「キョーコちゃんて、意外と不真面目なのな」
食堂で扇風機が勢いよく回っている。
風間がガハハと笑うたび、金づちで打たれる釘のようにキョーコはテーブルの下に引っこんでいった。
「面目次第もございませぬ……」
「いいっていいって。又、いいバイトを探してきてやるよ。あ? なんじゃこら」
寮母のミヨシが、風間の茶碗に山盛りの白米をよそって寄越す。その視線は、どこか批難がましい。
「おいおいおい、俺は仏壇かよ!」
「みっちゃん、私も大盛りで。おくれ!」
すっかりレギュラーメンバーと化した萃香の掲げたお椀をにこやかに受け取って、ミヨシは飯を盛る。優しく優しく、ふんわりと。中年フリーターにしてやる時とは大違いだ。
「差別すんなよお、こいつと違ってカネ払って住んでるんだぜえ、オレはよお」
風間の必死の抗議は功を奏さない。
ミヨシは他の住人の世話に忙しく飛び回り、耳を貸さないし目もくれない。
「黙って食えないのか、あんたは」
あげく、目玉焼きをつついていたスバルまでもが冷ややかな非難の声を浴びせてくる始末。
「俺はキョーコちゃんをいじめてなんかいないぞ」
「そうは見えないな」
「嘘じゃねえ。お前らにも分かるよな。なあ?」
風間は鬼娘たちに助けを求める。
しかし、彼女たちは小さくなったままのキョーコの隣で笑うだけで加勢しようとしない。
「……あのな、キョーコちゃんはいい子だろう」
「うん」
「でもいい子も過ぎると段々心配になってくるだろうが。そんなキョーコちゃんがようやく非行に走ったのが嬉しくて嬉しくて」
「分かってたまるか、そんな理屈」
「理解しろよ。俺の親心をさ。ミヨっちゃんだってそう思――わねえのかよ、クソ!」
腕組みするスバル。その後ろに守護霊のように佇むミヨシ。二段構えの圧力に、風間がひるんだ。
「退かねえ。俺は絶対に退かねえからな!」
そこまでして、風間は一体何を勝ち取りたいと言うのか。ともかく、朝の風物詩のバトルが白熱してきたころに、萃香が「ちょいちょい」と手招きした。
「お二人さん。お耳拝借。しばらく旧校舎に近づくのは禁止ね」
「そりゃ一体どうして」
テーブルの向こうでは三人が戦っている――のだろうか。表情こそ鬼気迫るものがあったが、じゃれ合っているようにも見える。
「アマノジャク様の正体に目星がついたよ」
「本当に? ……危ない、相手なの?」
「まだはっきりとは言えない。同じ名前を騙る別人って可能性もある。だから、奴が尻尾を出すまで暫く様子を見て」
「こら、そこ!」
スバルだった。平家蟹のような憤怒の形相を浮かべた彼女の後ろで、死んだ魚の目をした風間が白飯をもちゃもちゃと食べている。
「キョーコとナイショ話とか、許さないから」
スバルの矛先が変わって風間がほっと胸を撫で下ろしたもつかの間。空になったお椀に、間髪入れずミヨシが山盛りに飯をよそい直す。
「そんなに俺が憎いのか」
ごん、と風間の額がテーブルを打った音が響いた。
「私のキョーコとの間に秘密を作るな。私のキョーコと仲良くするな。私のキョーコの隣に座るな」
スバルの周りはライバルだらけだ。最近は勇儀に加えて萃香までもキョーコに纏わりつくようになったせいで気が気でないのだ。
「へーえ。ずいぶん大事にされてるんだねえ」
意地のわるーい顔で萃香は笑った。
「はあ、まあ。大事にされてます」
その顔を見ていると、やはり萃香は鬼なんだな、と実感する。
「で? 私の私のってうるさいけど、どっかに名前でも書いてあるの? ん?」
萃香はすりすりとキョーコの顔を撫でまわした。むろん、キョーコに名前欄など付いていない。
「ぐぬぬう」
スバルが殺意のこもったうなり声を上げる。
ハラハラするばかりのキョーコの前髪を持ち上げて、勇儀も鬼の微笑を浮かべて見せた。
「それよかあんた、綺麗なおデコしてるじゃないかい。ここに今書いてやるよ、名前。あたしらの!」
「え、ちょっと待ってよ」
「冴えてるねえ星熊。いいぞやれやれ」
腰を浮かせたキョーコを萃香が羽交い絞めにする。
悲鳴を上げる暇もなかった。
「お、お前ら、キョーコに乱暴するな」
慌てて立ち上がったスバルがテーブルに膝をぶつけた。慌ただしく打ち鳴らされる食器の音が、第二ラウンド開始のゴングだ。
「おい風間っつぁん、だらしなく伸びてないでペン持ってきな、ペン!」
「や、やめてー」
今日も早稲川荘では騒がしく、当たり前の日常が続いている。
これがずっとずっと続けばいいなあ――額に迫ったサインペンの先を見ながら、キョーコは願った。
◆◆◆
「朝からいい仕事しちゃったねえ」
細い路地を軽トラックが走り抜けていく。尻に火が点いた牛のような勢いで、よくもまあ車体を擦らないものだと感心した。
「さあて、今日は間に合うかな?」
「遅刻だろ。キョーコのやつ、悠長に顔洗ってるんだから」
「女がなってないよねー。化粧と洗顔は一日の初めにやっとくものじゃない?」
言いたい放題であるが、原因は言うまでもなく彼女たちだ。
「で、結局ラクガキは落ちたのかな」
「油性だったからねえ」
半ベソのキョーコは洗面台の前で時間いっぱい粘っていったが。下宿を飛び出していく瞬間までタオルを手放さなかったせいで額の「ゆうぎ」と「すいか」の字が消えたかどうかは分からず仕舞いだった。
「さあて。とにかく休みだ休み。何をしようかね」
キョーコのことなどさっさと忘れて、勇儀は背筋を伸ばした。気持ちのよい朝だ。路地を吹き抜ける風はまだ涼やかだ。七月の朝日は相変わらず強烈だが、かえって路地に残った昨晩の夜気が肌に優しく感じられた。
「こういう日は酒盛りだよねー」
「昨日飲んだろ、あたしの酒。あんたが、全部」
そうだったっけ、と萃香は首を傾げる。どうやら彼女の記憶は、アルコール並みに揮発しやすくできているらしい。
「仕方ないねえ。買いに行くから付き合いな」
ひいきの酒屋は下宿から歩いて半刻ほどの距離にある。今から歩けば、丁度開店時間だ。ちなみに朝から酒を買い込みに来る客が店員の目にどう映るかは、さておく。
「勇儀ねえさん」
意気揚々と歩き始めた勇儀を引き留める声があった。
「おや。昨日ぶりだね」
鬼の双子だった。
勇儀と萃香相手ではキョーコと勝手が違うのか、仕草には、はにかみが見える。
「それと確か、伊吹萃香」
「さん、ですよオルガちゃん」
「ごめん、萃香さん。昨日は迷惑かけちゃった」
「ところで私は「萃香ねえさん」じゃないの?」
双子は困ったように顔を見合わせた。
「萃香ちゃん、でいいかなって思うんだけど」
見えない糸で引っ張られているように、萃香の笑顔がヒクついている。
「いいよ。言いなよ。構わないから」
不安げに顔を見合わせる双子に、彼女は顎をしゃくった。
「その……同じくらいに、見えますから。私達と」
「なにが」
「せ、せたけが」
「が」
雷に打たれたように、萃香は固まった。
ややあって、ふらふらと下宿屋の方へ歩いていった彼女は、門にもたれてよれよれとしおれていった。
「……小さくて何が悪いんじゃい」
蚊の鳴くような声だった。
「なあ萃香、こいつら、別に背が低いことが悪いとは言ってないだろ」
「小さい方が便利だもん。でっかくたって、つっかえて大変なだけだもん」
「構わないって言った口でそれかい」
こうなっては仕方ない。声の届かない場所に行ってしまった萃香にさっさと見切りをつけて、勇儀は双子に向きなおる。
「ボクたち、お姉さんのことで話があるんだ」
「生憎だね。キョーコなら学校だよ」
「分かっています。お姉さま抜きで、勇儀ねえさまに伝えなければいけないことがあるのです」
昨日の今日だ。それが鬼人正邪に関すること。二人が旧校舎の中で見聞きしたことに関係しているのは、この場の誰にも明らかだった。
「とにかく入りな。麦茶が冷えてる」
下宿の門に張り付いた萃香をひっぺがして、勇儀は双子を招き入れた。
◆◆◆
「キョーコさまー!」
三年の教室の戸を蹴破ったアンリを見て、誰もがおののいた。
留守番と言ってバイト先に一晩放置プレイ。この瞬間まで怒りを煮えたぎらせてきたアンリの形相は、羅生門の鬼が裸足で逃げ出すほど恐ろしかった。
「……少し、お痩せになったのではなくて?」
しかし、彼女の怒りはさっそく萎むことになる。
彼女がじっくりコトコト煮込む前に、既にキョーコは押し花のようにしおれて机に張り付いているのだった。
「ごめんね、昨日。うっかりしてた」
何度も擦ったように、キョーコの額が赤い。
泣きはらした目元があまりに哀れっぽく、次の瞬間にはアンリは「もういいです」と口走る自分に気付くのだった。
「……それで、アマノジャク様には会えましたの?」
「ダメだった。双子ちゃんには追いつけたんだけどね」
そういえば、と、キョーコは辺りを見渡した。
「キョーコ様、なにか?」
「スバルちゃんがいないから」
最近、随分仲良くアンリと話し込んでいる気がする。
朝の様子を見るに、いつスバルが突撃してきてもおかしくないのだが。
「スバル……陸上部の吾妻スバル様なら、部室棟の方でお見掛けしましたわ」
考えてみれば、大会が近い。今だけでも部長のチヅルとの確執を忘れて陸上に専念するのなら、それに越したことはないのだが。
なにか引っかかるものを感じていると、アンリが言った。
「にしても、キョーコ様は三年なのでしたね」
そういうアンリは一学年下だ。
上級生の教室に押しかけてきて、実に堂々としている。空いた席に座ってスナック菓子を昼食代わりに頬張る姿には、ふてぶてしさすら漂っていた。
「来年はいよいよ受験。キョーコ様の備えは万全ですか?」
「あー、そっかあ。受験かあ。血みどろの受験戦争。やだなあ。世の中平和が一番だよねえ」
「人生、点数で争える内が一番幸せで平和でしてよ」
そもそも、学費の足りないキョーコは戦場に辿り着けるのだろうか。
「そういえば大学はどちらへ?」
「実はまだ決めてないんだよね。いい所、ないかな」
「あら。いけませんわ」
自分の進路を他人事のように言っていることに気付いて、キョーコはおかしくなった。アンリもつられて笑う。
「では、将来の夢などは?」
ひとしきり笑って、アンリは問いを重ねた。
「夢かあ」
なんてことない、雑談の延長みたいなものだと分かっていても、腿の薄れたスマイリーをなぞるキョーコの指先には迷いが見えた。
「もう一度走ること、かな」
その先は、どうなるんだろう。
椅子を傾けて天井を見つめる。敷き詰められた合板は、キョーコの未来予想図と同じ、空白の白さだ。あまりの白さに、めまいを覚える。
「およ。キミってアンリちゃん?」
隣の席の主が戻ってきたのは、そんな時だった。
「え、ええ。お見知りおきを……どこかで、お会いしましたか?」
「それはないけど、キミ、ハーフでしょ? やっぱり目立つじゃん。あ、いいよいいよ、そのまま座ってて。いやー、おねえさん参ったよ、購買行ったんだけどね、道がメチャ混みでさ」
二人の前にどさりとレジ袋を置いて、彼女は聞かれてもいないことをぺらぺらと喋り始めた。話題の転校生と知り合いになれたことで得意になっているようだが、ぶしつけな振る舞いにアンリは早くも辟易している。
(なんですの、この方!)
アンリが目くばせしてくる。
「大変だよね。購買、いつも繁盛してるから」
「いや、今日はそうじゃなくってね」
話題を合わせたキョーコは、小首をかしげた。
「生徒会長が理事長捕まえてバトってんの。びっくりしたわ」
「生徒会長……チヅルちゃんが?」
「なんでも旧校舎の話らしいよ。詳しいことは知らないけど、あの子、やっぱ怖いわ」
旧校舎。そのワードを聞いた瞬間、キョーコとアンリは素早く立ち上がっていた。
「それ、どこで?」
「昇降口。あ、でも本当に人凄いから、今は行かない方が」
「ありがとう」
礼を言うな否や駆け出した二人の後に、隣の席の生徒だけがぽつねんと取り残される。
「…………いいと、思うんだけどなあ」
◆◆◆
昇降口には、既に黒山の人だかりが出来ていた。
「納得できません!」
チヅルの声がよく響く。
T女学院の昇降口は三階まで続く巨大な吹き抜けになっている。
どの階でも電線のカラスのように手すりの上に生徒が黒い頭を並べ、眼下の出来事を見逃すまいとしていた。
「ははあ、あれが理事長様。随分たくましいお方だこと」
「わたしも見るのは初めてかも」
理事長は熊のような大男だった。人垣越しにもその姿が見える。
「まあまあ、そう声を荒げちゃいけない。お客様もみんなも、びっくりしているじゃないか」
「理事長、学校は分譲地じゃありません。部外者に切り売りできるものではないでしょう」
「まあまあまあまあ、この方は部外者なんかじゃない。スポンサーなんだよ、スポンサー」
脂汗にまみれた理事長が隣を示した。しかし、いくらキョーコたちが背伸びしても、そこにいるはずの「スポンサー」の姿は見えない。
「もう少し前に出ましょう」
キョーコの手を掴むと、アンリは肩を使ってぐいぐいと強引に人垣へ分け入っていく。
「ふう、困ったなあ。こんなことになるハズじゃなかったのになあ」
梃子でも動かない様子のチヅルに弱り切ったのだろう、理事長は汗まみれだ。彼の手にしたハンカチを絞れば、小さな池ができそうだった。
「それじゃ、私の出番かな」
「あ――」
その瞬間に最前列に出たキョーコは、真正面から彼女と相対することになった。理事長の隣で不敵な笑みを浮かべてよこす、奇妙な風体の美少女に。
「はじめまして。私の名前は鬼人正邪」
含みのある笑いは、間違いなくキョーコに向けられたものだった。
「お知り合い?」
「うん。まあ、弁当をめぐって色々、ってかんじ」
「弁当?」
それだけじゃない。
鬼人正邪は、双子の前に姿を現した「アマノジャク様」が自ら名乗った名前だ。それがこうして表に出てきたことに、キョーコは不穏な気配を感じ取った。
「祭りは好きかい?」
少女の外見からは想像もできないくらい堂々とした振る舞いに、生徒たちは顔を見合わせた。まばらだが、彼女に頷きを返す生徒も見えた。
「私も大好き。粉モノのにおいとか、朝起きたら町が煙臭い感じとか、予算折衝とか、祭りの前後で起こる男女の過ちとか全部ひっくるめて大好き。このガッコ、毎年派手にやるんでしょ?」
「ですの?」
アンリはきょとんとしている。
この瞬間までT女学院に学園祭があること自体知らなかったのかもしれない。彼女に耳打ちされたキョーコは頷いた。
「花火とか野外ライブとか。あと、ミスコンかな」
「ミスコン? 女の子同士でクスクス笑いながら水着の審査?」
「うちのはちょっとヘンな感じ。父兄とか他校の男の子たちも沢山来るから。毎年けっこう盛り上がるよ」
外見に関していえば非の打ちどころのないアンリが舞台に飛び出せば、きっと優勝も狙えると思うのだが――キョーコも体のことをとやかく言われるのは好きでないので、黙っておく。
「だが残念だったな! 今年の学園祭は花火無し、模擬店なし、ミスコンなんてもってのほかだ!」
どよめきが起こった。正邪は騒ぎを止めようとせず、目を細めて生徒たちの混乱を楽しんでいる。
「勘違いしないでおくれよ。私だって祭りを楽しみたい。これは誰が悪いとかじゃない。しいて言うならお金の問題だ」
「どこからその話を……」
正邪はチヅルには応えず、ただ、ひねくれた笑みを浮かべて見せた。
「T女学院と言えば音に聞こえたお嬢様学校だが、金回りはよくない。きみたちがバカみたいに高い学費を払っているにも関わらず、だ」
グラウンドを正邪は指差す。
「あれが、この学校の金食い虫だ」
彼女の指が見えない操り糸を手繰ったように、居合わせた生徒たちは同じ方向――鬱蒼とした雑木林の向こうに佇む旧校舎へと視線を馳せていた。
「文化財だかなんだか知らないが、毎年莫大な維持費がかかってる。その出所は言うまでもないな」
黙り込んだチヅルと理事長の様子を見る限り、正邪の言葉に嘘はないようだ。
「だが安心しろ。カネならこれから私がいくらでも出す。ジャンジャン出す。そのかわり旧校舎の管理は私に一任してもらう。それが出資の条件だ」
正邪の身振りには、次第と熱が入っていった。炎を煽り立てるうちわのようだ。
「カネなんて大人の事情で個性を潰されていいのか。自由を取り上げられてだんまりか? 選んでくれ。私はキミたちのピンチをひっくり返すためにやってきたんだ」
にわかに群衆は静まり返る。
ややあって、その中から正邪に賛同する声がポツリ、ポツリと上がり始めた。
「何、アレ」「あの人、いい人なのかな?」「変わってるだけのような……」「まあおカネくれるっていうんなら、エラい人ではあるんじゃない?」「何が目的?」「どこかの実業家とか」「でも、まだ小さいよ」「暇持て余したご令嬢とか、そういうのでしょ」「旧校舎なんて使ってないし、いいじゃん。あげちゃえば」
言いたい放題だった生徒たちは、正邪が理事長から何かを受け取ったのを見てぴたりと話をやめる。
「ここには理事長、校長、それに役員全員分の署名がある。あとは生徒の代表の選択しだい」
正邪はチヅルの手を取った。
子供に箸の持ち方を教えるように、丁寧丁寧に書類を握らせてやって、最後にもう一方の手も添える。彼女が生徒会長を小馬鹿にしているのは明らかだった。
「なにせ“会長がハンコをついた瞬間、あの場所は旧校舎じゃなくなってしまう”んだ。よく考えて、決断してくれ」
契約書の束を受け取るなり、チヅルは床に叩きつけた。解けた紙が宙を舞い、二人の足元に雪のように降り積もる。
「いけませんわね。あれは」
顔をしかめたアンリには、真昼の決闘の結末が既に見えているようだった。
「私は断固反対です。こんな、いかがわしい――」
「しっかりしてよ、会長!」
鋭い声がチヅルを背後から貫いた。
「――え?」
キョーコとチヅルは、信じられないというように声を上げていた。
「学園祭なくなっちゃうじゃん。ダメだよ、そんなの!」
学園にとって、正邪は異物だ。
権力をかさに土足でルールの中に踏み込み、掻き乱し、無茶な要求を突き通そうとしている。それを突っぱねるのは、生徒の代表として当然の行いだ。義務だ。
「あの方は、正義に一途すぎた」
ただただ、アンリは残念そうだった。
「どうして。私はちゃんと、皆のために!」
ブーイングの雨に打たれて、チヅルは呆然と立ち尽くす。いかにも見るに見かねたという様子で正邪が生徒とチヅルの間に割って入った。
「大丈夫だ、だいじょーぶ。落ち着いてくれ、みんな。生徒会はよくやってるし、会長は正気だ。多分な」
「……あなた、何者なんですか」
始業のチャイムが鳴り響いた。質疑応答の時間は終わってしまった。
「それじゃあ諸君、八月の学祭で」
拾い集めた書類を後ろ手に持って、正邪はまたぶらぶら歩き始めた。奔放な飼い猫に悩まされる主人のように、小走りに理事長がその後を追う。
「どうして……チヅルちゃんは、間違ってないじゃないか。正しいことを言って……なのに」
「あのパフォーマンスはいただけません」
「それだけ? それだけで」
「ぐっと耐えるべきだった。既にみんなの心は正邪という少女のもの。頭に血を登らせたら、そこでおしまいです」
アンリの言葉を裏付けるように、足早に去っていくチヅルを顧みる者などいない。
「キョーコ様。いけなくってよ」
唯一の例外を、アンリが引き留めた。
「あなた様に出来ることは何もありません。さ、行きましょう」
その通りだった。
こんな時に、鬼の力は何もしてくれない。
「なんとかしなきゃ」
アンリの後に続いてその場を後にしながら、ぽつりとキョーコが呟いた。
◆◆◆
「これ、は」
夏だというのに、部室の中は暗く、冷えていた。
部員の代わりにチヅルを出迎えたのは、箱だった。なんの変哲もない、駅前のアーケードにある和菓子屋の饅頭の箱。しかし、それを見ているチヅルの中で嫌な予感が膨れ上がっていく。
箱を手に取ると、底に敷かれていた一枚の紙がはらりと足元に舞い降りた。
人間関係がもつれました。モチベーションが上がらないので退部を願います――――3-F 吾妻スバル
この頃になると退部届は見慣れたものだったが、氏名欄を見てチヅルは愕然とした。
「吾妻、先輩……」
部室が揺れていると思ったが、それは違う。退部届を手にしたチヅルの手が震えていたのだ。
「あーあ、恐れていたことが起きちゃったね」
弾かれたようにチヅルが振り返ると、正邪がドアの枠に体をもたれて立っていた。
「あなたの仕業ですか」
「人聞きが悪いな……お、ウマそ」
箱を奪い取り、正邪はさっそく包装紙を剥ぎ取りにかかる。それを咎める気力でさえ、今のチヅルには残されていない。
「薄々、こうなるんじゃないかと思っていたんだ」
正邪がつまみあげたのは茶色い、しっとりした皮の小さな餡饅頭だった。
「部長のリタイア。後輩はお前を虫けらみたいに嫌ってるし、生徒会活動も思わしくなく、頼みの綱の三年生が全滅」
次々と饅頭を放り込んでいく正邪の口には、サメを思い起こさせる牙がびっしり生えている。
「どう。ここから立て直せそう?」
正邪が顔を寄せてくると、甘ったるい臭いが鼻をついた。後ずさったチヅルの背後には壁。がらりとした教室に大きな音が響いた。
「そう嫌ってくれるな。傷つく」
「あなたがどう思おうと、私は一向にかまいません」
「それが人離れの原因なんだよ。ったく」
正邪は顎をしゃくる。鼻につく仕草だった。
「だが、私は寛大で慈悲深い。お前に青春の最適解を教えてやることもやぶさかではない――こいつにさえ、納得してもらえれば」
「なんでしょう?」
「ハンコだよ。はーんーこ。シラ切るんじゃねえ」
チヅルの胸元に契約書を押し付けて、正邪は立ち上がる。彼女の脇を通って部室を出て行く時に、ぞっとするような声で囁きかけた。
「いいな。もう二度と私にモノを拾わせるなよ」
象のように巨大な気配が横を通り過ぎていく気配に、チヅルは、はっとした。しかし饅頭の箱を抱えて去っていく正邪の後ろ姿は、やはり少女のものでしかない。恐怖と屈辱がないまぜになった表情で、チヅルは彼女を見送った。