37
いつだったか。おそらくは天上世界に来た時だったと思う。荷物整理をしている時に、とある有名テーマパークで売られている小さなマスコットキャラクターのぬいぐるみを段ボールの奥底から取り出したことがある。
まるでその存在を忘れてたがっているような、そんな入れ方だった。いくつも積み重なった重たい荷物の下敷きになっており、それが入っている段ボール自体も段ボールの山の一番奥深くに置かれていた。
触れられたくないと、かつての自分が主張していた。だって段ボールを取り出すにも一苦労なのだ。拒絶の意志があるのは明らかだった。
もし位相融合によって分断された異界存在研究所を改築する際に自室の移動を命じられなければ、きっと積み上がった段ボールの山から発掘することもなかっただろう。
過去の私は何を思って、このぬいぐるみを奥深くに隠したのだろうか。
別にぬいぐるみ自体が特殊なわけではない。おそらく土産物店で売っている、何の変哲もないものだ。大きさは手のひらに乗るくらいで、使われている生地も大して高級感のあるものでもない。ぬいぐるみとなったキャラクター自体も慣れ親しんだキャラクター。奇抜な恰好をしているわけでもないし、とても忘れてしまいたいなんて嫌悪感を感じさせる要素はない。
だとしたら、ぬいぐるみが段ボールの山の深い、深い底に封じ込めた理由は、きっとこれを買った思い出にある。
一体いつ買ったのだろう。顎に手をかけ、しばらく考え込んでみた。
けれども、いくら思い出を遡ってもそのぬいぐるみを買った思い出を手に取ることはできなかった。
何処にでもあるありふれたぬいぐるみ。
かつての自分は一体何を思って、段ボールの奥底へとしまいこんだのだろう。
わからない。
だけど、忘れてしまうということは大したことじゃなかったのだと思う。一時の感情で現実逃避のために嫌な思い出をしまいこんだに違いない。
捨ててしまっても良いと思った。これから先には無用なものだ。あった所で仕方がない。ゴミになるだけだろう。
でも、なんとなく、なんとなくだけど、手元に残しておきたいと思った。明確な理由なんてない。ただ気が向いただけ。捨てる理由もないのだから、残す理由もなくたって良いだろう。
今現在、段ボールの山から掘り起こされたありふれたぬいぐるみは私の机の上にちょこんと座っている。
38
二人の激突が終結した。
残されたのは、誰も見たことがないような暴虐の痕。
何処にでもあるようなありふれた森であったそこには、異常に背が高い木々が不規則に乱立し、動物をモチーフとした巨象がゴロゴロと転がっていた。しかも、それらが途中でねじくれ曲がったり、欠けていたりするから一層異様さを増していた。また木々の幹からは剣山のように鋭い枝槍が所狭しと生えており、地獄の針山を彷彿とさせる有様だ。地面を見れば、太い根が波打つように立ち上がっている。そこには大木の根が成長した結果、幹に近い所から地面から飛び出たといったような自然さはない。幹の近くだろうが、根の先端部分だろうが、位置など関係なく地面から根が隆起している。
まるで悪趣味なファンタジー映画のセットのようだった。
まぁ、実際に起きたことは、映画が腰を抜かすようなトンデモバトルだったわけだが。
そんな苛烈極まりの激突痕の間を無言で潜り抜ける者が二人いる。
シンとエロースだ。
「―――昔」
終始無言の二人であったが、唐突にエロースがこう切り出した。
「二人でお揃いのぬいぐるみを買ったことがあったんです」
それはあまりにも曖昧な語りか掛けであった。
エロースだって、きっとシンに理解してもらおうと思っていないのだろう。ただ吐き出したかった。そんな気持ちなのかもしれない。
けれども、シンにはそのぬいぐるみの話に心当たりがあった。
あの日のことだろう。二人が一緒にテーマパークに行ったあの日の。
早苗の惚気が鬱陶しかったことをよく覚えている。
「それはなんてことのない、何処にでもあるようなありふれたぬいぐるみでした。値段だって大して高くありません。地元の高校生がお小遣いで買えてしまうような、そんな安物です」
それでも、とエロースは言葉を切った。まるで込み上げる感情を押し込めるように一呼吸呑むと、彼女は口を開く。
「――それでも、私達にとっては友情の証でした。キラープリンセスと人間。生物的、社会的に大きな壁がありました。たけど、そんなこと関係なく、私達は友達だったんです。でも今の早苗ちゃんは、そのことも忘れてしまっているんでしょうね」
声は沈んでいた。
やはり落胆は隠しきれないか。忘却してしまっても、なおちらついていた親友。そこまで早苗のことを思っていたのだ。折角会えたというのにその親友が自分のことを忘れてしまっていては、むしろ傷つかない方がおかしいだろう。
こういう時、今目の前にいるエロースに対してならば、優しい慰めよりこちらの言葉の方が良い。
「記憶を失っていても、取り戻せば良いだけだ。そう言ったのは、お前だろ」
「まったく、その通りですよぉ。一発殴って、さっさと彼女の目を覚ませましょう!」
エロースはそう意気込んで、拳を真上に振り上げた。彼女のふんわりとした雰囲気のせいか、その力強い仕草は似合っていなくてシンは少し笑ってしまう。
「なんですか、もうっ」
頬を膨らませての抗議。珍しくはあるものの、違和感はない。エロースには暗い表情より、明るい表情の方がよく似合う。
「エロースは強いな」
「もしかしてぇ、私のこと、か弱い女の子だと思ってましたぁ?」
「いや、精神的に強いとは知っていたけど、エロースの自己主張の指向性は他者に向かっている場合が多いからな。エロース自身が窮地に立たされた場合の話はあまり知らない。だから、どんな心の動きがあるか予測がつかなかったんだ」
「まぁ、確かにそうかもですねぇ。
キラープリンセス、エロースには、何と言うか、他者優先傾向があった。自分のことを蔑ろにする、というわけではないのだが、他人に心を傾けることが多い。至近な例といえば、キエム村から排斥されたネイシャの世話を住み込みでしたことが挙げられる。
キラープリンセスのカウンセラーをしていたシンの元にも、エロースの精神分析は来ており、時たま人間関係を取りなす心労で精神を病んでしまったエロースが相談に訪れたものだった。
そんな身を粉にして他者の手助けをする傾向を持つエロースが、しかし、今は自分自身のエゴのために弓を取っている。
この現実をシンは嬉しく思う。
二人はねじくれた奇怪な森を行く。
歪に歪み、壊れてしまったこの森を。
きっとこの森はかつての姿を取り戻すことはないだろう。取り戻したように見えても、それはあくまでも形だけ。失われたという過去は決して消えることはない。失われたあらゆるものを取り戻すことは能わない。手に入るのはかき集められた失われた残滓を必死につなぎ合わせ、ほとんど同じものであるけれど、しかし確かに何かが違うものだけだ。
だけど、人の心は違う。過去の溝を乗り越え、再びかつてと同じように手を結ぶことが出来るはずだ。
少なくとも、シンはそう信じている。
枝の絡み合いを潜り抜けると、森が開けた。早苗とベルフェゴールの激突が生んだ空白地帯にシンとエロースは立つ。
「覚悟は?」
「十分!」
これより始まるのは早苗とシン、エロースと早苗、ねじくれ曲がった二つの関係性の激突。
失われてしまったものを、再びこの手に取り戻すために足掻く愚か者達の戦いである。
とはいえ、だ。シンはこう思わなくもない。
「しかし、暴力で解決とは存外荒っぽくないか」
「これでも結構怒ってるんですよぉ、私」
「………ギリシア神話らしくて何よりだ」
39
「来ましたか」
彼女は其処に立っていた。
川藤早苗。計画派が一人。
奇妙な木製オブジェが立ち並ぶ森の中の空白地帯に彼女は立っていた。
彼女の背後にはくたびれた様子で座り込むベルフェゴールの姿があった。しかし、実際は「だるい」とか、「めんどくさい」とかそんな理由で座り込んでいるに違いない。
何せ彼は怠惰の嘘使徒なのだから。
おそらく彼はこれから始まる戦いに干渉しないだろう。彼が戦うのは降りかかる火の粉を払うため。自身から無駄なことに関与する性格ではない。
だから、この戦いはただ過去の清算のためにある。
「待ちくたびれましたよ、先輩」
後輩は――否、シンの怨敵は彼をそう呼ぶ。
かつてのように、全てが壊れてしまった日を迎える前のように。
「計画派の作戦は良いのか?標的はそこで寝転がっているようだが」
「もう完全に失敗しました。彼にこちらの兵器は一切通じず、交戦は無意味。だったら、作戦はもう放棄してしまえば良いでしょう」
「そうか。しかし随分苦戦したようだな、早苗」
「全部見ていたくせに、そんなことを言うんですね、先輩。女の子に対して、もっと優しく接した方が良いですよ」
その言葉を聞いて、シンは思わず笑ってしまっていた。
あまりにも場違いなその反応に、早苗は眉根を寄せて、不服そうに訝しむ。
「なんで笑うんですか、先輩」
「いや、何、なんでもないよ、なんでも」
シンが笑ってしまったのは、かつて同じ言葉を掛けられたことを思い出したからだった。
冷たくて残酷な世界であったけれど、確かにあった温かくて優しい時間に、同じ言葉を言われたことを思い出したからだった。
「なぁ、早苗」
「なんですか」
「計画派を裏切るつもりはないのか?」
答えの分かり切っているくだらない質問がシンの口から飛び出した。
案の定、早苗もそう思っているようで、彼女は呆れた顔でこう返す。
「はぁ?今更何を言ってるんですか。あるわけないじゃないですか、そんなの」
「ははっ、だよな」
いやはや、全く以てその通り。分り切り過ぎて笑えて来る。実にくだらない質問だった。実に無意味な質問だった。
シンは自身の未練がましさに自嘲気味な笑みを浮かべる。明らかな自分の弱さの発露だった。懐かしい言葉を聞いてしまったからまた元通りの世界を取り戻せないかと、夢想の可能性があの質問を生んだ。郷愁が彼の口を滑らせたのだ。
(度し難いほどの愚かしさだ、全く)
だが、自身の郷愁をそう評すことが出来ても、してはいけない郷愁がある。
シンは自身より少し後ろで、佇む彼女の背を押した。
「ほら、エロース」
「――――っ」
触れた背中は怯えを表すように僅かに丸まっていた。
怯えは当然の感情だろう。覚悟は決めた、闘志もある、しかし同じ思い出を過ごした親友から忘れられるこちによって抉られた心は克服できるものではない。覚悟や闘志は、決して痛みを治す薬などではないのだから。
感情は並行する。塗り替えられたように見えるのは、ただただ優先順位が入れ替わっただけに過ぎない。人はそれを感情が亡くなったと誤認しているだけに過ぎないのだ。
「あ、あの早苗ちゃん」
舞台に躍り出たエロースが肩を震わせながら、しかししっかりと芯の通った声で問いかける。
「私のこと、覚えてる…?」
この疑問を絞り出すのに、一体どれほどの勇気が必要だっただろうか。
自身の心が抉られることがわかっていて、それでもなお確認せずにはいられない内心。焦燥感に似たこの感情が彼女を駆り立て、疑問を生んだ。
悲観と諦観と、縋りつくには細すぎる希望を込めたこの疑問を。
答えを待つエロースの喉が脈打った。それこそが緊張と期待が彼女の中で渦を巻いていることの証明だった。最早彼女の感情は心では押しとどめられず、肉の殻すら押し破ろうとする勢いで肥大化している。
感情的にいっぱいっぱいなエロース。しかし、対する早苗は彼女の感情を一顧だにせずに、あっけらかんとこう言った。
「また、貴女?前も言ったけど、私にキラープリンセスの友人はいないよ」
一息に切り捨てた。何の感情もなく、ただただ事実を羅列するのと同じレベルで彼女はそう述べた。
加えて、こうも続ける。
「キラープリンセス、エロース…か。先輩が連れているということは、オリジナルのエロース?とにもかくにもエロースは下がっていた方が良いと思うよ。何せこの戦いは、エロースとは一切関係のない戦いなんだから。これは先輩と私の戦い。邪魔をしないでくれるかな?」
事実上の戦いの舞台からの降板宣告。
いると邪魔だから、無関係だからと早苗はエロースを排除しようと言うのだ。
エロースもまた、この戦いに大きな思いを寄せる一人にも関わらず。
「そう、ですか」
エロースの体から力が抜ける。しかし、それは彼女が折れたことを意味しない。折れたのではない、半端な状態を振り切ったからこその脱力だ。
「だとしたら、余計に此処を引くわけにはいきませんねぇ」
決断は下った。彼女の中で感情の優先順位が入れ替わる。
諦観も悲観も置き棄てて、彼女は闘志に身を染める。
エロースの纏う空気が変わった。それは傘を忘れた少女が雨宿りを止めて、雨に打たれながら歩き出す様に似ていた。
そんな彼女に早苗は首を傾げながら、こう問う。
「どうして?」
無垢な質問だった。どこまでも思いが籠っていない声色で放たれていた。故に、エロースはほんとの本当に彼女が自身のことを覚えていないことを思い知った。
ふふ、とエロースは小さく微笑む。そして、まるで幼子に言い聞かせるように優しい調子で彼女は言った。
「簡単なことですよぅ。譲れないものがあったから、譲りたくないものがあったから、ただそれだけなんです。
「ふぅん?でも、それで何か得られるものがあったの?過去も現在も、キラープリンセスは戦闘兵器としての側面から逃れられていないわけだけど」
「得られるものはありませんよぅ。でも、有ると信じていれば、きっと何かを得られるんです。少なくとも私はそうでした」
「『信じる者は救われる』っていう奴?そんな信用できないものを信じてるんだね」
「存外馬鹿にできませんよぉ。過去においては、後退した宗教的思想もぉ」
『信じる者は救われる』。くだらない、と多くの人が一笑に付すだろう。そんな実益も伴わない言葉なぞ、何の価値もない、と。
だが、人は信じなければ救われないのだ。救いとは各人が個別に希求する理想。その理想を生み出したのは、彼らが信じる”何か”である。裏打ちされた信じる”何か”がなければ、存在しない救いをただただ求める虚しさを死ぬまで抱え続けることとなる。
『信じる者は救われる』、正しくは『信じることで救われる』。エロースはそれをよく思い知っている。
だから。
「今回だって私は信じて弓を取りますよぅ。例えその結末に、何も得られないと、そう確信していてもです」
悲観的な発言だった。けれどもやはり芯の通った声色は一切ぶれず、エロースは力強く彼女の持つ長大な弓を構える。
マナの矢を番え、引き絞りながら、エロースはかつての――そして、今も親友だと思っている――彼女に言い放った。
「じゃあ、戦いを始めよう?早苗ちゃんにはなくても、私には貴女と戦う理由がある」
こうして、最後の戦いが幕を開ける。
彼女と彼の、彼女と彼女の、あまりにも大きな感情がすれ違う壮大な喧嘩とも呼べる戦いが。
40
「CMCシステム起動!コード2117651〈ダーインスレイブ〉!」
「マナ操作システム起動!」
先輩後輩は同時に己が武器を励起した。
片や、過去の遺物たるM細胞操作技術。
片や、最先端の科学たる
激突する科学の徒は己が専門分野の結晶を暴力へと転化する。
「〈
『わかっております』
左腕から生成された無骨な黒の直剣が早苗の魔術によって振るわれる硬化した木葉を弾き落とす。
〈ana〉に体の制御権を預けたシンの体は〈
「『いくら彼女がこの森を掌握していようとも、術者は戦闘の素人。よって対川藤早苗戦闘における最適解は近接戦闘による格闘戦だと判断します』」
これまでの戦闘で学習し、導き出した解答がそれだった。
彼女の兵装は彼女自身の判断能力に依存する兵装である。川藤早苗は過去においてただの研究者だった。シンのように前線で戦った経験も格闘技術も彼女にはない。キラープリンセスどころかシンにすら及ばぬ戦闘能力の持ち主を撃破するならば、接近戦が最適解となるのが自明と言えた。
だからといって、委細都合よく行くわけではないのだが。
剣を振り抜く。黒一色のダーインスレイブが鈍い輝きと共に早苗に迫る。
シンの体に埋め込まれた人工知能〈ana〉が導き出した現段階における最高最善の一振り。
学習と演算によって導き出された最初の一撃は、しかし早苗の操る樹木によって阻まれる。
「私の低い身体能力から近接格闘戦に持ち込んだのは正解でしょう。ですが、忘れましたか。私にも人工知能の補助があるってことをッ!」
シンの一振りを防いだ樹木が大きくしなり、彼を一気に押し飛ばす。
そのまま20本の枝槍が伸び、吹き飛ぶ彼に追いすがる。
「エロース!」
「わかってますよぅっ」
共に戦場に立つ少女の名を呼んだ。
だが、それは追いすがる枝槍を振り払うためのものではない。
『計20本の枝槍を補足。ダーインスレイブによる打ち払いが可能。キラープリンセス〈エロース〉の最適射撃環境を演算します』
シンの体が舞う。剣で枝槍を打ち払い、足で枝槍の腹を蹴飛ばして、体を逸らして枝槍を凌いでいく。
さならがら曲芸。そしてその動きの中に一瞬の空隙があった。
それは〈ana〉が導き出し、枝槍さえも使って生み出した最適射撃環境だった。
この最善の一瞬を、弓のキラープリンセスたるエロースが見逃すはずがない。
「フ―――」
短く息を吐いた。
同時に矢から離される指。矢を引き絞り続けたのは、この時のためだった。
矢に大量のマナを練り込む。そして早苗の防御を突破できるほどの貫通力を持った矢を生み出すことが目的だった。
空隙を走る、平時のものより太めの矢。
全ては一瞬の内に終わった。
ッパァン、と乾いた破裂音が鳴った。
「―――――つぅッ」
はじけ飛ぶ樹木の先、瞠目する早苗の顔があった。
そんな親友の顔を見て、エロースはにこりとして言う。
「次は届かせますよ?」
「チィっ。この部外者のキラープリンセス風情がァァッ!」
激昂する早苗。
胸に装着しているマナ操作用ののデバイスが激しく稼働する。脈動する青い光が一層強く輝きを放った。
攻撃が苛烈さを増す、合図である。
シンは反射的にこう叫ぶ。
「何故煽った!?」
「一応これでも頭に来てますからねぇ」
のほほん、と言われても困るわけだが。
色んな感情が混じりすぎて、若干情緒不安定気味になってるのではないか、と訝しむシンであった。
とにもかくにも、悠長にしている時間はない。
「来るぞ!」
枝槍と硬質化した木葉が二人に向けて殺到する。
「それでは、シンさん…手筈通りに!」
エロースとシンが二手に分かれて、対処する。
シンの体を操る〈ana〉は再び〈瞬間強化〉で、疾駆した。
向かう方向は、言うまでもなく早苗が立つ方へ。枝槍と飛来する木葉をよけながら、彼女の元へと肉薄する。
防御があると分かっていても再度攻勢に転じたのは、自らの身を守るためでもあった。
目的としては二つ。攻撃により早苗に精神的圧迫を掛けるため、そして彼女の近くで戦闘することによって自傷を恐れた彼女が攻撃の手を緩めることを期待してである。
早苗もシンの思惑に気づいているようだった。
「卑怯な手を…っ!」
「森全てを武器とするお前にだけは言われたくないがね!」
ダーインスレイブが彼女の樹木の楯を打った。この結末は分かっている。だから深追いをしないで、棘のように突き出す枝槍を紙一重で回避する。
ついで飛来する木葉。それらを最早慣れた作業と〈ana〉は切り捨てて、再度地面を蹴った。
そして、再度飽きもせずに振りかぶられる黒の直剣。再び予定調和が繰り返されるものだと、そう思われた。
しかし。
「づ、ぢぃ」
ダーインスレイブが樹木の楯に阻まれる後に、早苗は異様な苦悶の声を漏らす。まるで壊れた機械のようだった。
シンは真顔になって、彼女に向かってこう言う。
「限界か」
「―――!」
彼女は兵装であるマナ操作システムを対ベルフェゴール戦と引き続いて脳で直接操っている。脳に相当な負荷がかかっていることは想像に難くない。立て続けの戦闘にガタが来てしまっているのだ。対ベルフェゴール戦であれだけ多種多様な攻撃手段を用いていた早苗の攻撃が枝槍と硬質化した木葉に限定されているのも、その表れだろう。
「お前自身分かってるんだろう。既に限界近いことくらい。お前が今回想定していたのは、べルフとの、ベルフェゴールとの戦いだけで、俺との戦いは完全な支流のはずだ。想定外の戦いに相当な無理をしているだろう」
「ええ、全くその通りです。正直、今ここで投げ出したいくらいですよ。こんなに痛くて、苦しいことなんて」
「だったら、何故戦うんだ。何故俺を殺そうとする」
「先輩を止めるためです」
「止める?どういうことだ。維持派最後の生き残りに楽園計画を止められないようにするためか」
「違いますよ。そんな理由じゃない。そんなことのために、私は先輩を殺すわけないじゃないですか」
意味不明な言葉だった。シンには早苗の言っていることが理解できず、黙り込む。
そんなシンを早苗は見下すように鼻で笑って、こう口火を切る。
「ねぇ、先輩。貴方はまだどれくらい先輩なんですか?」
彼女と彼の間だけで通じる問いかけだった。過去を取り戻したレーヴァテインでもエロースでも知り得ない意味のある言葉だった。
その問いかけで、シンはここに来て初めて彼女と自分との間に横たわる確執、その本質を思い知る。
「なるほど、そういうことか」
彼女が戦い原因は極めてミクロな問題だった。
世界や社会とかいったそんな巨大な話ではなく、ただただ人と人との間に存在するありふれた情が全ての原因だった。
全てを悟ったシンは思わず笑ってしまう。それは零れてしまった安堵の色に染まっていた。
端的に言えば、肩の荷が下りた。川藤早苗は、あの少し自分勝手で人懐っこい後輩は、シンの知る通りの彼女と何も変わっていなかったのだ。
シンは言う。
「なぁ、早苗。そんなこと気にする必要なんてなかったんだよ」
「
「いいや、ちゃちなものだよ。これは正しさの証明、人類の尊厳の表れだ。俺はな、早苗。この問題を抱えることを誇らしいとさえ思ってるんだ」
彼にとって、彼女の言う問題は
その証明に、彼は晴れやかな微笑みを浮かべていた。
それを目撃した早苗は、なまじりを上げて吠える。
「こんの、狂人がッ!?だから、止めなくちゃならないんだ。例え貴方を殺してでも!」
彼女の眉間に血管が浮かんだ。
木々の猛攻が一段階引き上がる。
「先輩はっ、それで良いかもしれない!だけど、先輩を大切に思う人の気持ちを何故考えてくれないのですか!私だけじゃない。維持派や計画派にだって、先輩を案じる人はいた!ねぇ、先輩。貴方は目の前で部下が、同僚が、先輩が壊れていく様を見るのが、一体どれほど辛いか貴方にはわかりますか!?」
極太の枝槍が瞬発し、ダーインスレイブで受け止めたシンが吹き飛ばされた。
「ちぃ……ッ!」
大地を跳ね飛るシンの体。
だが〈ana〉の操作によってすぐさま力の流れ方が演算され、体の軸を調整される。枝槍や木葉を難なく交わしながら、平然と立った。
〈ana〉に体の制御を預けるシンは、達人のような立ち回りをする間に今にも泣き出してしまいそうな後輩の言葉を受け止めていた。
そして彼女にこう言うのだ。
「そんなもの、思い知っているさ。嫌というほどに」
早苗にとってのシンが、シンにとってのキラープリンセスだった。
「俺だって、自分が生み出したキラープリンセスたちが死んでいくのを見てきた。時代に飲み込まれ、ただただ死ぬしかなかった彼女たちの背中を見送り続けてきた。お前や、それに周りの人たちが俺に対して抱えて辛さがわからないわけではない」
「でも、それでも先輩は踏み越えていくのですよね」
「あぁ、いくさ。これは俺にとって譲れない一線だ。他者の思い次第で揺るぐほど脆いものじゃない」
「だったら敵対するしかないでしょう。殺しあうしかなじゃないですか。私は私が尊敬する先輩が哀しい最後を迎えることを認めない。認められないんですから!」
吠える。早苗がこの闘争の自分勝手な根源を。
「とんでもないエゴイストだな」
「それはお互い様ですよ」
言い返されたシンに、くは、自然と自嘲の笑みが浮かぶ。
「あぁ、全く、その通り」
自我を持つから争いは無くならないのだ、と。
かつて世界を混乱に陥れたたった一人の哲学者の言葉がふと思い出された。