07
本日二度目の覚醒であった。
「……ん…むぅ……」
体の気怠さを吐き出すように重々しくシンは呻く。
一体何がどうなったのか。とりあえずわかることと言えば、白衣を脱がされ固いベッドの上に寝かされているということだけだった。
辛い体を動かして、シンは起き上がろうとする。
けれど、
「まだ寝ていてください。かなり消耗していたみたいですからぁ」
甘い砂糖菓子のような声がシンの動きを制した。
声の主はエロースである。気絶したシンを彼女が此処まで運んできたのだ。
「あの後やってきたオティヌスから色々聞きましたぁ。随分無理をしていたようですね。ミノタウロスを倒した後に気絶するなんてぇ、焦りましたよぅ…」
「たはは、情けなくてごめん」
シンが軽く受け流そうとすると、エロースは眉を顰めた。
「笑いごとではないですよぅ。貴方の左腕は酷く体力を消耗するものだとオティヌスから聞きました。病み上がりにそんな戦闘するなんて、無茶しすぎですぅ」
実際、シンが消耗していたのは事実だった。
病み上がりと連続のスリロスの形成、そして何よりメギドの使用が大きな負担となっていた。
シンの鬼札中の鬼札であるブラフマーストラβ。使用の反動で二十時間以上のレストを必要とする代物であるが、ブラフマーストラβ以外にもレストが必要なスリロスは存在する。
その一つがメギドだ。赤外線による熱攻撃という生体から形成した武器とは思えない攻撃手段を用いるそれは、莫大なエネルギーを必要とする。M細胞を外部から取り込むことにより多少の軽減を図っているが、それでもシンの負担は大きい。必要とされるレストは三時間。その時間内にスリロスを形成すると、シンは大きく疲弊する。
無論ブラフマーストラβと比べると消耗が遥かに少ないことからわかるように気絶するほどに疲弊するわけではない。だが、病み上がりだったのが悪かった。シンが思っていた以上に、彼は体力を消耗していたのだ。
「熱は出ていませんけど、今日一日は寝ていてください。また熱がぶり返すといけませんから」
そう言ってエロースは木製のお椀をシンに差し出した。お椀の中には白っぽいドロドロしたものがよそられていた。
「米と菜っ葉を大量の水で煮た料理です。オティヌスから教えてもらったお粥というもので、此処よりも雨が多い地域では体調の悪い人に食べさせる定番のものみたいです」
「米?上から見た限りだと、此処は小麦を作っているみたいだったけど。何処で手に入れたの?私は持ってないよ?」
「行商人の方から買ったものですぅ。村の物は安全性が保障されませんから」
「安全性……?」
エロースの奇妙な発言にシンは首を傾げる。
「この村で起きているちょっとした問題なんですけどぉ……シンさんは疲れを取ることに専念してくださいねっ!今日はまだ安静な状態でいること!いいですね!」
有無を許さないエロースの口調に逆らえず、シンは力の抜けた笑みを浮かべてこう答えた。
「わかった。お前がそう言うなら、素直に甘えさせてもらうことにするよ」
焦っているのは大方オティヌスからシンの性格を聞いたからだろう。重たい体を引きずって、首を突っ込みかねないと思ったに違いない。
「それでは、私はおばあちゃんのとことに行ってきますから、何かあったら読んでくださいねぇ」
エロースはシンを一瞥すると、扉を開けて出ていった。
シンは扉が閉まると同時に、虚空にこう問いかける。
「バイタルは?」
左目に電子的な色が光る。
〈
『内臓や骨に問題はありませんが、筋肉が少々やられています。あとは疲労の蓄積ですね。エロースの言う通り、今日はゆっくり休むべきです。それに私の電力も減ってきたので、補充をお願いします』
「了解。まぁ、殊更急ぐ必要もないから問題ない……か」
『まさか、計画派から休戦協定を提案してくるとは思いませんでしたね。てっきり反乱分子は潰してくるものだと』
計画派つまりラグナロク教会と対立していると判明しているのはシンだけだ。記憶のないキラープリンセスや人々がラグナロク教会に対立するはずがないし、もし記憶を持っていたとしても彼らには対立する理由がない。彼らには何が起きたかどうか分からないからだ。
シンを潰さなかった理由はおそらく、
「俺達をたやすく潰せるからだろうな」
『あの時、〈女帝〉が見せた魔術。本物の
「すれば、という仮定は無意味だ。何せ魔術と銘打っていても、その本質は科学。誰でも使えるように簡易化し普及させるのは科学の得意分野だ」
『では、急がなければ手に負えなくなるのでは?奏官にまで技術が与えられれば、私達では対抗できなくなるほどの戦力になってしまうのでは?』
「いや、それはない。仮にも計画派は宗教組織として活動している。ラグナロク教会最高組織の教皇庁重鎮の御業が誰にでも使えるようになってみろ。一気に教皇庁の神秘性は損なわれ、権威は失墜するぞ。十字軍に失敗した教皇みたいにな。事実、王や貴族によって構成行政組織もあるようだし、教会に不満を持つ奏官を中心に王を担ぎ上げて反乱を起こす可能性もなきにしもあらず。形骸化の元で王権神授のダシに使われるのは、計画派も真っ平御免だろう」
『なるほど、組織運営も色々面倒ですね。ただ、何故そこまで面倒にしたか、というのが疑問ですけど』
「どういうことだ?」
〈
『もっと効率的な統治体制にできたのではないか、ということです。何故ラグナロク教会の一強ではなく、王や貴族との二つの柱で天上世界を治めるようにしたのでしょう。計画の早期完遂を実行するならば、彼らは障害としかなりえないと思うのです。教会がキラープリンセスという強大な戦力を占有しているのは面白くないはず。当然、教会の動きに彼らは口を出してくるでしょう。計画派からすれば、それは好ましくないことです。つまり、王や貴族は計画上の無駄な要素。いっそのこと政教一致にした方がや断然組織的に動きやすいのでは?」
「確かにその通りだが…………それは神話時代の動乱が関係してくるだろうな」
創世戦争というワードが一人と一機の沈黙の裏に浮上する。
数多の悪魔の到来。世界樹ユグドラシルの成り立ち。人々の神器信仰の発端。
ラグナロク教会が語る神話には天上世界の人類史のあらましや教会が掲げる教義等が小話を交えて語られている。
創世戦争というのは、神話の中で最も詳細に語られている天上世界創世期の動乱のことだ。
「神話になっている以上脚色が多いが、そこにはある程度の歴史的事実が含まれていると推測できる」
コルテ大規模討伐戦後に現れたアンナの言によると、確かに創世戦争は現実に起きている。神話における創世戦争は史実の創世戦争を元に構築されているはずだ。
「イェナー・ハーフナー、テナ・キルア、アンドレア・サールマン等々。創世戦争時に人々を率いていた英雄は存在する。彼ら自身が、もしくは彼らの子孫が人々の心を集め、教会成立よりも前に小さな政治組織を構築していれば、計画派も彼らを無碍にはできない」
『後に唐突に出てきたラグナロク教会が彼らを排除すれば、確実に人々に怪しまれる。計画派は出遅れていた。英雄たちと比肩することが限界だった。貴族と教会の二大権力による統治に収めるのが、計画派の最善手だったというわけですか』
そうだ、とシンは首肯し、こうも続ける。
「計画派は科学者であって政治家じゃない。計画派が政治体制を築き上げることが出来た方が、俺は不思議だけどな」
考察が終わった所で、シンは粥を口に運んだ。
粥はすっかり冷めてしまっていた。勿体ないことをした、とシンは食べながら悔やむ。
粥を食べ終わり、手近なテーブルに空の椀を置くと、
「じゃあ、〈
「うるさいなぁ……誰だよ…一体…?」
ごそごそと家の奥で何かが蠢く音がした。
「(〈
『了解しました』
左のこめかみを押して〈
未だ声の主は姿を現さない。「あぁ……うぅん…」と眠たげな声が聞こえてくる。ごそごそ、という物音も同様だ。
シンは目を凝らして、物音がする方向を見る。
馬車でシンが使っていたような薄汚れたボロ布がうぞうぞと動いている。どうやら何者かが布下で眠っていたようだ。シンと〈
「よ~いしょ~っとぉ~」」
億劫そうな声を上げて、ボロ布の主は体を上げた。
姿を現したのは少年だ。ボサボサで、白い
少年は首を回し、腕を上に伸ばし、体の強張りを取った後、目をこすり、欠伸をする。そうした一連の動作を緩慢に終えた後、ようやくシンと少年の目があった。
(どうしたものか……)
〈
しばしの沈黙。
そして、沈黙を破ったのは気怠そうな少年の方であった。
「どぉも」
片手を挙げて、その少年は短く挨拶する。
「………ども」
少年の意外にもフランクな挨拶にシンは面食らう。少年の動向を伺うように、シンは小さく挨拶を返した。
シンの内心などつゆ知らず、気怠げな少年は不思議そうに問う。
「誰?」
「初めまして、私はシン。姓はないから、そのままシンで良いよ。色々あってエロースの世話になってる」
「ふぁあ、あぁ、あ、なんだって~?」
「………私の名前はシン。色々あってエロースの世話になってる」
「そう……どうでも良いなぁ」
シンの自己紹介をどうでも良と切り捨てて、ふわあぁ、と少年は大きな欠伸を一つ吐く。
「俺の名前はべルフ。本当は、もっと長いけど、面倒だから、べルフで良いや~」
そして、自分の自己紹介すらおざなりにすませてしまう。
とことん怠惰なべルフ少年から不思議な彼の素性を聞き出すのは――あまりにも礼儀を欠いた物言いへの怒りを抑えるという意味でも――困難を極めた。
とりあえず分かったことは、べルフが此処にいる経緯であった。此処に来る前、彼はラグナ大陸中を放浪していた。キエム村周辺の森で野宿していた所を、彼を見つけたエロースが断る彼を無理矢理連行したそうだ。以来、再度旅に出るための下準備が出来ないために、そのままエロースの世話になっているとのことだった。
(なるほど、彼女の世話好きは相変わらずか)
シンは小さく苦笑した。
時代が変わったとはいえ、彼女の本質は変わっていなかった。分り切っていたことだが、改めてその事実を突きつけられると胸が締め付けられる。
エロースの本質は
〈運命の輪〉発見以降、人類社会は歯車が狂ってしまったようだった。
後輩の少女もまた同様に不条理に呑まれた、呑まれてしまった。あの時以来――エロースと後輩が遊園地に行って以来、後輩の口からうんざりするほど聞かされたエロースとの思い出話を聞いていない。
一体何が悪かったのか?
その問いの解答は、〈運命の輪〉であり、人間の愚かさであり、そして止められなかったシンなのだろう。
エロースが後輩のことを覚えていれば、どれほど良かったか。
位相融合後、記憶が失われた状態の今、エロースには後輩との思い出がない。
エロースは親友だけではなく、親友との思い出すら失っているのだ。
友情は消え、思い出はなく、感傷は生まれることを許されなかった。
寂しさを感じる寒い夜。布団にくるまって、温もりの中で楽しかった過去を思い出し、人知れず「くすり」と小さく笑う。
郷愁に身を委ね、安らかな眠りに就く。
誰もが手にできる当り前の幸せ。
そんなささやかな幸せを感じることすら、エロースはできないのだ。
これを悲劇と呼ばずしてなんと呼ぶ。
シンは身勝手だと理解していても、あの二人の温かな時代を知っている身としては、たまらなく悲しかった。
「ん~、どうしたぁ~」
はっ、と殊更眠そうなべルフの声で追想に耽るシンの意識は現実へと浮上した。
「いや、なんでもない」
「なんでもないで、すむような顔じゃなかったけどなぁ」
「ところで、どうして眠ってたの?重労働でもしたの?」
「いいやぁ、してないかな。働いてないしなぁ」
「は?」
「何もせず、ただただエロースに養われてる。いわゆる穀潰しって奴だなぁ」
悪びれる様子もなく、その少年は平然と言った。
あまりにもあんまりにな事をさも当然のように言うべルフに、もう何度めかの思考の空白タイムにシンは陥った。
どうやら、この少年は常人とは異なる世界の住人であるらしい。初対面の印象からも感じ取れる不思議な雰囲気といい、平然と自分から穀潰しということといい、この少年は他大多数の人間からは外れた人間のようだった。
浮世離れしている、という形容が彼を表す最適な言葉だ。
思わずシンは呟く。
「……エロース…慈悲を与える対象を選ぼうぜ……」
「だよなぁ、俺もそう思う」
「だったら、出ていくべきだろう」
「最初はそうしてたんだけどさぁ、何度も連れ戻されちゃって」
べルフは肩をすくめて、呆れたように笑う。
「まぁ、怠惰なのは変えないんじゃなくて、変えられないんだけどなぁ」
「どういうこと?」
「そういうこと」
「もうちょっと詳しくお願い」
「ん~、そういうこと」」
「…………はぁ」
シンは諦めのため息を吐いた。
どうやら教える気はないらしい。頑なな拒絶の姿勢というよりは、説明するために頭を回すのが億劫そうな様子だった。どれほど怠惰なんだ、と内心で毒づく。
ちなみに、仮にレーヴァテインがこの場にいたら、シンに冷笑を向けていたに違いない。シン自身、レーヴァテインをさんざん秘密主義で振り回したのだ。被害者のレーヴァテインからすれば、シンがべルフにあしらわれるのは見ていて気持ちが良いだろう。
「まぁ、いいか。エロースが許している以上、私が口を出すべきことじゃないし」
「飯は出てくるし、俺はちょー楽なんだがなぁ」
「もう、まじで一回死んだほうがいいんじゃない、お前」
「それほどでも~」
ひらひらと手を振って、べルフは力なく笑う。
シンは相手にするのが馬鹿らしくなって、布団を頭まで被った。無駄話をしているよりは、しっかり休憩した方が良いに決まっている。
「ん~、俺は出ていこうかぁ。病人がいる所にいるのも、あんまりよくないし」
コミュニケーションを拒絶したシンをべルフは非難しなかった。
のそり、というべルフが動く音がした。布が擦れる細やかな音が緩慢な彼の動きを伝えてくる。
そのままべルフは出ていくかのように思われた。
だが、思い出したかのように立ち止まると、唐突に、何の脈絡もなく――そう文を繋ぐことさえ面倒かのように――彼はその言葉を言った。
「君、怠惰だなぁ」
それだけ言い残して、彼の気配は掻き消える。
扉を開けた音はしなかった。きっと気を遣って、静かに出ていってくれたのだろう。
静かになった木製家屋。
眠りを妨げるものは何もないというのに。
シンはしばらくの間寝付けなかった。
少なくとも、変人の戯言と切って捨てられない程度には、べルフの言葉はシンに突き刺さっていた。
つまりは、そういうことなのだろう。
08
(……ホント…何もない村……)
レーヴァテインは、その美しい銀の髪をキエム村の中で惜しげもなく見せびらかしていた。
もし仮に蔑姫主義などというキラープリンセスに対する差別主義がなければ、見惚れる人間が多々いただろうが、生憎と現実はそうではなく、レーヴァテインに向けられるのは恐れと排斥の視線だ。村人たちは家の中に籠り、こっそりと彼女の様子を伺っている。
本来、街や村でキラープリンセスは正体を隠すのが原則だが、レーヴァテインは無視していた。コルテのような巨大な街だったならば、彼女も配慮しただろう。だが、キエム村のような辺鄙な村では気にした所であまり意味がない。
なぜなら、変装していてもキラープリンセスであるとバレてしまうのだ。
村の人口は少ない。そう、互いに村人の顔を覚えきってしまうくらいには。
であれば、閉鎖的な村にやって来るよそ者はどうあったって目立ってしまう。
前提として、よそ者は大凡二種類の人間に大別される。
一つは、行商人。村から村へと、街から街へと商品を運ぶ人々の生命線。財力がある行商人は依頼をし、対価を払えば、ラグナロク教会から正式に派遣される中奏官以上の奏官による護衛を得られる。また財力がなくとも、かつてのレーヴァテインのような野良キラープリンセスに頼めば、異族に対する安価な
もう一つは、奏官だ。対異族戦、対使徒戦のプロフェッショナル。キラープリンセスというラグナ大陸上での明示された最高戦力を持つ彼らは、誰よりも簡単にラグナ大陸中を行き来できる。
そして両者は簡単に判別可能だ。
多くの荷車を引っ提げてくるのが行商人で、そうでないのが奏官。
非常にわかりやすい差異で両者は区別される。
だから、安易な変装など意味をなさないのだ。
一度奏官として判断されれば、連れている少女たちは総じてキラープリンセスと見なされる。
金銭的に余裕があれば、高価な髪の染料を買ったり偽装の荷車を買ったりすることもできるのであろうが、生憎と耕民区の駆り出される奏官は貧乏な少奏官ばかり。
必要な所に金が集まらないのは、過去も現在も変わらないらしい。
そういった事情を踏まえると、あの男はどうにも配慮が足りないとレーヴァテインは思う。
あの男には財力もあるのだし、髪の染料を買うことも偽装用の荷車も買うことだってできたはず。だというのに、そうしないのはただの怠慢だろう。キラープリンセスの地位向上を宣う割には爪が甘い。まったく考えが浅い男だ。
レーヴァテインの考えをより具体的に表せば、このようになる。
ただ、分っていながら男に伝えないレーヴァテインもレーヴァテインで完全無罪とは言えないとも付け加えておく。
ところで、何故レーヴァテインがわざわざキエム村内を散策しているのだろうか?
(……契約は果たしてもらわないと)
すなわちコルテの戦いの清算だった。
戦闘中に約束した報酬を――具体的には高くて美味しい食べ物を――払ってもらわねばならない。
あの男は阿保なことに、分を弁えず倒れてしまった。だから、面倒だと思いながらもレーヴァテインは自分の足でキエム村を訪れたというわけだ。
ただ。
残念なことに、わざわざ足を運んだ割には大した成果は得られなかった。
「………はぁ…」
思わずため息を一つ。
期待を裏切られたことに対する不満ではない。そもそもこんな辺鄙な村に要求にかなうものがあると期待すらしていなかった。
だから、ため息を吐いたのは別の理由。
厄介事の気配。
コルテ大規模討伐戦に並ぶほどの凶事に巻き込まれるであろう予感である。
(……やっぱり…碌なことがない……)
やはりあの男は疫病神か。面倒事はもううんざりだ。そうは思うが、離れるわけにも行かない。
あの男と離れても、レーヴァテインを取り巻く状況が良くなるわけではないのだ。
レーヴァテインにあるのは二択。
あの男についていくか、薬漬けになるのどっちがマシ?
「……………はぁ……」
胸の裡に積もった暗い気持ちを吐き出すように、さっきよりも重たい溜息を吐く。一回目よりも嘆き成分マシマシ。ローヤルゼリー入りの美容用サプリメントでもあるまいし、一体誰が得をするというのだ。
陰鬱な気持ちを湛えた紅の瞳を億劫そうに動かした。
たまたま彼女の視線の先にあった民家の住民が睨まれたと勘違いして、半ば恐慌染みた様子でカーテンを閉めた。バタバタ、という慌ただしい足音がしてから、ガタンという大きな音で民家から聞こえてくる足音が止まる。大方タンスか何かにぶつかって、苦悶しているのだろう。
そこまで慌てなくても良いだろうに。まったく大げさなことだ。
レーヴァテインはそう呆れるが、天上世界の人々のキラープリンセスに対する反応は大体あんな感じだ。レーヴァテインが特別不機嫌で、異族を射殺せそうな目つきをしていることを加味すれば、あの異様な怯え方にも納得がいくだろう。
村人の滑稽なほどの慌てぶりには溜息を吐かず、レーヴァテインは用もないので帰途に着いた。向かう先は、シンが運び込まれたエロースが厄介になっている家。キエム村の集落から、ちょっと離れた場所に位置する一軒家だ。
他人からすれば奇妙なことかもしれないが、レーヴァテインは家に帰るのが憂鬱だった。より正確にいえば、これからのキエム村での生活がだ。あの家を拠点として活動するならば、計六人での共同生活となる。独りを好み、惰眠をむさぼりたいレーヴァテインとしては、断りたい宿泊条件である。
(……アイツとだけならばいいんだけど……)
アイツ、というのはレーヴァテインの第一の同行人であるあの男だ。
これは何もレーヴァテインがあの男に対して、なんらかの情を抱いたとかそういう話ではない。あの男一人であれば、存分に怠けられるという極めて営利的な理由だ。あの男は彼女に何かを強制したりはしない。行動を共にする相手としては極めて最良の人物だと言えた。
無論惰眠をむさぼろうと思えば、キエム村に滞在している間もできるだろう。だが、必ず小言が付きまとう。同行し始めた頃のオティヌスにも散々言われてきた。あれらは気持ちの良いものではない。
キエム村にある宿に、一人で泊まろうかとも思った。けれど、街を散策している間にそれは無理だとわかってしまった。
この村にある唯一の宿屋がつぶれていたのだ。
理由は不明。競争相手がいない以上、経営不振で宿を畳まざるを得なかったというのは考えにくい。客を独占できる以上、客に困ることはないはずだ。
であれば、原因は何か?
「……はぁ…」
重々しい溜息を一つ。
体調が良くなれば、あの男はすぐにでもキエム村の異変の調査に乗り出すだろう。おそらくその果てにあるのはコルテ大規模討伐戦と同等、もしくはそれ以上の厄介事になる。
望まない未来の到来を確信しながらも、レーヴァテインはキエム村を後にした。
あの男一人で対処できる範囲での厄介事であることを願いながら。
09
森は異常なほど静けさに包まれていた。
聞こえるのは木葉の擦れる音、川のせせらぎ、風の足音。
当り前に世界に溢れる自然のリズムが奏でる幽玄な音の連なりがそこにはあった。
けれど、欠けている、あるべき何かが。
それは同じく当り前のように存在するはずの動物達の喧騒だ。
鳥も、シカも、リスも、ウサギも、狼も。
種類関係なく、あらゆる動物の息遣いがこの森にはなかった。躍動する命が持つ動的な瑞々しさは微塵も感じられず、ただただ平淡な沈黙があるだけだった。
「どういうことなの…これ…」
オティヌスは愕然とした表情で小さく呟く。
感じるのは恐怖。肌が粟立つのをオティヌスは他人事のように感じていた。
オティヌスが森に入ったのは、狩りをするためだった。エロースが世話になっている家に泊めてもらう以上なんらかの恩返しをしたいと思い、食料を調達するつもりだったのだ。
森に入った当初は小さな違和感だった。森の動物をあんまりみないな、と感じる程度の違和感だ。シンとエロースが繰り広げた異族と使徒との戦いで、動物達が遠くに逃げたのだろう、という理由付けが出来ていたのもある。動物を見ないことは特段不思議なことではないと考えていた。
けれど、違った。
死んでいる。この森は何もかもが死んでいる。
理解したのはふとした気づきがきっかけだった。
それは、鳥の鳴き声が一度も聞こえない、というちっぽけな気づき。
だが、その一点が白紙に垂らした黒いインクのようにオティヌスの思考に染みこみ、広がり、加速度的に彼女の中で恐怖を膨張させた。
この森にあるのは、灰色の死の気配だ。彷彿とされるのは血肉を喰らう怪物ではなく、静かに忍び寄る幽霊。午後の太陽が照っているにも関わらず、冷気に満ちた暗い地下室の中にいるような錯覚をオティヌスは覚えた。
どろりとした不気味な沈黙が纏わりついて来る。振り切れない、得体のしれない怖気がオティヌスの芯を震わせている。
「……一端戻ろう」
この森は尋常ではない。
肌にヒシヒシと感じる非日常的な静謐さが持つ筆舌し難い圧力に背中を押されるようにして、オティヌスはゆっくりと森を移動し始める。
背中を見せて、走り去るような愚は起こさない。何処にこの森を死の領域からしめる怪物がいるかわからない。未知の敵の存在が懸念される以上、最大限の警戒を払い慎重に森を出る。
「でも、一体何が此処にいるんだろ?森が死ぬなんて、御伽噺じゃないんだし」
植物についてはひとまず考えないとして、動物が全滅するとは一体どういうことであろうか?
狂暴な熊か何かが森の動物達を追い払った、というのはどうだろう…………いや、違う。動物がいなくなるということは、食べ物がなくなるということ。であるならば、元凶は次の食べ物を探しに森から出るはずだ。脅威がなくなったならば、出ていった動物達も戻ってくるだろう。未だに森に動物がいない理由にはならない。
キエム村の住人が森の動物を狩りつくした………これも、違う。狩りつくすメリットがない。取りすぎた獲物はどうしたって食べきれずに駄目にしてしまう。ある程度の保存方法が確立されているとはいえ、森に生きる全ての動物たちを保存できるほどの物資がたかだが一つの村にあると考えるのは非現実的。食べ物の確保の点から考えれば、一度に狩りつくすよりは定期的に狩りを行い適度な量を獲得していった方が有益なのだ。
(じゃあ、どうしてなんだろ?)
オティヌスが首を傾げていると、視界の端に何か光るものを発見する。
ふと好奇心でオティヌスは『それ』に近づいた。
そして絶句する。
『それ』は鳥の体の内側から生えていた。
『それ』は薄い青色で透き通る水晶のようであった。
『それ』は彼女をはじめとする弓や銃、杖のキラープリンセスが使用する馴染み深い物だった。
しばしの静止の後、オティヌスはは未だ疑念の籠る声色で『それ』の正体をポツリと呟いた。
「―――マナ?」