わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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1『わたしはカミナリ』
1『鳴無キョーコときさらぎ駅の怪(上)』


 何処からともなく噴き出した黒煙は、瞬く間に夜の通りを覆い尽くした。もうもうと渦巻く黒いヴェールの中。青白い電光が瞬く。ばち、ばちん、と空気を引き裂く鋭い放電音。鉛のように重く立ち込めるそれは、煙というより、意志を持った黒雲のようであった。

 

「絶対に諦めたりしない。してやらない」

 

 爛々と輝く瞳は瑠璃の深青。夜空を駆けるイナズマの色。黒雲の中から姿を現したそれは血塗れで、おそらくは女で。しかし、逆立つ髪にあらわとなった額から天を貫くようにそそり立つ二本の角が、彼女が限りなく人間に近く、同時にどうしようもないくらいヒトを超越してしまった存在だということを物語っている。

 

「確かにわたしはポンコツだ。それでも、確かに夢を見てしまったんだ」

 

 鬼面のごとき憤怒の表情を浮かべた彼女の手には一振りのカタナ。雨混じりの夜風に吹かれてゆらり佇むその姿はもはや鬼。蛇のように彼女の全身を這い回る電光が空気を砂糖のように甘く苦く焦がしていく。突風にブレザーのスカートが舞い上がる。その太ももに描かれたスマイリーが、縫われた口をぐっとゆがめて『敵』を威圧した。

 

『――――ぐるる』

 

 生物の規格外と対峙するのは、また、『鬼』である。月光に濡れたような銀の毛並みを持つ、巨大な(イヌ)。低く唸って女に眇める燃えた瞳。それの頭部にも、山羊のごとき捩じれ角が毛皮の間から顔を見せていた。

 

「ここからが、わたしの責任。夢を見て、夢を見させた私の、覚悟の戦いだ」

 

 肉体的なスケールの大きさは、人の外の理に生きる者同士の戦いにおいて意味を成さない。だから大狗が侮ることはなく、女の凛とした眼差しに恐怖が混じることもない。両者から放たれる殺意と戦意がせめぎあい、雨霞みの戦場に充満していく。

 

「来い、わんころ。わたしはもう、お前からも夢からも逃げたりはしない」

 

 破れた足と、敗れた夢が。この瞬間、胸の中で白熱している。女に宿ったその力は、まさにカミナリのごとく激しく儚い。空を駆ければ消えるというのに、光を放てば尽きるというのに。それを知って、彼女は尚叫ぶ。

 

「わたしは」

 

 雷神が力強く地を蹴る。たった一歩で世界を変えた鬼。その名はーー

 

 ◆◆◆

 

「あの、センパイ? キョーコ先輩ですよね。どうしちゃったんですか?」

 

 かつて学校イチの元気印だった生徒がしだれ柳のように背を丸めて校門を出て行くのを、一人の生徒が呼び止めた。

 

「え? あぁ、ひさしぶり」

 

 にわか雨の明けた夕空。水はけの悪い舗装路にできた大小の水溜りを踏み荒らすのは、ジャージやトレーニングウェアに身を包んだ女生徒たちだ。短く切った黒髪を揺らして振り向いた”キョーコ先輩”は、ごった返した生徒達を掻き分けて後輩がやってくるのを見守る。

 

「どうしたの、暗いよ?」

「あはは。そんなことないよ。考え事してただけ」

「むー。ホント? キョーコ先輩が考えゴトぉ?」

 

 ”キョーコ先輩”――鳴無響子(オトナシ キョーコ)は後輩のいぶかりを笑ってやり過ごそうとしながら、自然と彼女の視線が自分の右足に下りていくのを感じていた。陸上経験者らしく、張りのある健康的な太股に幾重にも巻かれた包帯。若干の居心地の悪さを感じながら、やっぱりスカートを折ったりするもんじゃないなあ、としみじみする。

 

「その。事故とか故障とかで辛いこととか、あると思うけど。いつだって部室に来ていいんだからね」

「うん。ありがと。きっと遊びにいくから」

「約束だからね。あーもう、こっちもこっちで追い込みかかってて、最近結構病んでる子多くてさ。キョーコちゃんが居てくれないと、癒し要素が足りないんだよねえ」

 

 子供のように、後輩はぎゅっと抱きついてくる。甘ったるい制汗剤の香りに包まれながら、キョーコは後輩のつむじをぐりぐり揉んでやる。

 

「たまんねえよお。オッパイでけえなあ。柔らかいなあ」

「おじさんクサいこと言うなあ。もうすぐ部活、始まっちゃうよ?」

「もうちょっと……ってワケにもいかないか。新しいブチョー、アレだもんね」

 

 苦い笑みを残して、後輩は手を振りながら部室棟のほうへと駆けていく。それを見送るキョーコの表情も、これ以上ないくらい苦々しい。

 

「ダメだよ。そういうの」

 

 結局言えなかった言葉を呟いて踵を返すと、近くの住宅街から漂ってくる夕餉を支度する香りが腹の底をくすぐった。しかし学園の敷地内にはカラスが鳴くから帰りましょ、とはいかない別世界が広がっている。駐輪場には朝の配置のまま銀輪がひしめきあい、授業中よりも生徒の動きが激しい。右を向けば筋トレ、左を向けば走り込み。これが文武両道を謳う名門女子高『T女学院』における日常だった。まして今は七月末のインターハイを射程に捉えた時期。生徒達は一層騒がしくなる。

 

「大会、か」

 

 極彩色のユニフォームの中。ぽつねんと立つキョーコのブラウスは虚しくなるくらい白い。

 

「困ったな……」

 

 その白さは、包帯の白さ。

 生気の抜けきった表情で足を見下ろしていたキョーコの肩を、叩いたものがいた。

 

「お待たせ」

「どひゃーッ!?」

「ぐあっ!?」

 

 キョーコの白さは、雑踏の中で相当目立つに違いない。だから校門に車を回した迎え役はすぐにキョーコを見つけることが出来たわけだし、すぐに声を掛けることができた。問題は親愛の情を込めた渾身の肩ポンが、完全なる不意打ちとして決まってしまったこと。

 

「いっ、たあぁ。何をするんだ。これが親友にすることか」

「こ、コッチのセリフ。それ、わたしが言いたいコトだから!」

 

 キョーコの後頭部に顎を打ち据えられた美人は、切れ長の目尻に涙を浮かべて抗議する。吾妻昴(アズマ スバル)。キョーコとは十年来の付き合いがある親友だ。

 

「とりあえず……乗りなよ」

「あ、ありがと」

 

 しきりに顎をさするスバルの愛車は白い軽トラック。特別に車通学を許された彼女が助手席の戸を開け、足の不自由なキョーコに手を貸して乗せてやる間、周囲の生徒達からの視線はもっぱら彼女たちに集中していた。

 

「ふふ。なんだか興奮しないかい?」

「わたしは、ちょっと居辛いかも」

「悪くないだろう。私たちの仲の良さ、もっと見せつけて行こうじゃないか」

 

 スバルが免許を取ったのも、車を買ったのも、すべてはキョーコのため。キョーコはスバルの寄せる友情に一日とて感謝を忘れたことはない。

 

「ふふ。うふふ。気持ちいいな、キョーコ。ふふ」

 

 ただし、時折その友情が行き過ぎるきらいがあるのが玉に瑕なのだ。

 

 ◆◆◆

 

「当ててやろうか」

 

 スバルにとって一日のメインディッシュはキョーコの送迎。授業も部活も言ってしまえば前菜のようなもので、焦れによってキョーコとの一時を甘美にする以外の意味は持っていないようだった。

 

「…………当てるって、何を」

 

 しかし今日ときたらどうだ。心血を注いだハンドルさばきで抜群の乗り心地を保障してやってもダンスの相手は浮かない顔。垂れ流しにしていたラジオをオフにして、まじまじと助手席のキョーコを見つめる。

 

「キョーコ、お前さ」

「あ、信号青になったよ」

 

 肩を竦めて、スバルはアクセルを踏み込んだ。軽トラックは緩やかなカーブを描いて駅前の大きなスクランブル交差点に滑り込む。

 

「それで?」

「危ないよ。前見なきゃ、前。あそこのおばあさん、これから渡るのかな……」

 

 話題転換を図るキョーコは、あからさまに挙動不審だ。

 

「正直に話してくれよ」

 

 とうとう車まで降りようとしたキョーコの前でドアをロックするピンが下りる。スバルは地獄の閻魔のように鋭い眼差しを向けた。 

 

「チヅルの奴だな?」

「ち、違うよ」

「また憎まれ口を叩かれたんだろ?」

「そんなことないよ。何もない」

「いいから言ってみろ。何を言われたんだ?」

「……部外者が部室にいると、士気が落ちるって。あ、でもね、悪いのはやっぱりわた、ひゃっ!?」

 

 乱暴なまでの急ブレーキに、軽トラックの車体が前につんのめった。

 

「あの恩知らずめ。私がいじめ殺してやろうか」

 

 前後から浴びせられるクラクションをものともせず、スバルは地の底から響くような声で呟いた。ハンドルを握る手は、怒りからの強張りで真っ白になっている。

 

「チヅルちゃんは正しいよ。わたし、なるべく部室に寄らないようにするから」

「その必要はない。後で説教しとくよ」

 

 話し合いで終わる気がしない。スバルの価値観は、全てがキョーコという存在に繋がっている。彼女は良かれと思うがゆえの行動なのだろうが、陸上部に新しい抗争の火種を蒔いてしまったキョーコは、胃の縮まる思いで膝の上の握りこぶしを見つめる。

 

「ねえ、チヅルちゃんと仲良くできない?」

 

 チヅル。大堀千鶴(オオホリチヅル)。二年生にして、生徒会長と陸上部の部長を兼任する才女。かつてキョーコがスパイクの履き方を教えてやった彼女との間には深い溝があり、そしてその溝はキョーコ原理主義者のスバルとの溝でもある。そして恐ろしいことに、その深さは日々更新中であった。

 

「いいかキョーコ。あんなはなくそみたいな奴の言葉に耳を貸すな」

 

 窓枠に肘をつき、キョーコは逃げるように町並みを見つめる。

 

「…………うん。頑張る」

「頑張るって何をだよ」

「先輩として、出来ることをしてあげたい。チヅルちゃん今大変だろうから」

 

 キョーコの人差し指が太股の包帯の縫い目をなぞる。太股の上でうごめく白い指はひどく官能的だったが、今のスバルの頭は苛立ちと怒りで満たされていた。

 

「部長のわたしが急に抜けたりしたから。部活と生徒会で、あの子きっと、クタクタだよ」

「あいつは私たちの敵だ。敵なら勝手に潰れればいいじゃないか」

「スーバールーちゃーん。敵とか味方とか、そういうのはダメだよー」

 

 急に動きのキレを取り戻したキョーコが、ズビシと音を立てて鼻先に三本指を突きつけてくる。

 

「うああ。勘弁してくれ!」

 

 長い付き合いの仲で何百回と聞かされてきた文句がこの後に続くことを予期して、スバルは思わずハンドルに額を押し付けた。

 

「よいこ三原則!」

 

 例えキョーコに刺されても笑って許す自信があったが、これだけは耐え難い。怒りに取って代わって、こめかみをキツツキが突くような頭痛がスバルを襲っていた。

 

「ひとつ『よいこは決して怒ったりしてはいけない』、ふたつ『よいこは決して人前で泣いちゃいけない』、みっつ――」

「――みっつ『良い子は決して困っている人を見捨てない』だろ?」

「うん。えへへ、よく出来ました」

 

 ウンザリ顔で言葉を遮ったにも関わらず、キョーコは得意顔でスバルの頭を撫でる。

 

「やれやれ。出たな、伝家の宝刀」

 

 本当に本当に、ウンザリしているのだが。それでもキョーコが褒めてくれるのは嬉しいので、スバルは大人しくされるがままになる。

 

「そう。大事な約束。わたしと、サキちゃんとの」

「…………サキ先輩とは連絡ついたのか?」

 

 スバルはキョーコが取り出したケータイを一瞥する。赤いレザーのケースに収まった携帯。その待ち受け画面に映るプラチナブロンドの女が、キョーコの肩を抱いて笑いかけている。

 

「ううん。ゼンゼン」

「そうだよな……あれは、戻ってくるような人じゃないから」

 

 紅坂咲(ベニザカ サキ)を天才と讃えるか、奇人狂人と声を潜めるかは、未だにT女学院の中でも意見が割れている。しかしその境はいつだって紙一重だし、少なからず彼女が天才としての側面をもっていることを疑うものはいない。

 

『やあ。ここ、やってる?』

 

 最初に彼女が出没したのは、当時廃部の危機に立たされていた陸上部だった。フラリとやってきてフワリと入部届けを出した直後から始まったそれは、快進撃と言うよりは大量虐殺だった。新記録の樹立に次ぐ樹立。競技会の選手リストから破竹の勢いで一位を叩き落とした彼女は、たった一代でT女学院を陸上の名門校に仕立て上げた。

 

『それじゃ。後は諸々頼んだからね。おねいちゃんは行く!』

 

 そしてある日を境に、やはりフラリと蒸発。去り際の全力ダッシュひとつ取っても、恐ろしい好タイムを残していった。

 

「そんなルール、テキトーなサキ先輩が適当に決めただけだろ」

 

 サキとキョーコは、それはそれは仲睦まじい師弟だった。世間一般からすれば、睦まじすぎるというほどに。

 

「テキトーじゃないよ。これは絆なの」

「だったらその三原則を決めたサキ先輩は? 今一番困ってるキョーコを放って何をしているんだ?」

 

 吐き捨てて、スバルは路肩に車を寄せる。軽トラはいつの間にか駅前の喧騒とは無縁の路地に入り込んでいた。ここまで溜め込んだ毒気を抜くようにスバルが背伸びをしていると、くすくすという笑い声が彼女の耳朶をくすぐった。

 

「なんだよ」

「なんか、嬉しいなって」

 

 助手席から身を乗り出して、キョーコはスバルの頭を抱く。

 

「なっ、おいっ……!」

 

 緩めたブラウスの襟元から覗いた肌着の白さに、スバルは思わず息を呑んでいた。

 

「確かに今は色々大変だけど、わたしは結構幸せだよ。スバルちゃんが、わたしのことを真剣に考えてくれるから」

「ひきょう者め」

 

 真っ赤になったまま、ふんすと鼻息を吹いてスバルは唇をとがらせる。

 

「なんだよ、もう。人がせっかく真面目になってるのに」

 

 キョーコはドアのロックを外す。ここから五分ほど歩けばキョーコが寝泊りする下宿屋がある。

 

「家までまだ少しある。乗せていこうか?」

「心配しないで。体はもう十分休ませたし、そろそろ復帰目指して頑張らなきゃね」

「復帰か」

 

 スバルは何か言いたげだったが、結局かぶりを振って言葉を呑んだ。

 

「手、貸すよ」

 

 乗ったときと同じようにキョーコを手助けしたスバルは、湿ったアスファルトにキョーコが両足を着いた後も、繋いだままの手をじっと見つめていた。

 

「なあに?」

「も、もう一度だけっ」

 

 意を決した表情でスバルが両手を広げる。

 

「……ダメ、かな」

 

 その意図を察して、キョーコは苦笑する。その姿がテディベアみたいで面白かったというのもあったかもしれない。

 

「いいよ。はい、どうぞ」

 

 抱きしめてやると、スバルの吐息がキョーコの胸元を温めた。無愛想で評判のスバルが、こうして自分にだけ弱いところを見せてくれるのは正直嬉しい。嬉しいのだが、ちょっとばかり長いし、恥ずかしいし、だんだん蒸し暑くなってきた。

 

「あのー、スバルさん? 満足した?」

「ご、ごめん!」

 

 慌てて離れたスバルは、それでも少し名残惜しそうだった。

 

「明日も迎えに行く」

「うん。助かってます」

 

 愛嬌のある後ろ姿に1度ハザードランプを灯らせて、軽トラが路地の角に姿を消す。手を振って見送ったキョーコも、ややあって路地の出口へと歩き始めた。もちろん下宿とは正反対の方向だが、それでいい。チヅルの言葉やスバルのこと。あてどもなくブラつきながら、あてどもないことを考えたい気分だった。

 

 ◆◆◆

 

 キョーコの住むK市の空は狭い。特に夏場はとろけるような夕日の下、酔った蜘蛛が作った巣のように入り組んだ電線のシルエットが黒々と茜空にかかる。K市で電車といえばもっぱら路面電車のことで、路上に点在するコンクリートの浮島は、その発着駅だった。

 

「やった。すぐだね」

 

 (ひさし)とベンチだけのシンプルすぎる駅。庇の支柱に据え付けられた”円葉電鉄(マルバでんてつ)”と刻印されたプレートをキョーコが指でなぞっていると、すぐにベージュとあずき色、そして錆の斑に彩られた路面電車がやってきた。

 

「故障っていうんなら、部品でも持ってきて直せればよかったんだけどね」

 

 帰宅時だというのに車内はガラ空きの貸切状態。人の目も無いので、キョーコは右腿の包帯を解き始める。そこに現れたのは醜く引きつった傷口だ。キョーコが今も人生の下り坂を、谷底を目掛けて転げ落ち続けているという、目の逸らしようのない現実。

 

「あはは。何かいいことあったのかな?」

 

 滑らかな柔肌に刻まれたグロテスクな半円形の傷口は、見ようによっては笑っているように見えなくもない。

 

「落書きしちゃうぞ。それそれ」

 

 急にそんなものが自分の体に刻まれていることが何となく許せなくなって。ほとんど衝動的に、ペンで傷口を黒くなぞっていった。最後に目を描き加えて完成したスマイリーマークを、キョーコはしげしげと眺めた。

 

「ねぇキミ、教えてほしいことがあるんだけれど」

 

 そこでキョーコは顔を上げ、車内を見渡す。やはり無人だ。虚しいくらい、空っぽだ。膝に目を戻して傷口の両端を掴むと、軽く引っ張って「むうむう」と真似事と言うのも微妙な腹話術をやってみる。

 

「そっか。その口じゃあ喋れないよねぇ。じゃあ聞いていてくれるだけでもいいんだけど」

 

 へらへら笑っていたキョーコの顔が、一気に崩れた。喉の奥からこみ上げてきた熱い塊が目玉を後ろからぐいぐい押してくる。膝に置いたバッグに顔を埋めて嗚咽を堪えるうちに、必死の指先がケータイを握っていた。

 

「わたしの」

 

 サキは、どこにいるのだろうか。キョーコのことなど忘れてしまったのだろうか。

 

「わたしの青春は終わっちゃったのかな」

 

 高校三年。夏。何もかも失った。

 

「会いたいよ、サキちゃん」

 

 路面電車は結局一人も乗せることなく、トンネルへと差し掛かった。日の光が遮られ、首筋がひんやりとする。心地よい冷房と、適度な揺れ。それらに体を預ける内、キョーコは強烈な睡魔に襲われる。どうせ居眠りしたって構いやしない。市電は環状線。進んでいるように見えても、結局ぐるぐると同じところを回り続けてどこへも行けない。キョーコだって同じだ。

 

 ◆◆◆

 

「えくしょいっ」

 

 キョーコは肌寒さに目を覚ました。なにやら複雑怪奇でこちゃこちゃ色が交じり合った夢を見たような気がするが、霞がかったように思い出

 

 せない。

 

「そんなことより、ここ、どこ?」

 

 寝起きで頭がぼんやりしているのを差し引いても理解しがたい風景が広がっていた。今まで体を横たえていたベンチから立ち上がると髪も制服も、霧を吹かれたようにしっとりと湿っていることに気付く。背後にそびえる木造の駅舎は市電のそれと比べれば立派なものだが、古い。朽ちていると言っても過言ではない。

 

「圏外……」

 

 ここまで不気味な状況では殆どお約束のような気がしたので、キョーコはさして気落ちせずにライトをホームの外へと向ける。ススキと枯れ葉に包まれて、錆び付いたレールが横たわっていた。

 

「落ち着こう。わたしは電車に乗ってて、考え事してて」

 

 うとうとして、目を閉じて。

 

「だからこれは、夢?」

 

 夢は授業の合間に数え切れないほど見てきたが、ここまでのリアリティを感じたことはない。

 

『きさらぎ駅』

 

 腐食して、穴の開いた看板から辛うじて駅名を拾い上げる。市電の駅にそんなものはない。唖然と開いた口で雨水を受け入れているうちに、冷え切った足のスマイリーがシクシク痛みだした。風に舞い上がるスカートの下で、スマイリーは笑っている。キョーコの困惑を、その不運のあまりを。

 

 ――――これは紛れもない現実だぜ。

 

 彼の口は縫い合わせられていたが、キョーコはその言葉を確かに聞いたような気がした。

 

「寒い、なあ」

 

 痛みも冷えも、耐え難いものとなってきたのでキョーコは駅の中に避難することにした。思ったよりも長い間雨風の下に転がされていたようで、歩くたびに節々がギシリと音を立てた。

 

「だれ」

 

 不意に、駅舎の中に視線を感じた。

 

「ひっ!」

 

 その源を探して、キョーコはひしゃげた悲鳴を上げる。赤い目。熟しきったほおずきのように真っ赤な二つの瞳が、駅舎のガラス戸の向こうからキョーコを見つめていた。それが間を置かずして闇に溶け込むように消えていった後も、キョーコは凍りついたように動くことができなかった。戸にかけた手が、小刻みに震えている。アレは、人なのか? それとも?

 

「は入ります、よ?」

 

 駅舎の外と中、どちらが安全なのだろう。少し考えて、結局キョーコは後者を選ぶ。外の暗闇の中に何が潜んでいるか分からないし、中に何が潜んでいるにせよ、その正体を確かめた方がいい気がする。それに、そろそろ寒さが限界だった。

 

「入るからね」

 

 返事には期待していない。薄明りの中、キョーコのローファーは慎重に板目を踏み分けた。床板は軽く爪先を載せただけで軋む。戦前からあってもおかしくないダルマストーブや、積み上げられた用途の分からないガラクタを支えているのが不思議なくらい、穴だらけの床はガタがきていた。

 

「おーい!」

 

 暗がりにキョーコは呼びかける。少し待って、もう一度。そこでようやくキョーコの肩から力が抜けた。兎にも角にも風が当たらない分、寒さが和らぐ。そして緊張も。

 すっかり弛緩したキョーコがグリーンの上張りつきのソファに腰掛けた瞬間、煙幕のように埃が舞い上がり、得体の知れない黒虫の大群がソファの隙間という隙間から這い出して床板の隙間へと潜り込んでいった。

 

「うあぁ、サイアクだよっ、ごほっ、うへっ」

 

 涙目で逃げ遅れの一匹をブラウスの襟から弾き落とす。芋虫とも百足とも判別つかない、とにかく人を不快にさせるためだけに生まれてきたような黒い虫は身をくねらせてあちこち逃げ回ったので、ちくちくした脚が肌をさする感覚にキョーコは気が遠くなりかける。胸ポケットに潜り込もうとしたそれの尻尾をようやく捕まえて投げ捨てようとして、キョーコはそれを見つけた。

 

「え」

 

 駅舎のドアが勢いよく開いた。とたんに強い風と銃弾のような勢いの雨粒が吹き付けてくる。だが、得体の知れない虫が激しく悶えながら黒い煙となって霧散するのも、何もかも。キョーコがそれの後ろ姿を見た瞬間、どうでもいいことになってしまった。

 

「――サキ、ちゃん?」

 

 白いワンピースの後姿。風にあおられたプラチナブロンドの隙間から束の間に露わとなった口元は、笑っているように見えた。

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