ファントムオブキル―浄罪の大罪人―   作:三水レイシャ

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ep.13 別系統の古き対立軸

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 早苗は目の前に展開されているホログラムを操作し続けた。

(先輩は本当にしぶといなぁっ!)

 木々を足場にして宙に立つ早苗は心の中で歯噛みする。

 手元のタイマーを見ると、制限時間は残り十四分。計画派としての本流に合流するために、彼女が自分自身に課した制約である。

 彼女の目線が追うのは、白衣の青年だ。彼は無骨な黒剣と共におよそ人間とは思えない挙動で枝槍を潜り抜けていく。

 おそらくは先輩の左目に搭載されている〈ana〉が彼の体を操っているのだろう。人間の限界を超えた判断速度と人体の限界を顧みない挙動は人工知能でなければできない。

 こちらもマナ制御デバイス――MCデバイスに搭載されている演算装置のオートディフェンスに自身の守りを任せて、標準設定を任せているが、ただそれだけだ。自分自身を機械に明け渡すようなことはしないし、出来ない。

 つくづくこう思う。

「本当に無茶をするよね……っ」

 早苗は先輩の進行方向に枝槍を十程展開する。右に二、左に三、下から突き上げるように四とその中に潜ませるように一。嚙合わせるようにして先輩に食らいつかせる。

 切っ先をより先鋭化させ空気抵抗を減らし、予備動作無しでそれらを突出させた。〈ana〉の判断処理速度でも、予測のとっかかりがなければ捌ききれないはずだ。コンマ一秒の速撃。そうあたりをつけて、彼女は枝槍を一直線に突出させる。

()ったっ‼」

 そう確信する。

 先輩の体は足を一歩踏み出した瞬間で体の動きは既に前進の形を取っている。それからの軌道修正は不可能。もとより回避に判断を当てる時間もない。枝槍は一つも外れることなく先輩の体をズタズタに引き裂くはずだ。

(これで終わる、これで終わり……っ!)

 そう、確信していた。確信できたのだ。

 だが、視線の先。

 先輩の頬が不敵に緩む。

 まるでこちらの予測が甘いと言わんばかりに。

「な……っ!」

 早苗は息を呑む。

 〈ana〉は対応していた(・・・・・・)

 予備動作なし、コンマ一秒の速撃を。

 やったことはシンプルだ。

 一歩前に踏み込んで、下から突き上げる枝槍の()に飛び乗り、枝槍の上昇する力を利用して飛びあがった。

 ただそれだけ。

 言葉にするのは、シンプルだ。だけど、それを実行するのに、どれほどの力が必要なのか。

 少なくともただの人間と人工知能には出来ない神技だ。

 先輩の有する特別な肉体に世界最高の天才マックが作った人工知能〈ana〉。

 このどちらかが欠けていても成り立たなかった。

「ああ、もう!支流にかかずらかっている余裕なんてないのに!」

 あまりにもしぶとい先輩に、早苗は地団駄を踏む。

 そうだ。私情を含めれば大本命なのだが、計画派としてはシンはついでなのだ。彼を殺せば、始末書の山にしばらく追われるだろうが、最悪〈ana〉さえ回収できれば、世界に散らばっているオリジナルは追える。多少、いや大分手続きが面倒になるが、できないことじゃない。だから、殺したって問題ない。

 自分の魔術を使えば、簡単に圧殺できると思っていたのにこのざまだ。早苗としては、初撃で終わると思ったがあっさり避けられた。初手で殺せなかったのは手痛い。学習する機会を与えてしまえば、〈ana〉は戦闘の最適パターンを生み出してしまうから。長引けば長引くほど、追い詰められるのは早苗である。

 枝槍や硬質化させた葉だけでは埒があかない、と早苗は次なる手を打つ。

「マナ制御システム起動」

 早苗は胸部に装着したMCデバイスに音声入力、システムを起動する。

 途端に彼女の前に出現する青いホログラム。それは早苗と先輩が激突している森を縮小し、空中に表していた。大気中のマナを可視化できるまで集合させて、形を整えたものだ。大気中の極微小なマナで先輩を殺すようなことはできないが、この程度のことくらいはできる。情報は肩から胸にかけて覆っているMCデバイスによるマナを通じた地上精査で得ていた。ホログラムの青には濃淡があり。これはマナの濃度を表している。青が濃ければ濃いほどマナ濃度が高いということだ。

 平素であれば、投影範囲内にある物質は縁どられる程度――つまり、森の場合であれば木の輪郭を表す程度で投影されている。だが、今回に限っては事情が違う。早苗の実験――晶化病を筆頭に、あの研究施設が起点となる異常現象のことだ――の影響で、マナが木々や地中に凝固している。普段は空白の輪郭の中が青色に染まっていた。

「今度は槍じゃない、槌っ!」

 早苗は先輩が走る周囲の木々の葉が生い茂る部分を、摘まんで離す。

 ホログラム上で木々が先輩を中心に円状に叩きつぶすように動く。

 そして、対応するように現実でもそうなった。

「よし……っ!」

 駆ける先輩が滅茶苦茶に叩き付けられる。

 先程の木槌ではあるが、勿論葉と枝は硬質化してある。イメージとしては、鉄のワイヤーで作った球に鉄塊を括りつけたハンマーか。直撃すれば、ズタズタに肉が引き裂かれ、骨は粉微塵に砕かれる。残るのは血まみれの無惨な肉塊だろう。

 今度こそは逃れられないはず。彼を襲うのは、それぞれに変化した不規則な凶器の集合体だ。その全てを避けきることなど出来るものか。

 そう思ってた。思えてたんだよ……ほんとに……

「なんとなくわかってけどっ、いい加減ムカつくなぁっ!」

 今度は正攻法でぶち破られた。

 つまりは、ダーインスレイブの剣戟で。

 的確に枝を捌き、最低限の、自分自身を守れる範囲での安全地帯を確保した。

 こちらも言うだけならば、簡単。だけど、そこにあるのは尖りに尖った実力だ。

 ただし、尖っているだけならまだしも、彼らにはそれを支えるだけの積み重ねた努力がある。努力に裏付けられた実力を切り崩すことは容易ではない。

 つまるところ、早苗はそこを見誤っていたのである。

 片や前線で異界存在と戦っていた兵士。

 片や安全地帯で後方支援としての研究者。

 戦闘において、どちらが強いかは明白だろう。

 ちらりとタイマーを見る。時間は八分を指していた。

 早苗は焦る。

「ああ、もうっ!さっさとしないと、こっちが不利になるのに!」

 学習からの最適化。生き残るたび、一人と一機は対早苗の戦略を組み上げていく。

 あと早く戦いを終わらせたいのは、心情的な問題もあった。 

「長引くなら、さっきべらべら喋らなければよかったよっ」

 自分でもらしくもないと思いながら、長々とした口上を言ってしまった。

 あれは嘘ではないが、計画派に入った真意というわけでもない。

 否、真意というのは大層か。ただちょっと言いたくないだけのこと。面と向かって言うのは恥ずかしいし、躊躇われる。そんな感じ。

 ただ、まぁ、隠した所で、言い訳を並べてしまったら、先輩に対しては何の意味もない。

 何せ彼は曲がりになりにも全キラープリンセスと向き合って、彼女たちのカウンセリングを行ってきた人間だ。言動の端端から、心の深奥に辿り着くなどお手の物。言い訳だなんてとっくに見抜いているだろうし、知己である早苗のプロファイリングなどすっかり終えているだろう。

 全部まるっとお見通し、なんてことは流石に無い。だが計画派参入の動機くらいまでは見透かされているのは確実だ。

 やっぱり何もしゃべらず、一方的に攻め立てれば良かった。早苗はそう後悔する。会話なんてしなければ、心がかき乱されることなんてなかったのに。

 先輩から全てを奪い、それから最後に残ったものさえも奪おうとしている今、早苗が思えた義理でもない。だが、それでも一抹の後悔と悔悟の念が彼女の胸に去来する。

 だが、それも一瞬だ。直ぐに早苗は浮かんだ感情を振り払って、再びの攻勢に入る。

「今はとにかく、先輩を止めないと……っ!」

 先輩の殺害は計画派の意図する所ではない。完全な早苗の独断であり、早苗の私情に基づくものである。反逆とも言われかねない、独断先行だ。

 ここで先輩を殺すということは、計画派のオリジナルの回収を阻害するということ。唯一オリジナルの位置を探し当てられる先輩の成果を横から掠め取る、計画派の目論見は破綻することとなる。

 だが、早苗は何も問題ないと考えていた。現在地不明のオリジナルはあと一人(・・・・・・・・・・・・・・・・)。先輩を殺した後、彼の右眼を摘出し、〈ana〉を計画派が利用すれば良い。例え自己破壊プログラムが内蔵されていても、問題はない。計画派(こちら)にはどんな埒外も可能とする大悪魔がいるのだから。人員面からみても、ノルマを達成して暇な早苗が最後の一人を確保しに行けば良い。

 だから。

「ここで終わらせる。先輩の無理を、先輩の無茶を……っ!」

 これ以上、彼に彼を壊させない。

 早苗は知っているのだ。先輩がああなってしまうまでにどれほどの無茶をしているのか、を。

 どうやったって彼は目的を達成するまで止まらない。この現実を彼女は嫌と言う程知っている。

 早苗としては、彼を止められればそれで良い。だから、殺せなくたって構わない。殺害を選んだのは、それが手っ取り早いから。ただそれだけだ。例え殺せなくても、目的を断念せざるを得ない―――最低でも四肢欠損までは持ちこんで見せる。そうしなければ、そうしないと、最悪の結末が――ッ!

「ちぃっ!」

 森を捻じ曲げ、世界を変える。

 目の前の空間を支配しているのは間違いなく早苗のはずなのに、先輩を押せない、押しつぶせない。

 圧倒的な優位に立っていながらも、早苗の一手はいつまでも経っても先輩には届かない。

 決着が着く様子はなかった。早苗の攻撃は先輩には通じないし、先輩の攻撃は早苗には届かない。息が詰まるような膠着状態が続いている。

 全ては偶然の産物だった。早苗の向かう先がキエム村だったことにも、エロースがキエム村に居て先輩がやって来たことにも、必然性はない。

 たまたま二つの目的が交差しただけのこと。

 だからこそ、早苗はこのチャンスを逃すつもりもなかったのだが。

「―――っ!」

 追いすがる。早苗の指先が。

 けれど、どうやったって届かない。

 黒い剣で、銀の刃で、黒の楯で、厚い斧で、鋭い槍で。

 その悉くが振り払われて、指先を折られていく。

 広大な森に比べて、ちっぽけな男の背中。

 それが何処までも遠い。

「時間は――――っ!」

 叫びながら、早苗は心の中で祈るようにタイマーを見た。

 指し示す時間は、「00:01」だった。

 それはつまり――

 

「ああもう、時間切れっ!」

 

31

 

 無口な銀の人形は森の中にポツンと立つ一軒家を取り囲んでいた。

 そこは昨日まで、村から差別された老婆が住んでいた場所。

「―――――――――」

 無言で自律型ロボット兵器群は20ミリマシンガン〈BRURT〉の円形に並んだ十の砲口を並び立てる。

 かちゃり、かちゃり。

 背中に二人の激突音を受けながら、あくまでそれらは静かに命令を遂行する。

 早苗に入力された命令通りに。

 引き金に金属の指がかかる。毎秒百発の地獄が今、旧ネイシャ宅へと火を噴いた。

 

 果たしてそこにいるのは誰だったか。

 

 答えが出るには、さほど時間がかからない。

 

32

 その時、その場に居た誰もがその光景を見ていた。

 ズガガガガガガッ!ズガガガガッ!

 止まることのない破壊音。

 一つの家が瓦礫へと変貌するまで、さほどの時間は掛からなかった。

 

 シンは心底訳が分からないと言った風に呟く。

「どういう……ことだ……?」

 

 〈ana〉はあくまで機械的に疑問する。

『何をしているのでしょうか?いえ、この場合何がしたいのか、ですか』

 

 レーヴァテインは静かに眉を顰めた。

「…………?」

 

 オティヌスは全く事態を呑み込めていない。

「え、ちょ、どうして?」

 

 そして。

 その場で何が起きたのかを二人だけが理解できていた。

 

「べルフさん!?」

「そんなに簡単にやられてくれないよね、ベルフェゴール!」

 

 誰よりも長く共に過ごしていたエロースとその命を本命とした川藤早苗。

 この二人である。

 

33

 その少年は気だるげに伸びをした。まるで何事かもなかったように、いつも通りに。余裕すら感じ取れる、緩慢な調子で彼は伸びをする。

「目覚ましにしては、随分と荒っぽいねぇ」

 彼の周囲は瓦礫であった。昨日までは生まれ、暮らした村から迫害された哀れな女の持ち主で、今日からはこの少年の寝床となるはずだった家の残骸。そこは破壊されなければ、きっと老婆と少女の始まりは残酷な、けれど優しい思い出の詰まった永遠となるはずだった。

 少年は欠伸を一つ漏らす。漏れた涙の滴を指で拭った。視線を横に映すと、側には不自然に積み上がった瓦礫があった。その瓦礫の集積は彼を円形状に取り囲んでいる。彼の周りを埋め尽くす瓦礫ではあったが、どれ一つとて彼を害することはなかったのだ。まるで、瓦礫が彼を避けているようであった。

 ふと太陽の光の反射が彼の目に着いた。気まぐれに反射しているものを取ってみる。

 それは鈍い色の流線形を描く物体だった。すなわち、銃弾。外に布陣を張る自律型ロボット兵器群が放った小さな死。

「また懐かしいなぁ」

 彼はそれを見たことがある。彼の位相(・・・・)に在り得ざるそれはもう数えるも嫌になるくらい昔の戦争でまき散らされた。

 その戦争の名は、創世戦争。教会の歴史に記される最も古い歴史。

 全ての音が静止した世界で、ゴキンッ、と関節が鳴る。それは彼の首の関節が鳴る音だった。

「ほんとーはずっとぐーたらしてたいけど、まぁ教会がある限りしょうがないか」

 彼はそう言うが、創世戦争以来この場所にずっと居て、何もしてこなかったのは果たして誰だったか。もう少し自分を顧みるべきである。 

 まぁ、とはいえ、彼の長すぎる沈黙は教会によって破られた。面倒(めんど)くさいことこの上ないが、彼の平穏を取り戻すためにも動かなければならない。

 よって彼は立ちあがる。ゆっくりと、緩慢に。

「お?」

 赤い光が彼の体に突き刺さった。

 自律型ロボット兵器群のレーザーポインターだ。異界存在を打ち砕くために作られた、火力を極めた現代兵器の最高峰が彼個人に照準を合わせている。

 その現実には誰だってすくみ上る。それはキラープリンセスだろうが、シンであろうが、関係なくだ。

 だが、彼は、二度目の欠伸をする彼は、いつもの気だるげな調子を崩さなかった。

 爽やかな朝の爽やかな目覚めのように再び伸びをして、三度目の欠伸をして、体を左右に捩じり、屈伸運動をして、肩を右から左へ順に回し、およそ十秒ほどぼーっとした後、首の座りが悪いのか時計回りと反時計回りに一周させて、腱を伸ばすために前屈、そのままの流れで後ろで手を組んで上に持ち上げ肩をほぐす、それから思いっきり大きな欠伸をした。

 そうして彼は気の抜けた声でようやく言葉を紡ぐ。

 

「――醜悪の怠惰(カイツール)

  

 

34

「―――おわっ!」

 シンは情けない声を上げて、驚いた。

 だが、それも仕方がない。

 何せ、虚空から唐突にべルフが現れたのだから。

「――よっ、と」

 シンを驚かせたべルフは彼のことを気にすることなく、気だるげに空中から着地した。

「な、な、な、な」

「うーん、そこまで驚いてくれると嬉しくなるねぇ。マジシャンになるのも悪くないかもしれない」

「どういう原理だっ!」

「『な』で始まったのに、『ど』で始まるのか。不可解が過ぎるね」

 へらへら、と力なく笑いながらべルフはそう宣った。

 自然体の彼と対照的にシンは動揺を隠せない。

「何がどうして、此処に現れた?瞬間移動、か…?いや、キラープリンセスの中にも一人だけ超能力を使えた奴がいたから、受け入れることに抵抗はないが、なぜだ?なぜ超能力者が計画派に狙われる?わざわざ自律型ロボット兵器群まで持ってきてっ」

「良いから、落ち着かない?暑苦しいよ。もう少しいつも通りでも良いんじゃない?」

「できるかっ!」

「はっはー」

 シンの若干の怒りの籠った否定に対して、べルフは軽く笑うことで返答とした。

 シンの中で状況への理解が追い付いていない。

 先程、旧ネイシャ宅を取り囲んだ自律型ロボット兵器群。あれらが銃弾を撃ち込んだ対象は「家」ではなく、その中にいた目の前の気だるげな少年――べルフだろう。だが、その動機は?何故彼が狙われる。彼が自律型ロボット兵器群の銃弾の中で生き残れた理由も気になるが、それ以上に彼が計画派に襲撃される理由の方が疑問だ。

 彼の正体にその答えは有りそうだが、それもまた見当がつかなかった。先程の瞬間移動。思いつくのは超能力者だが、超能力者だとすれば何故計画派に狙われるのか。超能力者だから、という理由では襲撃される理由としては弱い気がする。

 というより――

「お前の正体はなんなんだ!」

「だから落ち着きなって。来るよぉ、歪んだ魔術の進撃が」

「ちぃっ!〈ana〉!」

『わかっております』

 腕が突然の挙動を取った。

 〈ana〉の観測の中、あるのは枝槍と硬質化した木葉。

 都合五十の凶器が二人に迫る。

「悪いが、自分の身は自分で守ってもらうしかないぞ!」

「だいじょぶ、だいじょぶ。あれくらいで、傷つけられるほど俺の醜悪の怠惰(カイツール)はやわじゃない」

 カイツール……?

 内心首をかしげるシンだが、問う前に〈ana〉の肉体制御に口を阻まれた。

 視界内にあるのは、五つの枝槍と十三の木葉。〈ana〉は一呼吸して、ダーインスレイブを振り上げる。

 そして、行った。

 瞬間強化(ブースト)で食らいつかんとする先行する二つの枝槍と六つの木葉を追い抜いた。内、枝槍を途中で砕き、軌道を曲げてなお追いすがる木葉を打ち落とす。それから流れるように体を半歩ずらし、一本の枝槍を避けた。

 右目が赤色に染め上がる。〈ana〉の緊急警報だ。背後より枝槍が迫っていた。あくまで〈ana〉は冷静に対処する。ダーインスレイブの腹で受け止める。枝槍の直撃は免れたが、受け止められた枝槍はねじ曲がり、歪曲し、シンを打ち上げた。

 無防備な体に二本の枝槍と七つの木葉が迫る。〈ana〉は白衣の内側に手を伸ばし、一つ鉄塊を取り出した。それは拳銃だ。量産型のありふれたハンドガン、それをマックが改造したもの。〈ana〉は引き金を弾く。飛んだ弾丸が枝槍と木葉と正確無比に撃ち落とした。

 そのまま、すっと着地。

「べルフ、大丈夫か―――っ!」

 切迫した声を上げ、シンはべルフの方へと振り返る。

 べルフの戦闘能力をシンは知らない。瞬間移動の超能力がどれほどなのか、そして他の超能力が持っているのか。ただどちらにせよ、気だるげな彼が早苗の猛攻を切り抜けられるとは思えない。過去において、異界存在と最前線で戦ってきたシンでさえギリギリなのだ。それなりの戦闘経験を積み重ねたシンが背水の陣。明らかに戦闘経験が無さそうな彼が早苗の全方位飽和攻撃をいなせるとは考えられない。 

 だが、べルフは。

 シンが振り返った先のべルフは未だ健在だった。傷一つなく、服の乱れさえないままに。

「だから、言ったでしょ。大丈夫だって」

 だが、何も変わっていないからと言って、彼が早苗の攻撃全てを避けきったわけではない。

 むしろ逆。

 全てを受け切っていた。

「お前、それ…」

 枝槍は直撃し、硬質化した木葉はべルフに突き刺さっている、ように見える。

 あくまで、見かけ上は。

 実際にはべルフから紙一重の場所で停止していた。彼の輪郭を覆うように薄い膜があるのか、枝槍や硬質化した木葉は頭であれ、腹であれ、そして腕でであれ、全て彼の体表の直近で止められていた。

 からから、と木葉が落ちる。

「これが俺の権能」

「権……能…?」

 それでは、まるで――

「フィクションのようじゃないか……」

「はは、言い得て妙だねぇ。俺の存在自体、確かに在り得ざる現実(フィクション)だし。本来はさ」

「訳がわからない。どういうことなんだ」

「まぁ、それはそうだろうねぇ。君は大局的に本流だけど、今回に限っては別系統の流れだから。つまり俺――いや、俺達というべきか――とにかく初接触だから分からなくても仕方がない。別系統の古き対立軸とでも称されるのかな。そして、それと君はようやく結びつけられたというわけだ。ようやくと呼ぶには、随分早かったけど」

「だから、訳が――」

「安心すると良いよ。体のいい説明役が直ぐに来る」

 べルフが言うと、直ぐに来た。

 ぐわん、と空気がたわむ。荒れる風が二人の髪を乱されさせる。

「ここで討ち取るから、ベルフェゴール……‼」

 早苗である。木の壁を纏う彼女が、地上へと急速に降りてきたのだ。

 べルフは彼女を顎で指す。

「ほら、来た」

「何?その言い草は!正直、私は目的達成できなくて、ブちぎれ寸前なんだけど!」

「君の目的は俺の殺害と核の回収でしょ…。なんで彼の殺害に熱を上げてるの」

「私的には先輩を止めることの方が重要!」

「それで殺害とか、発想が歪んでるんだけどなぁ。まぁ、あの男の遺産に目を眩ませているようじゃあ、当然の帰結といえば帰結かな」

「殺さないと止まれないの、私の先輩は!」

「だそうだけど、そこんとこどうなの?」

「もう俺と計画派との融和は有り得ない。話し合いでの決着なら、もう過去に諦めた」

「そういうことっ。だから、殺し合うしかないの!」

 二人の答えを聞くと、べルフは「やれやれ」と言うように肩をすくめる。

「面倒なことしてるねぇ」

「人間同士の確執は面倒なの。貴方には分からないだろうけど!」

「分かりたくもないし、分かる気もないねぇ」

「だよね―――っ!」

 早苗がホログラムを操作し、瞬時に木葉を飛ばす。

「――っ!」

「身構えなくても良いよ。あれは多分威嚇射撃だから」

 べルフの言う通り彼だけに飛んでいく木葉は、彼の直前で停止する。

「無駄だよ。その程度じゃ、俺の醜悪の怠惰(カイツール)は破れない」

「だよね。だけど、この場においてその無敵性は絶対じゃない」

 早苗は自信たっぷりにそう言うが、べルフは曖昧な態度で返すだけだった。

 早苗とべルフは二人の世界に張り込んでいる。だが、シンはこの局面に声を上げられないで居た。

 当然である。何せ何もかもが蚊帳の外なのだから。

 ただ分からないことがないわけではない。

『べルフが人間ではないことは確かでしょう』

「能力系統としてはアンナのマナ障壁と同系統か。それも何段階も上の」

『権能でしたっけ。わざわざそんな大仰な名称を使っているということは、彼は神に類するものでしょうか?よくフィクションでは神の力の名称で使われてるでしょう?』

「待て、それは俺達の位相(世界)での話だろう。そもそもとして、べルフは俺達の位相の出身なのか?」

 しかし推論は立てど謎は尽きない。マナを扱っているから天上世界由来の存在なのかもしれないが、姿かたちは人だ。位相融合で生まれた新人類の可能性も否定できない。

 思索にふけるシンを置いて、二人の世界は加速する。

「だけどさ、流石に森と村一つ潰してまで、俺を潰しに来るとは思わなかったよ。控えめに言って馬鹿だと思ったねぇ」

「そっちの方が効率が良いから。第二次楽園計画(プロジェクトエデン:セカンド)にとってもね」

「うーん、歪んでるなぁ。君たちの世界では人体実験は禁止されていたよね」

「そうでもしなきゃ人類は救えないんだよ。屍の上に平和は立つ。これ、私達の位相(世界)の哲学者が言っていた言葉」

「ふぅん。ま、当然の事と言えば、当然のことだよね。つまりは失敗は成功の友って奴でしょ?」

「まぁ、その通り。陳腐に見えるかもしれないけどさ」

「陳腐なことでも、具体性を持てば吐き気を催すような現実となる。ままならないね。だけど、作戦自体は悪くないかな。よく考えたものだよね。俺のことを研究してる」

「流石にデータが少なくて難儀したけどね。ただ絡繰りが単純だったから、それさえ分かってしまえば対策は簡単だったよ」

「単純なものほど打ち破りにくいものだけどねぇ。全ての基礎基本が最も優れているようにさ」  

「かもしれない。だけど、確実にここで終わらせる。創世戦争(・・・・)を片付けて、私は過去の清算を――っ!」

 唐突、であった。

(…………?)

 シンの意識が思索の海から浮上する。

「創世……戦争……?」

 創世戦争、とシンはもう一度その言葉を心の中で繰り返す。

 それは教会神話にある人類の復権の物語。計画派が過去の異界存在との戦いをモデルとして構築した戦争神話を何故早苗はここで取り上げた…?

「いや、まさか」

 浮かび上がる疑問に、シンの脳裏でとある可能性が浮かぶ。

 さて、べルフと早苗が対立しているのは傍から見ても明らかである。

 であれば、創世戦争において教会と――つまりは計画派と対立していたのは誰だった、いや何者(・・)だったか。

 自身の予想と辿り着いた現実とのズレを前に、シンは思わず尋ねてしまっていた。

「早苗……一つ聞きたい」

「なんですか、先輩?」

 もしソレが実在するのなら、異形の姿を取っていると思っていた。何故ならソレは異形の使徒の上位種としか考えていたから。

 別位相存在である人の形を天上世界由来存在が取っていることなど、誰が予想できようか。

「べルフは、大悪魔なの、か……?」

 創世戦争。それにおける人類の敵。

 べルフが二十五の大悪魔の一人。

 それがシンの辿り着いた結論だった。

 未だ現実を受け入れ難く思うシンに、問われた早苗は答えを突きつけるべく口を開いた。

「その通りです。正式名称は大悪魔ではなく大使徒。怠惰の嘘使徒ベルフェゴール、それが彼の正体です」

「大使徒、というのは何なんだ?」

「この位相――つまりは天上世界の代表者にして代弁者、ですね。この世界を守り、この世界の在り方決定することを存在意義とするのが彼ら大使徒です。例えるならば、人体の免疫システムに似てるでしょうか。彼らは天上世界に入り込んだ異物を排除する役目を持っていて、神話にある創世戦争の後半は位相融合によって現れた人類を排除するために起きた戦争になります」

 ごくり、と鳴ったのはシンの喉だ。滲む汗が頬を伝うのを彼は自覚した。

「怠惰の嘘使徒というのは?推測する限り、大使徒の区分のようだが。確か神話上の創世戦争では、白と黒の大悪魔がいたよな」

「一人の例外を除いて、二十四の大使徒はまず二つに区分されます。その区分が実使徒と虚使徒です。基準は各々が背負う世界を構成する要素がポジティブかネガティブかで決定されますね。怠惰というのは、彼が担当している世界の構成要素の内の一つです」

「大使徒の区分は計画派がそうカテゴライズしたのか?」

「いいえ、彼ら自身の名乗りですよ。まぁ、ベルフェゴールの場合は他の大使徒からの又聞きですけど」

「そういえば、何でべルフなんて名乗ったんだ?」

「だって、長いから名乗るめんどくさいでしょ?」

「「…………………」」

 この時ばかりはシンと早苗の息がピッタリあった。二人して、たっぷり呆れの目を向ける。

 ややあって、シンは再び早苗に問いかけた。

「というよりベルフェゴールという名前は?あれは俺達の位相における悪魔の名前だったはずだ。七つの大罪内の〈怠惰〉に割り当てられた悪魔の名前だろう。どうしてそれが別位相たる天上世界由来の存在の名称と被っている」

「それについては私達にも分かっていません。並行世界間の相互影響性だとか上位概念の悟性だとか、それっぽい文献が電子書庫に残ってたんですけど、結局の所オカルトに過ぎませんでした。科学的証明はないです。ただ少なくとも、そこにいるベルフェゴールを名乗る彼が、七つの大罪と同じく怠惰を担当している大使徒であることから、私達の位相と天上世界の位相の間で何かがあることは確実だと思いますよ」

 あのムカつく彼女も含んだもの良いしてないで全部教えてくれれば良いのに、と彼女はぼやく。

 シンは小さく舌打ちをした。厄介な現実が明らかとなった。天上世界を掌握する計画派にとってすら解明できていない未知の存在。予定外にして規格外のイレギュラーの混入は計画派打倒を目指すシンの道程を狂わせる。

 不幸中の幸いと言えるのは、

「もう半数以上が討伐されているんだったよな」

「残っている大使徒は実使徒が五人、虚使徒が六人ですね。おまけに全員が創世戦争時に、その根本たる核を一部削り取られ、全盛期とは言えない状態にあります。とはいえ、全盛期と言えないだけでその権能の力は健在ですけど」

 早苗は不機嫌そうにそう言った。自身の力が悉く防がれているのだから、当然といえば当然だ。

 べルフ――ベルフェゴールの権能は確か醜悪の怠惰(カイツール)だったか。瞬間移動できたり枝槍や硬質化した木葉を防いだりとその力の端端は見受けられるものの、いまいち本質の見えない能力だ。

「結局お前の醜悪の怠惰(カイツール)って一体……?」

「まぁ、あんまり気にしなくても撃老いと思うよぉ。俺は君と対立するつもりはないしぃ」

 シンは問うが、しかしベルフェゴールは曖昧な返事を返すだけだ。

 ただし、言葉が含んでいることはいやでも分かる。

 すなわち戦闘の開始だ。

『自律型ロボット兵器群の接近を確認』

「交戦準備は?」

『ないです。おそらくは川藤早苗が待機状態にしていると思われます』 

 自律型ロボット兵器群の重たい足音がシンとベルフェゴールを取り囲んだ。

 未だ先程の掃射の熱が消えない銃口から火薬の焦げ付いた懐かしい戦場の香が僅かに森の中に漂っている。

 シンは鼻を無意識にひくつかせていた。

「先にベルフェゴールを討ちます。先輩は下がっていてください。後で、また相手をして上げます」

 徐々に出来上がっていく戦闘の空気の中で、早苗が挑発的に言った。

 シンは咄嗟に込み上げてくる反論を口にしようとしたが、すんでの所でそれを呑み込んだ。

 だって早苗の言う通りにした方がシンとしても好都合なのだ。早苗の魔術にプラスして、今度は自律型ロボット兵器群の現代兵器の火力が敵となる。早苗の魔術を相手にするだけでも精一杯だったのに、それ以上の脅威である自律型ロボット兵器群も武器として使うようになった今の早苗と戦うなんて無謀すぎる。

「くそっ!」

 自分の無力さを呪い、シンは荒々しくそう吐き捨てた。

 あくまで早苗とベルフェゴールの対立軸はシンと早苗の対立軸とまた別のもの。

 そして私情を抜きにした場合、彼女にとってはベルフェゴールこそが本命だ。今回、シンはたまたま出くわしたに過ぎない。

 此処では、外野に徹することしかできないのだ。

 

35

(これが自律型ロボット兵器群に対する切札ねぇ…)

 シンの去り際、こっそり渡された黒い棒状のもの――確かUSBとか言ったはず――を早苗に気取られぬようにベルフェゴールは手元で弄ぶ。

 シンはシンで計画派と戦うことをよく考えていたらしい。おそらく中にあるのは、彼の友人によって作られたであろう対自律型ロボット兵器群のコンピューターウイルスの類だろう。自律型ロボット兵器群を統括するマザーコンピューターに感染し、システム下にある自律型ロボット兵器群諸共、機能停止に追い込むようになっているはずだ。

 別位相の存在であるベルフェゴールが何故自律型ロボット兵器群について詳しいのかというのはともかくとして。

 ベルフェゴールとしてはこんなものなくたって自律型ロボット兵器群は破壊できるのだが、しかし彼はこう考えるのだ。

(どっちが楽になるかなぁ、と)

 彼は怠惰の虚使徒である。彼が実使徒だろうが何者であろうが、その本質は変わらない。今までの振舞通り、彼は気だるげな調子を崩さなかった。

 何せ、彼は〈怠惰〉の構成要素を背負う者。怠惰であることが、彼の通常なのである。

 つまりは、彼は面倒でたまらないのだ。早苗との激突が。

 そもそもである。ベルフェゴールとしては今の段階で計画派と戦う動機がないのだ。創世戦争が起きた理由は、位相融合という未曾有の災害によって天上世界崩壊の危機を迎えたことと人間という外来種が天上世界を崩壊させる可能性を有していたからである。創世戦争では天上世界が崩壊する危機があったため、天上世界を保護するために本当に渋々戦争に出ただけだ。同じく天上世界の守護を存在意義とする他の大使徒の意志は知らないが、少なくともベルフェゴールは現状人類を天上世界から排除しようとは思わない。

 だから。

面倒(めんど)くさいねぇ)

 この早苗との激突は計画派の都合によるものだ。ベルフェゴールには激突意志は一切ない。彼からすればはた迷惑も良い所である。

 ふわぁ、と大きな欠伸を一つ。

「もう少し真面目にやったら?自分の命がかかってるんだから」

 その欠伸を早苗に見咎められた。彼女が苛立ちを込めて言葉を放つ。

 彼女の発言の裏にある感情を読み解くならば、この戦いでベルフェゴールを討ち取る自信があるのだろう。

 とはいえ、こちらとしてはこう言うしかないのだが。

「本当にかかってるのかなぁ」

「言ってれば良いよ。その油断が貴方を殺す」

「ふーん、で、今取り出したそれは?」

 ベルフェゴールがさすのは、彼女が胸元に装着しているマナ制御デバイスから取り出した細いワイヤーのようなものだ。その先端は金属製の針のようになっており、用途としては何処かに突き刺すであろうことが見て分かる。

「貴方を殺すもの」

 早苗はそれだけ言って、先端の針を、

「――づっ」

 こめかみに突き刺した。

 それから、頭痛に耐えるように顔を歪める。数秒あって、また痛みが時折押し寄せるのか目筋を時折引く憑かせながらも、彼女は口を開いた。

「今まで、私は魔術をホログラムを操作することで発動していた」

「そうだね。傍からすれば、随分面倒な方式を取っていると思ったけど」

「私の魔術は発声方式ではやりにくかったから、先輩のCMCシステムのようにもいかない」

「まぁ、先輩の後追いをする必要もないとおもうけど」

「だから私はこう考えた。脳から直接操れば良いんじゃないかって」

「………ふーん」

 ようやく。

 ベルフェゴールの声色に真剣みが浮かぶ。

「自分が置かれている現状がようやく理解できた?」

 早苗が勝ち誇ったように口角を歪めた。

 おそらく彼女からすれば、こちらから交戦の意志を引き出せたことがまず第一の成果だからだろう。

 ベルフェゴールは素直な感想を口にする。

「まぁ、彼が嫌いそうな方法ではあるねぇ」

「先輩にだけは文句を言われたくないんだけどね。頭の中に化け物を埋め込んでるあの人には……っ!」

 どうやら彼女の中での激昂ボタンを押してしまったようだった。

 噛みつかれそうな口調で彼女が言うので、ベルフェゴールは気持ちの中で一歩引く。こういう熱いのは苦手だ。

「で、それがどうしたっていうのかな?」

「単純な話。脳とマナ制御デバイスを直接つなげることで、私は木々を自分のイメージ通りに、そしてより自由にかせるようになった。つまり、さっきまでとは違うってこと」

「なるほどね。攻撃の威力を上げて、手数を増やしたという訳か。つくづく、対ベルフェゴールの布陣だねぇ」

「他人事見たいに言って……」

「実際未だに他人事だね。君が醜悪の怠惰(カイツール)を破る俺の脅威足りえるかわからないからさぁ。一応脅威度は上がってるけど、まだまだとしか言いようがないかな」

 その発言が皮切りだった。

 はっはー、と笑う彼の顔に枝槍が叩きつけられる。

 とうとう怒りが頂点に達した早苗の所業である。

「舐めてるの?」

「『自身の不足を他人に叩きつけて、自分の小さな強さに酔うのは楽しいことだよな』。俺が言うにはらしくない言葉だけど、君を前にしてつい彼の言葉が浮かんでしまったよ」

 そういう物言いが早苗のプライドを煽っているのだが、ベルフェゴールは知っていて直す気がない。

 彼は怠惰だから。

「まぁ、良いか。君が今どのようであれ、そしてこれからどのようであるかについては、俺は追及しないしね。然るべき誰かがいるのだし」

 ベルフェゴールは顔に叩きつけられた枝槍を根元から片手で折った。何処にそんな力があったのか。枝槍自体は細い物ではない。人間の腕二つ分ほどの太さがある。だが、彼は大して力の入ってなさそうな右腕で簡単に手折ってしまった。まるで最初からそう折れると決めれらているように簡単に。

 ベルフェゴールは手折った枝槍を横に投げ捨てて、軽やかに口を開く。

 

「さぁ、戦いを始めよう。怠惰なるままにね」

 

36 

 

 ――さて、この戦いの帰結は始まる前から明らかであった。

 

 

「行けっ!」

 早苗の咆哮と共に、この森の全てが来た。

 枝槍は千の規模でベルフェゴールに突き刺さり、木葉は万の単位でベルフェゴールに襲い掛かる。

「貴方の醜悪の怠惰(カイツール)の正体は、怠惰の虚使徒としてのこの世界における絶対性が現れたもの!」

 だが、その全ては今まで通りにベルフェゴールの直前で停止する。

 そんなことは分かり切っている早苗は自身のイメージを膨らませ、さらなる追撃として木々で、体長十メートルはある巨大な蛇を三匹作り上げた。

「そして、その絶対性を権能としての発言を媒介しているのは貴方の周囲に存在する空気中のマナであることを私達は突き止めた!」

 三匹の蛇が動く。

 まず一匹の蛇がその重たい尾でベルフェゴールを吹き飛ばした。さながらプロ野球選手の投球のように鋭い吹き飛ばしは、二匹目と三匹目の蛇の丁度真ん中へ向けられている。

 二匹目と三匹目の蛇は口を開いた。吐き出されるのは、流線形の小さな木の塊だ。称するならば、木弾というべきだろうか。散弾銃のように放たれる無数の木弾は線というよりは壁。狙いの精度が高いわけではない。だが、圧倒的な物量でベルフェゴールの体を打ち付ける。

「なら貴方の権能によるマナ障壁の絶対防御を打破するにはどうしたら良いか。答えは簡単、周囲のマナを奪いとるか周囲全てのマナを消費しきる程、貴方を攻撃すれば良い!」

 ベルフェゴールの体が地面に落ちた。重力に任せた自由落下で、肉体が何度かバウンドする。そのまま彼の体はくたっとして、動き出す様子はなかった。

「だからこそ、私の堆積の魔術と自律型ロボット兵器群。私は実験によってキエム村一帯のマナを結晶化し貴方が使えるマナを減らした。なおかつ攻撃の手数を増やしている。つまり貴方を討つための最適解を用意したってわけ!」

 それでも早苗の猛攻は止まない。次なる刺客は金属音と共にやってきた。

 自律型ロボット兵器群。心無き科学の暴虐。

 接触型アンチマテリアルライフル〈D-340〉20ミリマシンガン〈BRUST〉、多段爆発手榴弾〈マリスタ手榴弾〉。異形の怪物、異界存在を殺すために作られた高火力が一斉にベルフェゴールに差し向けられる。

 鼓膜を叩きつけるような爆音が連続して響く。「――――っ!」。シンの声が聞こえたような気がしたが、生憎とそれは銃撃と爆撃の刹那の隙をついたようなものであった直ぐに掻き消されてしまった。

「さぁ、これでも貴方は余裕を保っていられる!?」

 ベルフェゴールが瞬間移動した。

 すぐさま早苗は彼を捕捉し、木葉を飛ばす。

 何回も、何十回も、何百回も、何千回も、何万回も繰り広げられた光景。

 その中で一つの異常があったのだ。

 

 ピッ、とである。

 

 彼の頬に赤い線が走った。。それから内側から赤い血が、ぷくり、と現れて彼の頬を伝って、下へと流れていく。

 それはまごうことなく切傷であった。

 それは早苗の攻撃が届いた証拠であった。

「―――――!」

 目視した早苗は笑う。強者に食らいつけた喜びを顔一杯に表した。

 確かな手応えを得た彼女は、さらに自身の想像を膨らませ、えげつない攻撃をしかけていく。

 ギアを上げ、勢いのままに激しさを増す早苗。

 対して、劣勢にあるように見えるベルフェゴールは内心冷めきったまま、誰にも知られずこう呟いていた。

 

「なんだ、この程度なんだねぇ」

 

37

 ――繰り返す。この激突の帰結は始まる前から明らかであった。

 

「く、くそ……っ!」

 早苗は地面に膝を突きながら、歯噛みする。その苦悶はただの負け犬の遠吠えでしかなかった。

 彼女は目を逸らせない現実を突きつけられていた。

 矛であり盾であった森はずたずたに破壊され、自律型ロボット兵器群は木偶となってしまっている。

 全てはただ一人の少年がなしたことである。

 すなわち、怠惰の虚使徒ベルフェゴール。この世界を支える二十五の大使徒の一人。

「やっぱり脳で直接操るのは制限時間があったね」

 早苗が膝をついているのは、ひとえにマナ制御デバイスと脳の接続の限界時間に達したからだ。多大な負荷が脳にかかり、頭が割れるような激痛が立つことすらままならなくさせていた。 

 苦しむ早苗を見下ろして、ベルフェゴールは言う。

「着眼点は悪くなかったよ」

 ベルフェゴールは敗北者をそう称える。

「俺の醜悪の怠惰(カイツール)を破るためには、確かに俺の周囲のマナを減らし、かつ俺のマナの消費量を増やすことで周囲のマナを枯渇させれば、醜悪の怠惰発動条件は満たせない。俺に攻撃は通る」

 だけど。

「君たちは俺の世界に対する絶対性の在り方を見誤っていた」

 ベルフェゴールは自身の討伐作戦の根本的な欠陥を指摘する。

「俺の『怠惰』の絶対性はマクロな世界に対する最優先権という形で現れる」

「それは知ってる!あの瞬間移動も世界が動くことによって成立しているし、マナの障壁による絶対防御も貴方の自己防衛を世界が肩代わりするという原理で為されている。貴方が世界に合わせるんじゃない、世界が貴方に合わせる。それが貴方の、『自分では何も為さず、世界が自分のために何かを為す』が故の怠惰の絶対性でしょう!」

 醜悪の怠惰(カイツール)とは、かいつまんで言えばベルフェゴールが世界によって甘やかされる権能だ。彼自身は何もしなくとも、彼がして欲しいことを世界がやってくれる。瞬間移動も、絶対防御のマナ障壁も全ては世界がベルフェゴールの都合に合わせて動いているから発生する現象(・・)だ。

 自分のために世界を動かし、自分は何もしない究極的な怠惰の結晶。

 それが、怠惰の虚使徒ベルフェゴールの権能の正体である。

 早苗が出した計画派の結論は彼の権能の本質をしっかりと捉えていた。事実ベルフェゴールも頷いている。

「その通り。君たちは間違えてなどいなかった」

「な、なら、何が違うっていうの!」

「こうは考えなかったのかな。結晶化したマナが俺に都合の良いように振る舞う、と」

「―――っ!」

 早苗は、はっ、と息を呑んだ。

 だが、ベルフェゴールの言葉は簡単に受け入れられるものではなかった。

「貴方の権能はマクロな世界を動かせても、世界の中にあるミクロな物質を変質させることはできなかったはず!」

「その点についても君たちは間違えていない。俺の権能は物質を変質させるほどの強度はない。権能を使って物質に干渉する場合、精々マナの障壁による絶対防御を得た体で破壊する間接的なせ方法くらいだ。打撃で攻撃に使われた木を破壊したり、現代最硬の自律型ロボット兵器群を砕いたりね。まぁ、自律型ロボット兵器群は一体を除けばシンのUSBを使ったけど。とにかく権能単体で、物質を変質させることは出来ない」

「な、ならどうしてっ、マナは貴方の権能で変質するの!」

「忘れたの?俺は大使徒とはいえ、使徒なんだよ。つまり、いかに姿形が人間でも、此の身を構成するのはマナなんだ」

 早苗が、計画派が見落としていた大前提。

 使徒とは一体なんだったか。天上世界由来のマナ生命体ではなかったか。

 だったら何故大使徒は例外だと言えるのだ。

「シンとは違って設備も時間もたんまりあった計画派(君たち)は使徒の正体についても掴んでいるんでしょ?」

「マナは世界に属するものであり、かつ貴方自身にも属するもの。その二面性が醜悪の怠惰の例外を生ん出るってことなんだね」

「結晶状態のマナ操作の原理は腕とか脚を動かすのと変わらないからねぇ。まぁ、とはいえ普段は使わないし、具体性のある使い方はしないんだけど」

「なんで?マナ操作を使って空気中のマナを武器としてしまえば、私との激突もあんな風に嬲られずにすんだんじゃないの?」

「えー、だってマナ操作ってことは俺が何かをしなくちゃいけ居ないでしょ。面倒だから嫌なんだ」

「そんな理由……」

 どこまでも怠惰な人だと早苗は思う。だが思い返せば、ベルフェゴールは怠惰の虚使徒。怠惰であることこそが、彼の在り方として正しいのだろう。

 深く息を吐いた。ベルフェゴールの言を彼女の中で組み立てる。ベルフェゴールの能力と計画派が切れる手札を振りかえって、仮想戦闘を何度も繰り返してみた。

 出した結論としては、こうだ。

「最初っから、敵いっこなかったんだね」

「まぁ、俺を人の手で倒すのはほぼ不可能だと思うよぉ。人間の中でもとんでもないイレギュラーだったら別だけどさ」

「ふーん?」

 まるでそんな人間がいるような口ぶりだったので若干興味を引かれるが、深くは言及しないし、する意味もないだろう。

「これで終わり、かぁ」

 自分は此処で死ぬのだから。

 結局何も達せられないまま終わってしまった。計画派の本命も、私情として為したかったことも全てやり残している。

 それでも、現実は彼女の死を突きつけている。もはや彼女にベルフェゴールに抗し得る力は残っていない。まだ手動で発動する彼女の堆積の魔術は残っている。けれど、自律型ロボット兵器群と脳からイメージを介して発動する魔術の混合で打ち破れなかったベルフェゴールを圧倒的に劣る手動の魔術で突破できるはずがない。

 故に、ここで早苗は死ぬのだろう。

 死の覚悟が出来ている、とは言い難い。未練はたっぷりだ。それでも、早苗は生を諦めるという形で死を受け入れていた。死にたくないけれど、どうしようもないのだから。

 それでも、形だけでも立ち向かう姿勢をするべきだろう。

 未だに残る鋭い痛みを堪えつつ、彼女は立ち上がった。マナ制御デバイスを起動して、ホログラムを展開する。

 そんな見た目だけはやる気満々の早苗の様を見て、ベルフェゴールはこう言った。

「え、まだやるの?」

「は……?」

「俺としてはもう終わらせようと思ってたんだけどねぇ」

「だったら私を殺すんじゃないの…?」

「え、何で?やだよぉ、そんな面倒なこと。俺には計画派と戦う理由もないし、君を殺す理由もない。今回で君たちが俺に敵わないことは嫌と言う程分かっただろうから、むしろ君が教皇庁へ戻って、伝えてくれないと困る」

「む、確かに」

 此処で早苗が死ねば、また新たな刺客が送り込まれるだろう。面倒な戦いを好まないベルフェゴールからすれば、彼の脅威度を伝えてくれるメッセンジャーが必要だ。

「それに、君にはやるべきことがあるでしょ?人類救済なんて陳腐な夢などどうでも良くなるほど大切なことがさ」

 そうだ。

 ベルフェゴールに殺されないのなら、やりたいことが、やらなきゃいけないことがある。

 死にたくないと思える未練があるのだ。

 世界を一変させた計画派としての世界を変えるための仕事よりも、ずっと、ずっと大切な。

 川藤早苗個人が抱える、決して手放せないもの。

 これっが自分勝手なものだということは、早苗自身がよく知っている。独善と自己満足の集合体。そんな醜い感情であることは。

 それでも、そうであっても、早苗はそれを諦めたくはないのだ。

「ねえ、ベルフェゴール」

 早苗はベルフェゴールに穏やかな声色で話掛ける。

「どうしてそんな励ますようなこと言うの?さっきまで馬鹿にしてたような感じだったくせに」

「別に今でも馬鹿にしてるけどねぇ」

「おい」

 それはどういうことだ。

「だけどね。だからと言って、君が君の思いを蔑ろにして良いわけではないんだよ。俺が、君以外の人間が君の思いをどう思おうとね」

「ん?……うん」

「思いとはあらゆる生命体にとって最たる可能性なんだ。生命の変革の根底には思いがあって、思いによってあらゆる可能性が花開く。だから自分の思いを果たそうとせず諦めるのは、ただの怠惰。生きる上での手抜きだよ。だから、容認できない。位相という意味での『世界』ではなく、もっと大きな括り――あらゆる位相、並行世界を含んでいるような、だ――の『世界』においてその怠慢は許容されない。当然でしょ?君たちは怠惰の虚使徒ベルフェゴールではないのだから。俺以外の生命体は常に自己の感情を、欲望を、願望を表現しなければならない。諦めることを認められないてはいないんだ。この『世界』はそういう風に出来ている」

 酷く難解な言い回しだった。言い回しだけでなく内容も意味が分からない。妙に哲学というか、オカルトというか、宗教というか、何処に着地すれば良いのかわからない、居心地の悪い話である。

 だから、こちらはかいつまんで理解をした。

「いまいちよくわかんないけど、とにかく自分のやりたいようにやれってことだね?」

「うん、そういうことだねぇ。だから俺が君を励ましているのは、そう見えるだけで大使徒としての機能ということになるのかなぁ」

「なに、それ。私の感激を返して」

「はっはー、やっぱり君は自分の都合で他人を振り回してる方がよく似合うねぇ。不快に思わえないってことは、君はそういう在り方を世界から定義づけられたんだろうさ」

「意味不明だね」

「俺は世界と最も近しい大使徒だからねぇ。他の大使徒が見えないようなことも、色々見えてるのさぁ」

 よくはわからない。というより、より正確に言えば、理解しようとしていなかった。

 ベルフェゴールの言葉は掴みどころがなく、他人に伝えようとする意志が徹底的に欠けている。どうやら意図的にそうしている節があった。だから、頭を動かすのを止めたのだ。

 まぁ、わけわからないから無視したという面がないわけではないのだけど。

「まったく奇妙な時間だね、このお喋りは」

 早苗はベルフェゴールを殺しに来たはずなのに、何故か殺害対象と親し気――そう見えるだけなのかもしれないけど――に会話をしている。奇妙が過ぎた。おそらくはベルフェゴールが早苗を敵として見ていなかったことと、彼が怠惰な性格をしているからだろう。きっと彼は怠惰だから、自身を相手によって変えないのだ。自分は何も為さない、世界が自分のために何かを為す。自分自身のために、他人を変えさせるという究極の自己中の在り方は、早苗の他人を振り回す在り方と近しいものがあった。馬が合う友人のような、そんな共鳴を感じている。

「もし出会い方が違ったら、友達にもなれたかもしれないね」

「うーん、どうだろ。そもそも友達作りなんてしたくないなぁ。大使徒の中でも、俺って浮いてるし」

「多少の努力くらいはしなよ…」

「考えてみるよぉ」

「そう言って、考えないんでしょ」

「はっはー、ま、その通り」

 いちいちムカつく奴である。この笑い方はどうにかならないのか。どうにもならないだろうなぁ、と早苗は思う。彼は自分を変えないのだから。

 早苗が呆れの溜息を吐くと、ベルフェゴールが彼女の視界から消える。

 醜悪な怠惰による瞬間移動だ。

 ベルフェゴールは早苗のすぐ側に現れた。

「じゃあ、さっさと行くと良いよぉ。彼――いや、彼と彼女が待ってるから」

 彼が早苗の背中を叩き、前に押し出した。

 突然のことに、未だ足元がおぼつかない彼女はつんのめる。

「よおっとぉ!」

 腕を大きく揺らし、前後に体の軸が揺れる。何度か往復を繰り返し、なんとか彼女は姿勢の安定を取り戻す。

「危ないなあっ!」

「立ち止まってるから悪いんだよぉ。さっさと俺と君の支流の対立軸から、君と彼らの本流の対立軸に移ってくれないと」

「また訳のわからないことを言って!!」

「俺を構ってて良いの?もう彼らは直ぐ其処にいるよ」

 そう言ってベルフェゴールは指を指す。

 言われなくても知ってるよ。その文句を早苗は住んでの所で呑み込んだ。口にしなかったのは、拗ねているように思われたくないから。この文句が持つニュアンスでは、どうしたって拗ねているような色が出てしまう。

 それでも言葉を吐き出そうとした勢いが、彼女の舌に残っている。後味が悪い。座りが悪い落ち着かなさがある。

 だから。

「ベルフェゴール」

「ん?何?」

「ありがとね」

 代わりに紡いだのは、感謝の言葉だった。

 ベルフェゴールはきょとんとした顔をする。当然だろう。話にならないとはいえ、一応は敵対者から礼を言われたのだから。

「どうしたのぉ、急にさぁ」

「いや、なんとなくそう言って置くべきだと思って。なんだか貴方に負けて、初めて頭がすっきりしたというか、冷静になれた気がする。それこそ計画派として活動する前みたいにね。憑き物が落ちて、本当にやりたいことに集中できるようになった。そんな感じがしてるの」

「まぁ、俺としては君を束縛から解放したつもりは全然ないんだけどね。ただの燃え尽き症候群なんじゃないの?」

「確かに、そうかもね。なんだか全力でやって、あっさり負けちゃったから、もう計画派なんてどうでもよくなってるのかもしれない」

「それはそれで喜ばしいことかなぁ。君たちがやってることは不健全だよ。過去ならともかく現在なら、大層な計画なんて動かさなくても、のんべんだらりん、と生きられるんじゃないのぉ。俺みたいにさぁ」

「流石にそれは――いや、そうかもね」

 クスリ、と早苗は笑う。

 悪戯めかして、おちょくるように。

 それにつられて、早苗の肯定に驚いていたベルフェゴールも笑い始めた。声を出さず、肩を揺らすだけ。何も力も入っていない、気だるげでそれでいて楽しさが滲み出ている。そんな笑いだ。

 空は快晴。雲一つのない、澄み渡るような青い空だ。見つめれば、空を染めげる鮮やかな青に吸い込まれそうになる。

 こんなにも空の青は鮮やかだっただろうか。空は過去も現在も広がっている。けれど、心の底から綺麗だと思えた青空は今見上げる青空が初めてだ。

 もしかして自分の中で何かが変わったのだろうか。多分変わったのだろう。計画派としての早苗がベルフェゴールにあっさり敗北したことで、計画派に参入する上で根幹となっていた何かが砕け散った。早苗に閉塞感を与えていた、見えないけれど確かにあった何かが消え去って、自らが見据えるべきものをきちんと捉えられるようになった気がする。

 笑うのを止めたベルフェゴールは、早苗に向かって柔らかく微笑みながら言った。

 

「過去の清算に行ってくると良い。何もかもが歪み、奪われてしまった全てを取り戻してくると良い。君の尊厳も、先輩後輩の間柄も、そして彼女との友情も。君自身の思いのために全力を尽くせば大丈夫だよ。怠惰でさえなければ、君の手はきっと届くだろうから」

 

 その言葉に含まれている優しさは、かつて何処かの誰かに与えられたものを彷彿とさせた。

 果たして、それは誰だったか。早苗には思い出せない。いつか見た夢の少女が脳裏にちらつくが、おぼろげなままで像を結ばない。暗闇の中にある物を見ているようで、全てが判然としない。

 けれども、思い出すのも時間の問題だ、と彼女は根拠は無しに確信していた。

 

 

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