二階堂アンリは転校から数日で早くも優等生の名をほしいままにしていた。
帰国子女の転校生は学業も運動も優秀そのもの。
しかし元から他者を遠ざける傾向にある彼女は、尚更に周囲との溝を深めていった。
『孤独ではありません』
アンリはすぐに反論することだろう。
『これは孤高といいますの!』
群れの中の一匹であることに執着したりはしない。
たいていのことを一人で出来る彼女が頭数を揃えたところで、かえって小回りが利かなくなるだけだ。
そう、たいていのことはできる。大抵、おおむね、一部を除いて。
「嘘でしょ」
今、彼女の目の前には電柱がある。
バツマークのひっかき傷は、先ほど彼女が角を曲がるときに目印として残したものだった。
「……うう。帰りたいですわ」
がっくりとうなだれたアンリの額から、汗の粒が滴り落ちた。こんな調子でかれこれ数時間、炎天下の下を彷徨っていた。
「だいいち、どうしてわたくしは同じ場所をぐるぐる回り続けているのですか。おかしいと思いませんこと!?」
アンリに怒鳴りつけられる電柱は、さぞ迷惑しているに違いない。
鼻息を荒くしたまま電柱にもたれ、アンリはウナギの住処のように細くのたうった通りに目をやった。
日暮れの光の下に立ち並ぶトタンの家々、灰色の石塀、等間隔で立ち並ぶ標識と電柱――まるで方向感覚を狂わせるために存在するような路地だ。
「これだから田舎町は嫌いでしてよ」
さらりと町に責任を押し付けているが、原因は他にある。
アンリは度を越した方向音痴であった。
「……これじゃあ、また寮のおじさまに目をつけられてしまいますわね」
汗ばんだ肌の上に乗った腕時計へと目をやり、乾いた息を漏らす。
T女学院の学生寮は厳しいことで知られている。とりわけ、門限七時は鉄の掟であった。
「廊下の雑巾がけ、窓拭きに風呂掃除……こんなことなら届け出を出して置けばよかったかしら」
もちろんペナルティも充実している。
しかし、ただの散歩がここまで大冒険になるなど、本人含めて誰にも予想はできなかった。
「せめて今日中には戻って、なんとか言い訳しなくちゃ、ですわね」
脱水気味の体から気力を振り絞って電柱を離れたアンリは、そのまま危なっかしく左右に千鳥足を踏んだ。半日近く水分を口にしていないのだ。仕方ない。
自室の冷蔵庫で冷やしてある麦茶に思いを馳せながら顔を上げる。
「あら」
数間先の十字路の角から子供が二人連れだって飛び出してきた。
「あの子たち、確か」
二人組は向かいの路地へと入っていく。
ぼんやりと見送っていたアンリは我に返って、その後を追う。
「お――お待ちになって!」
もつれる足で必死に走って角を覗き込んだ時、すでに、二人は後ろ姿も残さず夕闇に消えていた。
「そんなあ……あんまりですわ……」
自分の頭を殴りつけたい衝動に駆られた。
あの二人の後を追うなり話をきくなりしていれば、ようやく迷宮を脱出できる目もあったというのに。
「にしても」
気を取り直すと、不意に疑問が湧いた。
あの二人組は、おそらくアンリが知っている相手だ。二人の名前は忘れたが、鳴無響子とかいうぼんやりした、頼りにならない先輩と一緒にいる姿をよく見かける。
「子供がこんな時間に、どこへ?」
家に帰る――のではない気がする。
なにやら大荷物の詰まったリュックを背負っていたようだし、アンリの鋭い嗅覚が二人の汗の匂いを拾うこともなかった。どこかで寝起きして、これからどこかへ向かう最中だったのではないだろうか。
しかし、双子よりも自身の体調が、今のアンリにとって最も心配するべき問題であった。
頭を振って考え事を振り落としたアンリは、まさかピンチを乗り越えるものがあるとも知らず、反対側の路地を覗き込んだ。
「あ、ああ。神様っ!」
コンビニだった。
双子がやってきた方向。すっかり夜の帳が落ちた住宅街に、店先のガラスから漏れる明かりが煌々と差している。
ほとんど無意識にショートパンツのポケットを確かめて、アンリは安堵の息をつく。よかった。財布はある。
それまでの疲弊っぷりが嘘のような軽やかな足取りで彼女はコンビニを目指した。
◆◆◆
「いらっしゃいませー」
ぼんやりした雰囲気の店員の前を風のように抜け、アンリは冷蔵庫のガラス戸に張り付いた。
「おおおぉぉ……」
恥も外聞もかなぐり捨て、血肉にありついたゾンビのようなうめきを上げる。
結露したガラスに残った自分の人型をしばらく見詰めた後、彼女は数本の炭酸飲料を抱えてレジに向かう。
「これ、いただけます?」
例の女性店員が手間取りながら会計していくのを、アンリはもどかしい気持ちで見守った。
「以上で――円になります」
「じゃあ。あぁ、細かい手持ちがありませんの。これで」
財布から札を抜き出して、アンリは店員の異常に気付いた。
彼女は慎重に慎重に缶を手に取っては袋に収める。釣銭にせよそうだ。信じられないことに、一枚一枚手渡しだ。
「あの、もし」
待っていたのでは干からびてしまう。
「あ、ああ、申し訳ないです。いますぐ――ひゃあっ!」
店員の手の中で、炭酸の缶が勢いよく弾けた。
とっさに身を引いたアンリの鼻先を茶色いコーラの奔流がかすめて、床にまだら模様を描く。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、服とか髪とか、汚れませんでしたか?」
「……というか」
ようやく手元から視線を上げて、アンリは店員の顔を睨んだ。
「こんな所で何をしているのですか…………キョーコ様」
「あ、あはは」真っ二つにちぎれた缶を手にしたまま、店員の制服に身を包んだキョーコは困ったように笑った「バレちゃった?」
◆◆◆
「どうして欲しいですか」
モップとバケツの隣に三本目の空き缶を積み重ねて、アンリはキョーコを睨みつけた。
「学校に黙っていてほしい。です」
「……まあ、そうなりますわね」
T女学院は規則に厳しい学校だ。学生寮の門限をはじめ、バイト禁止も、鉄則の一つだった。
「お願い。なんでもするからさ!」
なんでも。
心惹かれるワードだったが、アンリも門限を破っている以上強く出られない。
「わたしも、このことは黙っておくからさ。ね?」
「では、わたくし達は共犯者ということで」
共犯者という言葉に、キョーコの眉がピクリと動いた。
圧倒的「よいこ」を自称するキョーコにとって、耳に痛い言葉なのだろう。
「これには深いワケがあってね……」
泣きそうな顔で腕にすがるキョーコを、アンリは邪魔そうに振り払った。
「どういうワケですか。仰ってくださいな」
「しょ、奨学金が打ち切りになってね、学費が払えなくてね、それで、えと」
「つまりお金が無いからルールを破ってバイトをしていると。やっぱり浅いですわね」
その通りだった。
カウンターに突っ伏したキョーコを尻目に、アンリはアイスの包装を破り始めた。
「眠くなったりしませんの?」
「なるよー。お客さん、ほとんど来ないし」
どうしても人の目に触れる接客業をお忍びのバイトとして紹介されたときは風間を恨んだものの、今ではその理由は明白だった。
「このお店、呪われてると思う?」
「残念ながら。バッチリ呪われているようですわね」
こんな住宅街のど真ん中だというのに。
二人が長々と駄弁る間、自動ドアが開くことは一度もなかった。
「ところでキョーコ様。その“ほとんど”の中に、共通の知人がいたのではなくて?」
キョーコは頷いた。
「双子ちゃんがね、ついさっき」
「えぇ。名前は憶えていませんが」
「オルガちゃんとマヤちゃん。引っ越しの時に会ったじゃんか」
思い出したくもない迷子の記憶を掘り起こされて、アンリの眉間にうっすらしわが寄った。
「……あまのじゃく様に会いに行くって言ってた」
アンリの心情など知らず、キョーコは続ける。
「それで行かせたんですの? この暗い中、子供二人で?」
「止めたよ、もちろん」
「でも、あの子たちは聞かなかった」
「どうしてもって、言ってた。どうしても確かめなくちゃいけないことがあるって」
確かにアンリが見かけた双子には、張りつめた雰囲気があったように思われる。
「ねえ、ウワサっていうのはさ」
床の一点をじっと見つめながら、キョーコは口を開いた。
「ウワサは、ただのウワサだよね」
「それは「アマノジャク様」のことですか?」
頷くキョーコには、元気がない。
双子を行かせてしまったことが、たまらなく心に引っかかっているようだった。
「イワシの頭も信心から。という言葉がございます」
薄青色の棒アイスを指揮棒のように振りながら、リズムを取ってアンリは呟いた。キョーコはというと口を半開きにした奇妙な表情で固まっている。
「ヒイラギイワシ。ご存じなくって?」
キョーコは知らないのではない。突拍子のない話題転換に、頭がついていかないのだ。
「節分にイワシとヒイラギの葉を玄関にさす、アレ?」
「ええ。魔除けと称して堂々と門扉に生ゴミを飾る、アレですわ」
「み……身も蓋もないね」
「ところで、実際に魚の頭と木の枝にそんな力があるとお思いですか?」
「ううん。あれは何と言うか、習慣で飾るもの、って感じじゃない」
「そう。ですが、あれが飾ってあれば、この国の人間がありがたみを感じるのも事実」
キョーコは黙って話を聞き続ける。
アマノジャク様と節分に、何の接点があるのだろうか。
「では口裂け女」
「えぇ? また話が変わっちゃうの?」
「いいから。ご存じないかしら?」
二転三転するアンリの話についていくのは、嵐の海に浮かぶ船の甲板にしがみつくようなものだ。
「えと。口が、こーんな感じになってる人?」
キョーコが口の端を引っ張り上げて見せる。
アンリの視線はかじりかけのアイスに注がれていた。「あたり」の刻印が棒に無いのを見て、彼女は肩を落とす。
「噂の発端は70年代。発祥は関東とも、ここ北陸とも言われています」
自分が生まれる二十年も昔。キョーコにとって、それはカンブリア紀と大差ない。
それでも、遠く離れた世代にさえ己の名前を刻む口裂け女という怪異は、やはり特別なのだろう。
「わたし、きれい?」
アンリが問うた。
キョーコもいくらか彼女の脈絡のなさに慣れが出てきたので、間髪入れずに答えていた。
「うん。きれいだよ」
「いちいち分かり切ったことを聞くほど、わたくし、愚かではなくってよ」
アンリは胸を張って見せた。
「そうではなく。この怪人は、だれ彼構わず訊いてくるのだそうです「わたし、きれい」と」
しかし、その頬は僅かに赤い。まんざらでもないのだろう。
「じゃあ、今みたいに「きれい」って言うと?」
「「これでもか」と、マスクをめくって大きく裂けた口を見せつけてくる、とか」
「じゃあじゃあ、「きれいじゃない」って答えると?」
「隠し持った鎌で襲い掛かってきます」
キョーコは絶句する。なんて傍若無人な怪異なのだろうか。
「ですが、これだけではただの怪談話」
アンリはレジのカウンターに身を乗り出して、声を潜めた。
「なんとこの口裂け女、実在したのです」
まるで、おおっぴらに話せば今にも件の怪異が陳列棚の影から出てくるとでも言いたげだった。
「実際にいた?」
「当時は大騒ぎでしたのよ。集団下校に警察の出動。果てはコスプレした愉快犯が捕まる始末」
ただの噂話がここまで広まった理由は、今日に至るまで解明されていない。
ただ、新型のウイルスのように、口裂け女は日本中で猛威を振るった。
「これは「はずれ」の棒ですわね」
アンリが掲げたアイスの棒を前に、キョーコは恐る恐る頷いた。
「百人に聞いたら、全員がキョーコ様と同じことを答えるはず。ですが、とあるへそ曲がりが「これは当たりだ」と言い始めた」
次第にその嘘を信じる人数が増えたとする。
一人が十人に。その次は五十人に。そして、いつしか全員が「あたり」だと主張しはじめたら――?
「その「はずれ」は、もはや「あたり」と変わらないのでは?」
熟練の芸人が演じるパントマイムのようなものだ。
言葉や小道具が無くとも、観客は演者の動きで頭の中に状況を創り出す。彼らの見つめる空白は、もはや空白ではない。そこにカバンやボールが確かに現れるのだ。
「イワシの頭も口裂け女も同じこと。大衆が思い描くから、そこにありがたみが生まれる。力が生まれる」
――良くも悪くも。
アンリがあえて口にしなかった締めくくりの言葉が、キョーコには察せられた。
「それを、信仰と呼ぶこともあります」
一息ついてから、アンリはおどけた調子でアイスの棒を指し示した。
「ですからコレ、引き換えてくださらない?」
「それはダメ」
「でしょうねえ」
アンリが「はずれ」棒をへし折る音が大きく響いた。それからいくばくかの沈黙が訪れた。
「やっぱり、アマノジャク様は普通じゃないよ」
口を開いたキョーコの声には、確信めいたものがあった。
「確かに。この短期間に、この噂の広がりは普通では在り得ないものかもしれませんわね」
旧校舎のアマノジャク様。記憶と引き換えに、なんでも願いを叶えてくれる救い主。
「仮に、アマノジャク様自身が噂を広めているってことは?」
「あら」面白いおもちゃを見るように、アンリはキョーコに向ける目を細めた「どうしてそうお思いに?」
「あれは、たぶん口裂け女とは違う。実際に生きている何かだとわたしは思う」
「根拠はありますの?」
「無いよ。なんとなく」
嘘だ。
キョーコは旧校舎を根城にする鬼人正邪という少女を知っている。彼女と今回の騒動と、関係があるのは明白だ。
「あれやこれやと憶測を交わすのは趣味ではありませんが――いいですわ。続けてくださる?」
それでも後輩たちにした仕打ちの犯人が彼女だったと考えたくない一心が、よいこの口に嘘を吐かせていた。
「噂が広がれば、それだけ信仰ってやつも強くなる。アマノジャク様の狙いがそれだったら? 百人に「あたり」と言わせたら、何が起こるのかな」
「ふふ」
不意にアンリが笑い声を漏らした。キョーコは怪訝そうに彼女の顔を見詰める。
「申し訳ありません。キョーコ様がわたくしと同じことを考えていたものですから、つい」
アンリは決して口元を覆う手を離そうとしない。
「そうですわね。あまのじゃく様が悪意ある個人にせよ、善意の聖人にせよ、このままでは――」
彼女が必死に笑いの発作を堪えているように、キョーコには見えた。それと、何か、どすぐろく、沸騰するような別の感情を。
「カミサマになってしまう。かも」
パチン、と手を叩いて、アンリは話を締めくくった。
「いかがでしたでしょう。二階堂、夏の夜長の怪談話。存分に背筋を冷やしていただけたのなら――あら?」
キョーコは聞いちゃいなかった。
「やっぱり、放っておけない」
冷えるどころか、彼女の中で何か、厄介なものが燃え上がり始めている気配を、アンリは嗅ぎ取った。
「わたしが行かなきゃ。行って、あの子たちを助けなきゃ」
いそいそとバイトの制服を脱ぎ始めたキョーコの目は座っている。
「そ、それではわたくしこの辺りで」
踵を返したアンリの肩をむんずとキョーコが掴む。
そのまま勢いで一回転した彼女の前に、制服が突き出された。
「アンリちゃん」
「は、はい」
「人助け。お願いしてもいいよね」
「で、で、でも、わたくし、レジ打ちなんて」
「裏に店長いるから、困ったら呼んで」
自動ドアが開く暇も惜しんで戸をこじ開けると、キョーコは一度振り返った。
「よろしく」
「じゃない!」
彼女の耳にアンリの叫びが届いたかは怪しい。
白いシャツの背中が夜の闇に紛れたのを見て取って、アンリはがっくり肩を落とした。
「しばらく、外出は控えましょう」
律儀にも制服に袖を通して、アンリは今日という日を呪う。ちらりと見えた時計は示し合わせたように日付を跨ぐ瞬間で、彼女の心は尚更に重くなるのであった。
◆◆◆
「むーふーふー」
底が抜けそうな紙袋を抱えて勇儀は夜の街を歩く。
袋の中身はすべて酒だ。
「たまんないねえ。楽しみだねえ」
明日は仕事が休み。一日中酒盛りして過ごしてやる予定だ。
「お。酒のにおいが!」
瓶のこすれ合う澄んだ音色にうっとりする彼女の前に、小柄な少女がひらりと舞い降りた。
「おや。おやおやや。誰かと思えば星熊ぁ。やっぱりあんたと酒とは切っても切れない関係ってわけだねえ」
くるり、とバレエダンサーのように身をひるがえし、少女はかわい子ぶりっ子なポーズを取って見せる。
「もちろん私も――っておい、行くな。お願い、待って!」
その隣を、勇儀はつかつか通り過ぎていく。
「なんだよう。せっかく広い現代で再会できたんだ。もっとこう、あるだろう?」
「無いねえ。全く無い」
早足の勇儀を、ぶうたれつつ、萃香が追いかける。
「いい加減におしよ、あんた」
「あんたもね。いくら記憶が無いからって、トモダチに冷たくしていいと思ってるワケ?」
二日酔いのような頭痛が勇儀を襲っていた。
最近萃香に付きまとわれている。昼も夜もなく、暇さえあれば、ちょっかいを出してくる。
「馴れ馴れしいのは好きじゃないんだよ」
「へーえ。キョーコとは上手くやってるじゃないか」
「あれは――あれは、別だ。あいつはあたしの過去を知ってる。だから、イヤイヤの、しゃあなしで」
「私だってそうだよ。星熊、昔のあんた、知りすぎるくらい知ってるもん」
痛い所を突かれて、勇儀は黙り込んだ。
「あんた、私のこと嫌いだろ」
アーケードに敷き詰められたタイル。勇儀のかかとがそれを叩くリズムが、わずかに乱れた。
「そんなんじゃあない。あたしは」
「嘘かよ。ますます昔のあんたらしくないよ。そういうのはさ」
勇儀を追いかける足音が、束の間やんだ。
「萃香?」
ぐっと、堪えるように。じっと、待つように。
地面を見つめたまま、萃香は立ち尽くしていた。
「へへ。やっと名前で呼んでくれたね」
寂しそうだった。
彼女が鬼であるということは、もはや疑いようもない。だが、この瞬間、彼女が外見相応の、なんら特別な力を持たない少女として、勇儀の目には映った。
「……あんた」
少し考えて勇儀は地べたに紙袋を下ろした。
「少し、飲もうよ」
茶色い泡盛の瓶を取り出して見せると、萃香の表情はにわかに明るくなった。
◆◆◆
「だからさあぁ、言ってやったワケ。存在自体がインチキな奴の話を信じるなって。そしたらさ、そいつ聞かないの。私の話なんて、なーんも」
萃香は鯨のように酒を飲んだ。
「あぁ、そう」
萃香を誘ったことを、勇儀は後悔していた。
明日のオタノシミに買い込んだ酒をあらかた飲みつくした萃香は、上機嫌に自前のひょうたんをあおる。
「あんたのソレ、どうなってるのさ?」
「んー、
古い住宅街の公演。
ベンチのわきに瓶のピラミッドを築いた萃香は、サツマイモの皮のような色をしたひょうたんを掲げた。
「これはねえ。呑めば飲むほどアラ不思議。無限に酒が湧き出る魔法のひょうたんなのさ。ひっく」
なら最初から使えよと呆れつつ、勇儀は感謝もする。
萃香という暴飲の化身が野放しで尚、世の中からアルコールが消えないのは、このひょうたんのおかげに違いない。
「傷の具合は?」
どうしても気になったことを、勇儀は訊いた。
「あぁ、これ? 見た目ほど痛まないから、大丈夫だよ」
萃香は片手を持ち上げて見せた。
祭りの夜にキョーコの振るうカタナで刺し貫かれた傷。少女の細腕に巻かれた包帯は、見ていて痛々しいことこの上ない。
「でも安心した」
大事そうにひょうたんを抱えたまま、萃香は呟いた。
「なんだかんだで優しいとこ、変わってないもの」
「昔といっしょで、か?」
勇儀は考える。
記憶と体の大半を失って、ミヨシの経営する下宿屋に流れ着いてから数日が経つ。それで、一向に記憶が戻る気配がない。
「そんなものに拘るのは、やめたほうが良いのかねえ」
戻りたくないのなら、戻さない方がいいのかもしれない。ならば、むしろ、
「なあ萃香。あたしは」
「しっ」
酔っているとは思えないほど鋭い動きで、萃香は勇儀の口元を塞いだ。
「あれ、見える?」
言われなくとも気づいた。
確か、オルガとマヤ。祭りの日に奇怪な大狗に追い立てられていた双子が、公園のフェンスの外を走り抜けていったのだ。
「追うよ、星熊」
「おい、ちょっと待ちなよ。なにをいきなり」
「面倒ごとの臭いがする」
包帯巻きの手で鼻の下を擦って、萃香は楽しそうに笑った。
「放っておけないだろ?」
◆◆◆
「本当にここなのかい?」
勇儀のくしゃみが張りつめた空気を震わせた。
「間違いないよ。あいつら、ここに入っていったから」
目に見えるほど舞い散る埃が、まるで煙幕のようだった。
双子を追って十数分。キョーコの通う高校の旧校舎までたどり着いたはいいものの、そこに彼女たちの姿はなかった。
「見ろ、星熊」
萃香のもとへ、勇儀は向かう。
小鹿が歩いたような足跡がふたつ、とある教室の扉の前まで続いている。
「いいね。いち、にの、さんで行こう」
ぐでぐでに酔っ払っていたとは思えないほど張りつめた表情で、萃香が耳打ちした。
「ああ。まかせときな」
教室の扉に手をかけ、萃香が指で合図する。
いち、にの――
「さんッ!」
勢いよく引き戸を蹴り空けて、二人は言葉を失った。
「おいおい。こりゃあ、どういうことだ」
返す言葉を持たず、萃香はただ、かぶりをふった。
「わからない。わからないけど」
勇儀の掲げた懐中電灯で、床に積もった埃が照らし出される。一対の小さな足跡は、教室の中ほどで唐突に途絶えていた。
「ヤな感じがするね」
あたりには、ただ、湿ったカビ臭い空気が漂っていた。
◆◆◆
奇妙な部屋だった。
金無垢の廊下の豪奢さも、真紅の大階段の威容もここにはない。ただただ、奇妙だった。
「適当に座ってくれよ。何か持ってこさせよう」
「いや。ボクたち、別に長居する気はないから」
一切が白く塗られた教室では重力が完全に狂っていた。整然と並べられた学習机とイスとが天井に張り付き、三人を見下ろしている。
「そうか。もてなし甲斐がないな」
双子と正邪のかけたソファ、そして間に挟まれた長いテーブルだけが、唯一狂った法則を無視している――のかもしれない。実際のところ天井にへばり付いているのが机なのか自分たちなのか、双子には判断できなかった。
「鬼の王様を探している、か」
双子がこの場所に来た目的を聞き終わると、正邪はソファに深く体を預けた。レザーと骨組みが大きく軋む音に、双子が面持ちを一層固くする。
「一体ソイツにどんな用があるんだ?」
双子――オルガとマヤは顔を見合わせ、ほとんど同時に首を横に振った。ややあって、口を開いたマヤがか細い声で言った。
「それは……お答えしなければいけませんか」
「いいや。興味だよ、興味」
はぐらかすような答えだったが、別段正邪が気を悪くした様子はない。教室の隅に置かれた柱時計の振り子にシンクロするように、彼女が手にするヤスリのリズムは一定だ。
「王様。オニの王様ねえ。こっちは思春期の学生共を纏めるだけでも苦労しているってのに。鬼なんて年中反抗期の連中の首根っこ捕まえられるやつがいるのかね」
正邪は目をすがめる。彼女の手先でヤスリが動くたび、鮮やかに彩られた爪が刃物のような鋭い輝きを帯びていった。
「で、あんたは王様の居場所を知ってるの、それとも」
「ああ、そうだったな」
正邪は手入れ道具を机に置いて、双子を交互に見つめた。
「な、なに?」
何とも言えない、居心地の悪くなる視線だった。思わず声を上げたオルガに目を留めると、正邪はにんまりと笑って見せる。
「いーや。面白いねえ、お前たちは」
もはや見慣れた薄笑いを浮かべたまま、正邪は黙り込んだ。居心地の悪い沈黙が充満した。いい加減焦れた双子が口火を切ろうとした頃合いを見計らったように、正邪は口を開いた。
「結論から言えば知らんよ、王なんて」
双子の顔に明らかな落胆の色を読み取りつつ、正邪は間髪入れずに続けた。
「とはいえ、私を頼ってきたお前らをこのまま帰したのでは全能の「あまのじゃく様」の名が廃る。そこでひとつ取引といこうじゃないか」
「取引ですって?」
正邪は微笑みと共に白い歯をこぼした。
「お前ら、私の家来になれよ」
「じょ」
「まあ聞け。損はさせないぞ」
冗談じゃない――言いかけたマヤを片手で制すると、正邪は言葉を繋ぐ。
「お前達が条件を飲むなら、王様とやらについて、こいつらを使って調べさせてやろう」
正邪が手を差し伸べる。
それまで塑像のように身動きせず控えていた女生徒の一人が歩み出て、恭しく正邪のもとにかしずいた。
「もちろんタダでこき使うつもりはない。福利厚生は充実させるし、定時にはきちんと帰らせる。最近は色々うるさいらしいからな」
「随分と優しくしてくれるんだね」
オルガはにこりともしなかった。正邪の申し出の裏には何かがあるのは間違いないし、それを隠そうともしない。
「お前達、幻想郷を知っているか」
双子はそろって首を傾げた。
「私の故郷のようなものだと思ってくれればいい。今は失われた、閉ざされた世界」
「もう無いってこと?」
「そうだ。腹立たしいこと、私より先にどこかの誰かさんがぶっ壊しやがったのさ」
そこで正邪は一度言葉を切った。うんざりした様子を演じてはいたが、彼女の目は、故郷に思いをはせるように遠いところを見ているようだった。
「……その、幻想郷が消えた後も執念深く私を追い続けている奴らがいる。お前たちにはそいつらの相手をしてもらいたいんだ」
「あんた、恨みを買いやすそうだもんね」
「つくづく正直な奴らだな!」
「さて」正邪はすぐに気を取り直すと、テーブルの上に手を組んで双子の出方を伺った「どうする?」
「いやです」「お断りだ」
間髪入れず、すげない返事が飛んた。
「一応、理由を聞かせてくれないか」
「あんたの言葉には誠実さがないからだ」
オルガの隣で、マヤが力強く頷く。正邪は気の抜けた笑みを浮かべながら、一層深くソファに埋もれた。
「いやはや、本当に正直だなあ」
「悪人の手助けなんてしたくありませんから」
「よそをあたってくれない?」
「例えばお前たちの『お姉ちゃん』とか、か?」
まさか正邪の口からその名前が出てくるとは。
思いがけずひるんだ双子を、満足した様子で正邪は見据える。
「あの人を知ってるの?」
「浅からぬ縁があってな。それに、一度昼飯をもらったこともある」
正邪はひらりとテーブルを飛び越えた。双子が身構える。
「素直に帰す気はないってやつ?」
正邪は黙って、生徒たちに顎をしゃくった。
彼女たちが教室のドアを開け放つと、その先にはカビ臭い旧校舎の廊下が広がっていた。
「ムリヤリってのも悪くないが、今日は気分がノらないんだ――あぁ、それと」
靴のかかとを響かせてオルガに近づくと、正邪は怯む小鬼の腕を取って強引に引き寄せた。
「ちょ」
袖の上から爪が食い込んで、オルガは顔をしかめた。
「ねえ、帰してくれるんじゃなかったの」
「最後に誤解を解いておきたくてさ」
オルガの耳に口を寄せて、正邪は囁いた。
信じられないほど甘やかな響きのある正邪の言葉を聞いていると、まるで彼女に耳孔を舐め回されているような錯覚を覚えた。
「誤解? あんたが悪人だって言ったこと?」
首筋の毛を逆立てつつ、オルガは平静を繕う。
「そこらへんの判断はお前らに任せるよ。私が言いたいのは誠実さについてのことだ。私がちゃんとしたヤツだってことを伝えておきたくてな」
「はん」オルガは鼻を鳴らした「意外と小さいことにこだわるんだね」
「なら証拠を出してよ。あんたの言う、誠実さってやつの」
「いいだろう」
今や、正邪の唇はオルガの耳朶に触れそうな程近い。オルガの背後に立つマヤは、困惑した面持ちで立ち尽くしていた。
「お前は何か、嘘をついているな」
一言。
たった一言が、オルガを突き崩した。
「ふふ。その顔を見るのは二度目だな」
すっかり強張ったオルガの顔を見下ろすと、正邪はマヤを一瞥した。彼女はただ、困惑して立ち尽くしている。
「ボクはウソつきなんかじゃ」
「静かに。かわいい姉妹が怪しむぞ」
正邪の手の下でオルガの体が強張った。
「鬼の王がいないと知った時もそんな顔だったな。落ち込む姉妹の隣でうすら笑っていた。心の底から安心していた」
「あ、あんたはボクの何を知っているんだ」
「なにも。ただ、嘘の臭いには人一倍敏感でね」
正邪はそっと手を離した。
「お前が隠し事をしていること。そこのチビにバレると困ること。そのくらいは嗅ぎ分けられる」
オルガの顔には恐怖がありありと浮かんでいる。
「だが、哀れな姉妹には黙って置いてやった。それが、私なりの誠実さってやつだ」
「……ぼくは、そんなんじゃない……」
「無理はよくないぞお」
波が退くように、正邪の声に張りつめていた冷たさが和らいだ。
「人だろうが鬼だろうが、心のサイズは変わらない。抱えきれなくなることだってあるだろうさ」
正邪は笑っていた。
いつもの悪鬼じみた微笑ではない。慈母のように優しげに、柔らかに、笑っていた。
「そうなったらここに来い。その時は、お前の苦しみを、苦悩を、ひっくり返してやるから」
オルガは恐ろしくなった。
正邪が自分を堕とすため、演技をしているのは明らかだ。しかし、そう分かって、今この瞬間にも彼女の胸の中に飛び込みたいと思い始めている己のことが、なによりも恐ろしい。
「その子を離してください。離して!」
縫い留められたように動けないオルガを、マヤが引きはがす。オルガはよろめくように正邪から離れた。
「オルガちゃんに何を言ったんですか」
「ちょっと口説いただけさ」
「ふざけないで! 本当のことを言って!」
「行こう」
「でも」
「いい。ここにいると気分が悪くなる」
食って掛からんばかりのマヤを後に、オルガは血の気の引いた顔で歩き始める。マヤは迷ったが、すぐにその後に続いた。
「お前らのお姉ちゃんによろしく」
双子の背中に正邪が放った言葉に、はた、とマヤが足を止めた。結局彼女は何も言わず、刺すような視線を一瞬送って寄越しただけだった。
「可愛くないチビ共め」
扉が閉まって尚留まろうとする生徒たちを手で追い払うと、正邪は窓を開け放つ。生温い夜の風を胸いっぱいに吸い込んで、吐く。
「ぬるいな。だが、風向きは悪くない」
息とともに何もかも体の中から吐き出して、どこかへ飛んでいけそうな気分だった。正邪は絶好調だ。
「来い、鳴無響子。お前と私で下克上だ」
◆◆◆
「おわーッ!?」
静寂と暗闇とを、勇儀の絶叫がつんざいた。
「きゃあ!」「ぎゃあ!」
続いて、甲高い悲鳴がふたつ。
「何よ。きゃあきゃあ騒いじゃって」
床に転がった懐中電灯を拾って、萃香は埃が濃密に漂う廊下に光を放つ。
「……あら」
白目をむいて倒れる勇儀の上に折り重なっているのは、まぎれもなく、追いかけていた双子だった。
「よ。だいじょぶ?」
「あ、ありがと」
萃香が差し出した手を、オルガが取った。
「やい星熊。だらしなく伸びてるんじゃない!」
「きゅう」
したたかに後頭部を打った勇儀は、ガマガエルのように腹を見せて床に転がっている。
「ええと、あなたは」
「私? 私は伊吹萃香。こっちのデカいのは知ってるだろ?」
勇儀のタフさを知っている萃香は、さして心配しない。手早く自己紹介しつつ、爪先で勇儀を蹴り起こす。
「な――なんだいアンタたち、いきなり人サマを尻に敷くたあ、いい度胸じゃないかい」
座布団の役に徹していた勇儀が、意識を取り戻した。
「ご、ごめん」
双子が慌てて、勇儀の上から退いた。
「ガキの尻に敷かれるたあ、大層な趣味だねえ、星熊ぁ」
「何を言ってやがる。こいつらが急に現れて」
頭をさする勇儀の背後から、猛然とした足音が聞こえてくる。
「だ、だいじょぶ? 急に、悲鳴が聞こえたから」
身構える一同の前に現れたのは、キョーコだった。
よほど急いで駆けてきたと見えて、息は荒く、汗ばんだシャツ越しに下着が透けて見えた。
「お、お姉さま?」
「キョーコ? あんた、今日はバイトじゃあ」
「代役立ててきた。大丈夫」
「いや、バイトの代役って」
「……取り敢えず、外に出ようよ」
収集憑かなくなりつつある一同を制して、萃香が言った。
◆◆◆
「へえ。正邪って名乗ったのか、ソイツ」
グラウンドで萃香と双子たちの話を聞くキョーコの表情は、暗い。
いやな予感が、当たってしまった。
「キョーコ、大丈夫か?」
「……うん」
旧校舎の壁に寄り掛かったキョーコのもとへ、勇儀がやってくる。
「バイトさ、クビだって」
「そうだろうなあ」
キョーコに握られたスマートホンには大小の亀裂が走っている。ここ数日の大騒ぎによるものと、キョーコの怪力で破壊されたもの。
それらは、幻想を拒絶する現代で意図せず鬼となってしまったキョーコの生きづらさを現しているように、勇儀には見えた。
「お姉さん、ずっと僕たちを探してくれたの?」
それまで二人の会話を見守っていたオルガが、おずおずと訊いた。
「うん。ずっとって言っても、一時間くらいだけど」
「オルガちゃん」
双子は不安げに顔を見合わせて頷き合う。
「私達、ずっとあの中にいたんです」
「ずっと?」
「半日くらいかな。細かい時間は分からないけど、本当に、ずっとって感じ」
その言葉を裏付けるように、双子の手首に巻かれた可愛らしいキャラクターものの腕時計は間違った時間を刻んでいた。
「分かったかい」
萃香だった。
呆気にとられる一同に、彼女は校門の方を指し示す。
「ここにいるのは、そういうことが出来るヤツなんだ」
「なら、なおさら帰るわけにはいかないよ」
「いいから。今日は撤退だ」
キョーコと勇儀の尻をせっついて校門まで歩いていくと、萃香は一度振り返った。
「あんたなのかい、正邪」
旧校舎三階の一角で窓が開いており、白いカーテンが月光を受けて幽霊の手のように揺れているのが見えた。
第8話『アマノジャク様、存分に双子をもてなす』 おわり