09
路地裏を出て数刻。
直接馬の商人の下に行く前に、シンはちょっとした調査も兼ねてコルテの街をぶらついた。懸念を取り除くためのちょっとした探索だ。結局何も得られず終わったが、『成果を得られなかった』という結果の方が彼にとっては朗報だ。彼の心の平穏は保たれた。
他にも得られたものがる。
例えばコルテの街は規模が広い割に街の案内板がないという不親切設計ということだ。そういう事情があって、シンは店を出している商人から道を聞いたりして馬の商人が店を構える場所へと向かう。シンが聞いたところによると、コルテの街には一つしか馬を売り買いできる場所はないとのことだった。馬を放牧するために広い土地が必要であり、牛や豚と言った他の家畜との兼ね合いもあり、一つの街に馬を扱う業者は一つか二つなのが通例なのだそうだ。例に漏れず、家畜を扱う店は同じ区域に固まって開かれている。畜産区とでも仮称することにした。
家畜を扱う店が集中していると聞いたとき、ちょっと行く気が失せたことは誰にも言うまい。匂いが凄そう、という感想は胸の内にしまっておく。
他にも、大通りを歩いていてふと気づいたことが。
シンが街に来た時よりも通りにいる人間の数が少ない。道を覆いつくすほどの人間がいたのだ。減った時は分かりやすい。加えて商人たちも外に出していた商品を追われるように片付け始めている。何かあるのだろうか、とシンが首を傾げているとこんな会話が聞こえてきた。
「雨が降りそうだぞ。早く大事な商品をしまえ!」
「黒い雲がやってきたわい。こりゃ、豪雨になるかねぇ」
会話につられて空を見上げると、なるほど、確かに黒い雲が立ち込めてきている。人が少なかったのは雨が降りそうだったからか。
(………急ご)
そう思って、足を速めた。
幸運にも目当ての店には雨が降る前に辿り着けた。
やはり畜産区では獣臭さが充満していた。鼻が曲がりそうな悪臭にシンは顔をしかめつつ、店の扉を開く。
カランカラン。ベルの空虚な音が扉を動かすと鳴る。扉を開けた先には少し薄暗い、誰もいない部屋が。晴れていれば窓から太陽の光が差し込んでいたのだろうが、生憎曇り始めている現状差し込む光は弱々しい。照明用と思しき蝋燭は火も灯さていないままにしてあった。
いるはずの店の人間がいないため、仕方なくシンは勝手に店の中を物色する。とはいっても、目ぼしいものがあるはずもなく、興味が惹かれるものと言えばどんな馬がいるか、という目録くらいだった。
人気のない部屋でシンは思う。
(丈夫で体力のある馬が欲しい)
シンの旅はいつ終わるかわからない長い旅になる。高価な馬を何度も買うのは金銭的に辛いだろうから、馬を買うのはこれっきりにしたい。だから、若いタフな馬が望ましい。
そんなことを思っていると、突然、世界が瞬いた。少し遅れて、空気を裂く爆音。バシバシバシ、と窓を叩く大粒の雨。
とうとう雨が降りだした。それも雷を伴った豪雨。間断なく家屋を叩く雨粒の音が雨の強さを伝えてくる。夏の日の終わりの夕立を思わせる降り方だ。夏の日の終わり、そう表現すると趣深くなるのは言葉の妙だ。実際は鬱屈な雨でしかないというのに。言葉の魔力とは不思議なものである。
この雨を、おそらく通り雨だろう、とシンは結論づけた。帰る頃には止んでいると思う。だから、さほど心配はしなかった。
しかし暗い天候につられて、気分が暗くなるのは当然のこと。心情と利害は別物だ。
ついつい感傷的な気分になって考えこんでしまう。
思い浮かぶのは彼女のこと。銀色の髪のつれない少女。
レーヴァテイン。
「………はぁ」
雨降り荒ぶ外を眺めながらため息を吐く。
考えてもわかることではないし、どんなに彼女のことを想っても彼女に想いが届くことはない。
寂しい片思い。おそらくは永遠に近い距離離れている二人の距離。
無駄だとわかっている。けれど思い浮かぶのは彼女のことばかりだ。
いかんいかん、と首を振って邪念を頭から振り払おうとしてもまとわりついてくる。
「まったく、俺はいかんよな」
自嘲気味に笑う。
今日も手ひどく振られたばかりじゃないか。学べよな、まったく。
戦術的に必要な人員であるから彼女をなんとかして心変わりさせたいものだが、どうにも良い案が浮かんでこない。
自身のポンコツ頭脳に嫌気がさす。
これが〈世界〉だったらまた違った結果になっただろうか?いや、それはないか。あの天才は人間関係についてはからっきしだったし、レーヴァテインのようなクールキャラが好きな奴ではあったが、三次元ではまったく上手く関係を築けていなかったからな。必死に声を掛けるものの、無視されたりして玉砕していた。結果はわかりきっているのに何度もアタックする〈世界〉をもう一人の研究仲間と一緒に呆れていたものである。
シンは少し昔を思い出して、ふっと笑う。あの賑やかな日々も既に遠い。シンの研究室は大抵彼を含めた三人の声が絶えなかった。当時は鬱陶しいと思っていたが、過ぎた今では良い思い出だ。
心の奥でチクリと痛みが走る。シンはそれを噛み殺す。
雨が降っている。ただシンは茫然と眺めていた。
しばらくそうしているうちに、慌ただしい音を立てて奥の扉が開かれた。
「いや~、まいったまいった。突然の雨ほど厄介なものはないなぁ」
年は四十くらいの店主と思しき男が出てきた。シンと目が合い、二人して会釈をする。
髪にかかった雨を布でふき取りながらカウンターに入った。棚から火打石を取り出すと、適当な紙に火を着けた。その火を手近な蝋燭に着け、紙を消火。最初の蝋燭に灯した火を他の蝋燭に着けていく。
「申し訳ない。待たせちまったか?」
「いえいえ、お気になさらず。特に急いでたわけではありませんし。何をしてらしたんです?」
「馬たちを厩舎に入れてたんだよ。雨に濡れると風邪を引きかねない」
「動物って毛がある分、雨が降ったら大変そうなイメージありますよね」
「そこんところは油とかで対策はしてんじゃねえの?よく知らないけど」
そう言って店主は肩を竦めた。
「ま、そんな話は置いといて、だ。あんた商売に来たんだろ?ご要望は?馬か、それとも飼料の売り付けか。商人ってぇ柄じゃないよなぁ、その恰好」
「馬を買いに。しばらく長旅に出るものですから、頑丈で強い馬を」
「費用は?」
シンは無言でカウンターに金で膨れた革袋を置いた。
「………上等だ」
店主はニヤリと笑う。
奥の厩舎に通された。
馬と藁の匂いが鼻腔を満たす。遮断された空間だからか、外の複数家畜混合臭(もうそう言うしかない)よりはましだった。馬一種だけだと随分と違うものだ。
当の馬たちは柵で一頭一頭区切られていた。この悪天候だからか、そわそわとしていて落ち着きがないように見えた。
木で作られたこの建物は天井に穴でも開いているのか、ポツポツと雨漏りが見られた。それに床が水浸しだ。雨の勢いがうかがえる。いくら地面と床に高低差がないとはいえ、短時間でここまで濡れるとは相当な豪雨である。
そして、そんな有様の厩舎を見かねてか、一人の女性が箒で水を外に掃き出していた。店主の紹介によると彼の奥さんとのことだった。
厩舎の真ん中くらいで立ち止まる。店主に問われた。
「それで?お前さんは長旅に出るんだっけか?」
「ええ、大分長い旅になるのでしっかりとした馬を買いたいんです」
「と、なると………こいつらか……」
茶毛の馬と黒毛の馬の前で立ち止まる。
この二頭は他の馬と違い、落ち着きを払っている(ように見える)。見た目の印象でしかないが、賢そうな二頭であった。
「若くて、壮健で、従順だ。ウチで扱っている中でも一等の馬だぞ。どうだ?」
「どうだ?と言われても………私は馬に関しては素人ですので、良い馬と言われたものを買うしかないのですが」
「おいおい、俺に悪意があった場合どうするつもりだったんだよ」
「信頼していますので。私は研究者だったので商売とかはよく知りませんが、商売人にとって信頼というのは大切でしょう?商業連合、ギルド、座それに株仲間。そういう類の商人の同業者組合みたいなのがあるはず。ネットワークがあるならば、情報の共有と拡散はある程度の速さがある。下手なことをすれば、信頼なんてあっという間に瓦解し、客足が遠のくのでは?」
「言ってることは間違っちゃあいねえが、|馬屋〈ウチ〉みたいに一つの街に一軒、二軒くらいの職種だと絶対数が少ないから消去法的に選ばざるを得ない場合があるんだよな、どんなに悪質な店でも」
「他の街に行くという選択はないんですか?」
「ないわけじゃねえがなぁ。やっぱり街の外は危険だろ」
店主の説明ははっきりとしたものではかったが、言わんとしていることはわかった。
やはり異族が問題となる。教会所属のキラープリンセスのおかげで街道周辺は優先的に異族が討伐されているものの、不安は残る。何しろ『人間には倒せないという』触れ込みだ。神出鬼没の異族といつ遭遇するかもわからない状況では街の外に出るのは気が進まない。安全性にはどうしてもギャンブルの要素が残るのは否めない。たかが買い物で安全を手放したりはしないだろう。そういう事情を加味すると、人の往来が少ないために噂の伝播も対してないのかもしれない、とシンは考えを改めた。
さて、そんな天上世界の商業事情について考察はここらで終わりにして再び馬の商談を開始。商談とは言うもののそんな大仰なものでもなく、レジに買い物かごを通すような単調な作業でシンは馬を購入した。高額な取引なのにあまりにも適当なシンの様子に店主は「なんだかなぁ」と渋い顔をしていたが、知ったこっちゃない。馬の良し悪しがわからない素人が馬を買おうというのだ。そうなったら店側の良心を信頼するほかない。もとより駄馬を掴ませれる覚悟は出来ているのである。
「ちなみに名前は?」
「アールヴァグとアルスヴィズ…かな。北欧神話つながりで」
「なんじゃそりゃ?」
「………ハハハ」
アールヴァグとアルスウィズ。黒い馬がアールヴァグ、茶色の馬がアルスウィズ。
北欧神話において太陽の女神ソールが御者を務める太陽を引く馬車を走らせている二頭の馬だ。登場するのは『スノッリのエッダ』その中の『ギュルティのたぶらかし』において。狼スコルに追われる形でソールは太陽を馬に引かせている。
まぁ、レーヴァテインに言ったらもっと単純な名前にしなさいよ、とか文句を言われそうなものだが…。
北欧神話にはスレイプニルやホーヴヴァルプ二ルなどの馬が登場する。けれど二頭一組といったらアールヴァグとアルスウィズだ。昼の神のスキンファクシと夜の神のフリームファクシの組み合わせでも条件には該当するので、悩んだのだが、結局こちらが没案となった。理由は昼と夜という正反対の記号性が不仲を暗示しているようで嫌だったから。なんだか言いがかり染みている。スキンファクシとフリームファクシは怒っていい。主に象徴の誤解釈という点で。
「お前さん、何処かの宿に泊まってるんだよな?」
「はい、そうですが。それが何か?」
「馬を届けてやろうと思ってな」
「よろしいのですか?」
「良いってことよ。ついでに荷車もつけてやる」
「はぁ、ありがとうございます。でも店が空くことになってしまいませんか?」
「いいの、いいの。俺がいなくても女房がいるからな。対応は任せれば良い。それに馬は日用品やら食料やらと違って、頻繁に買い替えるものじゃない。訪ねてくる客自体少ない」
「そういう話を聞くと儲けが大丈夫か疑問になってきました」
「大丈夫、大丈夫。馬は単価が高い、つまりは一回の商売でかなりの金が懐に入る。後は副業したり、農作物の肥料用に馬糞を売ったりしてな。生活に余裕ができるくらいの金は稼いでいる」
「……貨幣経済が農村にまで浸透してるからできる商売ですね」
「まぁな」
そんな雑談をしつつ、シンは自身が止まっている宿の名を告げた。店主は宿の名前に合点がいったように頷くと「やっぱり金持ちをすごいところに泊まってんだなぁ」と感心したように言うので、「同行人が高い所しか許してくれなくて」と返しておいた。特に他意はない。
さて目的の買い物は終わった。もうここには用はないのだが、如何せん天候が悪い。帰るころには止んでいるというシンの予想は外れ、雨は今も絶賛降り続いている。むしろさっきよりも強く降っているような気がした。
「いや、そうでもないぞ」
通り雨じゃなかったか、とのシンの呟きに店主は答えた。
「多分今が❘ヤマ《・・》だな。過ぎればよくなると思うぞ」
ということで雨が止むまで店で休ませてもらうことに。
店主の妻が気を遣って出してくれたお茶を飲みながら、シン、店主、妻の三人で雑談に興じることとなった。お茶うけのないちょっとしたお茶会である。
話の内容はどうでもいいことだった。
今となっては笑い話と化した商売失敗談、甘すぎる夫婦の馴れ初め、馬の出産を巡る感動秘話などなど。
水を得た魚のように店主の口が回る回る。一度話始めたら止まらないタイプの人間らしく会話が途切れることはなかった。
外では稲光が走っている。ゴロゴロズバチィーン。激しい雨音を切り裂く轟音が、時折、遠くから聞こえてくる。
荒々しいBGMを伴ったお茶会は穏やかに進行する。外界から隔絶された優しい世界が此処にはあった。春のまどろみのような、柔らかな温かみがこの場にはあった。
けれど、そんな平穏はいとも簡単に崩れ去る。いや、そもそもシンにとって平穏なんて幻想でしかなかった。
シンにとってこの世界は歪んでいて、狂っている埒外の場所なのだから。『現代』の誰もが平穏と呼んでも、『過去』から見たらその平穏の中には、やはり『歪み』が存在する。
『現代』と『過去』の価値観のズレ。平穏が幻想へと切り替わるスイッチを押したのは店主だった。
「……そういや、この街も嫌な街になったな」
窓の外を見ながら店主は嘆息する。
「そうですねぇ、まったく」
店主の妻も賛同した。
この街を訪れたばかりのシンは当然わけがわからず。
「何かあったのですか?」
そう問うた時シンは『当り前』の予想をつけていた。
犯罪が増加したとか、伝染病が流行しているとか、よくない集団が街に蔓延っているとか。
きっと『過去』の人間であれば、そんなことを思いつくに違いない。
だけど違った。次の一言で『現代』の邪悪さの一端が開かれる。
「キル姫がここ最近コルテに集合してるだろ。それが不快でな」
かたっ、とシンが掴んだカップがソーサーにぶつかって音を立てた。
体中の筋肉が強張る。数瞬の後になんでもないように、誤魔化すように、けれどどこかぎこちない動作でカップを口に運ぶ。
お茶はすっかり冷めていた。
「あの化け物たちがかなりの数コルテに集まっているのでしょう?さっさと消えてくれないかしら」
「いつ暴走するかどうかわからない危険な奴らだ。いつコルテが灰塵を化すかわからないから、毎日びくびくしてるぜ」
「戦闘がなければ暴走しないって言われても恐ろしいよな。まったくあんな気持ちの悪い奴ら、異族さえいなければ全員さらし首にしてやるのに」
「あら、そんなことできるのかしら?人間には殺せない異族を楽しそうに屠る
「できるさ。アレらがキルオーダーで縛られている限り、人間には手を出せない。首を差し出せと言えば、差し出さざるを得ないさ」
ハハハ。うふふふ。
二人は笑う。いつまでも。
いつまでも、いつまでも、いつまでも。
雷が近い場所でいななく。
至近で雷が落ちた時に特有の光と音が時差なく訪れる現象が引き起こる。
店主とその妻が轟音と雷光に視覚と聴覚を奪われた時間は数瞬。
二人が感覚を取り戻したとき。
もうそのお茶会にシンはいない。
10
気持ち悪い
気持ち悪い気持ち悪い
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち―――――――
「気持ち悪い」
11
雨が降っている。
雷雨の下シンは其処にいた。どことも知れぬ路地裏で上半身を壁に預けて、水たまりに浸かるのも構わずに足を地面に放りながら彼はただただ其処にいた。冷たい雨が容赦なく彼の体を打ち付けている。白衣の下に着た黒いタンクトップが雨粒を吸い、確かな重みと冷たさを彼の肉体に伝えてくる。けれど、水に濡れるのも体が冷えるのも彼はまったく気にしている様子はない。ただただ在ることだけに徹しているように見えるその様は人形というよりもむしろ亡者と揶揄した方が正しいように思える。
あの時彼は逃げ出した。雷の光と音に紛れて、一瞬の内にあの店から飛び出した。不自然だったし、失敗だったと思う。あの二人に対して失礼だとも思う。けれど体が動いてしまった。思考する前に、感情が体を突き動かしていた。気が付けば豪雨の中大通りを全力で駆け抜けていた。
どの道を通って、どの角を曲がって、どこから路地裏に入ったのかわからない。ここは宿泊区の路地裏なのか?それとも商業区?はたまた畜産区?もしかして見知らぬ場所?そんな思考がポツポツと生まれていく。けれどシンはそんな些事など気にかけていない。自分の立ち位置などもうどうでも良い。
教会の敵対者。過去から目覚めた男。全てを取りこぼした負け犬。悪魔に魂を捧げた〈愚者〉。レーヴァテインの相棒。
およそ自身を構成するアイデンティティが酷く希薄なものに感じる。
路地裏にはしばらく雨が打ち付ける音だけがしていた。
永らくの沈黙。
ようやく彼の口が開く。
「――ハ」
けれど、それは言葉ではなく。
「――ハハ」
決して正気の中のものではない。
「――ハハハ」
沙汰の外にある感情をたたえている。
「――ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッッッ‼」
狂笑いや哄笑と言うべきそれが路地裏に反響する。
壊れたように笑いながら彼を地面を転げまわる。
「――ハッ、ハハハハッ、ハハハッ、ハハハハハハハハッ‼」
水だまりをかき乱し、泥を被りながら、けれども彼は笑うことを止めない。
箍が外れたことを感じながら、それでもなお冷静な部分が残っていることを彼は自覚していた。
そして理性の中でこう考えていた。
なんなんだこの世界は。
それを知覚してしまったら、もう止まらない。シンの
「くそがっ、くそがっ、くそがっ!なんなんだこの世界は!どうしてこんなにも醜悪なんだ!何故そこまで歪むことができるっ。蔑姫主義もそうだ。ただただ諦めただけのクソ野郎を守っているのがキラープリンセスだとういのにどうしてそんなに冷たくなれる!お前らの天敵だろうがっ、お前ら自身でなんとかしろよ!なんでもかんでも彼女達に背負わせてんじゃねえよ!お前らの生存競争に部外者を巻き込んでじゃねえ!戦っている彼女達が怖いなら自分たちでなんとかする努力をしろよ!なんで努力すらしてないお前らが彼女達を否定できる!生き残りたいないなら剣を取って、拳を握って異族に殴りかかれ!後方でお茶なんか啜って、安穏と過ごしているんじゃねえよ!一度でもいいから最前線に立ってみろ。命のやり取りがどれほど恐ろしいことか知らないで、どうして彼女達を馬鹿にできる、侮蔑できる!どういう道理だっ、どういう理屈だっ、どういう精神してんだ!
雨が降っている。
感情に呼応して、火照った体が緩やかに雨に冷やされていく。
全てを吐き出し終えたシンは壁にもたれれかかり、殻に閉じこもるように膝を抱いた。
くぐもった声で呟く。
「気持ち悪い」
最初に押し寄せてきた感情はそれだった。そして次が、
「怖い」
一通り叫んで鬱憤を晴らした所で冷静になった思考があの狂気を直視する。
恐ろしかった。おぞましかった。
人間の底にある泥のようなものを垣間見たような気がした。
シンが逃げ出したとき、会話に上がっていたのは街に増えたキラープリンセスについてだった。キラープリンセスが街に増えて不快だということだった。
蔑姫主義について怒りは感じるし、キル姫――キラープリンセスの蔑称を用いたことも正直文句を言いたい所ではある。街にキラープリンセスが増えたことを不快に思うことに腹立たしさを覚えるものの、それを糾弾する権利はシンにはない。街の人々にとってキラープリンセスが街にいるということは、いつ爆発するかもわからない不発弾が近くにあるということ同義なのだから。
けれど、これとあれとは話が別だろう。
あれは仕方がないという範疇を超えている。
だってそうだろう?
命を奪うこと、それよりも残酷なことを奴らは話していたのだ。
表現しがたい悪寒が走る。
あれがこの世界のスタンダードなのか?
無邪気な笑顔で悪意を向けるのが当たり前のことなのか?
よりもよって命のやり取りを委託している相手に?
理解不能。というよりも理解を拒否した。守られている癖に侮蔑する恩知らずになどなりたくない。人として怨を仇で返すような真似をしていいはずがない。
けれどこの世界の常識は人としての常道から外れている。乖離しすぎている。シンには社会そのものが醜悪な獣に見えていた。およそ道徳というものが破綻している。
気持ちが悪い。おぞましい。不気味だ。怖い。
現代と過去の価値観にはクレバスが如き隔絶がある。溝にはクトゥルフ系の怪物が蠢いていそうだった。
これが現代。仮初の安寧が支配するドス黒い平和に満ちた人間にとって無為な争いのない桃源郷。なるほど異界存在との戦いに明け暮れていた過去よりは平和だろう。人間同士で殺し合っていた世界よりは何十倍も素晴らしい世界だろう。
だが、こんなものが真の平和であってたまるか。
生き残るための責任を押し付けて、悪意によって成り立つ平和などあってはならない。平和とはそんな形で成り立つべきものではないはずだ。
何か尊いものが黒く塗りつぶされている。そう感じる。
シンは激怒した。こんなくそったれな世界は変えなければ。
「無理だろ、こんなの」
胸の内で抑えきれなかった感情が漏れ出す。
諦めという感情が漏れ出す。
だって、こんなものどうすればいいというのだ。今人間として生きている人間がどれくらいいるのか?位相融合前の総人口は十億人。最盛期には百億人を突破したのだが、第三次世界大戦と異界存在の到来によって人類の総人口は最終的に十分の一にまでに減少した。位相融合などという宇宙規模の未曾有の災厄ではどれくらいの人間が死んだのだろう?仮に千万人の人間が人間として生き残っていたとしよう。この世界を変えるには、そんな途方もない数の人間たち全ての精神性を変えなければならないのだ。馬鹿げているとしか、言いようがない。どうやったって計画が破綻するのは見えている。自分達を生かしている存在を笑いながら殺そうとする狂人共の心が変わるビジョンがどうやったって想像できない。
正直シンは教会を倒せばそれで良いと思っていた。教会――その最奥にいる者たちを倒し、教会組織を変革し、人々を指導すればラープリンセスたちの立場も改善できるだろうと、人とキラープリンセスは手を取り合っていけると、そう信じていた。
だが、現実は甘くはなかった。世界は獰猛に牙を剥く。
人類悪は人間の根幹に風呂場のカビのようにしつこく染みついている。簡単にはとれない。
ずっと享受し続けた生温い世界を人間が簡単に手放すわけがない。存分に甘えられる環境があるならば、人間はそれを決して手放さない。人間とは一度啜った甘い蜜の味を忘れられない生き物だ。依存症とはアルコールや麻薬
だけに発生するものではない。あらゆる快楽においてそれは発生する。この世界は蔑姫主義依存症を発症している重病患者だ。
雨が降っている。
いつまでそこで蹲っていただろう。
雨の冷たさはもう感じない。それは体が冷え切ってしまったからか、心が冷え切ってしまったからか。
路地の奥から、コツコツ、と靴音が薄暗い路地裏に響く。
ふと(憲兵とかに不審者として通報されるか?)と不安に思ったが(まぁ、どうでもいいか。幽霊みたいにそこにいるだけなんだし)と責められる道理もないので動くことはしなかった。
通り過ぎるかと思われた誰かの靴音が止まる。
「あの…大丈夫………ですか?」
雨の勢いが少し弱まった。そんな気がした。
words
・街にはシンが心配していたことは何もなかった。
・二頭の馬を無事購入。黒い馬がアールヴァグ、茶色の馬がアルスヴィズ。
・たとえ矛盾を孕んでいたとしても、感情はふつふつと湧くものだ。それを非難するのはおかしいというものだろう。