wordsは後日付け足します。
21
ゆっくりとその時が迫っているのを、ネイシャ・カートライトは自覚する。
大悪魔の呪いとかいう青いマナの結晶。四肢を食い破って現れたそれらが自分の内側を侵食していく実感を彼女は日に日に強く得ていた。
しかし、もう浸食の感覚は感じられない。
それはマナの結晶がなくなった、という意味ではない。
ネイシャには浸食の感覚を得ることすらできなくなったという意味だ。
もう随分と夢の中にいるような心地だ。
否、実際時間としては随分なんて言うほどの時間は立っていないのだろう。
ただネイシャの時間感覚がずれてしまっているだけで。
ふわふわと浮かんだり、沈んだりするような心地が毎日何度も繰り返されていく。
そんな日常では、正しい日の巡りなど把握できるはずもない。
緩慢な閉塞がネイシャの意識を、肉体感覚を緩やかに鈍らせていた。
真綿に首を絞められるような終わりだ。
否、現実として肉体がマナの結晶となり肉体が崩壊している。
真綿に首を絞められるような、なんて生易しく感じられるほどの恐怖を得ているはずだ。
それこそ他の晶化病患者のように。
精神を病み、正気を失い、死んでいく。
そんな人間の終わりと呼ぶには余りにも無惨な終わりであってもおかしくないはずである。
けれど、ネイシャは精神を病んでおらず、正気を保っていて、さらには絶望もしていなかった。
彼女が最後まで人間、ネイシャ・カートライトとして生きている。
何故なら、彼女はたった一人の少女によって救われていたからだ。
キラープリンセス、エロース。
人間社会においては嫌われ者で、さりとてとてつもなく優しい心根の持ち主。
彼女が死の間際まで側にいてくれたおかげで、晶化病を引き起こした張本人として良き隣人だった村人から迫害され、一人死ぬだけだった老婆は自分自身の価値を信じられた。
エロースとは長い付き合いがあったわけじゃない。
ネイシャの姉妹でもないし、子でもないし、孫でもない。たまたま通りかかったところを助けてくれた無関係な誰かだ。
彼女の存在が村がつけた傷を治してくれたわけじゃない。
けれど彼女が手を差し伸べてくれたことで、ネイシャは自分の価値を信じられることができたのだ。
少なくとも、自分が誰かに手を差し伸べられる程度の価値があるということは。
ネイシャは思う。
随分と自分は幸せものだ、と。
自分を形作り、自分が形作った全てから見捨てられても、手を差し伸べてくれた誰かがいたのだから。
この世界には手を差し伸べられない人がたくさんいる。
今回だって、キエム村はラグナロク教会から手を差し伸べられることはなかった。
もしかしたら。
いつかの誰かが手を差し伸べられない人々に手を差し伸べようとしたのかもしれない。
でも、そんな優しい人は現実の暴力に押しつぶされてしまったのだろう、と思う。
いつだって現実が示すのは優しさを踏みにじる残酷さなのだから。
きっと優しさが及ぶのは、誰もが伸ばせる両手の範囲内だけだ。
大切なのは、手を差し伸べられる距離ではなくて、手を差し伸べる選択で。
そして、その選択の積み重ねがいずれ全ての人々を救うのだろう。
死の淵にあって、ようやくそんな簡単なことに気が付いた。
ふぅ、と小さく、しかし重い息を吐く。
自分の命の糸が切れかかっているのが、不思議とわかる。
残された時間は、もう長くない。
だから。
幸せな終わりをくれた彼女に。
最後に感謝の言葉を。
「ありがとう」
随分と掠れた声になってしまったけれど、ちゃんと届いたかしら?
22
その日は月がやたらと大きく見える夜だった。
煌々と照る月は夜を切り裂き、森の暗闇を晴らしている。昼間のように、とは言えないけれど、夜の不気味さを消し去るほどに月光は世界を照らしていた。
けれど、その光は決して温かいものではない。その青白い輝きは何処か物悲しさを見る者に与えるものだった。
そして、シンは見る。
青白い月明りの元、森の開けた場所で一人佇む少女の姿を。
エロース。
普段の明るさはすっかりなりを潜め、ただただ彼女は無言のまま月を見上げて、立ち尽くしている。
その様は街灯の元で打ち捨てられた人形のようだった。
「亡くなったのか…」
どうして彼女が打ちひしがれているのかはわかる。
あの穏やかに笑う、春の陽射しのような温かさを持った老婆が死んだのだ。
シンとオティヌスが研究施設の破壊を行いキエム村に帰ってきたのは、ちょうど今さっき。レーヴァテインから話を聞くに、ネイシャは夕方に息を引き取ったという。
ネイシャが息を引き取ってから、ずっとエロースは茫然としているらしかった。
小さくなった彼女の背中に、シンは掛ける言葉が見つからない。
過去のカウンセリングではどうであったか。かつて自分はどのようにしてキラープリンセスの心に寄り添って来たか。
シンは問う。
「何故そんなに落ち込んでるんだ?」
何を当り前のことを、と言うかもしれないが彼女が落ち込んでいる理由を探る必要があった。
安易な予測は理解ではない。ただの妄想だ。
そんなものでは、相互理解はありえない。
「何故ですかぁ……?」
「答えなくなかったら、別に構わない。けど、話せば楽になることもある」
「ありがちな言葉ですねぇ」
「だが、事実でもある。否定はできないだろう?」
「まぁ、そうですけどぉ」
そう言って、エロースはややくたびれた溜息を吐く。
そして、言った。
「私はですね。おばあちゃんが亡くなったこと自体はそれほど悲しくはないんですよ」
「そうなのか?」
「だって、どうしたって治せないじゃないですか、晶化病は。だったら、亡くなるのは当然で、不可避の未来でしょう?ですから、覚悟はしてたんですよぉ」
「だったら、どうしてそんなに打ちひしがれてるんだ?」
「それは……っ」
エロースの声に若干の変化が生まれた。
苛立ち。
それが声音の強さに含まれている。
「結局あの人は来なかった……!」
「あの人、とは?」
シンがそう問うとエロースは堰を切ったように叫び出す。
「おばあちゃんの息子です!あの人は結局、ただの一度もお祖母ちゃんのお見舞いに来なかった!あの人は、お祖母ちゃんの息子なのに!一度くらい顔を出したって良いじゃないですか!自分の母親が死にそうなんですよ…?なんで、そんな白状なこと……!」
口の端を歪め、似つかわしくない怒りを彼女は発露する。
一体何故彼女の心を激しく動いたのか。
過去において、間接的に話を聞いていただけのシンにはわからない。
けれど、彼は彼女の問いにこう答えた。
「それは人間だから、だろうな…」
「……どういうことですか?」
「前にも言ったかもしれないが、人間は弱くて、キラープリンセスは強い。彼とて、見舞いに行くという思いはあったはずだ。だけど彼はきっと恐れたんだろうさ。ネイシャさんからの糾弾、他の村民の目、あるいは自分の間違いを認めることか」
「自分の間違い?」
「ああ、最初は確かに教会の言うことを信じてたんだろうさ。けど、ネイシャさんを追放しても、晶化病は村で猛威を振るっていた。だったら、信じ続けられるか?教会の言うことなんて。外れまくりの推測なんて、普通は疑うだろうよ。そして、教会に対する疑念の後に来るのは、自分自身に対する疑念だ。自分の選択は正しかったのかって具合でな。で、結論として出したのは自分が間違えてたってことだろう」
「でも、出してたならどうして自分の間違いを認めることが恐ろしかったんですか?認めてるじゃないですか」
「まだ認めてないよ。彼がそう結論づけた過程は、彼自身の推測の積み重ねだ。ネイシャさんが原因じゃなかったって明確な根拠がないからな。それでも、ほぼ認めていたと思うけど」
「それでも、認めてないんですよね」
「ああ、そうだ。自分だけが思ってる分には、かもしれない、の話でまとまるからな。ただネイシャさんの口から直接答えを聞いてしまえば、彼が間違っていることが確定しまうだろ。そうすれば、自分の間違いを認めざるを得なくなる。いや、認めるしかなくなると言うべきだな。そして認めてしまえば、自分は『可哀想な被害者』じゃなく、『デマに従い親を見捨てた加害者』だ。普通の人間だったら、どちらを選ぶかは簡単に分かるだろう?」
そんなもの誰だって楽な方を選ぶ。
『可哀想な被害者』の枠にいれば、誰にも糾弾されることはなく、糾弾される理由もない。
教会にも、村の人にも、そして自分自身の良心にも。
だったら『被害者』と『加害者』、どっちにいるべきかなんてわかり切っているだろう。
選択ができるのなら、後者を選ぶに決まっている。
誰だって、罵詈雑言の矢面に立つ『加害者』になんてなりたくない。
けれど、もし自分自身が加害者だと分かってしまったら。
『可哀想な被害者』の枠になんていられない。
だから、彼は逃げたのだ。
自分自身の過ちを、第三者に確定されることから。自身が出した結論を嘘だと信じ続けるために。
シンは言う。
「俺は別に彼のことを良心の欠片もない人間だとは思ってないんだ。むしろ、俺やネイシャさんと同じ、誰かを普通に愛して、誰かを憎む、何処にでもいる平凡な人間だと思ってる。だからこそ彼はネイシャさんに会えなかった。会おうとしはしたのかもしれないけどな」
今、彼が一体どういう心境なのかはわからない。
けれど、きっと葛藤しているのではなかろうか。
それが普通の人間の感性だ。
少なくともシンはそう信じている。
でも、だけど。
エロースは納得などしない。するはずがない。
「それが―――」
彼女の怒りは、『彼がネイシャの見舞いに来なかった』ことが発端だ。
彼の内心など関係ない。
自分勝手な感情の中で、思いやりなど存在するものか。
エロースは吠えた。
「――なんだって言うんですかぁ!」
平素の彼女であれば、有り得ないと断じれるほど違和感のある言葉。
他者の感情を踏みにじる、独善の感情。
「彼が一体どんな思いを抱いてたって!どんな感情を抱いてたって!関係ない!お祖母ちゃんには一切関係ないじゃないですか!結局、お祖母ちゃんは家族に見捨てられたまま死んだ!その現実は、その事実は少しも揺らがない!違いますか!?」
「違わないな」
「以前貴方は言いました!強いキラープリンセスは真っ直ぐで、弱い人間はキラープリンセスのようには居られないって。そして、その弱さを理解して欲しいとも!私はこう答えましたよね!理解をして欲しいと手を差し伸べられたなら、その手を取るのは当然の義務だと!」
「ああ、言った。そして、こうも俺は言った。正しさと間違いの葛藤に苛まれながら生きていくしかないのだ、とな」
「シンさん……だったら、その葛藤の中で傷を負った人は一体どこへ行けば救われるんですか?」
「そ、れは……」
シンは言葉に詰まる。
その答えは彼の中にはない。
「わからない…な」
きっと救われた人なんていないのだろう。
誰かの葛藤にすりつぶされた人を救える優しい仕組みがあるのなら。
人類は、きっとこんな世界にはいない。
「和解を救いと呼べるが、お前が言っているのはそういうことじゃないんだろう?」
「正しさと間違いの葛藤を自覚できる人が、この世の中にどれほどいると思いますか?日常的に葛藤は潜んでいることを気づけることがどれだけ至難なことか。人は無自覚の内に誰かを傷つけたことに気づかない。和解すら、生まれない場合が多々あるんですよ。そんな世界の優しさから取りこぼされた、いいえ取りこぼされすらされなかった彼らに、彼女らに、どんなことが出来るんでしょうね……」
エロースの言葉にシンはただ黙り込むしかなかった。
だって、それは途方もない問いだ。全人類が無自覚に切り捨てる誰かを救うなんてことが不可能だなんて、そんなの誰にでもわかる。何せ自分自身でさえも、その誰かを切り捨てているかもしれないのだ。誰にも気づかれないAをどうやって救う。認知できないならば、手を差し伸べることすらできないではないか。
「すみません、困らせてしまいましたか」
エロースは申し訳なさそうに笑う。
「いいや、気にしなくて良い。それはきっと俺も考えていかないといけない問題なんだろうから」
「そう言ってくださると嬉しいです。一人一人の自覚が必要だって、
彼の狂人…?
ふと気になるワードが生まれたが、シンはそれを無視して、話を促す。
「エロース、ただそれが今のお前の怒りにどう繋がるんだ?」
話が見えない。
彼女の考えは分かった。けれど、彼女の怒りの本質がいまいち像を結ばない。
「私が怒っているのはですね。彼がお祖母ちゃんを切り捨てたことなんですよ」
「あぁ、それは分かる。だけど、怒りの本質は違うだろ。感情である以上、理由は自分に帰属するはずだ」
「そう…ですねぇ……」
シンが問うと、エロースは一拍の間を置いて言った。
「私が怒っているのは、彼がもう私が取り戻せないものを自ら進んで取りこぼしたからですよぉ」
「エロースが、もう取り戻せないもの?」
彼女は月光を背に、寂しげに笑う。
何処か遠い所を見つめるような瞳で。
そして、乾いた唇がたった四文字のその名を呟いた。
「
すっ、と静かにシンの肌が粟立つ。
「ま、さか……そういうことなのか…?」
エロースに感じていた違和。
ギリシアの愛の神を根本に持つ彼女にとって、最大の動機となるのはやはり恋愛だ。人と人との間に紡がれる、感情の高まりこそが彼女の琴線に最も響くものだった。
少なくとも、エロースというキラープリンセスの個体はそうであった。
けれど、今目の前にいるエロースは違う。
ステレオタイプになど嵌ってはいない。
衝撃に貫かれるシンになど構わず、エロースはその桜色の唇を動かした。
「何処とも知れない場所、いつかわからない時。そのイメージを私は知りません。ですけど、そこに確かに私には温かくて幸せな時間を共有した、大事な友達がいたんです。名前も顔も思い出せない、けれど大切な誰かが!」
エロースは明確に記憶を取り戻しているわけではない。暴走の発端になるほどの過去を取り戻しているわけではない。
曖昧で、茫洋で、けれど彼女の心の奥底に刻み付けられている輪郭をおぼろげに辿っているだけなのだ。
そして、そこにある友達とは。
あぁ、それは間違いなく彼女のことだろう。
人なつっこい笑顔を浮かべる、もしかしたらシンが救えていたかもしれない年下の少女。
オリジナルのエロースの唯一にして、無二の親友。
「私は彼女のことをほとんど覚えていない!だけど、この胸にはっ、この心にはっ、言葉にできないほどの喪失感が横たわっている!取返しの付かない悲しみと訳の分からない空白感がこの胸の中にあるんですよ……っ」
エロースがネイシャの息子に怒るのも当然だ。
なにせ彼は彼女の悲嘆を踏みにじったのだから。
「だけど、彼は取返しがついた。失うことは否定できないかもしれないけど、失うまでの過程は選べて、失い方は自由に選べた。私には、そんな自由なかったのに!」
エロースに襲い掛かったのは、理不尽と言って良いものだ。
全人類、全てキラープリンセスは過去の記憶を失った。
辛い記憶も、大切な時間も等しく、平等に漂白された。
誰一人の了解も得ず、強引に。
これを理不尽と言わずして、何と言う。
けれど、全てを忘れていられたならば、それはまだ幸せなのかもしれない。なにせ記憶がなければ、喪失の自覚すらないのだから。忘れたものに、空白感は抱けない。そして取り戻したいなんて思わないから、取返しのつかない悲しみなんて生まれない。
全て忘れてしまえば、かつて『在った』としても『無い』と変わらない。
記憶されなければ、記録されなければ、人が知覚する現実なんて容易くなかったことに出来てしまう。
その流れに従えていたら、楽に違いない。取り戻せない物を追いかける苦しみを味わなくて済むのだから。
だけど、エロースは違う。半端に記憶を保持している。故に、かつてあった現実を切り離せない。特に親友と共に過ごした幸福な時間は。
もしエロースと彼女が納得のいく形で別れられていれば、エロースだって胸の中の喪失感や悲しみを抱くことはなかっただろう。
だが、現実は納得のいく別れどころか、「さよなら」すら言えていない。あの時――つまり異界存在研究機関所属の研究員が維持派と計画派に分かれ、静かに対立していたころには機会も余裕もなかったから、言えるはずもなかった。
だから、エロースはネイシャの息子に怒りを覚えたのだ。
まだ「さよなら」を言えるのに、どうしてその機会を踏みにじるのか、と。
エロースからすれば、彼の行動は砂漠で喉の渇きに苦しむ人の目の前で水を捨てるような行為だろう。自分が決して手に入れられないものを、まだ手に入れられる恵まれた者に捨てられれば誰だって激情に駆られるはずだ。
彼女は自嘲の色を含ませた笑みを浮かべる。
そして、たった一言こう言った。
「醜いですよねぇ?」
自分には与えられない物を持つ誰かの選択を自身の感情によって否定する。
エロースのしたことを悪意的に解釈するならば、そういう風に解釈できるだろう。
「そもそもとして、私がお祖母ちゃんを助けたのも、私自身が私と同じ目に遭う人間を見たくないからという理由なんですよぉ。今回の人助けの根底にあるのは私のエゴなんです。誰のためでもなかったんですよ」
「だけど、エロースのやったことは間違いじゃないだろ。エロースの存在はネイシャさんの救いになっていたはずだ」
「でも、それは客観的に見た場合の評価ですよねぇ。真実は違いますよぉ」
「他人の利益になってる時点で十分じゃないか?そも、彼女に手を差し伸べた理由の中に、優しさが一片も含まれていないなんて有り得ない。自分と同じ目に遭う人間を見たくない、という思いで動いてる時点で、それは誰かを思う優しさに相違ないと俺は思うぞ」
たとえ彼女が自分の思いを醜いと断じようとも、エロースの優しさがあったことを否定することは許せない。
今の彼女は疲れて、弱気になっているだけだ。ただの一瞬の気の迷いが、何も為せなかった彼女を自分勝手な悪役にすることで、自分自身の納得を得ようとしている。
そんなことをしては駄目だ。自分自身を貶めるような納得の仕方をしてしまえば、今後ネイシャさんと同じような誰かを救う時に言い訳を許してしまう。
全力を出しても救えないのだからしょうがないよね、と諦める理由が出来る。
それから始まるのは、負のスパイラルだ。全力を出すことへの無意味さを悟り、全力を出すことすら忘れ、しまいには誰かを救うことすら辞めてしまう。何も生み出さない、エロースの優しさをこそぎ落とすような地獄の出来上がりだ。
「そんなに怖い顔しないでくださいよぉ。分ってますから」
エロースは月を背中にそう微笑んだ。
「嫌なことがあって、少し嫌気がさしていただけです。ため込んでいた思いとか感情とかが、津波のように押し寄せ着て、呑み込まれちゃったといった感じで。だから、一晩ほどぐっすり寝れば、リセットされていつもの私に戻ります」
強がってるのが透けて見えるような言葉だった。ネイシャさんと彼女の息子の別れをエロースにとって最悪な形で別れさせてしまったのだ。その時に負った傷が深くないなんて有り得ない。なにせ彼女にとってはトラウマの再来とほぼ同等。
一晩寝れば忘れられる?馬鹿を言うな。だったら平素な穏やかさを失うまでの激情を抱くなど有り得ないだろうに。
(これは悪手だな……)
エロースを元気づけるカードがないことはない。つまりはあるのだが、しかしそれを切るのは彼女の精神衛生によろしくない。
これは彼女を失意から立ち上がらせるのではなく、失意から目を背けさせる物。だから最悪の場合、彼女の善性が歪む可能性もあった。
(そこは彼女の強さに期待するしかないか)
随分と自分勝手ではあるが、このカードを切ることはシンのオリジナルの奪還と、その先にある
そも、手を出せるにも関わらず、手を出さなかったのはエロースのことを待っていたからだ。ネイシャが死んだ以上、もう待つ必要はない。
シンは彼女に向かって片手を差し出した。
「なぁ、エロース。もしお前の取返しのつかないものを取り戻せるとしたら、お前はこの手を取るか?」
「え…それは、どういう……?」
「お前の友達は
エロースの薄紅色の瞳が見開かれた。
「う…そ…」
「本当だ、彼女は生きている」
とはいえ、シンとて100%彼女が生きているとは断言できない。実際生きている彼女を見たわけではないのだから。
だが、シンは自身を以て彼女の生存を宣言できる。
何故なら、まだアンナが生きていて、
「彼女は俺の敵対者だ。だから、必ずどこかで相対する。だが、俺にそれを証明できる手立てはない。信じてくれとしか、言うほかない」
卑怯な言い方だと思う。
彼女の欲しい物を提示して、何も説明せずにこちらの要求を呑ませる。まるで詐欺師のような手管だ。
だが、シンはやる。二度と楽園計画の悲劇を繰り替えさないために、そしてエロースの嘆きを拭うためにも。
「彼女はお前の知る彼女じゃないかもしれない。大きく変わっているかもしれない。それでも、彼女を取り戻したいと望むのなら、俺の手を取れ!エロース!」
しばしの静寂があった。
シンの叫びが虚しく森に反響する。
そして。
ゆっくり、と。
エロースが、喉を震わせる。
「本当に、彼女と会えるんですかぁ…?」
「会える」
「ほんとの、本当に?」
「ああ、必ずだ」
「だったら――」
初めて、エロースの体に力が宿る。俯いてばかりいた少女の顔がゆっくりと前を向く。
もうそこに、悲嘆にくれるだけの可哀想な歩みを止めた誰かはいない。
そこにいるのは、未来を創る意志を瞳に宿す、歩み続けることを選択した少女だ。
エロースの手が、シンの手を掴む。
「――私は貴方の手を取ります。もう一度、彼女と友達になるために!」
「そのために世界を敵に回す覚悟あるか?」
「なんだってやりましょう。友達のためなら!」
友達のために世界を敵に回す。
陳腐な言葉かもしれない。フィクションの中だけで成立するものだと笑われるかもしれない。
けれど、そんなくだらないと思われることで世界を回したって良いはずだ。
きっと、世界中の誰もが親友同士が引き裂かれる悲劇なんて見たくない。
結末はハッピーエンドの方が良いに決まっている。
シンはエロースの手を強く握り返す。
記憶を取り戻すやり方は、あのアンナから教わった。
『ああ、そうだ。記憶を取り戻したいなら、対象のキラープリンセスに触れて一言告げれば良いんですよ。これは魔術を知らない貴方にもできます。わざわざそうしましたから』
『良いのか?反逆者の俺に記憶の取り戻し方なんて教えて』
『構いませんよ。どうせ勝つのは私達、計画派なんですから』
記憶を取り戻すキー。
その一言とはすなわち。
「
直後にエロースが気を失った。
記憶の枷が外れたのだ。
22
「シンさぁん。荷物運び終わりました」
エロースが旅の出立の準備が終わったことを青年に知らせた。
白衣の青年はそれに返事をして、彼らの馬車へと向かう。
「食料は以前購入したトウモロコシで作ったトルティーヤが残ってますし、大丈夫だと思いますよぉ。ただ水は心許ないです。晶化病がどうにかなったとはいえ、別の場所から探した方が良いかもしれません」
「一応湖から下流だったら大丈夫だと考えてるんだが、そうだな安全面を考慮するとやっぱりそうした方が良いかもしれない」
晶化病の元凶は既に断っている。だから、マナの不自然な蓄積は止まっていると思うのだが、一応念のためだ。治療法不明の病にかかる危険を冒す必要はない。
「マナについては過去の科学じゃないからな。俺自身には、どうしようもない」
「完全に天上世界由来ですからね。そもそもシンさんの専門は異界存在研究ですから、物理学系研究者が集まる計画派の研究の解析も難しいでしょうし」
「……詳しいな」
「彼女から研究所の皆さんのことはよく聞きましたからぁ。それとシンさんが話してくださった情報を重ねれば、簡単に推測できることですよ」
エロースは記憶を取り戻した。
計画派の打倒ひいては位相融合の悲劇を繰り返させないために
キラープリンセスの善性の現れ、というよりは彼女自身の位相融合への思いが決断させた、というべきだろう。
もう二度と取り返しのつかない喪失を誰にも得て欲しくない。
昨夜のエロースの言葉が思い出される。
「そもそもとして、どうして位相融合という形で失敗する楽園計画に彼女は携わったのでしょうか?」
「わからない。あの時はいつの間にかそうなってたんだ。何か劇的な転換点があったわけじゃない」
「もっと私がコミュニケーションを取っていたら、何か変わっていたのかなぁ」
「いや、異界存在との戦争が激化していた以上、お前は戦場に引っ張りだこだったはずだ。そんな時間はない。それに通話しようにも、別位相間の通信状態は最悪だから出来ないだろうし、エロースに非はないぞ。同じ場所にいながら、彼女を止められなかった俺にこそ非がある」
「あまり抱え込み過ぎないようにしてくださいね。ただでさえ、多くのものを貴方は背負い込んでいるんですから」
「別に抱え込んでなどいない。当り前のことをしているだけだ」
いつかした後輩とのじゃれ合いにもあった気がするが、これは責任の所在の問題だ。結局全ての原因は、維持派最大戦力であったシンの失敗だ。彼が失敗さえしなければ、全ての悲劇は起こらなかったとさえいえる。
位相融合の引き金を弾かせた。ただその一点で、責任を負うには十分な理由だとシンは判断する。
ただ正面に立つエロースは何故だか眉間に皺を寄せていた。
シンはその理由を問い正そうとするが、しかし快活な声による横やりが入った。
「さぁ、二人とも早く乗って!出発するよ!」
声の主は既に御者席に乗ったオティヌスだ。
「レーヴァテインはもう乗ったのか?」
「荷物を載せる前から、荷台で寝てるよ。ほんとレーヴァテインって良く寝るよね」
一瞥すると巨大な布にくるまれた剣の上に座り、彼女は膝を抱えて眠っていた。寝転がらなかったのは、荷物の多さ故か。荷台には、もう一人くらい座れるスペースが空いていた。
シン達の視線が鬱陶しかったのか、薄く、長いまつげの生えた紅色の瞳が開かれる。
「……何?」
「良く寝るなぁって話してたんだ」
「……何よ…文句あるわけ?」
「いや、ないけど。レーヴァテインがやる時はやる娘ってことは重々承知してるし」
「……そ…なら良いわ……あ」
レーヴァテインは何かを思い出し、苦虫を潰したような顔をする。
「そういえばあのだらしない男は来ないわよね」
だらしない男?
シン、そしてキラープリンセス二人はお互いに顔を見合わせた。
レーヴァテインの発言、その部分にだけは明確な敵意があった。彼女にしては珍しい。好悪の区別なく、他者への関心が低いのがレーヴァテインというキラープリンセスだ。故に、明確な敵意を向けるなんて――言うれなれば――破格の対応だったりする。
しばしの思考の沈黙があった。
それを破ったのはエロースである。
「あぁ!べルフさんのことですかぁ!」
名前を言われて、シンもオティヌスも明確に思い出した。
シン達がキエム村に来る前からネイシャ宅に居候をしていた、空気のような、存在感が薄い怠惰な男。
正直シンには、べルフにレーヴァテインが敵意を向けるのがあまりピンと来ない。シンが晶化病の元凶を破壊しに行っている間に何があったのだろうか。
疑問は湧くがシンは口に出さない。ここで突っ込むと、いらない顰蹙を買いそうだからである。
「べルフさんは同行しませんよ。自分は適当にやるから良いし、旅は面倒だからいかないって言ってましたぁ」
「……そう…来ないのね…良かったわ……」
「なぁ、エロース、べルフは一体何者なんだ?」
「実は私もよくは知らないんですよね。お祖母ちゃんがこの家に来る前に、住んでたってことくらいを知ってるだけで」
あのやたら存在感が薄く、つかみどころのない怠惰な少年。どんな人生を辿ってきたのか、想像できない少年だった。
あまり交流のなかったシンにとっては、彼についての印象は第一印象のままで結局止まったままである。
(まぁ、もう出会うこともないか…)
天上世界は広く、自動車や飛行機などはない。一期一会。一度の出会いと別れは貴重である。
もう少し言葉を交わして、彼の人となりを知りたかった気持ちもなくはない。けれども、まぁ、
「出発しようか」
惜しい気持ちは確かにあるが、足を止めるほどではない。
シン達は前に進み続けられなければならないのだから。
シンは御者台に乗った。続けてエロースも乗り込む。
「さよなら、お祖母ちゃん」
彼女は寂しげな響きを持って、そう呟いた。
彼女の心に浮かぶのは、後悔か温かい思い出か、あるいはその両方か。
外野であるシンにはわからない。けれど、それが彼女の糧になることを祈っている。
シンは手綱を握り、二頭の愛馬を走らせる。
まさにその瞬間だった。
『警告!危機的熱源感知!CMCシステム強制起動、コード257954〈アイギス〉!』
シンの左目が一呼吸と立たぬうちに真っ赤に染め上げられる。
立て続けにシンの左腕が肥大。彼らが乗る馬車を覆うようにして肉の壁が展開された。
「い、一体何が……!」
オティヌスが声を上げる。
だが、掻き消すように「ズドドドドッ!」と濁流が如き轟音が正面から叩きつけられた。
過去を知る三人は、その音の正体を知っている。
銃声だ。
それもとある兵器群のみが使用する特別性のもの。
「やはり
須臾の断絶さえない銃撃が止むと、聞こえてきたのは
シンは思わずと言った様子で言葉を漏らす。
「嘘……だろ…?」
真偽を確かめるべく、アイギスの展開を解いた。
そして、視線の先。
銀の機械人形を従えるように立つ少女を目視する。
彼女はシンの後輩であり、エロースの親友であった。
シンはヤケクソ気味に叫ぶ。
「よりもよって、このタイミングでお前かよ!川藤早苗!」
久方ぶりの再会。
しかし、二人の間には温かい物などなくて。
後輩は――早苗は何処までも冷たい声で宣告する。
「お久しぶりです、先輩。早速ですが死んでください」