーセント、彼女の人徳と功績だ」
青年はばっさりと少女の言葉を切り捨てる。
むー、と頬を膨らませる後輩を無視して青年は続けた。
「対異界存在兵士は、いわば人類の希望であり、また人類が史上初めて対面する同レベルの知能を持ってる知的生命体でもある。おかげで、彼女達は期待と不信の二重の檻に囚われたお姫様状態だ。そう言った事情で、国連の監視下に置かれているべき彼女達が国連派遣の監視役なしで行動できるには、相当の信頼が必要になる。まぁ、でも、彼女ならば、当然といえば当然だな」
「上の評判も良いですし、軍内でも人気者だそうですね。ギリシアの女神とか呼ばれているそうですよ」
「もう少し捻ったらどうなんだろうか。まんまじゃないか」
「先輩だったら、どうつけます?ラノベとかアニメだと、中二っぽい名前出てくるんじゃないですか?」
「
「――似たようなもんじゃないですか」
「ナイチンゲールとかけてみたんだが」
「おもしろくないです」
「マックとアイツになら受けるかもなぁ……」
数少ない二人の親友の反応を青年は想像してみる。
…。
……。
………。
「駄目だな」
「急に黙ったとおもったら、突然どうしたんですか?」
「なんでもない」
「は、はぁ…」
「それよりも、だ」
「それが何を指しているか文脈から全く判断できませんが、なんですか?」
「楽しんで来いよ」
青年が少女の背中を叩く。
軽く、それでも激励するように強く。
「滅多にない機会なんだ。目一杯楽しんでこい。異界存在との戦いは激化する一方。彼女達が、彼女がいつ死ぬかはわからないんだ」
だから。
「後悔の無いように楽しんでこい。例え一日限りの夢だとしても、お前たちだけの時間は確かにあったと言えるのだから」
青年は少女の背中を叩いた掌で押し出した。
突然の押し出しに少女はつんのめった。僅かばかりバランスを崩す。
少女は体勢を立て直すと、背中を押した先輩にしかめっ面で振り返って一言二言文句を言った。
「危ないじゃないですか、全く」
「今日はなんだか怒ってばっかりだな」
「……先輩が悪いんですよ。急に詩的なことを言い出したかと思えば……聞いているこっちが恥ずかしいです」
でも、と少女は言葉を区切った。そして、続ける。
「先輩の言う通り、楽しんでこようと思います。これからを生きていけるように、未来を生き抜くために、一杯笑って、一杯思い出を作ってこようと思います。
帰ってきたら、嫌というほど土産話を聞かせますから、覚悟してくださいね!」
人差し指を青年の眼前に突きつけて、少女は宣言する。
そして、晴れ晴れとした様子で微笑むのだった。
これはもう取り戻せない少女との一幕。
それを思い出す度に、青年は何度も自分自身に問いかける。
もっと早く引き留めていれば、少女だけでも不条理に囚われなくても済んだのではないだろうか、と。