大狗が身体をくねらせた。
「 冗談がお上手ですのね」
笑っている。少女のソプラノで喋る巨大な獣は、牙をむき出しに、血生臭い息をキョーコへと吐きかけてきた。
「よいこは帰る時間でなくて?」
「ずっと迷子を探してた」
土ぼこりと煤にまみれて、双子はじっとキョーコたちのやり取りを見守っていた。
擦り傷やアザが痛々しいことこの上ないが、何よりキョーコの胸を締め付けたのはマヤの怪我だ。だらりと垂らした左腕の指先から滴り落ちる血が、火影の中でやけに鮮やかに映る。
「それが、この子たち?」
次に大狗が咥えたカタナを見る。
野太刀ほどの大きさのソレは、きさらぎ駅で勇儀を斬ったものとは別物だとすぐ分かった。確かに名工の作なのだろうが、なんというか、胸を締め付けるような圧力に欠けている。
「奇遇だこと。わたくしもずっとずっと、ずーっと探していましたの」
キョーコの沈黙を、大狗は肯定と取ったらしい。
分厚い雨雲を見上げた大狗の目が、ほんの僅かに細められた。雲の向こうにあるはずの月に焦がれているようにも、過去に思いを馳せているようにも見える。
「それでようやく会えた。感動の再会に水を差さないでくださいまし」
一瞬で周囲に漂っていた剣呑な空気が凝固した。
大狗が胴に巻きつけた鞘から刃を走らせる様がやけにスローモーションで再生される。
しゅありいいいいいいいいぃぃぃん、と背筋を凍らせる音を聴いた瞬間キョーコの全細胞が警告を発した。
水に濡れたような刃先が抜き放たれた瞬間、凝固した空気と時間が一気に爆発する。
大狗の姿が残像を残して消えた。
反射的にキョーコはバールを握り締め、首筋と顔面をかばうように構える。
「おわあっ!」
大砲が直撃したような重み。
骨を伝った衝撃が脳を揺らす。大きくよろめいて、キョーコはぺたりと地面にはいつくばった。近くの廃車の下へとバールが滑っていく。
「あらあら。つい力みすぎたかしら」
手元を見てキョーコは絶句した。
この場で最後の頼みの綱とも呼べる最終兵器、バール。それは未だ彼女の手に握られていたのだ。ただし、大分短くなってはいたが。
「うそ」
あまりに綺麗過ぎる切断面を呆然と眺める。
激しさを増した雨に混じって、赤く、生ぬるいしずくが彼女の掌を濡らした。どこから? 指の又で糸をひく血液を見ているうちに、激しい痛みが額に走った。
「ぐ」
さっきの一閃。刃先はキョーコの額に触れていた。
「あら。あらあらあらら。もっとよく見せて」
大狗はへたり込んだキョーコの頭に前足を乗せ、顔を覗き込む。
「たいへん。綺麗なお顔が台無し」
人間では及びもつかない速度での攻撃だった。キョーコは奇跡的に防御できたのではない。力の差を教えてやるために。恐怖と絶望にまみれる顔を見たいがために。防御させられたのだ。
「オルガちゃん、お姉さまはきっと」
マヤと繋いだ手に力をこめて、オルガは唇を噛んだ。
よいこのキョーコが武器を取り、あまつさえ戦いにきたのは勝つためではない。
「わかってる。でも、でも、ボクはイヤだ」
「でも、このままじゃお姉さまの頑張りが無駄にーー」
どしゃあ、と激しい音に二人は縮み上がった。
「さて。空気の読めないお子様には退場頂きました」
破片まみれで剣山のようになった地面に、キョーコは顔面から叩きつけられて倒れていた。「寝てろ」耳元で囁いて、大狗はその頭から足をどかす。
「あなた、お姉さまを……!」
「殺してはいなくってよ。まぁ、明日からはお化粧に少し難儀するかもしれませんが」
ひたり。ひたり。
大狗が巨体をゆすって近づいてくる。双子の前までやってくると、座った。三メートル近い怪物が「おすわり」の姿勢で座り込んだのだ。当然、愛嬌なんて微塵もない。
「時にわたくし、らいふわーくの一環で鬼を斬ってますの」
愛嬌を振りまく気なんてもとからないのだろうが。
「ライフワークって」
「鬼とは古来から力で優劣を決めるモノでしてよ」
「少なくとも私たちはそうではありません」
「ボクたちの負けでいいよ。興味ないし」
くふふ、と笑って大狗はカタナの柄を咥え直した。
「残念ですがそうもいきませんの。わたくしは空前絶後最強の鬼であることを証明したい」
「ご大層な夢ですね」
「そうでもありませんわ。遭った鬼を片っ端から斬っていけば、いつかは最強になれますもの」
「あぁ、話すだけ話して交渉の余地ナシってタイプの人?」
「そうですわね」
大狗は雨粒を振り払って刃を構える。銀の輝きをもつ毛皮の内側でめきめきと隆起していく筋肉が、双子にとって最後の一撃が近いことを物語っていた。
「さて。このまま斬っても詰まりませんわ。どうぞ勇敢かつ正々堂々と立ち向かってくださいまし。それでこそわたくしの無敵神話に華が咲くというもの」
あまりにも身勝手な神話にページが増える寸前だった。丸く見開かれた双子の視線がカタナからその背後へと移ったのを不審に思った大狗が振り向いた瞬間だった。
「ゲ」
「捕まえたぞ!!」
金属の鎖ががっちりと大狗の首根っこに食いついた。
「二人とも、逃げて!」
「お前、そのまま倒れていればいいものを!」
不屈とはまさにこのことか。瓦礫の山からキョーコが引きずり出してきたものはバイクのエンジン駆動用のチェーンだった。黒い油が大狗の毛皮を染める。
例の不可思議な『自動反撃』がキョーコを跳ね飛ばす気配は無い。瞬発的な攻撃に強い反面、こういった緩慢な締め付けに対しては効果を十分に発揮できないのかもしれない。
「くああ、この、人間、風情、め!!」
大狗は口の端から泡を吐き、のた打ち回ってキョーコを振り落とそうとする。金属のチェーンはオオカミの首筋も、キョーコの掌もずたずたに切り裂いた。それでもキョーコは離れない。幾度巨体の下敷きにされようとも、体中に破片を埋め込まれようとも。
「行って――行け!!」
キョーコの叫びに双子は雷に打たれたように飛び上がった。
「早く!」
まるでそれがあらかじめ決められた合図であったかのように、双子は同時に走り出した。
「愚物があぁ!!」
カタナを噛みしめ、大狗は宙に飛び上がった。
ぐるぐると独楽のように回転しつつ、トラスを形作る鉄骨を細切れにしていく。トドメに足場を大きく切り裂いて、大狗は落下の勢いを利用してキョーコごとアスファルトに自らを叩き付けた。支えを失った橋は大きく傾き、鋭く切断された鉄塊が二者の上に容赦なく降り注ぐ。
「逃がさない。逃がすわけには、いかない」
さすがにキョーコの手が離れたのを感じた。大狗でさえ無事ではない。
よろりと立ち上がった大狗の視線の先、十数メートル離れたところにT女学院方面へと駆けていく双子の背が見える。オルガが傷のせいで何度も倒れかけるマヤを気遣って、二人の足は遅い。
「これ以上、無様は晒せない」
毛皮の中から大狗が抜き取ったものがある。脇差だろう。
もちろん大狗が使うことを想定して、通常の太刀ほどの大きさに拵えられた代物であった。慎重に狙いをつける。一石二鳥とは行かないまでも、手負いの鬼だけは息の根を止めなければ。
「マヤ、掴んで。痛むだろうケド、頑張れ」
「は、はい」
横転したトラックの荷台に飛び乗ったオルガがマヤに手を差し伸べる。
大狗からは背中がガラ空きだ。絶好のチャンスを逃すわけにはいかない。片目は獲物に留めたまま、弓の弦を引くように身体を引き絞っていく。
(――――今)
何度も足を滑らせながらマヤがトラックの上に乗りあげた瞬間に大狗は自然とほくそ笑んだ。これから放つ一撃は絶対に当たるという確信があった。会心の一撃を邪魔するような何かが起きない限りは、確実に、
「どりゃあああッ!!」
気合一発。
コンクリートの破片からところどころ鉄骨が突き出した、凶悪すぎるヴィジュアルのハンマーが大狗の顔面で炸裂した。
人間風情、渾身の一撃。
大狗の顎が歪んだ。牙が折れ、口の中を散弾のように跳ね回り、頬を突き破った。そして何より、
(アレが来ない?)
意外すぎる結果にキョーコは驚愕を隠せない。
すんなりと彼女の一撃を打ち込まれた大狗は、明らかに傷つき、血を流している。苦悶に顔を歪めることまでしている。
「貴様――ぁ!!」
そこで動きを止めたのが運の尽きだった。
「あっ」
今、なんて言おうとしたんだろう。
「あ」いた、で済む痛みじゃなかった。「あ」んまりだ、と嘆くにはこっちもやり過ぎていた。とはいえ「あ」やまります、なんて死んでも言う気はなかったし、「あ」あコレが人生かと言えるほど達観していない。
(わたし、なにを言おうとしたのかな)
なんてどうでもいいことを考えながら、キョーコは倒れた。
今度ばかりは立てそうに無い。キョーコの右胸からは脇差の刃先が飛び出ている。弱弱しい脈動に合わせて、じわりじわりとブラウスに血が滲んだ。
「貴方、中々に忌々しい小娘でしたわね」
乱暴に脇差を引き抜いて、大狗は血の塊を吐き捨てた。
顔面の傷は既に治り始めている。キョーコは血みどろで放り出されたままだ。それが、両者の圧倒的な違いを物語っていた。
「いつから貴方達人間は、わたくしたちへの敬意を失ってしまったのでしょうね」
大狗は踵を返し、ゆっくりと歩み始めた。
(まだだ)
まだ、あの双子は距離を稼ぎきれていない。
(まだ)
しかし身体に力は入らず、言葉の代わりに血反吐が迸った。
(あぁ、終わっちゃう)
10メートル。大狗が再び銀の光を帯びていく。
『ここの線からあの線。これが、私たちの世界なんだ』
20メートル。雨の中で静けさに包まれる。
『50メートル。私にとっては4秒。キョーコちゃんにとっては6秒あるかないか。この速度を変えることはできない。それがこの世界のルールだから』
30メートル。寒さを感じる。大雨で、火はほとんど消えていた。
『それができるのだとすれば。それを可能とできるのなら』
40メートル。
『それは、とんでもない業だ』
50メートル。
そう。50メートル。絶対的な距離。キョーコの前に立ちはだかる、暴力的なまでに残酷な世界のルール。
だが止まれない。
こんなところでヘバっていたら、彼女に追いつくことなんてできやしないんだ。
◆◆◆
「熱い」
の「あ」だったかは定かでないが。
キョーコの身体は熱を取り戻していた。
「熱いんだ」
それは、よいこには絶対あってはいけない怒りだ。
雷雲のようにどす黒く煮えたぎる、憤怒の焦熱だ。
「まだ終わってない」
頭の中で憤怒の爆弾が弾ける。キョーコの体が動く。
「わたしね、夢があったんだ」
豪雨の中、おまけに背後50メートル。それでも耳元で囁かれたように明瞭に、キョーコの声が大狗には聞こえた。背筋の産毛をカミソリで剃られるような錯覚に、大狗は総毛立った。
「ッ!」
だから、反射的に全力で斬った。
大狗の振るう野太刀が地を擦り、爆風を吹き上げる。火炎と瓦礫による破壊の波は一瞬で橋全体を舐めまわし、キョーコの身体を完全に粉砕する。
「――色々あって。諦めかけてたんだけど。とにかく、きっとあの双子ちゃんにも夢があった。と、思うんだ」
粉砕、したはずだった。
爆風が駆け抜けた橋の上は業火が盛っていた。キョーコの姿は見えない。声だけが聞こえる。頭蓋骨の中で囁かれるような声が。
「あなた、一体」
勇儀の夢は何だったのだろう?
ふむ、とキョーコは考えて、それが忘却の彼方に消え去ってしまったことを心底惜しく思う。
「わたしの夢を命がけで支えてくれた人がいる。いや人っていうか鬼だけどさ」
ごうごうと渦巻く炎の中で黒煙が形を成していく。いや、それは煙ではない。雲だ。あまりに希薄で、あまりに胡乱であったが、それは間違いなくキョーコだった。
影鬼のような姿となって顕現した『キョーコ』は青い光をちらつかせながら滔々と語り続ける。
「わたしの夢を宝物のように大事にしてくれた。わたしよりも、わたしの夢に全力だった。だから、今はわたしもあの子達の夢に全力になろうと思う」
大狗が唸り声を上げた。もはや相手はただの人間ではない。
「わたしは怒ったぞ」
雲に覆われた頭。キョーコの額に灯った青い電光が天高くゆっくりと伸びていく。
「絶対にあきらめたくない。いや、してやらない」
『キョーコ』は天を仰いだ。
「来い、わんころ。わたしはもう、お前からも夢からも逃げたりはしない」
天と共にキョーコが吼えた。
雲間から姿を現した光がキョーコを喰らう。引き裂かれた身体を更に引き裂き、最小単位に分解する。粘土をこねるように完全にイチから鳴無響子を創りなおす。天を操る力を。音を超える俊足を。それらの力に恥じぬ雄々しき二本の角を。
「わたしは」
折られても、潰されても、焼かれても、どんなにぼろぼろにされても真っ直ぐに走り続ける。最期の瞬間まで闇に光を放つ。その姿は、嗚呼、その姿はまるで、
「わたしはカミナリ」
青白い光を放つカタナを抜き払い、最新最速の幻想は全身から激しく電光を迸らせた。
◆◆◆
キョーコは手に宿る光を一瞥した。
間違いない。これが『普通じゃない』方のカタナだ。かつて勇儀を斬ったカタナと共にあるというのはなんとも皮肉だが、今はその重みが心強い。
「やはりあなたが」
カタナと、キョーコの姿が見えていたのはたった一瞬だった。
キョーコの周囲を包む空間が丸ごと『陥没』したように見えた直後、大狗の鼻先にキョーコの握る魔剣が触れていた。
「くっ」
そのまま背側を走り抜けるように通過。
痛みは無い。大狗の纏う月光が刃を反らした。だが、次もない。月の光が霧散していく。あの刃を受けたら終わりだ。
「本当、最後の最後でーー大変なものを目覚めさせたかもしれませんわね」
『月光』の反射で空高く投げ出されたキョーコの姿を捉えて、大狗はカタナの鍔が鳴るのを感じた。間違いなくあれは強敵だ。しかし、この震えの正体が果たして喜びなのか恐れなのか、困ったことに分からない。
(あの光が消えた)
空中に幾何学的な光の筋を描きながら、キョーコは攻撃のタイミングを計る。
(今なら攻撃が通じる?)
「来なさい」
大狗がゆっくり太刀を収め、重心を低く沈める。一方空でも光の軌道が大きく変化する。さながら稲妻のごとく、一気にキョーコが距離を詰める!
「だからあなたは愚物なのです」
待ち構える大狗が抜いたのは野太刀ではなく、脇差の方だ。双子の命を絶つために振りかぶり、そして叶わなかった必殺の一撃を今放つ。さいわい橋の上は障害物だらけだ。音速の突撃だろうが、軌道が予想できればおそるに足らない。
「そ――何です――」
が、予想は裏切られた。音速での急旋回をキョーコはやってのけたのだ。軌道を誤った脇差はダーツのように鉄骨の支柱に突き立った。
「――って!?」
気付けば瓦礫の間を難なく縫ったキョーコが、大きくカタナを振りかぶった姿で大狗の背後に現れるている。大狗はとっさに身体をひねり、野太刀を納めた鞘を盾のように突き出した。
ぼぎょ。
結果は鈍い音。
「が」
衝撃が脳天まで突き抜けた。大狗はごろごろ転がって、不自然な方向に首を曲げたまま、ぜいぜいと喘ぐ。気道が潰れているらしかった。
何が起こった?
何が?
見えちゃいけないものが見える。
自分の背中と、中の野太刀ごと破壊された鞘。
彼女の首は防御の衝撃で真後ろに折り曲げられていた。とはいえ致命傷ではない。キョーコの能力が不可思議な加速であれば、大狗の能力は理不尽なタフネスにある。時間をかけて再生すれば――――いや、それでは間に合わない。
「月が綺麗ですわね」
気付けば、雨雲は嘘のように消え去り、晴れ間に夜の星が覗いていた。
ソックスのつま先が露出するほど傷ついたローファーで大狗の前までやってきた人物の表情は首が回らないのと、月の逆行とで確かめようが無い。
ただ、影が。黒々とした宵闇に落ちる暗い影が握るカタナが、天頂を指していた。
◆◆◆
刃を振りかぶり、落とす。
特に感慨は無かった。
顔に掛かった生温かいものの正体も、カタナを通して伝わってくる手ごたえも。何もかもがキョーコがよいこの限界を超えたことを告げていた。一夜の悪夢が醒めたということも。
「おいおい」
しかし。
「よいこが物騒なモノ振り回すなっての」
聞き慣れた声に堅く閉ざした目蓋を開いた瞬間、キョーコの頭から血の気が退いていった。
「どうして」
「ん。んー、心配だからさ。見にきた」
そこには大狗の死体が転がってなければいけなかったのだ。
「すいか、ちゃん……?」
「やっほ。おどろいた?」
右肩から胸の中ごろ辺りまで袈裟に切り込まれて、それでも萃香は血に染まった顔でにへにへと笑って見せる。
「嘘だ」
「いや、この通りここにいる」
「嘘だよ、こんなの」
「だから嘘じゃないっての」
ずるずると刃の上を滑って。萃香の身体がキョーコにもたれかかってくる。
女の子の匂いがした。お酒の臭みが少し漂ってきた。さらさらとした髪の感触があった。ずっと抱きしめていたくなるようなぬくもりがあった。そしてそれらは、急速に失われつつあった。
「限界を超えるって、どうだった?」
「こんなの……違うよ…………思ってたのと、ずっと、違う」
「そうかぁ。もちょっと感動あってもよかったんだけどなぁ」
キョーコが好ましく思う萃香のすべてがカタナを通してキョーコへ流れ込んでくる。土壇場でキョーコが取り出したカタナは魔剣なのだ。かつて勇儀が『ただのカタナじゃない』評したように。
「どうしたんだよコレ」
呆然とした言葉が背後から投げかけられた。
びしょびしょのドテラに、べったりと前髪をおでこに貼り付けた風間だった。四苦八苦の末に陸に上がった彼が目にしたものは、とてもじゃないが理解しがたい光景だった。
「なぁキョーコちゃん、それに……なぁ、何の冗談だよ」
「ごめん、なさい」
キョーコが崩れ落ちると、カタナは光の粒子となって霧散していった。
「誰が傷ついても構わない。覚悟してたんだろ?」
べったりと血に塗れた両手を見下ろす。
「ごめんなさい」
あの激憤にとりつかれていたのか。暴力に暴力で立ち向かうことを、いつから正しいと錯覚していたのか。これがよいこか。これがよいこの所業なのか。キョーコは自問する。自分の夢のために誰かを傷つける。大狗の振る舞いそのものではないか。
「なぁ、おい」
萃香の手が、力なくキョーコの頬を張った。
「あんたまさか、後悔してないよね」
「だって」
「だってじゃないよ小娘。私は嘘が嫌いなんだ。少なくとも嘘をつかれるのは嫌いだ」
助けを求めるように風間を見上げると、彼はあいまいな表情で頷いた。色々なことが起こりすぎて、まだ理解が追いついていない。そんな風だった。
「救急車、呼んだから」
「ごめんなさい」
「っ、クソ」
「風間。私ぁこんなんじゃ死なないから安心しろって」
「そうじゃねえよ。ただ」
ただ、腹が立って仕方ないだけだと彼は言った。
「そうじゃないのか。よし、お前は平常運転だな」
キョーコは大丈夫だと言いつつ安らかに目を閉じていく萃香に不安を隠せない。風間は腹を立てたはいいが、どこに立てていいのか分からない。
「どうしてわたしに斬られたの?」
こういうときは寝かせちゃいけないと聞いた気がする。慌ててキョーコが問うと、そうだなぁ、と言って萃香は傍らに横たわったままの大狗を見据えた。
「こいつとの勝負はついていた。んでキョーコちゃんに殺しは似合わないよなあって思ってたら、体が勝手に動いていたというか、なんというか」
それじゃとんだ本末転倒だ。キョーコが嗚咽を堪えながら次の言葉を選んでいると、ようやく首を繋ぎ終わった大狗が立ち上がった。
「せっかく私が助けてやったんだ。ここは退いとけよう」
萃香が素早く制した。
「わたくしは負けていません!!」
「負けだ。終わりだ。私も、あんたも。時代が変わるんだ。ここらでおとなしく幕を引いたらどうだい」
「わたくしはまだ戦えます。ですがそこの、それときたら」
血に染まった手を見つめていたキョーコが、うつろな目で大狗を見上げる。
「たった一人斬っただけでその体たらく。どいつもこいつも滑稽すぎて笑えませんわね」
その言葉に、冷え固まりかけていた怒りが再沸騰しはじめた。
「やってやるよ」
ふらりと立ち上がったキョーコ。その指先から電光が迸り、鉤爪を形作る。
「やめとき、キョーコちゃん」
「おっちゃんもこいつに賛成だ」
風間と萃香の言葉は、まるで水の中で聞くように遠く不鮮明だ。
「できませんわよ」
「できるよ」
「よいこの誓いとやらにがんじがらめにされてる貴方では、一生、無理」
だが獣の口から吐き出される一言一句がキョーコの頭をぶん殴るようだった。
「お前が、その言葉を、口にするな」
視界が真っ赤に染まり、怒りと殺意のカクテルが腹の中でシェイクされていく。
「かざ、ま。やめさせろ」
息も絶え絶えの萃香に言われるまま、風間は飛び出した。身体が勝手に反応しただけだ。何ができるのか分からない。そもそも彼の速さでは二人に追いつけない。
(頼むぜキョーコちゃん。よいこだろ!?)
ごう、と風が鳴った。
「あ?」
思わず天を振り仰いだ風間の上空を、大きな陰りが通り越していく。鳥ではない。飛行機でもない。スーパーマンでもない。スーパーなのはそれの大きさと速度で、それが橋の上に着地するまで、風間はあんぐりと口を開いて見ていることしかできなかった。
「ぐる、るう」
丸太のような豪腕が大狗の頭をわしづかみにしていた。
「離せ!!」
キョーコのカタナも腕ごと握りこまれ、ビクともしない。
「……またヘンなのが出てきやがったぞ」
腰を抜かしていることにも気付かず、風間が呟く。
全身を黒い鎧に覆われた何かだった。大狗と同等か、それ以上の威容を見せる鎧は金属製ではない。うっすら霜が降りていて、風間の顔に冷気が吹き付けてくる。そして、その兜にはやはりーー角が。
「そいつは、そいつだけはっ!!」
黒い鬼の頭。目に当たる部分に灯る青い光が激しく放電するキョーコを見据えた。
両者を拘束する黒鬼の両腕が霞んだのは、その直後だった。
「うおおおおっ!?」
衝撃波に平手打ちを喰らって風間はごろごろと地面を転げた。
橋脚が悲鳴を上げる。度重なる破壊に、ついにこの橋は限界を迎えようとしていた。耳障りな音と共に大きく地面が傾き、瓦礫に押し流されるようにして萃香の身体が水中に没する。
「萃香!」
欄干に駆け寄る風間を尻目に、黒い鬼はぐったりとクレーターに横たわる二体の鬼を持ち上げ、無造作に放った。
「はあ?」
このイカれきった闖入者の行動の数々に、風間はそんな声をひねりだすことしかできなかった。
まず大狗が水切りの石じみて水面を2、3度叩いてから水没する。続いて落ちたキョーコの身体が溜め込んだ莫大な電力が水面に放出されーー泡ひとつ吹き上げることなく、彼女たちの姿は濁流の中へと消えていった。
「てめえ、えーと、何しやがる」
黒い鬼は何も言わない。ただじっと、風間を見つめ返すだけだ。
欄干から身を乗り出した風間がいくら水面に目を凝らしても、キョーコたちの姿は見えない。風間が立ち尽くしていると、足音が聞こえてきた。異様に速い。こちらへまっすぐ向かってくる。
「風間、背中貸せ!!」
どっ。と、彼の背中を蹴って飛び上がったものがいた。隻眼の美女が、金髪を朝風に躍らせて。到底泳げる身体じゃないくせに無茶しやがってーーと思う間に彼女の姿は眼下の濁流へと飲み込まれていった。
「ゆっぴー、お前……あぁクソ、どいつも無茶ばっかしやがる!!」
背中に足跡のついたドテラを脱ぎ捨てて風間も川へと身を投じた。
二つ目の水柱があがった後も黒鬼はしばらく眼下の流れを見つめていたが、やがてのしのしと足音を響かせて、どこかへ歩み去っていった。
「っぱぁ!!」
暫くして水面が爆ぜた。
「クソ。持ちこたえろよ、萃香」
泥水を吐き出して、萃香を抱えた風間は岸辺を目指した。ふと水面に視線を走らせる。しかし、彼だけだ。足もつかないような深い川で、助かったのは彼と萃香だけ。
「キョーコちゃん? ゆっぴー?」
いつになっても二人が浮かんでくることはなかった。