わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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10『よいこの限界(下)』

「お姉さん、逃げて!」

 

 双子は強かった。キョーコよりも、ずっと。

 

「でも、二人は!?」

「私達は大丈夫ですから。さぁ」

 

 拳に脚。それが彼女達の武器だった。それだけで雲霞のように押し寄せる影鬼たちを叩き潰し、引き裂き、吹き飛ばして。すべての動きは流れるようで、まるで映画の殺陣を見ているようだった。

 

「ぐるる」

 

 大狗は放り出された山車の上で舌なめずりした。

 今のところ襲ってくる様子はない、が。それは獲物を選ぶ捕食者の、一瞬の静寂に過ぎない。

 

「ボクたちさぁ、別にお人よしで言ってるワケじゃないから」

 

 キョーコに迫った影鬼たちを槍が貫く。コンビニ前から引き抜いたプラスチックの旗竿も、彼女達の腕力にかかれば立派な武器になる。『アイス全品10円引き』のノボリを咲かせて、次々と影鬼が霧散していく。

 

「さっきのたこ焼きの借りを返してないだけ。勘違いしないでよね」

「はい。恩を返すまでお姉さまには指一本触れさせません。勘違いしないでください」

「そんなの」

 

 そんなの、とんでもないお人よしじゃあないか。胸が締め付けられるような思いで立ちすくんだキョーコを、乱暴に勇儀が引っ張った。

 

「逃げるよ、さぁ!」

「じゃあね。お姉さん」「また会いましょう」

 

 痛む足をもつれさせながら、キョーコは何度も何度も振り返った。笑顔で手を振る二人に大狗が襲い掛かる。間一髪で攻撃をかわした彼女達の姿が霞のようにブレて消えーーそして怒涛のような雨と土煙がすべてを覆い隠した。

 

 ◆◆◆

 

「また……逃げちゃったなぁ」

 

 膝の間に顔を埋めて、キョーコは蚊の鳴くような声で呟いた。

 

「あれで良かったんだよ」

「あんな小さな子たちを見殺しにすることが?」

「見たろ、あいつらの戦い」

 

 命からがら逃げ込んだ脱兎珈琲の店内。ぐったりと背でカウンターにもたれたキョーコを尻目に、勇儀は落ち着きなく歩き回った。

 

「あんなの人間技じゃない。あたしらが手を出したところでなーんの役にも立ちゃしないんだよ」

「それでも」

「あん?」

「それでも、わたしにだって、出来る事はあった筈なんだ」

 

 青臭い。

 勇儀は我知らず顔をしかめていた。

 

「『よいこ』でいるのはそんなに大事なことかい?」

 

 キョーコは黙り込んだ。勇儀は鼻を鳴らし、店内を物色し始める。

 

「あいつらなら大丈夫さ。すばしっこいし、あたしらの何倍も強い。きっとあの怪物もちゃっちゃと片付けてくれるさ」

「そう上手く行くもんかねー」

 

 鈴を鳴らすような声に二人は、はっとした。

 

「いい夜だねキョーコ。そして久しぶりーー星熊」

 

 いつからそこにいたのだろう。カギはしっかりかかっていたし、スバルが居候を抱え込んだという話も聞いていない。

 当たり前のような顔をしてカウンターに掛けていた萃香はカウンターを握って勢いをつけると、腰掛けたスツールをぐるぐる回転させてみせた。

 

「っておーい。なんか反応が微妙じゃない?」 

「勇儀は、その。記憶がなくなってて」

「あぁ、そうなんだ」

 

 心配顔の萃香が一気に醒めた。

 

「天狗どもが心配してたよ。まぁポーズだろうけど」

「て、テング?」

「あと地底の連中。連絡くらいよこせって」

 

 ひたすらに困惑するだけの勇儀を見て、萃香はとんとんと自分のこめかみを叩いた。

 

「ま。色々積もる話もしたかったんだけどね。しゃあないか」

「萃香ちゃんはどうしてここに?」

「珈琲飲みに来た。そしたら迷える子羊の声が!」

 

 ばばーん。と効果音を声に出してポーズを決める萃香だったが、微妙な反応を返すだけの二人の前で、やがて恥ずかしそうに身を縮めた。

 

「ま。ホントはあんたら探してここまで来たんだけどさ」

 

 彼女の変化は顕著だった。古木の枝のようにねじれて先細った二本の巨大な角が頭から伸びている。有り余る力を戒めるように、彼女の両腕には鉄球と鎖が巻きつけられていた。

 

「鬼なんだね。キミも」

「そうだよー、怖いよー」

 

 彼女はスツールの上で両手を振り上げ、「がおー」と吼えてみる。が、すぐにバランスを崩して落ちかけた。

 

「おっ、とと」

「ごめん。今のでけっこう台無しかも」

「だよねえ」

 

 正直なところ、キョーコは初対面から萃香の異質さに気づいていたような気がする。

 

「ところであの双子なら無事だよ。なかなかイイ戦いしてた」

 

 萃香は、そこで戦いが繰り広げられているように、自分の背後の闇を親指で指した。

 

「けど、正直時間の問題」

 

 キョーコが進み出る。

 

「今からわたしに何ができる?」

「おんや。あんたに何かできるとでも?」

 

 面白そうに萃香は目を細める。

 

「できるかどうかはわからない。でも、やるんだ」

「キョーコ一人でアレ倒すのは無理だろうねー」

 

 勢いをつけ一周、スツールに座った萃香は回る。

 

「一緒に逃げる。コレもっと無理。どっちかっていうとキョーコの方が足手まといだし」

 

 もう一周回った萃香はずずいと身を乗り出した。

 

「どうしよっか?」

 

 赤い瞳がくるくる回る。それが映すキョーコの葛藤を。キョーコの苦悩を楽しむように。

 

「戦う」

 

 しかし、答えなんて元から用意していた。

 

「戦って戦って、戦って戦う」

 

 酸欠水槽に閉じ込められた金魚のように、萃香も勇儀も口をぱくぱくさせていた。

 

「勝てなくていい。できるだけ長く時間を稼げば、それだけ二人は遠くまで逃げられるよね?」

 

 何も間違ったことは言っていないと思うのだが、そうではないらしい。

 

「大丈夫。こんなんでも陸上やってたし。今はわりかしポンコツだけどさ」

 

 言葉を重ねれば重ねるほど、萃香の表情は奇妙に引きつっていくのだ。だから何か見落としているなと考えて、キョーコは手を打った。

 

「あ、でも問題は二人のところにいく方法だよね」

 

 小難しい顔でキョーコがこめかみをぐりぐりやり始めると、がらんとした店内に萃香の大笑いが反響した。ごんごんとカウンターに額を打ち付けるが、笑いの発作は止まらない。

 

「時間稼ぎ? 人間のあんたが?」

 

 萃香は笑いっぱなしだった。しかし、ふとその表情が消える。

 

「死ぬよ、あんた」

「うん。もちろん分かってる。だから出来るだけ死なないように頑張る」

 

 そこで天井を仰ぐと、改めて萃香は大声で笑い始めた。ガラスがビリビリ鳴った。外を影鬼が徘徊していたら、一発で気づかれていただろう。

 

「おかしいかな」

「おかしいねえ。でも愉快だ」

 

 こんな人間がまだいたのかとごちて、萃香は最後に残った笑いの衝動を酒で流し込んだ。

 

「じゃあ、いいよ。あたしが足を用意してやるよ」

「いいの?」

「あぁ。久しぶりに笑わせてもらったお返しにね」

 

 腹を抱えてよろよろ歩いていくと、萃香は備え付けの公衆電話の前に立った。今や懐かしい、ピンク地に白のラインが目立つすすけた電話機だった。

 

「これ、使える?」

 

 キョーコが頷くと、萃香はしばらくこぶしを握っては開き、握っては開きを繰り返し始めた。

 

「じゃーん」

 

 そうしていると数秒後、こつねんと彼女の掌に十円玉が現れた。

 

「それ、どこから?」

「ん。誰かのポケットから。すごいっしょ」

 

 それを聞いてキョーコの表情が変わった。萃香はやれやれと首を引っ込める。

 

「あーもー。緊急だし。人命かかってるし、仕方ないよな?」

「終わったらちゃんと返してあげてね」

「……徹底してるのね」

 

 空っぽの電話に十円玉が転がり込む空しい音の後、ダイヤルした萃香が壁にもたれて応答を待つ。と、ここまで完全に背景扱いだった勇儀の脳みそがようやく再起動した。

 

「あんたが行っても無駄死にするだけだ」

「そうかもしれない」

 

 記憶を失った勇儀にどうして腹が立って仕方なかったのか、キョーコはようやく理解した。

 

「昨日今日会っただけの連中に必死になれるのだって。正直、理解できないよ」

 

 困り人を見捨てず、決して涙は流さず、怒りを鎮めて、尚勇敢に戦う。

 

「名前も知らないわたしを助けてくれた人がいるんです」

 

 鬼にその三原則をはめ込むのはおかしいことなのだと分かっている。だが、彼女は間違いなくよいこだった。

 

「わたしの夢のために、勝ち目の無い戦いに身を投げてくれた人がいたんだ」

 

 燦然と輝く星のような女性は。星熊勇儀は。あの暗黒の中で確かに光明を見せてくれたのだ。

 

「それがあなた。星熊、勇儀」

 

 だから、今の勇儀が許せなくなったのだろう。

 

「あなたがやらないなら。あなたができないなら、今度はわたしが戦う。だから、ゆっくり休んでて」

 

 殺してやりたい。

 過去の自分とやらに、勇儀は殺意を抱いた。

 襤褸のような体で目覚めて、押し付けられたのは勝手な偉業。そして、その偉業が今一人の少女に命を投げ打たせようとしている。

 

「すぐ来るってさ。キョーコの名前出したら一発だったよ」

 

 タイミングを計ったように萃香が受話器を置く。

 

「じゃあね、『ゆーぎ』」

 

 二人の会話もこれで終わりだ。ローファーをきゅっと鳴らして、キョーコは踵を返す。

 

「おかしいよ」

 

 彼女達の後ろ姿を見送る勇儀の口をついて出た言葉に、萃香は足を止めた。

 

「今のあんたにはそう見えるかい?」

 

 ドアの隙間に消えていく萃香の眼差しには何の感情もなかった。ただ庭に投げ込まれた小石を見るように一瞥して、ふい、と顔を背けた。軽蔑すらしていなかった。

 

「あたしは……だって、仕方ない、だろ……ッ!」

 

 言葉にならないが、胸が痛い。勇儀はシャツの胸元が千切れんばかりに握り締めることしかできなかった。

 

 ◆◆◆

 

 土砂降りの雨音と萃香の鼻歌。そこにエンジン音が混じるまで数分も待つ必要はなかった。

 

「風間さん、カギ持ってたんですか」

「ん」

 

 『脱兎珈琲』の横の路地からスバルの軽トラックがめりめりとタイヤでアスファルトを食んで出てくると、運転席に収まった風間を前にキョーコは目を丸くした。

 

「まぁ、いろいろあるんだよ。乗んな」

「そうだ。スバルちゃん、見てませんか」

「いいや。一緒にいると思ったんだが」

「そうですか……」

 

 風間がキョーコの肩に手を置いた。彼女も頷きで返す。あの強かな親友なら上手く逃げおおせていると、今は信じるしかない。

 

「私は後ろ。あんたもコッチ」

 

 強引にキョーコを荷台に引っ張り上げて、萃香は運転席側のウインドーを叩いた。

 

「出していいよん」

「どっち」

「え?」

「だからどこに向かえばいいんだよ。おっちゃん何も聞いてねえぞ」

 

 あー。と言ってからしばらく膨らみのいい丸い顎をさすって、萃香はパチンと指を鳴らした。

 

「双子のいるとこ!」

「いや、双子て知らんし」

「萃香ちゃん、途中で見たって言ってたけど」

「確かにそうなんだけどさぁ。あいつら移動しながら戦ってたから」

「つっかえねーチビだなお前」

 

 ぶうぶう文句を垂れる萃香を無視して風間はダッシュボードを漁る。悠長すぎるやり取りに、キョーコは気が気でない。風間は気配でそれを察したようだった。

 

「落ち着け。焦る気持ちは分かるが」

 

 見透かされた恥ずかしさでキョーコが俯いていると、風間がやってきて荷台にくしゃくしゃの紙を広げた。クセがついて丸まってしまうカドを萃香に踏ませて留めると、それがようやく色あせたK市の地図であることが分かった。

 

「今このへん。で、最後に双子ちゃんと別れたのがここだよな。大通りの、坂道のあたり」

 

 脱兎珈琲の近所から指を滑らせて、風間は無精ひげをぼりぼり掻いた。

 

「きったね」

 

 すかさず萃香がせせら笑った。

 

「うるせ。で、ケツまくって逃げに徹するならここだ。ここ。電鉄のレール沿いに坂を登って、G町を真っ直ぐ抜けるルート。ゴールはT女学院の近所だな。あそこらへんは特に空き家が多い」

「ずいぶん自信満々じゃん。根拠は?」

「あ?」

「だからさ。ほら、身を隠すならこの道とか、ここらへんとかでもよさそうじゃん。必死に逃げてんならどこに転がり込むか分らないじゃん。そんな決め付けちゃっていいワケ?」

 

 ただ水を差そうというわけではないのだろう。萃香の言葉にも一理あった。

 

「私さ、双子のとこまで確実に届けてやるってキョーコと約束しちゃったんだよね」

「俺が運転するのに?」

「あんたが運転するのに」

 

 とはいえなんだか会話に混ざって邪魔をしたくないので、キョーコはとりあえず、うずうずしながら待つことにする。

 

「まず、町のこっち側はダメだろう。ここに来る途中で見たけど、なんだか煙みたいな化け物がうじゃうじゃしてやがるし」

 

 駅方面を隠すように、風間は地図を真っ二つに折る。

 そうすると巨大な大極図を描くような形をしたK市の半分がなくなり、風間の言わんとすることも何となく伝わってきた。

 

「川か」

 

 萃香が瓢箪を傾けた。K市は大まかに見れば大極ーー二つの勾玉をあわせたような巨大な円を象っている。どちらが陰でどちらが陽かはさておき、A川という大きく蛇行して流れる大河が市を二つに分けていた。

 

「ん。G町を抜ければデカい橋が近い。ほかにも何箇所か橋は架かってるが、どれもT女を目指すなら遠回りだ」

「駅側からはあの影鬼連中が追い立ててくれる」

「そゆこと。おっさんが本気でその、双子ちゃん? を捕まえようって思うなら、上手くボコしながらG町に追い込んで」とんとん、と風間の日焼けした指が橋を叩く「逃げ場のないここに追い込んでケリをつけるね。どんなガキかは知らんが、あの川に飛び込もうなんてバカは考えないだろ。おまけに今はこの雨のせいで大荒れだ」

「で、あいつらが捕まる前に助けると」

「そゆこと」

 

 大雨でぐしゃぐしゃになった地図を近くのポリバケツに放り込んで、風間は肩をすくめた。

 

「ま。目星はあくまで俺の経験論だけどさ」

「キョーコ、どうする。決めるのはあんただよ」

 

 考え込むまでもなかった。

 今のキョーコには風間の予測が正しいという確信があった。

 

「お願いします」

 

 力強く頷いたキョーコを見て、風間がぱん、と手を打った。

 

「よし。じゃあ急ごう」

「なんか、風間さん、驚かないんですね」

「んー?」

 

 不意にキョーコが投げかけた問いに、風間はやはり、あごを擦りながら答えた。

 

「そうだな。おっちゃんくらいの歳になると分かるもんさ」

 

 それで済ませるあたり大物なのか、それとも大雑把なだけなのか、キョーコには分からない。

 運転席に戻った風間がギアを入れて車体が揺れて、少しずつスピードを上げる間。キョーコは決然とした表情で膝を抱えて荷台に座る。それを尻目に、こそこそと運転席を覗き込んで、萃香が風間に問うた。

 

「ところで風間、経験論って、あんた」

「聞くな」

 

 ◆◆◆

 

「おおおおおおッ!!」

 

 大したものだ。初っ端からクライマックスだ。

 

「風間さん、これスバルちゃんの車じゃ」

「後で謝りゃいいんだろ、後で!!」

 

 ぼぎょお、とイイ音を立てて二、三匹ほど影鬼が跳ね飛んだ。

 軽トラのワイパーは全力で作動している。土砂降りの雨を払いのけ、押しつぶした影鬼たちの体液を洗い流すために。

 

「曲がるぞ。曲がるぞおおおお!!」

 

 落ち着けと言った舌の根が乾かぬうちにコレである。風間という狂った頭脳を積んだ荒ぶる軽トラックは風間同様さわがしくドリフトしながら交差点に入り込み、さらに数体の影鬼をなぎ倒した。

 

「うわあ」

 

 どっ、と音を立てて運転席の天井からバウンドしてきた影鬼の頭がキョーコの足の間でもう一度跳ねて、彼女のブラウスに黒い体液をぶちまけた。

 もう一度バウンドして後方へ飛んだそれが、のろのろ追いすがる影鬼たちをボウリングのピンのようにぶっ倒し、生首はトマトのように爆ぜる。

 

「おい風間! コレ、本当に大丈夫か! 本当に大丈夫なんだよな!?」

「どちゃくそ急げっつったのはそっちだろうが!」

 

 もはや真っ黒に染まった軽トラが坂道をよじ登る。放置された山車をひっくり返し、屋台の残骸を乗り越えていく。小柄と言えども四駆のパワーは侮れない。

 

「そっちこそ大丈夫なんだろうな」

 

 風間がバックミラー越しに萃香を睨んだ。

 

「キョーコちゃんにケガさせてみろ。俺はお前を許さん」

「あたしはキョーコを連れてくだけ。その後はこの子次第」

 

 風間の気持ちはありがたい。だが、こうなることを望んだのはキョーコ自身なのだ。彼を安心させるように、努めて明るく、彼女は口を開いた。

 

「わたしなら、平気ですよ」

「こっちが平気じゃねえんだよ」

 

 風間の苛立ちを代弁するようにエンジンが獣じみて唸る。地面を這っていた影鬼をぐちゃぐちゃに踏み潰した衝撃で、荷台に乗る二人は軽く跳ねた。

 

「おっちゃんもミヨっちゃんも、キョーコちゃんが大事なんだ」

「ねえねえ。私が冷血みたいに言うのは勝手さ。でも私だってキョーコは大好きだよ」

「だけど背中押してんのはお前だ」

「好きだから邪魔立てなんてしたくないの」

 

「クソ」風間がハンドルを叩いた。「ワケわかんなくなってきたぞ」

 

 その様子を笑って見ていた萃香だったが、やがて血相を変えて叫んだ。

 

「風間、前!」

「あ? ーーあ!?」

 

 坂を登りきった瞬間だった。

 突如として雑居ビルの壁が爆発し、瓦礫の山が目前の交差点に降り注いだ。

 

「あんなの聞いてないぞ、おい」

 

 もうもう立ち込める砂埃の中、赤い光の帯が鎌首をもたげた。

 焼けた鉄を身につけた百足。異変の始まりに現れた頃から大分虫らしく様変わりしていたが、地獄じみて赤黒く光る身体を見間違うはずもない。

 

 あまりにもーー大きすぎる!

 

「歳の功だろ、風間!」

 

 萃香の声が飛ぶ。我に返ってハンドルを切る風間。瓦礫に押し付けられた車体が激しく火花を散らす。それでも巨体との接触は免れない。このままでは踏み潰される。

 

「ちったあ役に立て、チビ!」

 

 風間が叫んだ。

 

「ーーいいとも」

 

 萃香を包む雰囲気が、変わった。

 

「よっく見とくんだよキョーコ」

 

 少女の両腕を拘束する鎖が、じゃらりと音を立てた。鉄球の重しを野球ボールのように彼女が振りかぶった時、ムカデとトラックとの距離は十メートルを切っている。

 

「これから披露するのは究極の密度ってやつだ」

「みつ、ど?」

 

 返事は奇妙な音だった。

 大砲の弾のような鉄球が萃香の掌の中で白熱し、完璧なフォームで解き放たれた瞬間。ムチ打つような音がキョーコの鼓膜を強烈にノックした。それは空気が砕ける音。音速の壁を引き裂いた者が聞く音だ。

 音速の剛球を迎え撃つ百足の顔面は焼け爛れた金属板で幾重にも補強されているーーが。

 

「はははははッ! 無駄無駄無駄ぁ!!」

 

 鉄球は顔面を陥没させるように叩き潰し、他愛無く百足の背側へ貫通する。

 夜叉のように牙を剥いて笑う萃香の前で百足はどどうと倒れ、長大な身体が激しくのたうった。

 

「風間ぁ!」

「よっしゃ!」

 

 そこに生じた僅かな隙間めがけて軽トラックが滑り込む。 

 間一髪、トラックは落ちる胴体の下から脱出し、揺れる地面を蛇行した。

 

「どうだい。コレが本物の鬼の力だ」

 

 鉄球を引き戻し、萃香は腰に手を当て胸を張る。

 ぽかんと口を開きっぱなしで座り込んだキョーコの目に、その姿は仁王像のごとく大きく、雄大に映った。

 

「かっこいいって言え」

 

 だが、中身はそうもいかなかったらしい。

 

「え。かっこいい……?」

「違う違う! もっと自然な感じでかっこいいって言って!」

「か、かっこいい……デス」

「えへへん。なんかムズ痒い」

 

 とにかくピンチは凌げた。

 後方でとぐろをまいて倒れこんだ鉄百足はピクリともしない。生きているのか死んでいるのか。そもそも、鉄の塊にそんな概念が存在するのかはさておき、すぐに追ってくる様子は無い。

 

「あのさ」 

 

 キョーコが胸をなでおろした直後、風間が口を開いた。

 

「さっきバンって音しなかった? 気のせいか」

 

 前言撤回かもしれない。

 

「頼むから気のせいだって言ってくれ」

 

 やけに蛇行するようになったトラックの荷台を、萃香はてくてく歩いていって車体の下を覗き込んだ。

 

「かざまー」

 

 気の抜けた萃香の呼びかけに返事が来るまでしばらく時間がかかった。

 

「……あぁ」

「なんかね、車輪壊れた」

「…………ゴムんとこ?」

「うん。ズル剥け」

 

 間。

 

 キョーコが萃香の隣から顔を出す。剥きだしのホイールが虚しく回っている。

 

 静かな間。

 

「風間さん、タイヤなくなっちゃいました」

「だあああクソおッ!!」

 

 ようやく自らの異変を思い出したようにトラックがバランスを崩し、風間が鋭くハンドルを切る。瞬間にホイールが火を噴いた。

 

「おおお、すげー!」

 

 激しく吹き上がる火花に萃香がのんきな感心をしている間にトラックは標識をへし折り、街路樹をなぎ倒しながら暴走する。

 

「あの化け物にやられちまったか」

 

 熱で融けたタイヤの残りかすが吹き飛び、トラックの挙動はますます荒ぶりだす。荷台に至っては暴れ馬の背の如しだ。

 

「風間ぁ、これ結構マズいよねぇ?」

 

 振り落とされかけたキョーコを抱きとめた萃香が声を張ると、乾いた笑いとともに風間が返してきた。

 

「言いたかないが、そうだな。こいつはもう長くは保たねぇ」

「ふん。橋までは?」

「無理」

 

 きっぱりと彼が言い切った瞬間、ざあっと視界が開けた。

 G町を抜ければ今度は下り坂が待っている。橋は目と鼻の先。とはいえ虫の息のトラックではそこまで辿り着く前にお陀仏だ。

 開けた視界の先には遊歩道があり、その更に先にA川がある。バケツをひっくり返したような雨のなか、荒れ狂う流れがどうどうと唸る音がキョーコの耳まで届いてきていた。

 

「見えるかい」

 

 萃香に囁かれて、キョーコは、はっとした。

 星の無い夜空の下。A川の真っ黒な水面に映る煌々とした輝きに。

 

「おっさんの見立ては正しかったみたいだね」

 

 見えた。人間であるキョーコの目にも、豪雨の中にはっきりとそれは見えた。

 橋は燃え盛っていた。対岸に至る道には乗り捨てられた車が積み重ねられ、天をも焦がすような業火を吹き上げている。炎の中に出口を求めて小柄な影が駆け回る。だが銀の輝きがそれを阻んで通さない。

 

「いた」

「風間、全力で坂道を突っ切れ」

「橋までまだまだあるんだぞ。あの流れに突っ込めば、俺達粉々だぜ」

「私は粉々になるの得意だから。大丈夫」

 

 冗談か本気かわからないことを言い放って彼女は橋を睨んだ。

 

「とにかく飛べよ。その後は私が何とかする」

 

 軽トラがゆっくりと坂道を滑り降り始めた。風間はひたすらに前を見ている。エンジンが怪物のように吼え、キョーコは荷台のヘリを掴んだ手に力をこめた。

 

「ずいぶん思い切りよくなったじゃないか」

「そうだろうよ」

 

 スカスカと情け無い押し応えのブレーキから足を離して、風間はアクセルに踏み代える。タイヤはバースト。ステアリングはお飾り、ブレーキオイルは流れ尽くし、もはやこの車でマトモに動くのはたった一つだけ。

 

「たまにはエンジン全開で走ってみるのも悪くないさ」

 

 この状況で「ブレーキ利かないんだもん」はカッコが悪すぎる。

 腹をくくった風間がアクセルを踏み潰す。660ccの怪物が最後の疾走を開始する。影鬼の軍団がつぎつぎと爆ぜて消える。そして。

 

 燃える橋が、漆黒の大河が近づく。

 

 フェンスを破る衝撃。

 

 放物線を描く軽トラック。

 

 ぐるぐる回る天地と赤い境界線

 

 やっぱり泣き言を吐く風間。

 

 萃香の笑い声。

 

「さ。私たちはここまでだ」

 

 トラックの高さが限界に達したときだった。小さく、しかし力強い手がキョーコの襟首を掴んだ。

 

「行って、見せ付けてきなよ」

 

 萃香はピッチングの天才だった。

 正確に炎の嵐吹き荒れる橋めがけて投げ込まれたキョーコが意識を失う前に見たものは赤い残光と、派手に水柱を立てて沈んでいくトラックの姿だった。

 

 ◆◆◆

 

 息が出来ない。

 全身の激痛は芝刈り機に放り込まれたようだったし、内臓で福笑いをされたように腹の中がぐるぐるしていて落ち着かない。

 

「はっーーはぁ、げっ、ほ」

 

 酸素だ。酸素。

 身体の要求に応えるためにキョーコは深呼吸を繰り返す。

 永遠とも数分ともつかない間、彼女はそれを続けた。頭がぼやける。直前まで何をしようとしていたのか、思い出せない。

 

「ガアァ」

 

 が、大狗の猛りにキョーコの意識は完全に覚醒した。

 

「マヤちゃん、こっち!」「っ、はい!」

 

 キョーコが折り重なった廃車の陰に身をねじ込むと、信じられない速さで二つの影が頭上を飛び越えていった。続いて大狗が。幸いにも彼女が見つかることは無かった。

 

「血が」

 

 あたりに飛び散ったガラスに紛れて、赤いしずくが点々と落ちている。

 横転した大型トレーラーの下までそれは続いており、大狗が今まさにその隙間をこじ開けようとしている。

 

「助けなきゃ」

 

 目に留まったのは、どこかのトランクから転げ落ちたバールだった。

 手になじみ、そこそこ重く、一端はくぎ抜きのために爪状になっている。見るからに威力抜群だ。怪物相手には心細いことこの上ないが、双子が逃げる時間くらいなら稼げるかもしれない。

 

「よし」

 

 チャンスは一回こっきりだ。

 近くのドアミラーをバールで引き寄せて大狗の居所を探る。幸いにもアレは双子を追い詰めることに夢中で、キョーコに気づいた様子はない。無防備な後頭部は完全にこちらに向けられていた。

 

(行け、わたし)

 

 物音を立てないよう、細心の注意を払って物陰を出たキョーコは、一歩一歩と大狗に距離を詰めながらバールを振りかぶる。

 

「るるるるるぅ」

 

 双子の逃げ込んだトラックの下に顔面を突っ込む度、隙間は確実に広がっていく。

 もっと早く。でももっと近づかなきゃ。焦りに駆られつつ、キョーコは必中の距離を目指す。あと数歩。

 

 ぱきり。

 

 キョーコの足元でガラスが砕けた。

 大狗が動きを止める。興奮と緊張が爆発して、鼻の奥がツンとした。

 

「こーーこのおッ!!!」

 

 破れかぶれで振るったバールが、奇跡的に大狗の眉間を強打した。が、しかし。奇跡はそれ以上の奇跡でもって応報されることになる。

 

「う、わっ」

 

 キョーコの体は人形のように宙を舞った。

 そして衝突。橋の支柱に背中を打ち砕かれたキョーコは車のボンネットでバウンドし、ガラスの破片にまみれた路上に力なく転がった。

 

「ぐる、る」

 

 大狗が目を細める。

 

「痛ぅ……」

 

 何をされたのか、まったく分からなかった。

 ガラスのカーペットの上に血が滴る。誰のものかは言うまでもない。ただ、全身が痛すぎて、どこから出てきたものかは定かではないが。

 

「お姉さん!」「お姉さま!」

「げほっ。やぁ、無事みたいでよかっーー」

 

 銀の光が走る。

 

「たぁッ!」

 

 遺伝子に染み付いた動きがキョーコの体を突き動かした。本能で後ろへ跳んだキョーコの目の前で、殺意に満ち溢れた牙が打ち鳴らされる。アスファルトの上で足をもつれさせながら、キョーコは何とか着地する。

 

「……オルガちゃん、マヤちゃん。お待たせ」

 

 なんという虚勢だろうと、我ながら呆れた。

 

「キミたちを助けに来たよ」

 

 不意打ちは失敗。体はぐしゃぐしゃ。

 とっさに踏み切った左足の踏ん張りが利かない。解けかけた包帯の下で細胞がひとつひとつ千切れて死んでいくのが分かる。どんなに集中しようと、次はないということも。

 

「逃げてって言ったじゃないですか!」

「そんな体でどうするんだよ!!」

 

 悲鳴に近い双子の叫びにキョーコは思わずほくそ笑んでいた。こんなザマで歓迎されるとは思っていなかったが、予想が当たるとなかなか心に痛い。

 

「ゴーーガッーーゲッ、あ、あーあー。よし」

 

 大狗はゲッ、ゲッ、としばらく路面に唾を吐き散らしてから、声の調子を変えた。やはりただの化け物ではない。ただの化け物がどんなものかはともかくとして。影鬼なんかとは別格であるということだけは確かだった。

 

「あなた、ずいぶん私と縁がありますのね?」

 

 角を持つ狗は鼻をひくつかせながら、ゆっくりとキョーコの周りを歩いた。

 

「そうかもしれないね」

「何者ですの?」

 

 キョーコは改めてバールを構える。その姿はとても無様で、とても見ちゃあいられない。それでもここに来た。それでもここに立っている。目の前の理不尽と戦うために。

 

「ただのーーよいこだ」

 

 その限界を超えろというのなら、覚悟はできている。

 

 

 

 

 第五話『よいこの限界』 おわり

 

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