わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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12『憤怒(下)』

「ここ、サインして」

 

 クレーンに吊られて、ひどく巨大でいびつなものが水中から顔を出した。

 もしや海坊主ならぬ川坊主かと思いきやそれはひしゃげた鉄の塊に川底の藻やゴミが絡み合ったモノである。かすかに残った白い塗装と黄色いナンバープレートが、かつてそれが軽トラックであったこと。そして、スバルの愛車であったことを物語っていた。

 

「うわマジかよ」

 

 若い作業員の一人が車の惨殺体を目にして呟いた。

 彼が現場責任者らしき男にヘルメットをぼこ、と殴られているのを眺めていると、朝一でスバルに電話してきた年かさの警官が口をヘの字に曲げたまま言った。

 

「これはダメだよ、ええと」

「あづま。吾妻スバルです」

「ふーん。珍しい苗字なんだね」

「父がーー遠方の出身だったらしいので」

 

 らしい、と言ったのはスバルが物心付く前に父親が失踪したからだ。間もなくして病弱だったらしい母の魂も父を追って彷徨い出るように旅立ったので、二人の様相は親戚からの僅かな伝え聞きで知るところでしかない。

 

「吾妻さん。車、流されたからって放置はダメでしょ、放置は」

「……えぇ。スミマセン」

「まぁ高校生で免許取るのはエラいけど、ちゃんとするところは、ちゃんとしてね。詳しいことは後で又聞くから、それまで適当にしてて」

 

 書類をバインダーごと突き返してやって、スバルはA川にかかる橋を見上げる。まるで怪獣が踏み荒らしたような有様の橋では未だ何かが煙を噴いていて、消防隊の放水が虹をかけている。

 水かさが増したままの川底には昨日の「異変」で落ちた車が山と沈んでいるはずで、スバルが授業中に呼び出されたのは単に運が悪かったとしか思えない。なんだか愛車同様に吊るし上げられたようで癪だった。

 

「その制服、T女の学生さんスよね」

 

 積み重なった苛立ちが顔に出ていたのだろう。スバルに睨まれて、先ほどの若い作業員は慌てたように否定した。

 

「あ、いや。ナンパとかじゃねっス」

「じゃあなんですか」

 

 どんなにがんばっても、やはり言葉が刺々しくなる。

 

「あ、あー。昨日、ウチのツレも町行ってて。そんでこの洪水でしょう。まぁあいつ、ケロっとした顔で帰ってきたんですが。お互い、無事でよかったねって。そういう感じで」

 

 じゃ、と。地雷原から撤退するように足早に去っていく彼を見るうち、どうしても説明できない違和感が疑問となってスバルの口をついて出た。

 

「洪水なんてありましたっけ」

「俺ちょっと県外いってたんで詳しいことはわかんないスけど。でも、誰も死ななくってよかったすね。あ」

 

 車はご愁傷様でした、と彼は運ばれていく残骸に手を合わせて見せる。彼なりの配慮なのだろう。だがスバルの神経は先程からささくれ立つ一方だ。

 

「もういっぺんブン殴られた方がいいんじゃないですか」

「え?」

「あ、いえ。お気遣い、ありがとうございます」

 

 適当にあしらって、スバルはケータイを取り出した。

 何も変わりはない。キョーコへの発信回数が189回。返事は無い。この軽トラック惨殺事件の真犯人と思しき風間も、昨日の夜に「すまん」と題されたメールが来たきりだ。

 

「キョーコ」

 

 狂おしいくらいに心配だった。

 曰く「洪水」の最中にスバルはいた。装甲した百足電車が町を蹂躙し、人ならざるものの群れが人を狩って回る姿を見ている。現実が、何かの力に捻じ曲げられている。

 だがそんなこと今はどうでもいい。問題はキョーコだ。

 

「無事でいておくれよ」

 

 190回目の電話をかける。彼女のカバンからは退部届の用紙が顔を出していた。

 

 ◆◆◆

 

 紅坂サキが陸上部の部室を最後に訪れたのは、キョーコが二年生の冬休みに偶々(たまたま)補習を受けた帰りだった。

 

「難しいなー」

 

 数式の説明を求められてサキは眉を曇らせた。

 

「サキちゃんに分からない問題なんてあるんだね」

 

 たった一人でT女学院を陸上の名門校にした怪人、紅坂サキは高次方程式がびっしり書かれた参考書を放り出して、首をひねった。

 

「んー、説明がねぇ。ここをもにゃっとすれば解けるんだけど。分からない?」

「わかんない」

「なんだろなー。やっぱりキョーコちゃんのオツムに問題があるのかなー」

「む」

 

 膨れる後輩を無視してぎしりとパイプイスを軋ませて伸びをすると、サキは窓の外に目を馳せた。

 重たい雪の降りしきる日曜日のことだった。他の部活は早々に体育館へと引っ込み、場所取りに敗北した陸上部は休みだった。グラウンドは穢れ無き白の平野。部室にはサキとキョーコの二人きり。音といえば石油ストーブの響きだけ。

 

「ま。テスト失敗しても人生は続くよ。幸か不幸か、ね」

 

 サキはパックの紅茶を一気に飲み干した。「はぁ」と気の抜けた返事をして、キョーコは参考書のページをめくる。

 どちらかが「そろそろ」と言えば崩れてしまうような、穏やかで何もない時間。キョーコは満ち足りていた。せんぱいもそう思ってくれていればいいんだけれど、と端正な横顔を盗み見る。

 

「ところで部長のイスには慣れた?」

「ひゃ」

「うん?」

 

 まるでタイミングを計ったようにサキが口を開いたもので、思わずキョーコはソファから飛び上がっていた。

 

「お。もしかして先輩の美貌に見とれちゃったりしちゃったり?」

 

 こうしてちょっとでも隙を見せると盛り上がってくるからタチが悪い。ねえねえねえ、としつこくキョーコの視界に割り込んでくるサキを避けているうちに、いつも彼女のペースに飲み込まれてしまうのである。

 

「ぶぶぶ、ぶーす」

「あ。言ったなー」

 

 えい、とキョーコをソファに突き飛ばし、サキは馬乗りになる。えいえいとじゃれ合ううちに、どちらが年上で、どちらが年下か分からなくなってきてしまった。

 

「あーわかった。もうブスでいいよ。私の負けだよー」

 

 お互いのプライドをかけたくすぐり合戦の末に、ひいひいと息を荒らげながらサキがキョーコから身体を離した。

 

「それで?」

 

 と思ったのも束の間、サキはソファにかけ直すとキョーコの肩に頭を預けた。

 

「三年が抜けても纏まってるかい、部長さん」

「それなりに楽しんでるよ、元部長さん」

 

 とってもいい後輩が入ったんです、とキョーコは微笑んだ。

 

「チヅルちゃんっていって高校上がって陸上始めたコなんだけど。いやーもう、これが真面目で可愛くて可愛くてさあ。あー、見せたいなぁ。自慢したいなぁ」

「分かるわぁ。スれてない後輩って可愛いわよねぇ」

「む。意味ありげなこと言うじゃんか」

 

 先輩後輩として、サキとキョーコはT女学院に進学する前からの付き合いだ。

 中学校二年のときに放課後ぶらぶらしていたキョーコを当時一年のサキがT女まで引っ張ってきて、その日にスパイクを履かせた。次の日から高校生に混じって本格的にトレーニングに参加するようになって、一月くらいしてから彼女は言った。

 

『あなたの学校、陸上部は?』

『……あります』

『なら入ったら? あなた、いい選手になれる』

 

 そんな馬鹿な、と正直思った。

 しかし人生とは奇妙なもので、突拍子もないことに限ってとんとん拍子に進んでいく。

 気付いたときには両手で数え切れないほどのトロフィーを学校に持って帰るようになり、それらを職員室前のケースに並べているときにスポーツ推薦の話が来た。進学先はT女学院。悩むまでも無く、その場で首を縦に振った。

 

「ほらぁ、スれた後輩は私の話も聞いちゃくれないのよねぇ」

 

 記憶に深入りしていたキョーコは、サキの声で我に返った。

 

「あ、なんか言ってた?」

「べっつにー」

 

 ふい、と頬を膨らませたサキが再び窓の外へ視線を移す。丁寧にブリーチされた髪と、真っ白な肌。降りしきる雪を背景に見ていると、彼女がこのまま冬景色の中に溶けて消えてしまうのではないかと、有り得ないことながらキョーコは不安になった。

 

「サキちゃん」

 

 だからだろう。

 

「ん? ーーん」

 

 すこし乱暴に、唇を押し付けた。

 ここに、キョーコの腕の中に、確かに彼女がいるという確証が欲しかった。サキが頬を撫ぜてくれる手はやはり雪のように冷たく儚く、かえってキョーコの不安を駆り立てる。

 

「これでもスれた後輩?」

 

 親友とも、恋人ともつかない関係はキョーコがT女に入学してからずっと続いていた。

 

「おこさまのキスだからってね、スれてないって証拠にはならないから」

 

 サキの方から関係を確認するようなことはしなかったから、キョーコも自然とこの立ち位置にいることを選んだ。というよりは、妥協だ。ひょっとすると、彼女は怖かったのかもしれない。

 

「あー、窒息するかと思ったじゃん……」

「鼻で呼吸すればいいんじゃないかな」

「鼻息かかるの、なんかイヤでしょ」

「必死な感じがしてわたしは好きだよ?」

「やっぱりスレてない?」

 

 あの純粋無垢なキョーコちゃんとはもう会えないのか、とサキはうなだれた。「よし」それから彼女は矢庭に立ち上がると、部室の端に据え付けられたロッカーを開いた。

 

「むお」

 

 誰が呼んだか、このロッカーの名前は墓場。T女学院陸上部の暗部が解放され、室内には熟成された汗の匂いがドロリと立ち込める。壮絶なしかめっつらで振り返ったサキが、咳き込みながら訴えかけた。

 

「ぶちょー、これいい加減始末しなきゃだよ」

「こんなどうしようもないモノ押し付けて卒業していった先代が悪いんだよ」

「皆好き放題に突っ込んでったからなあ。どれどれ?」

 

 白金の麗人は履いていたブーツを雑に脱ぎ捨ててスパイクを物色しはじめる。つまんではポイを数度繰り返してしっくり来たらしいものを見つけると、「えいやっ」と気合を入れて彼女は足を突っ込んだ。

 

「え、ちょっと?」

 

 そんなヤバいものに足を突っ込めば、超人サキと言えども無事では済まないはずだが。

 しかし彼女は何をやらせても早いもので、やめろの「や」の字をキョーコが発音する頃には、立ち上がってスパイクの履き心地を確かめていた。

 

「久しぶりに走ろうと思ってね」

 

 呆れる後輩の反応を楽しむように、彼女は笑った。

 

 ◆◆◆

 

「む、無理だってばこんな日に!」

「いーや。絶好のチャンスだよ。誰もいないし」

「いられないんだよ!」

 

 もはや吹雪になりつつあるグラウンドで、サキは無邪気に雪玉を丸めてはキョーコにぶつけてきた。

 

「いたっ、ちょっ、やめ」

 

 反撃してやりたいところだが、キョーコは抱えてきた諸々の道具のおかげで手が出せない。寒さと雪玉と吹雪に耐え続けるしかないのだ。

 

「やめて! 死んじゃうから!」

「死なない死なない。むしろ元気になるぞう!」

 

 そんなテキトーすぎることを言いながらスイカほどもある雪玉をこしらえ終わり、それを振りかぶったところでサキは「よし」と呟いた。それまで鬼気迫る表情で丸めていた殺人大玉を放り出すと、あくまでマイペースにスタートラインへと歩いていく。

 

「んじゃあ体も温まったし、そろそろ始めますかね」

「今の、ウォーミングアップだったんだ……」

 

 キョーコもサキもメインは短距離走だ。雪を掻き分けてなんとかゴールラインを確認して、キョーコはやる気満々でスタートに立つサキを見る。私服に大雪。素人目にも結果は見えている。

 

「いつでもどうぞー!」

 

 だがサキはやれると考えているのだろう。ストップウォッチを構えるキョーコも、正直胸の高鳴りが隠せない。彼女ならとんでもないことをしでかしてくれるような予感がしていた。

 

「いきますよー!」

 

 スターターピストルが雪空に高らかに鳴り響く。

 顔面を地面にこすり付けんばかりに前傾し、サキはスタートダッシュを切った。文字通りの爆発的な加速はさながら稲妻のごとしだ。冬の稲妻は瞬きの間に50メートルを駆け抜ける。

 

「ふう。どうだった?」

 

 そのまま10メートルほど流してからサキが戻ってくる。正直、キョーコはタイムを確認するのが怖かった。とんでもないものを見てしまったような気がした。

 

「4秒……ジャスト……」

 

 自分でも驚くほど、声がかすれていた。

 もちろん機械測定したのではないから、精密なタイムとはいえない。だから何だという話だ。仮にキョーコの手がかじかんで1秒あまり誤差を生んだとしても世界新記録だ。

 

「サ、サキちゃん。世界記録が、人類が。たいへんだよ」

「うん。そっかそっか」

 

 しかし当の本人が感動していない。むしろ納得した、と言ったほうがしっくりくる印象だった。

 

「これがたぶん、私の限界なんだろな」

 

 キョーコちゃんのベストタイムは確か6秒弱だったよね、とサキは続けた。

 

「うん。5秒29……」

 

 これでも大したものだと思っていたが、サキの走りを目にした後だとどうにもキョーコの記録は霞んで見えた。「ちょっと歩こう」サキに促されて、キョーコは彼女の後に続いた。

 

「ねぇ、キョーコちゃん」

 

 振り返って、既に雪の中に消えつつあるラインをサキは指し示した。

 

「ここの線からあの線。これが、私たちの世界なんだ」

「世界?」

「50メートル。私にとっては4秒。キョーコちゃんにとっては6秒あるかないか」

 

 グラウンド端のテニスコートを横切って、二人は敷地を区切るフェンスまで辿り着いた。K市の灰色の雪景色を、無数の菱形が切り取っている。望遠鏡を覗くように、網目のひとつにサキは顔を近づけた。

 

「この速度を変えることはできない。それがこの世界のルールだから」

 

 世界に与えられたのびしろを使い果たしたのだ、とサキは寂しげに呟いた。これ以上どうあがこうが、結果は変えられないのだと。

 

「なんかその考え、つまらないよ」

 

 正直、スポーツをしているとそういう考えに行き着く瞬間がある。だが、サキの口からそうした諦めに似た言葉が出てくるのは許せなかった。キョーコの答えに、あははと大きな声でサキは笑った。

 

「そうだね、これは史上最悪のアイディアだよ」

 

 がしゃんとフェンスが鳴った。関節が白くなるくらい金網を指に食い込ませて、サキは目を瞑る。何か、形容しがたい痛みに耐えているように見えた。

 

「限界を超える方法があったとして」

 

 彼女がキョーコの前でそんな顔をするのは始めてだった。

 

「もし、それができるのだとすれば、それを可能と出来るのなら。それは」

 

 野望に燃える瞳で、彼女は町を見下ろす。それはそれはつまらない見世物を目にしたように。白い息をふうと吐いて、サキは薄く笑った。

 

「それは、とんでもない業だ」

 

 業。

 

「業とは宿命だ。よい行いも、悪い行いも、いずれ全て返ってくる。私は人の限界を越えたい。だけど最後にはひどい結末が待ってる」

 

 それを背負い込むのがとても恐ろしいのだ、と言ってサキは白い息を吐いた。びゅう、と勢いよく風が吹き付けた。

 

「それでも、私はかみ――なり――」

 

 突如として轟いた雷鳴が、彼女の言葉をかき消した。

 

「うわ。びっくりしたね」

 

 海側では冬にも雷が落ちるというが、内陸のK市では珍しいことだった。流石に目を丸くするサキの隣で、キョーコはぶつぶつと呟き続けていた。やがて、

 

「……わたしはカミナリ?」

 

 と、なんとか聞こえた声をキョーコが口にしてみる。

 

「なに?」

 

 虚を突かれたような顔で、サキが聞き返した。

 

「わたしはカミナリ。今、言ってた」

「そうだったっけかな」

 

 わたしはカミナリ。

 

「私は雷」

「そう。わたしはカミナリ」

 

 二人で何度口にしても、不思議なフレーズだった。

 それでもキョーコには何となく理解できた。サキの世界。50メートルの世界地図を稲妻のように駆け抜ける姿を見た後であったからこそ。あぁ、サキせんぱいはカミナリに成りたかったのではないか、と。

 

「業、とかは難しくてよく分かんないけどさ」

 

 少なくとも、キョーコにとってこの問題の答えはシンプルだ。高次方程式なんかよりもずっと。

 

「サキちゃんの重荷は、わたしの重荷。一緒に背負えば少しは軽くなるんじゃないかな」

「私が何モノになろうと、私の味方でいてくれるかい?」

 

 迷うまでも無い。

 サキをぎゅっと抱きしめて、キョーコは応える。わたしは多分本気でこの人が好きなんだな、と思った。ずっと一緒にいたいと思った。

 

「はい。一生ついていきますよ、センパイ」

 

 サキはキョーコの言葉を確かめるように、もう一度くちづけをした。

 

「おや」

「サキちゃん?」

「誰かに見られた」

 

 サキの視線を追って、雪景色の中に目を凝らす。部室棟の陰に細身のシルエットが見えたような気がしたが、すぐにそれは勢いを増した吹雪によってかき消されてしまった。

 

「かも、ね」

 

 それから幾許もなく、紅坂サキは失踪した。

 

 ◆◆◆

 

「……目ぇ、覚めたかい」

 

 やわらかい毛布に包まれてキョーコは目を開けた。嗅ぎ慣れない洗剤の香り。全身を包む倦怠感。まだうすぼんやりとした意識の中で今しがたの夢を思い出していると、隻眼の美女はキョーコの頬をぺち、と叩いた。

 

「聞こえてんのかねぇ、この子は」

「う、ん。きこえてる」

「そうか」

 

 それっきり。乾いた空気の中で勇儀は座りなおしただけだった。

 キョーコが起きて体を確かめてみると、見慣れない寝巻きに着替えさせられていた。すぐ傍にきちんと乾いた状態で折り畳まれた自分の制服があったので、着替えながら勇儀に問い続ける。

 

「あの、萃香ちゃんは?」

「知らないね」

「どうしてゆーぎがここに?」

「さぁ?」

 

 キョーコが言えた事ではないが勇儀の表情にも疲労が色濃く残っていた。

 あたりを見回す。冷蔵庫があり、掃除機があり、テレビがありーーーー生活に必要なものが一通り揃っている。だというのに作り物のように現実感がない。

 

「ここは」

「お姉さん!」「お姉さま!」

 

 一番無事を確認したかった声の出所を確かめようとした瞬間、背骨が軋んだ。買い物を満載した袋を放り出して駆け寄ってきた双子に抱きつかれ、というかタックルをぶちかまされたキョーコは「ぐええ」とうめき、二人の下敷きになったまま二メートルほど床を滑った。

 

「よ、よかった。本当によかったよう」

「あそこに置き去りにして。なんと言ってお詫びをしたら」

「うん。大丈夫。それより、ちょっと、いやかなり、痛い……」

 

 慌てて二人はキョーコの上から飛びのくと、床の上に正座をして居住まいを正した。そこまで畏まられた上で更に二人が深々と頭を下げてくると、また別の意味で居心地が悪くなってくる。

 

「ほら、マヤちゃん」

「いやオルガちゃんが」

 

 そんな風に押し付け合いがしばらく続いた後、双子は改めて頭を下げた。

 

「このご恩は決して忘れません」

 

 後ろで勇儀が鼻を鳴らした。

 

「それじゃあ金輪際キョーコに関わるのはやめてもらおうか」

「ちょっと、ゆーぎ!」

「あんたは死んでもおかしくなかったんだよ」

 

 黙り込んだ三人を一瞥して、勇儀はよっこいせと腰を上げた。彼女は照明に照らされた「部屋」から飛び降りると、ひな壇のように並んだ座席の間を縫って出口へ向かう。

 

「ここはーーそっか」

 

 改めてぐるりと回りを見渡すと、どうやらこの場所が劇場であり、まるで舞台セットのように設えられた生活空間に自分が寝ていたことにキョーコは気付く。

 

「ここが二人の家なの?」

「所詮仮住まいですから」

「壁がないのは落ち着かないけどね」

 

 なんとなくキョーコは黙った。

 勇儀を連れ戻して謝らせた方がいいんじゃないかとか、今の自分にそんなことを強いる資格があるのか、とか。そんなことを考えているうちに、双子の方から止めてきた。

 

「どうか、勇儀さんを怒らないであげてください」

「ボクたちはただ、お姉さんたちをここに連れてきただけだから」

 

 彼女もキョーコも溺死寸前で川岸に打ち上げられていたという。

 またまた命を張った貸しを作りながら、それを口に出さない勇儀のことがありがたくも、少しだけ憎らしくキョーコは感じる。また、助けられてしまった。

 

「ゆーぎ、待って」

 

 舞台を飛び降り、キョーコは一度だけ双子を振り返る。

 彼女達は無言のまま、笑顔で手を振っていた。

 

 ◆◆◆

 

「帰らないのかい」

 

 T女学院近くの廃劇場を出てから暫く歩いたころ、前を行く勇儀が口を開いた。

 

「正直、怖い」

 

 数十分かそこら、ずっと同じ場所をぐるぐる回り続けていただけだった。

 勇儀は前を歩いていたのではなく、キョーコの決心がつくまで彼女を追っていたのだ。

 

「ゆーぎに、ひどいこと言っちゃった」

「そうかい」

「ミヨシさんにも心配かけたろうし」

「そうかい」

「風間さんの前で萃香ちゃん(ともだち)を斬った」

「そうかい」

 

 キョーコが何を言っても、勇儀は何を考えているのか分からない顔で「そうかい」を繰り返すだけだ。鏡に話しかけているような気分になってくる。

 

「……わたしは、どうすれば!」

 

 思わず声を荒らげて、キョーコは俯いた。

 

「あ……あの……ごめん」

 

 繰り返しばかりなのはキョーコも同じだ。

 よいこは怒っちゃいけない。よいこは泣いちゃいけない。よいこは困っている人を見捨てちゃいけない。昨日の自分はよいこ三原則を守れていただろうかと考える。そんなはずがない。

 

「ごめんなさい」

 

 勇儀をこんな体にしたのは、元を正せば自分。よいこであることを忘れ、憤怒に駆られるまま萃香を叩き斬ったのも自分。やはり業は回る。回って回って、よいこでいるはずが、現実はひどくなる一方だ。

 

「みんなを本当の家族みたいに思ってた。でもそれはわたしがよいこだったからで」

 

 今のわたしが戻ったときのみんなの反応を想像をすると怖いのだとキョーコは言った。

 かすかに酒気をはらんだ勇儀のため息が前髪を揺らすのを感じて視線を僅かに上げると、大きな影法師が両腕を開くのが見えた。

 

「おいで」

「へ」

「ほら来なーー来なってば。いいから来い。おら、勇儀お姉さんが胸を貸してやる」

 

 まごついたキョーコを強引に掴んで引き寄せ、勇儀は彼女の胸元にキョーコの頭を押し付けた。「いいかい。あたしゃ一度しか謝らないからな」と前置きして。

 

「あんたを嘘つき呼ばわりして悪かったよ」

 

 我が耳を疑うキョーコを前にばつが悪そうにして、勇儀は更に強く胸の谷間へとキョーコの頭を押し込む。

 

「もがー!」

「人様の顔をじろじろ見るんじゃないよ。いいかい、あたしはあんたを信じる。こら、じたばたするな」

 

 そうは言っても呼吸ができないのはまずい。

 キョーコの抵抗をどう勘違いしたかは分からないが、まるで、むずかる子供をあやす母のように頭を撫で始める。が、こんなんでは到底安らげない。

 

「鬼だってことも、この体のことも、全部。「前」のあたしがキョーコを信じてこうなったんなら、きっとそれは、余程の理由があったってことなんだろ。だから「今」のあたしも、あんたに全部を賭けることに決めたよ」

 

 そこでキョーコはようやく暴れるのをやめて、勇儀の言葉に耳を傾けることにした。苦しいのは相変わらずだが、これから言われることは、きっと大事なことなのだ。

 

「一度決めたんだ。どこまでも付き合ってやる。あんたが社会を敵に回そうが世界を敵に回そうが知ったこっちゃ無い。とことんやるまでさ」

 

 だからあの日勇儀は迷い無く飛んだのだろう。命の保障などない濁流へと。

 

「ぷは」

「地獄のお供が鬼なら、あんたも文句はないだろ」

 

 ようやく締め付けから開放されたキョーコは勇儀に言ってやりたいことが山とあったのに、最後の台詞を耳にした瞬間、すべて吹き飛んでしまった。

 

「その言葉」

「あん?」

「ずっと前にもゆーぎが言ってた」

 

 勇儀が何か言う前に「あ」とキョーコが声を上げる。視線の先にはこちらに向かって走ってくるタクシーが。そして、窓から転げ出さんばかりに身を乗り出した少女の姿があった。

 

「す、萃香ちゃん」

「探したよー!」

 

 ぶんぶんと勢いよく萃香が振る腕には包帯が巻かれているが、キョーコが切り落とさんばかりに斬り込んだときに比べれば、ずっと良くなっているように見えた。

 

「よかったぁ……」

「おっと」

 

 安堵のあまりへたり込みそうになるキョーコを勇儀が支える。

 

「私は無敵だからな。そんな簡単にくたばったりしないのさ」

「川から上がったときは死ぬ死ぬ言ってたくせに」

「うるせえ馬鹿たれ。さっさと降ろせ」

「あの、ここで降りたいんだけど」

「2万5000円です」

「げっ、マジかよ……」

 

 恐ろしい金額を告げられて、風間の顔が引きつった。

 

「なぁミヨっちゃん、割りカン」

 

 ミヨシはいない。ドアは既に開いていた。

 

「ちくしょう、また俺かよ」

 

 泣き出しそうな顔で運賃を支払う風間を捨て置いて、萃香が全力疾走でやってくる。その後を小走りに追ってくるのはミヨシだ。

 

「おら、今更尻込みするんじゃあないよ」

 

 思わず勇儀の後ろに隠れようとするキョーコを押しやって、勇儀は肩をすくめた。

 

「でも」

「家族なんだろ。何をまごついてんだい」

 

 頷いて、キョーコはおずおず歩み始める。

 あれだけの力を得ても治らなかった足の傷でふらつきながら。徐々にスピードを上げて走り去っていく彼女の背中を、勇儀は我知らず微笑んで見送る。

 

「ゆーぎ」

 

 ふと足を止め、キョーコは振り向いた。

 

「かえろ。家に」

「そうだねぇ」

 

 差し出された手を取って、勇儀ものそのそと歩き始めた。こうして波乱の一夜はようやく幕を閉じた。彼女達の向かう先にはきっとずっと、輝かしい日常が待っている。

 

 ◆◆◆

 

「ーーそうは問屋が降ろしません。ってのが世の常でね」

 

 旧校舎の一室で正邪はひとりごちる。

 放置されていた双眼鏡から目を離し、ずらりと室内に控えた盟友(しもべ)たちを見渡した。ぱん、と拍手を打つなり、T女学院の生徒が一人進み出る。

 

「アマノジャク様」

「うむ。くるしゅうない」

 

 彼女の差し出したスナック菓子を豪快に食い散らかしながら正邪は馬鹿笑いした。すべてが上手く行っている。怖いくらいだ。

 

「星熊勇儀に伊吹萃香が揃い踏みした時はヒヤヒヤしたが、見事に自爆してくれちゃったのは僥倖僥倖」

 

 もう片手で正邪が撫でくり回す頭骨は陽炎のように紫色のもやを漂わせている。にゅっと生えた角も相まって、禍々しいことこの上ない。

 

「やはり天は私に味方した。ってこったな」

 

 「さぁ皆の者!」眼下に広がる学院を、そしてK市を、正邪は睥睨して叫ぶ。

 

「強者が力を失い、弱者が統べる世界を創る時がついに来たのだ!」

 

 正邪が高く頭骨を掲げると、旧校舎に集結した「弱者たち」が一斉に鬨の声を上げる。人と鳥獣とが渾然一体となったおぞましい熱狂の中で、正邪はとろとろと坂道を登っていくタクシーを見る。そこに乗っている、彼女の新しい盟友を。

 

「私もお前の家族に混ざっていいよな、キョーコ?」

 

 正邪はほくそ笑んだ。

 

 

 

 第一章『わたしはカミナリ』 おわり

 

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