宵の頃である、遠い遠い異国の地での事だ。木々生い茂り、ぽつんと一国領主の城がある。西洋建築であった。間違っても鯱は乗っていない。とんがり屋根の可憐な城は、夜への移り変わりが最も美しい。木々は青い、春の頃であった。
春風は人を陽気にするが、この時は到底そうもいかぬ事情を抱えた者がいた。顔を出し始めた月明かりが、ひっそりテラスに立つその彼女を照らす。なんと可憐、月明かりが金色の髪をより美しく、より一層艶やかに輝かす。その艶やかさを怪しくする液体がある。
赤い――極めて赤く、極めて黒い。
可憐な金色髪の少女の手よりポタポタ垂れるのは、鉄臭い血であった。目の前には、物言わぬ肉塊が転がり、それを少女が冷やかに、かと思えば興奮したように見る。
殺したのだ。少女が殺したのだ。今しがた、月が出て来たこの瞬間に。死体のぱっくりと開いた腹からは、割れた瓶から溢れるワインの様に、赤黒い血が今も溢れる。死体の顔は見えぬ、影となって少女からは隠れていた。手にこびり付いた生ぬるい血は、風に冷やされ死体同様冷たく成ってゆく。温度が下がるのと同様に、少女もまた顔面が蒼白となった。
やってしまった。少女は困惑した。どうするか、如何様にしようか。この死体は如何すれば良い、今にも人が来よう、自分はどう言えばよい、どう殺したと言えばよい――。
どう、「吸血鬼」になったと言えばよいのか。
「ああ、ほとほと困った顔をしている」
静寂を破る声がした。
「咄嗟に殺したようだ。いやはや、勇猛果敢。おちびが頑張るものだ」
不思議な声は後ろからであった。振り向き少女はぎょっとする。声だけでも驚くが、少女と一緒に月夜を浴びる不審な男、それが目の前にいた。先ほどまで居ない男だった。見たことない服である。腰に帯を巻いていた。歳は若そうだ。テラスの柵に器用に腰かけ少女を見ていた。
心底驚いた。そして困った。見られてしまったと。「誰だ」と、喉奥より言葉を絞り出す。精一杯焦った様子を見せまいとした。
「誰かと聞かれれば答えたくなくなる。失敬、少々捻くれ者でな。しかし、ははぁ……なるほど、これは」
「人なの、違うの?」
「ほう、どちらと思うね?」
「人とは思えない」
「ほうほう、ほほう」
ケラケラ笑い、男は愉快そうであった。対して、少女は実に不愉快である。どうした物か、どうするべきか考えあぐねる。
「経緯は存ぜぬが、おちび、君は今もって俺の仲間だ」
「む?む、むむ」
「不服か?いいや、そうとは言わせない。然り、俺は人に非ず。そしておちび、君も人に非ず。人でなければ仲間じゃ、仲間と言わずに何と言う」
「貴方も此れの仲間?」
此れとは死体である。咄嗟か、計画的か、どちらにせよ人一人殺すには相当の理由がある物だ。そして大抵は相手が憎い物だ。憎み切れぬほど憎いのだ。だから殺したのだ。敬意などあろうか、少女には此れを指すのには、「此れ」で十分であった。
「おちびと俺と同じ理由であれば仲間だ。人でないのだから。だか、それは人で無くとも人でなしだ。心無い者である、つまり外道だ。友ではない」
「友と仲間は違うの?」
「違う、友ならばその死を嘆く、お前も恨む。だがそれには一切の情も無い、お前に恨みも無い。だからそれの為に流す涙も無い。人で無いので仲間だが、友でない」
男の死体の見る目は少女以上に冷やかであった。氷より冷たく冷えている。
「けど貴方、とても辛そう」
少女が指摘した。彼女の言うとおり、男は顔をヘニャクチャにさせ嘆いているようにも見えた。今にも涙が零れ落ちそうだった。
「そうだな、辛いのだ。誠に勝手だが、君の事を哀れんでいる」
「私を?」
「悲しいのだ」
一言男はそう言った。
「そこな男、果たして何を思ってこの様な兇行へ出たかは知らぬ。知る気もない。だが、それにより無垢なる少女が一人化け物となった。我が仲間となった。生れた頃よりそうあったれば納得も行くが、化け物など態々好んで人からなるものではない」
「私も嫌だった」
「当然だ。痛いし辛いし何せ気分が悪い。だがなってしまったのだからな、もうどうしようもない。慣れる他ない、だがああは言ったが化け物も陽気なものだすぐ慣れよう。さて、怨敵は早々に討たれた訳だ。おちび、これからどうする算段か」
うっかり滴る涙を堪え男が聞いた。それを少女は考えていた所だ。その思考に割り込んだのは男の声だった。男に邪魔されたのだから、どうするのかと聞かれるのは、少しばかり不本意である。一つ二つ案はあるがどれも妙案でない、結局絞れる案は一つ程度。
「出てく」
雲隠れである。
「家を出るのか?」
「家じゃない、ここには預けられた」
「親もおろうに」
「化け物を生んだ覚えはないと思う」
「そうだろうな、そうだろうよ」
「私は死にました。死んで化け物となりました。文でも置いて消えます」
少女は思い立つと手早く紙とペンを用意し、サラサラと一言二言親類へと言葉を残す。「二人の子として居れません、消えます。お許しください」簡潔にそう残した。
早い行動であるが、これこそ正しく彼女の哀しみの成す事である。迷いなど一切なく、人の未練を断ち切らせるほどの哀しみであった。
「当てはあるのか?」
「ある訳がない」
「であろうよ。所でおちび、頼みがある」
チョイチョイと男は手招きをした。
思えばこの男も不思議な男である。現れた時は度肝を抜かれたが、不思議とこうも冷静に話せている。手招きにも一切用心せず、少女は言われるがままに近づいた。辺りはもう暗くなり、月に照らされた男の顔を近づいてマジマジと眺める。
「貴方の目は黒いのね」
少女を覗く瞳は黒かった。薄らと少女の顔が写りこんだ。これは少女の知る人の目ではないので、これが化け物、人に非ざる者の目であると思った。しかしそれは大きな勘違いである。
「我が国の目だ。人も化け物も総じて黒い」
「髪も真っ黒」
「我が国の髪だ。だが老いれば皆抜け落ち、残れば白くなる。皆同じだ」
目と髪が違うだけでもなんと世界は珍妙か。少女は深く思った。
「遠い遠い国よりやって来た。おちびには到底知りもしない遥かな場所だ」
「そう」
「さて、頼みというのは簡単だ。俺はわけあってこの地へ来た。長い旅の途中だ。これからも続く旅だ。だが一人は寂しい、誰か共に来てくれる者はおらぬか……丁度そう思っていた。そうした時におちびを見かけた。今宵の出会いは運命を感じる。おちび、どうかこの異国の化け物の友に成ってくれんか」
「友に成れ?成ればいったいどうなるの」
「取り立てどうなるほどでもない。友に成る事など世で珍しい事でも無し。しかし、そうさなぁ……旅に付き合ってもらおう、それに雨風入らぬ宿と食事は用意できるかもしれぬ」
「まあ!」
渡りに船、少女が求める物が一度に手に入った。異国の目の黒い化け物が、果たしてどう宿と食事を用意するのか分からないが、ここは頼るほかない。友にでも親友にでもなろうではないか、少女はとうの昔に家を出ると腹を括っていた。
「なる。友にでも何でもなる」
「おお、そうかそうか!うむ、よかったよかった」
男は実に嬉しそうに頷いた。
「では行こう。さあ、掴まれおちびよ、出発だ」
「何処へ向かうの?」
「何処へでも行く、風に任せ、気ままにだ。長い旅だからな、のんびり行かせてもらう。おーいおーい」
男が空に向かって何かに呼びかけるように叫んだ。空に誰かいるわけは無いのだが、不思議な事に、男の声に応えるかのように、月だけポツンと浮かんでいた空に突如として雲がモヤモヤと現れた。男が少女にしたように手招きをすると、雲がモゾモゾ動き端からプツンと小さな雲が千切れた。千切れた雲はそのまま二人の傍に飛んできた。
「さあ乗るぞ」
「雲に乗れるの?」
「乗れる。乗れるから化け物なのだ」
男は少女を抱えて雲に飛び乗った。「きゃあ」少女は突然の事に悲鳴を上げた。続いてふんわりとした感触を感じた。人生初、人はやめたが生まれて初めて少女は、空を漂う雲に乗り込んだのである。「どうかね」男が袖に手を入れにんまり笑いながら聞いた。十分雲の感触を味わう。
「どうしてくれるの?これからは高級絨毯も、最高のソファーも、襤褸布被せた藁に感じるわ」
「そうか、それはすまなんだな」
そのまま少女は雲に寝そべった。雲隠れを決めた彼女だが、これでは文字通り雲隠れである。
育ちの良い彼女は、フカフカのベットで日々夜を過ごしたが、もうこれを味わってはどうしようもない、化け物はこんなに良い物が使えるのならば、望まぬとは言え化け物になった甲斐があった物である。
雲は軽やかに天空へと登り出した。少女の眼下には、先ほどまでいたとんがり屋根の城が見えた。城をこんなにも上から見たのは初めてだった。そしてこれが城の見納めだった。少女は乾いた血で汚れた小さな手で、小さく手を振った。
突然ピシャリと光が走る。男が呼んだ雲から雷が墜ちたのだ。
「別れの挨拶だ。そら、人が驚いている。呵呵!」
「凄いのね、貴方はこんな事まで出来る」
「なぁに、容易い」
もう城は見えなくなった。変わりに空の月が何時もより抜群に近くに見えた。
寝転がりながら、少女はこれからの事を考えた。考えたが、どうにも考え付かないので、雲に包まる事にした。雲は引っ張るとそのまま掛布団に成り、彼女の体を包み込んだ。少し欠片を集めれば、極上の枕にもなる。男も胡坐をかいて悠々と空の旅を楽しんでいるようだった。
「俺は生まれて暫くして雲に乗る術を覚えた。以来、これに飽きた事は無い。雲を操る術もあるが、風に任せるのが一番だ。流れ流れるのが良い。雲は風に任せ揺蕩うのだ」
「色んな物を見て来たのね」
「ああ、見て来たよ。多くを眼に焼き付けた。より見聞を広めるため、この様に国を飛び出した」
「もしかして、貴方は相当長生き?」
「俺に限った話では無い、おちびお前もそうだ。化け物の一生は長い、これよりお前は、永久とも言える生を受けたのだ。俺は彼是3000は超えて生きている」
「……何てこと、貴方とんでもないおじいちゃんじゃない」
「なぁに、まだまだ若い。俺程度探せば幾らでもいる」
全く持って想像つかぬ存在である。いるとすれば神か悪魔かその類である。少女には漠然とした形すら浮かばなかった。大して考え付かないので、少女は思った事を言う事にした。
「ねえ、貴方は私をおちびと言うけれど、ちゃんとした名前があるわ」
「そうか……うむ、それもそうだ。なあ、おちびよ、お主名はなんという?」
「私はね、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルって言うのよ」
少女の名を聞くと、男は首をかしげて頭を捻った。ついにはうんうん唸りだした。
「なんだなんだ?やけに長い名前だ。なんだって?」
「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルよ、皆はエヴァとか呼ぶわ」
「はあ、異国の名はわからんなぁ……まあ良い、俺は決めたぞ、おちびはおちびだ。おちびと呼ぶぞ」
「名前で呼んでよ、酷いわ」
「いいではないか」
一切悪びれもせず、男は笑った。
「第一貴方の名前は何て言うの?」
「言ってないか?」
「ないわ」
やはり悪びれもせず、男は自身の名前を口に出した。
「我は狐である、空狐である。俺を知る者は、空丸と呼ぶ」
大口を開けた空丸の口の中には、獣のような鋭い牙が怪しく光を放っていた。だが牙ならエヴァも負けていない。彼女が不本意ながら変貌した化け物は、悪名高き夜の王だ。真祖の吸血鬼である。負けじと彼女も口の牙を光らせた。そして、笑って空丸に言い返した。
「異国の名前はわからないわね」
空丸はしてやられたと言う顔をした。
これより、程なくして彼女は瞬く間にその名を轟かす。エヴァンジェリン、泣く子も黙る真祖の吸血鬼。
もう数百年も前の話であった。
***
狐とは、神通力を得る事ができる生き物であり、化け物であり、物の怪であり、妖怪である。それは3000年の長きを過ごした通力自在の大狐である。人はそれを空狐とよぶ。空狐は放浪する。隠居した狐は諸国を漫遊し、困る者あれば助けるとも言う。
空狐「空丸」もまた、しかりであったのだ。
***
幼きエヴァンジェリンは、600年以上の時を経て、何の縁であろうか、遥々日本に移り住んでいた。しかも学生だった。それも中学生であった。その地は麻帆良と言った。
エヴァは600年で心が大きく成長した。色々あった。言葉で説明するには、あまりに長い。狂おしいほど美しい、狂艶可憐な吸血鬼となったあの日、産まれた地から旅立って、西へ東へ、北へ南へ放浪とした。旅の殆どが、空丸との時間であった。彼に名を笑われ、彼の名を笑った日より、二人の関係は誠に誠実で良きものである。化け物に誠実不誠実もあろう物かとエヴァも思うが、しかしその通りなのである。
空丸はエヴァに様々な事を教えたし、エヴァはその事を実によく覚えた。二人で見た物は今でもしっかりと記憶に残っているし、彼と交わした会話は録音テープを再生するように思い出せる。男女の二人での長旅であったのだから、何か甘酸っぱい事でも起きてもよさそうだが、無かった。なんせ二人は化け物である。化け物に性欲が無いかと言うと否、これが実に旺盛であるのだが、奇妙な事に化け物はあまり化け物同士で色恋沙汰が少ない。むしろ人を好きになる。人とは人間である。対極の生命である。なんでまた人なんぞ好きになるのかと言うと、実の所化け物たちも良くわかってない。可憐な女子が居ればモノにしたいし、頼もしき色男がおれば傍にいたい。それが偶然にも人である事が多いのだ。思う所は結局人と同様である。
晴れて吸血鬼となったエヴァもそうである。彼女も人を好きになったのだ。
そんな甘酸っぱい記憶も昔の事、今の彼女は無気力な少女であった。中学生活が億劫で仕方ないのだ。なぜなら、もう何度も中学生だからだ。何度も何度も、彼女は中学生だったのだ。飽き飽きしてしまっていた。
どうしてまた何度も中学生なんぞやっているのかと言うと、これが件の恋した男の所為である。語るも聞くも情けなくも滑稽な話である。この男、自分に惚れた少女を返り討ちにするばかりか、用意周到に罠を仕掛け、この地に封印したのである。更にまたやらかしたのは、この男は封印と同時に「登校地獄」などと阿呆この上ない魔法までかけた。登校地獄とは読んで字の如くである。登校を強いられるわけだ。通学である。
男は三年経てば魔法を解くと云い捨て去った。まあ、エヴァもそれを期待して、愛しの彼を待ったのであるが、可憐な少女にも容赦なく罠を仕掛ける外道はやる事が違う、なんと彼女を遺して行方不明となり、はては死亡と報告された。外道どころかド外道である。
この報せがエヴァの耳に入った時の彼女と言えば、一時放心とし、後に荒れに荒れた。あまりに荒れる物だから、非常招集された麻帆良に住まう実力者が、彼女を抑え付けるのに三日三晩かかったと言う。その間、きっちり登校地獄に従って通学はしっかりした。どうやったのかと疑ってしまうが、ちゃんとやったので通学したのだろう。実際、この時の事を当事者達はあまり覚えていないので、もしかしたら忙し過ぎて魔法効果もうっかりしたのかもしれないと笑い話が出来たほどだ。
さて、兎にも角にも結局その愛しくも憎き男の所為で、エヴァはそのまま長々延々と中学生活を続けている。そこで偶に話に出るのが空丸である。
麻帆良には大きな学園がある。麻帆良自体が学園都市であり、大きな学習機関であるのだが、そこの最高責任者は魔法使いの好々爺である。よって、この地に住まう人々の中には、魔法使いが溢れつつ、その正体を隠す。そこにエヴァが通っているわけである。
この好々爺、世界でも腕が立つことで知れる魔法使いである。爺なので長生きをしている。そのため、空丸の事も結構知っているのだ。会った事もあるので、その人柄と実力を知る数少ない人物であり、その空丸であれば魔法を解くか弱める事が出来るやもしれない、そう言った。
この爺よりも空丸の事を良く知るエヴァも、勿論その可能性は否定しない。しかし、空丸を探し呼び出す事は強く断った。何故かと爺が聞くと「こんな姿を見せられん」と、見た目相応な恥じらいを見せた。長きの間、共に旅した恩師に今の無様な姿を見せる事を拒んだのだ。
結局、今もエヴァは幼いままだった。
***
廊下をツカツカと歩く男がいる。何処の廊下であるかと言うと、麻帆良学園の校舎である。更にそこの最高責任者、学園長のいる部屋へと続く廊下だ。土色の着物を着た男は、紙袋を片手に持ち、鼻歌交じりに歩く。
扉の前に辿り着くと、袖から手を出しコツコツノックをした。中から返事が来ると、男はふらりと入り込んだ。
「わあ」
扉を開けると、少年が男の腹にぶつかった。小さな衝撃にこそばゆい気持ちになりながら、腹に顔を埋めた少年を見る。
「ああ、すみません、すみません!僕の不注意で」
どちらかと言うと、自分が突然入ったのだから少年がそこまで詫びる事は無い、男は少年を制した。少年は実に恐縮したようであった。その少年を不審そうに見る目線がある。少年よりは歳上、赤毛の少女であった。少女は不機嫌そうである。それをいさめる様に笑う黒髪の少女もいた。順々に顔を見て、色々と男は頷いた。
「少年、すまないな、俺も不注意であった」
「いえ、その……僕の方こそ、あの」
「構わぬよ、しかしそれよりも……はて、どこかで?」
男は少年の顔を見ると、不思議な既視感に襲われた。そう言えば今目に入った赤毛の少女も見覚えがあった。首をかしげると、つられて少年も首をかしげた。さて、このままでは二人でメトロノームと化してしまう、何でも無いと誤魔化した。
「ふむ、一度外そうか?」
「無用です、もう終わりましたので」
部屋に人が多いとあって、さては用事の最中であったかと思い、部屋を出ようかと思ったが、それを部屋の中央で腰を据えた老人が止める。
「タカミチ君、ネギ君を頼むぞ」
「お任せを」
タカミチと呼ばれた不精髭の男性が、少年少女を引き連れ部屋を出て行った。タカミチが男に向かい、深く頭を下げたので、少年達も慌てて頭を下げ、部屋から出て行った。扉が閉まると、部屋には男と爺、その爺の秘書が残った。
この爺こそが学園長、近衛近右衛門である。相対するは、紛れも無くあの空丸であった。変わらず若い、エヴァと出会ったころと変わらぬ姿のままであった。
「久しいな近右衛門、便りで孫が出来たと聞いたが、黒髪のがそうか」
「わかりますか?」
「匂いで分かる。しかし、大した娘だ。だが、何も知らんようだな」
「あれはまだ若い、できれば知らずに生きてくれると良いのですが」
「無理だな。強すぎる」
「……わかっております、しかし」
「言わずともわかる。それが孫を持つと言う事だ。俺には子も孫も居ないが、子を持つ奴は数多見た。そう、何事も無いのが一番であろう。まあしかし、今は良い」
「はい」
老年の近右衛門は、明らかに年若い男に至極丁寧に言葉をかわした。近右衛門は秘書に目配せし、座り心地の良い椅子を用意させた。礼を言い、空丸は手に持っていた紙袋を秘書の女性に渡し、深く椅子に腰かけた。
「土産だ。遅れたが、孫の誕生祝もやれなんだからな。後であれと食うと言い」
「これは、ご丁寧にありがとうございます」
紙袋には名の有る菓子屋の名が印刷されていた。
「甘味は良いな。知っているだろう、俺は甘味と酒が好物だ。人は色々作ったが、よくぞ甘味と酒を多く作った。これは素晴らしき事だ」
「左様ですか」
「うむ、まあ結局、そうそう……菓子も良いが、聞きたいことがある。俺はそれでここに来た」
「わかっております。彼女の事でしょう」
「うむ、話が早い」
空丸は機嫌よく笑った。そして、孫に会いに来た爺の様な心境で急かして言った。
「おちびは何処に居る?」
***
数百年をすっ飛ばし、話が急転直下、あっと言う間に進む状況を、件の“おちび”は一切を知らず、呑気に校舎屋上で胡坐をかいていた。
「今日は天気が良いな」
「晴天です。マスター」
ポツリと覇気も無くエヴァが呟くと、横に控えた少女がそれに答えた。少女はとても冷めた眼をしていた。どこか冷たい雰囲気がある。そんな彼女の答えに、エヴァは機嫌を良くするでも損ねるでもなく、ただ「うむ」と言って黙る。平日、この時間は当然授業中、未だに中学生を強要される彼女にも、当然授業はある。あるがここにいる。この二人だけだ。周りには二人以外誰一人としていない。堂々たるサボタージュであった。
「授業は終わらんな」
「まだ始まったばかりです」
「知っている。忌々しい、ああ、忌々しい」
胡坐をかいていたエヴァは、そのままごろんと寝転がった。何処から取り出したのか、透かさず控える少女は、エヴァの下にシートを引き衣類の汚れを防いだ。甲斐甲斐しいこの冷たき彼女、エヴァの学友であり、エヴァのメイドである。名は茶々丸と言う。そして彼女の小さき主人は、本格的にサボりを決め込んだようだ。
フワフワと、エヴァの視線の先には何にも縛られぬ真っ白な雲が、心地良いそよ風に乗っていた。
あの雲は自分で決めるでも無い、ただ風に任せ揺れ、風に任せ飛ぶ。ただ風に任せ揺蕩うのだ。
そんな雲のように生き、当に雲に乗り、風に任せて揺蕩う男が居るのを彼女は知っている。伝説の空狐・空丸。何も知らず生きる人々は、空狐の名すら知らず、魔法使いやその仲間たちですら、今ではその存在を知る物も少ない。この日本で一番彼に関して詳しく、一番共に過ごした時間が長いのが、西洋出身のエヴァと言うのは皮肉な話である。
あの日、吸血鬼となった夜。初めて雲に乗った日の事は、外へ出れず、中学エンドレススクールライフを繰り返す彼女にとって、授業をサボり頭上の雲を眺めるのは、昔を思い出せる唯一の楽しみである。
昔を懐かしむとは老いたものだと自分でも思うエヴァだが、その方がまだ日々を楽しめるのだから、彼女にとっては必要な事である。第一中学生どころか小学生でも通じる見た目の彼女が老いたな等と言っても、ませ餓鬼の下らない冗談にしか聞こえない。
「私は雲になりたいよ」
「雲ですか」
「きっと雲ならここから飛んで行ける」
「マスターであれば、飛ぶ事は容易いのでは」
「わからんか、雲が良いのだ。雲なら縛られない。一か所に留まる雲など見た事も無い。どこか遠くへ、風が運んでくれるのだ」
目を閉じ、あの時の雲の感触を思い出す。最高級の絨毯も、上等の布団も形無しの雲の感触。舵はきらない、風任せに飛んで行き多くを見る。果ては山超え海を越え、この世の全てを見た気に成った。
師よ、偉大な空丸よ。今はたしてどこにいる。
陽気気儘な化け物ライフを教えた師の事を、エヴァは常に想っていた。会いたいと思った。だが、今の情けなき己が姿を見せるのは辛かった。たかが人間一人、しかも惚れた相手にこっ酷い大敗をきしたとは口が裂けても言えない。たとえ、忌まわしき封印を解ける可能性があっても。
尤も、それ以前にもっと手じかな可能性が出てきたため、多少なり落ち着きを取り戻した。神経質よりは、雲を眺める分には丁度良く丸くなった具合である。
「く~も~よ~、た~ゆたう~」
いよいよもって意味不明、ついには歌を歌いだしてしまった。屋上で寝そべって呑気な歌を歌う主人を見て、従者の茶々丸はと言うと、これまた別に何を思うでも無い。自分はただ仕えるのみ、呑気な歌を歌おうが気にしない。
こうしてエヴァは大抵一日を過ごすわけである。なんと無駄な一日であろうか、良い歳の少女が、いやまて、良い歳と言っても歳食った方の意味だ。第一少女は見た目年齢だ。こう言うのを合法ロリと言う。
良い歳した合法ロリが、日がな一日学校の屋上で意味不明な歌を歌うとは、無駄と言わず何と言う。誰か活でも入れれば良いのだろうが、ちょいと誰かに言われた所で簡単に立ち直る事情では無い。エヴァも訂正する気は無い、今日もその通り、何時もの通り過ごす気だった。
「く~も~よ~……」
二番も無ければ三番も無い、雲よ揺蕩う、それだけの歌。それを歌い続けている所で、彼女の視線の中に大きめの雲が見えた。珍しい事ではない、大きい雲だってあるだろう。しかしまて、これはおかしい。エヴァは目を見開いた。
黙々と、そしてモクモクと、雲が二人の頭上に集まりだした。
「マスター、不思議な雲が」
「そりゃ見りゃわかる。問題は不思議で済まない気がするからだ」
如何にも不味い。嫌な予感がした為、急ぎこの場を離れようとしたエヴァであるが、突如ピシャリと彼女の股座近くに雷が落ちた。立ち上がり損ねた彼女は驚き、「ギャア!」と声を上げ転げてしまった。一瞬であったが、晴れ間に落ちた雷は、鋭く光を放ち爆裂の音を轟かせた。校舎からキャーキャーとかワーワーとか、生徒の狼狽える声が聞こえた。
エヴァは、焦げ付いた床を見て唖然とする。あろう事か、焦げ目は「まぬけ」と書かれていた。
「腑抜けたな、おちびよう。お前、こんなのも避けれなんだか?」
モクモクとした雲が緩やかに二人の下に下って来た。雲の中からは男の声が聞こえた。怪しい奴!聞きなれぬ声に、茶々丸が主の前に出て臨戦態勢を取った。如何なる時も主人を守る、従者の鏡である。
「ふはは、一丁前にも家来を持ったか。お前も偉くなったな」
「何奴ですか」
「何奴と思うね?」
「不審者かと」
「違うね、俺は化け物だ」
言うが早いが、男は瞬きする間もなく茶々丸の後ろに現れ、ちょいと足を引っ掛けた。ほんの少しの動きだったにも拘らず、くるりと宙を舞い、茶々丸は地面に伏した。彼女が己の状態に気が付くのに、数秒を要した。
「主を守るなら、これぐらい往なせ。ほれ何時まで呆けてるのか、おちび立て」
まるで猫でも持ち上げるようにエヴァを抱え上げる男、ブランと体を揺らし、エヴァは目を丸くし、目の前の男を凝視した。
「うわわ!」
釣り上げられた魚の如く、体を震わせエヴァは男の手より逃れた。またも転げながら男から離れ、やっとの思いで立ち上がると、男を指差し慌てて叫ぶ。
「まさか、そ、空丸っ!?」
見間違えようはずも無く、着物姿の偉丈夫は、正しく偉大な空狐・空丸である。
「如何にも、おちびよう、お前はこの師を見間違うか?」
「馬鹿な!」
エヴァは咄嗟に空丸の手を取り、目に涙を浮かべその顔を見つめた。
「御会いしたかった……」
「うむうむ、俺もだおちび。お前がフラリと我が下を去ったのは、もう遠い昔だな」
「その事は申し訳無いと思っております。挨拶も無く、置手紙一つ置かず、貴方の下を去り、今まで何度この事を後悔した事か」
「言うな言うな、おちびよ。お前が丁度反抗期であったのはわかっていた」
「その様な可愛い物では」
「いや、可愛い物だ。子を持たぬ俺には新鮮であったぞ。家出にしては長き年付であるが、こうして会えた。それで良いではないか」
エヴァの頭をグシャグシャと乱暴に撫でる。手加減を知らぬ撫で方であった。グリグリ顔が揺れるが、エヴァはその感触を楽しんでいた。昔もこの様に頭を撫でてもらった。
「しかし、おちび」
「はい」
「お主、ちと固くなったか?昔の様に喋ればよかろうに」
「や、それは」
「遠慮する仲であるまい?」
遠慮と言われギクリとする。出会った当初を思い出す。あの頃は初対面にも関わらずてんで遠慮など皆無である。生意気な小娘であった。恥ずべき記憶であるので、モゴモゴと口を動かし目を伏せる。
「私も歳を取りましたので、その」
「馬鹿を言うな、お前は未だおちびではないか」
「や、その」
「ならば我が背を抜けるのか?」
さて、ここいら辺りで燻り腑抜けたエヴァの魂にプスプスと小さな火種が燃え出した。元来負けず嫌いな性格である。我慢強いほうではない。久方ぶりの負けん気が出て来始めたのである。
「成長したくても出来んのです!」
「ではやはりおちびだな」
「うくく、知ってて言う!知ってて言う!意地悪だ!どうしてそう可愛い弟子をおちょくれる!」
「可愛い弟子はおちょくりたく成るものだ」
「酷い!あんまりだ!だから私は貴方の元を発ったのだ!」
「そうだな、そうであろうな。だが俺も憤慨するおちびが妙に可愛くてな、ついついからかうのだ。まあ許せ、今日はそれを詫びに来た」
空丸はどこからか取り出した箱をエヴァへと押し付けた。それは先ほど近右衛門に上げた物と同じ菓子であった。
「お、おお、これは」
噂で聞いた銘菓だった。この土地を離れられぬ彼女にとって、金銀財宝より価値あるものだった。
「ここいらでは手に入るまい、今おちびは遠くへ行けぬのだろう」
「は、あ……先刻御承知でしたか」
「無論だ、遅れをとったな」
「……お恥ずかしい限りです」
人間相手に遅れをとり、終いには学校に呪いをもって括り付けられた今の姿は、偉大な師に見られたくはなかった。エヴァは頭をたれ恥じた。
「よい、いつの世も化け物は人に狩られるものだ。こういう事もあろう、珍しい事ではない、しかし相手がやつで良かったなおちびよ、他であればどうなったかわからんよ」
まあ他のやつなら負けまいがな、と空丸は付け加えた。
「してどうだね?奴に未練はあるのか」
「……これも先刻御承知と思いますが、あの男は死んだと聞きました。この様な形での別れは、未練が無いと言えば嘘になります」
「であろうなぁ」
エヴァの心中を察してか、空丸もしみじみと頷いた。
「ところで話は変わるが、先ほど奴に似た小僧を見た」
「すでにお会いしておりましたか、想像の通りでしょう」
「そうか、そうか……奴め、遺すものは遺したか」
空丸は納得したように頷き、どこか満足げであった。
「ところで、あの……お師匠、この度はどのような用事で?」
「うむ色々あるが、しかしまあ一番は可愛い弟子に会いに来たのだがな」
「は、いや、その……どうも、ご迷惑を」
「それはもう良い。後は、そうさな、ちと世が騒がしくなりそうでな」
「……師匠、もしやまた」
「やはり、わかるか?」
二人の表情が一転、険しい物となった。
「近頃この学園も襲撃が多いため、可笑しいとは思っていました」
「うむ、どうも前のアレで事は終わらなかったようだ。もしアレ以上の事となれば、我々日の本の化け物も、いよいよ他人事ではすまなそうなのでな」
「まあ私は異人の化け物ですが」
「おっとそうであったな」
空丸は指摘を受けるとわざとらしく笑ってごまかした。
「しかし、麻帆良でやることがありますか?」
「関西の方では話は通した。だがあそこは面倒だ、追々また向かう、後はこちらでの事だ。何よりここは、あの世界樹がある。様子を見ぬわけには行くまい」
「左様でしたか」
「関西も未だ臭い。阿呆な共め、小賢しく企んでおるわ……だが、まあなるようになろうよ」
エヴァもまた近右衛門から関西呪術協会の件は聞き及んでいた。日本での魔法使いと日本特有の呪術使い達との確執と言うのは、存外深く未だ引き摺られる問題であった。
「しばしあの小僧の様子も見よう。あれは面白いぞ、小僧だが鍛えようでは化けよう」
「……その小僧ですが、私に考えが」
「ほう、言ってみろ」
エヴァは、実は……と己の計画していた事を空丸へ話した。件の小僧、先ほど空丸が腹で受け止めた少年であるが、エヴァは元より空丸にとっても浅はかならぬ縁がある。エヴァの考えを聞くと、空丸はニヤリと笑った。
「いい考えである、おちびよ」
以後、この地で二人の吸血鬼と狐、そして英雄の遺児によって素っ頓狂で奇天烈な騒動が始まる。その騒動は、京を巻き込み果ては世界をも巻き込んだ。