わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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7『願い星が堕ちる速度で(上)』

「よォお嬢さん方。本日は神より賜りし土曜日。最高気温は38℃、湿度60パーセント。絶好の整地日和だな!」

 

 河川敷のグラウンド。やたらテンションの高い風間の足元には禍々しい気配を放つ物体が鎮座し、繋がれた番犬のように己の出番を待っていた。

 

「風間さん張り切ってるなあ」

「こないだの乱闘騒ぎ、あったでしょ?」

「あんたと風間っつぁんがグラウンド利用停止になったやつかい」

「そう。こういう雑用すると、刑期短縮になるの」

「ケナゲなもんだねぇ」

 

 ミラーボールのように輝く太陽の元で、脂ぎった風間の表情もぎらぎらと光を放つ。またしてもオトナの事情が見え隠れしているが、キョーコは黙って汗をぬぐった。

 

「キョーコちゃん、しっかり休めたかい?」

「はい。ゆーぎのおかげでケガも無かったんで。よく眠れたし、ご飯も食べたし。わたし、全開です!」

 

 体とは現金なもので、三階から落とされた直後だというのにキョーコはよく食べ、よく眠った。気づけば翌日の太陽は入道雲と競うように空の高みに昇りつめている。

 

「じゃ、夕方様子を見に来るからさ。サボんなよ」

「安心しなよ。あたしの見ている前で中途半端な仕事はさせない」

「それが心配なんだよ。お前の視野、半分じゃねえか」

「そういうことじゃないだろう、まったく!」

 

 ぽりぽりと眼帯をかく勇儀を残して、風間はママチャリにまたがった。

 

「無理だけはするなよ」

 

 それは、どういう意味だったのだろうか。

 颯爽たる立ち漕ぎ姿で風間が遠ざかっていく。キョーコたちは何も口にしなかったが、彼には全てお見通しだったのだろうか。

 

「いいんだね、キョーコ」

 

 キョーコは頷きで返す。たとえ鬼たちの事情に通じているとはいえ、風間やミヨシはしょせんただの人間だ。これ以上巻き込んで危険にさらしては、よいこを名乗れない。

 

「さ、工事現場では派手にやらかしたらしいけど。力自慢のキョーコちゃんにお手並みを見せてもらおうか」

 

 萃香が顎をしゃくった先で重力が歪んでいた。

 もちろんそれは錯覚だが、金属とコンクリートからなる異様な塊を前にすると、思わず喉を鳴らすような圧迫感を覚える。

 

「なんだかカワイイよね。整地ローラーっていうの。キョーコ、知ってる?」

「うん。人並み以上には知ってる……」

 

 整地ローラー。通称コンダラ。

 元陸上部のキョーコには馴染みある道具だ。とはいえ彼女の学校では道路工事に使うような重機がグラウンドを均すのが常で、人間が引っ張るための取っ手を付けたものを見たのは久しぶりだった。

 

「今からキョーコちゃんにコイツを引いてもらいます」

 

 ここに連れてこられた瞬間から、薄々、そうなるような気はしていた。

 

「理由、聞いていい?」

「なんだかオモシロそうじゃん」

「お、オモシロ?」

「ウソウソ。体力作りに役立ちそう。キョーコ、走るんだろ?」

 

 重々しい足取りで歩いてくキョーコは、背中に別のローラーが乗っているのではないかと思う程の項垂れっぷりだった。

 

「こんなことしてる場合じゃないような」

「それじゃあ、一体何をするべきなんだい」

 

 赤錆でざらつく取っ手は、呪いのようによく掌に張り付く。既に身も心も重いが、本当にキョーコの動きを止めたのは勇儀の言葉だった。

 

「日暮れまで正邪のぶん殴り方を考えて過ごすなんて、あんたらしくないよ。見据えるべきはもっと先だろう」

「先」

「ほらほら。考え事なら体動かしながらでも出来るっしょ?」

 

 けんけんぱ、と地面を蹴った萃香が、勇儀の頭を越えて飛び上がる。くるりと宙を舞った彼女は、ローラーに飛び乗ってバランスを取った。

 

「で、どう。やってみる?」

 

 ◆◆◆

 

「いーい、鬼の先輩としてアドバイス。友情、努力、勝利。友情、努力、勝利だよ」

 

 萃香の言葉に思うことは色々あったが、キョーコはそれどころではない。

 

「なんだい、その前時代的なスローガンは」

「およ。知らないの? 勝利の方程式だよ」

「ソロバン弾いて勝てるものかい」

 

 歯を食いしばったキョーコに引かれて、重いコンダラは日向のなめくじのような速度で進んでいく。彼女の苦労などお構いなしに、お山の鬼たちは暢気なものだった。

 

「こっちに来てすぐ教えてもらったんだけどね、コレ守ると絶対勝つんだって」

 

「へえ」興味深そうに勇儀は頷いて、大粒の汗を滴らせるキョーコを観察した。

 

「友情についてはバッチリだろう」

 

 顔を真っ赤にしたキョーコに鬼共は手も貸しちゃくれない。

 

「努力も言うことなし。完璧だね」

 

 この場で汗を流しているのはキョーコだけである。

 

「となると結果は見えてるね」

「今日はあたしたちの大勝利だ」

 

 キョーコの頭上でハイタッチが交わされる。

 方程式に代入される数値がそもそも間違っているような気がする。寡黙に鉄塊を引き摺り続けたキョーコを虚無感が支配しつつあった。

 

「――痛っ」

 

 気を抜いた瞬間に太腿の傷が痛んだ。顔をしかめたキョーコに、勇儀がタオルを差し出した。

 

「そろそろ休憩しとこうか。まだまだ日は高いんだ」

 

 ◆◆◆

 

 昼過ぎにミヨシがやってきて、弁当と麦茶を差し入れた。

 

「しみるねー」

 

 よく冷えた麦茶を飲み干してキョーコはため息をつく。あれほど苦しませてくれたヌルい風は、木陰に入った途端心地よいものへと変わる。

 

「労働の後の飯は格別だね」

 

 砲丸のようなおにぎりにかぶりつく勇儀は無視することにした。昼間から酒をあおった萃香は高いびきをかき、ミヨシは日向で指先に集った蝶を見つめている。

 

「ねえ。そろそろ教えてくれないかな」

「幻想郷のこと、正邪のこと、だったね」

 

 もぞり、と萃香が身じろぎした。

 

「もう無いものや、これから戦うかもしれない相手のことを知ったところで足しになるかい?」

 

 キョーコは草の上で姿勢を正した。しばらく面倒くさそうにそれを眺めていた萃香は、彼女の決心が一向に揺らがないのを見て取って、諦めたように体を起こした。

 

「――もともと私たちは幻想郷という異世界の住人だった。ということは知っていたね」

 

 可憐な少女の声と姿を持つ萃香だが、一度口を開けば老練の吟遊詩人のように滔々と言葉が溢れ出る。この瞬間、騒がしく鳴いていたアブラゼミまで声をひそめて彼女の話に聞き入っているようだった。

 

「とはいえ他の星というほど遠くはない。あくまでこの地球とは地続きの、隔絶された、隠れ里のような場所。その仕切りが博麗大結界」

「結界っていうと、神社とかの、あれ?」

「それのおバケ。果ては知れず、中の世界は風船のようにどんどん膨らみ続けているようでもあった。住むのはいずれも外の世界に居場所をなくした怪異にアヤカシ――私や勇儀、それに正邪のあほんだらもそうだった」

「あん。あたしも?」

 

 勇儀があまりに素っ頓狂な声を上げたので、萃香は話を中断しなければいけなかった。

 

「地底に輝く一番星、怪力乱神の星熊勇儀。向こうじゃ知れた名なんだから。もっとそれらしくしなよ」

「ねえ、ゆーぎって地底人だったの?」

「ちていじん?」

 

 ふと固まったと思うと、次の瞬間に萃香は呵々大笑していた。その声の大きさたるや、遠く見えるビルの屋上から驚いたハトが飛び立つほどだった。

 

「だ、だって前も地底の友達が心配してるとか何とか言ってたじゃない」

 

 何事かと振り返ったミヨシが首を傾げた。なんでもないよと手を振ってやって、萃香は話の穂を継いだ。

 

「いやまあ、そういう言い方もあるね。こいつ人間と暮らすのに飽きちゃってさ。荒くればっかの地底に引っ越したのさ」

「なんだい。昔のあたしは、どうしてそんな無茶苦茶ばかりしていたんだい」

「私に聞かないで。自分の胸に耳を傾けてごらん」

 

 馬鹿正直に胸に手を当てて「むむむ」と唸り始めた勇儀に肩をすくめて、萃香はミヨシの持ってきた紙袋の中を探った。

 

「お。ラムネだ。ラッキー」

 

 うっすら結露した瓶を頬に当て、萃香は微笑んだ。しかし彼女が押しても引いてもビー玉は中に落ちない。

 

「キョーコ、あけて」

「うん。任せて」

 

 歴戦の鬼の手からキョーコに瓶が渡るのを、勇儀はぼんやりと見つめていた。

 

「私たちは外の世界では生きられない。結界で仕切ることで、私達は守られていたんだね」

「あなたたちは外では忘れられたものだから」

「お。いいね。どこかで勉強した?」

 

 キョーコの脳裏に蘇るのは数日前のアンリとの話だった。信仰が怪異の存在感を強めるのなら、逆のことも言えるはずだ。

 

「あたしにゃイマイチよく分からないね」

 

 雲を掴むような話だ。ピンと来ない勇儀を責めることはできないだろう。

 

「難しく考えなくていいんだよ。結界がラムネの瓶だとしたら、私たちはこの、しゅわしゅわ」

「炭酸」

「そう。炭酸みたいなものだと思えばいいんだ。やっぱ頭いいじゃん、キョーコったらあ」

「いやあ、それほどでも――あっ、あーあー」

 

 キョーコの手元で炭酸の泡が弾けた。乾いた音を立ててビー玉が落ちるそばから、とめどなく吹き出した中身が地面に落ちて染みを作る。

 

「瓶の中身は圧力が保たれているけど、外に出ればこの通り。薄れて、いずれ消えていく宿命が待っている」

「ごめん、減っちゃった」

「それほど量はいらないよ。ちょっとこいつを試してみようと思っただのさ」

 

 伊吹瓢がツンとした香りを立ち昇らせた。大方日本酒のソーダ割にするつもりなのだろう。無限に酒が湧き出る魔法のひょうたんは謎に包まれていたが、それを飲み干す萃香の胃袋も神秘という他ない。ひょっとしたらどこかで繋がって、ぐるぐると酒が循環しているのかもしれない。

 

「理屈が通らないねえ」

 

 なんだかんだ熱心に聞いていた勇儀が意を唱える。

 

「だとしたら私たちはどうやって存在してるんだい。それだけじゃない。双子は、大きな犬のバケモノはどう説明する」

「順を追ってやるから安心しな」

 

 麦茶を飲むために用意されたコップの中には酒が半分。そこにラムネを注ぎ込んで、萃香は小指で混ぜ始める。

 

「まず私達のことだけど。どうせ消えるなら何かに混ぜ込んでしまえと考えたやつが現れた。そう、たとえば人間の無意識とかにね」

「無意識にって、どうやって」

「逆の発想。幻想を隠すのではなく、最後の最後で派手にぶちまけてやったの。全世界の人間の前でね」

「それって、いつの話?」

「今年の梅雨が明けたころ」

 

 微妙な表情で日本酒のラムネ割りを舐め始めた萃香を前に、キョーコも勇儀も呆気にとられた。たった数週間前のことじゃないか。

 

「でも、そんなことがあったなら、いくらわたしでも覚えているような」

「人の記憶ほど不確かなものはない。強力な妖怪にかかればチョイだよ、チョイ」

 

 にわかには信じがたい――とは言い切れないのが実情だ。特に勇儀は少し前に数百年分の記憶を無くしたばかり。苦虫をかみつぶした顔で萃香に先を促す。

 

「で、あの子たちや犬については」

「正直憶測になるけどね」

 

 前置きして、萃香は伊吹瓢から直飲みした酒で口をゆすいだ。キョーコがせっかく開けたラムネは、彼女のお気に召さなかったらしい。

 

「一つ目の可能性は人の意識が影響しないくらい最近に生まれた怪異だってこと。キョーコみたいにね」

「あ、そっか。わたし人間ヤメてたんだよね」

「他人事かい。で、二つ目と三つ目だけど、幻想郷のような隔絶されたセカイで生きてきたか。そもそも人の信仰に頼らないくらい力があったか」

 

 三者三様に黙り込み、同時に思い出したのは月の光を帯びた大狗の怪異の姿だった。特に直接剣を交えたキョーコには、対峙の瞬間に覚えた恐怖や威圧感を、つい昨日のことのように思い出すことができる。あれは強い。あれはもっと、色々なことが出来る。それは「お手」や「おすわり」なんてチャチな代物じゃない。

 

「とまあ、こうして幻想郷は消滅。バラ撒かれた住人たちは、人の世界に戸惑いながら生きていくのでした」

 

 まるで「めでたしめでたし」と締めくくりそうな語り口であったが、正直キョーコにはそう思えなかった。

 

「萃香ちゃん。これまで、大変だった?」

「それなりにはね」

「正邪も、そうなのかな?」

「辛いのは皆同じ、と言いたいんだけど。あいつは色々複雑でさ」

 

 萃香の話はまだまだ続きそうだったが、キョーコは腰を上げた。

 

「おや。また頑張ってみる?」

「ううん。そうじゃなくて」

 

 河川敷の土手の上。

 カバンを背に走っていく小柄な人影がキョーコの目を奪った。今なら見なかったことにも、知らんぷりを決め込むこともできる。

 

「チヅルちゃん!」

 

 それでも、声を張り上げずにはいられなかった。

 

 ◆◆◆

 

 このまま走りぬけてしまおうか。

 

「はい。騒々しい人ですね」

 

 そう考えて、チヅルは結局足を止めていた。待ってやるのだからのんびり歩いてくればいいものを、足を引きずってまで走ることは無いだろうと思う。

 

「お、おはよう。違うね。こんにちは、かな」

「もうお昼の時間ですからね」

「チヅルちゃんはこれから練習?」

「大会が近いですから。しょうがないですね」

「そっか。そうだよね」

「先輩は何を?」

「えっと、整地してた」

「はあ?」

 

 カタブツのチヅルを象徴するような、スクエアフレームの赤いメガネ。レンズの向こうから寄越される視線もエッジが利いていて、キョーコの言葉を詰まらせる。

 

「それで……なんですか。とりあえず呼び止めただけなら、もう行きますけど」

「あのね。そうじゃなくて。わたし、一言いっておきたくて」

「なに」

「う。ええと、ええとね?」

 

 後輩相手に何を緊張しているのだろうか。しどろもどろになったキョーコの言うことは要領を得ず、チヅルの苛立ちを加速させる。

 

 ――しっかりしてください。

 

 言ってしまえばいいのにと、チヅルは思う。代わりの憎まれ口ならいくらでも出てくるのに、一番大事な言葉は埋もれたままだ。

 

「あの、やっぱりなんでもない、かも」

「そうですか」

 

 チヅルは俯く。衝動的に、足元に差したキョーコの影法師を、無茶苦茶に踏みつけたくなる。

 

「しっかりしないかい。あんた、その子の先輩ってヤツなんだろう」

 

 考えていた通りの言葉が聞こえた。

 はっとしてチヅルが顔を上げると、キョーコの背後に大柄な女が立っている。派手につんのめったキョーコが拳を振り上げた。

 

「いっ、痛い! 何するのさ!」

「あんたがおでんの大根みたいに煮え切らないから出てきてやったのさ。怒る前に礼の一つも言ってみな!」

 

 思い切り背中を引っぱたかれたのだろう。背中をさするキョーコは目尻に涙さえ浮かべている。

 

「ふ」

 

 その有様があまりに面白くて。その関係に既視感を覚えすぎて。チヅルはプラスティックのように固まった頬に、数カ月ぶりの笑みを浮かべていた。

 

「失礼ですが、ご友人の方ですか?」

「あー、いや。キョーコの親戚でね。こいつの面倒を色々見させてもらってるのさ」

「ねえちょっと」

「うるせえ。黙っときな」

「せんぱい、手がかかるでしょう」

「話せるねえ。あんたも苦労したクチかい」

 

 キョーコは呆然とした。勇儀とチヅルが会うなり親しげに言葉を交わしていることもそうだが、何より、チヅルが笑っている。

 

「なんでしょう。じろじろ見ないでください」

 

 彼女の表情を遠い記憶に残った微笑に重ねていたキョーコは、思わず飛び跳ねた。やはりというか、キョーコに向けられる視線は冷たく、鋭い。

 

「あ、いや。別に大したことじゃ」

「おら、キョーコ」

 

 ひるんだキョーコをもう一度勇儀が小突いた。とはいえ、先の一撃に比べればずっと優しい。

 

「逃げるんじゃない」

「そんなこと」

 

 とっさに反発しそうになって、キョーコは口をつぐんだ。勇儀の言うことは正しい。そろそろ、覚悟しなければいけないのかもしれない。

 チヅルに向きなおって、息を深く吸う。チヅルの鋭い視線も、敵意のにじむ顔つきも変わらない。変わらないといけないのはキョーコの方なのだ。

 

「……部活、大変そうだね」

「そう思いますか」

「うん。後輩の子たちがちょっとね。それにスバルちゃんもあんなだからさ」

「そうかもしれませんね」

 

 チヅルの表情は動かない。とはいえ、気の弱い言葉を掛けたのなら、彼女はさっさと踵を返していただろう。

 

「ありがとう」

「私は何もしていませんが」

 

 キョーコがそうしているように、ヂルヅも辛抱強く向き合ってくれる。それに対する「ありがとう」だ。

 

「それで、部活」

 

 キョーコの喉元に銃弾が装填される。ひょっとすれば、すべてを突き崩してしまうかもしれない一言。

 

「部活、やめたい?」

「いいえ」

 

 恐る恐る放った質問への答えは、一瞬だった。

 

「私がピンチに強い女だということ、お忘れですか」

「チヅルちゃん……」

「それにこんな所で折れていては、先代の部長に示しがつきませんから」

 

 一度だけ。

 そう自分に言い聞かせて、チヅルはキョーコに微笑みを向ける。

 

「ですから心配しないでください。先輩は、先輩のするべきことをしてください」

 

 それが地ならしだとは思えませんが、と。憎まれ口をぶちそうになって、チヅルは口をつぐむ。

 

「そっか。ありがと」

「こちらこそ。お話は以上ですね」

 

 照れ笑いを浮かべるキョーコにチヅルは背を向ける。今度こそ駆け出さんと彼女は踵を持ち上げ――そして、もう一度地面に降ろした。

 

「そうそう。大会で思い出したことが」

 

 たいしたことじゃないんだけど、というような呟きだった。

 

「先輩がお得意だった短距離走に欠員が出まして、困っていたのです」

「え」

「このままでは陸上名門の名折れ。四方手を尽くして駆けずり回っていますが、後任の選手が見つからないのです。ですから、もし、仮にですが」

 

 肩越しに振り返って、チヅルはもう一度笑いたくなった。驚きのあまり、顔のパーツがてんでバラバラになった福笑い人間が立ち尽くしていた。

 

「では。よしなに」

 

 チヅルは風のように軽やかに走り去る。背後でキョーコが何か言っていた気もしたが、風のうなりだと思うことにした。

 

 ◆◆◆

 

「絶対、ゼッタイ、ぜーったいに、イヤですわ」

 

 久しぶりに再会したアンリはかたくなだった。

 

「群れるのは好きじゃありませんの。部活に入ってわいわいキャッチボールだなんて、あぁ、おぞまし」

「それで、休日の暇を肌を焼いて潰していたと」

 

 学園のグラウンドの端に、一脚の白いビーチチェアが引っ張り出されていた。

 

「む。また人の視線」

 

 サングラスを押し下げ、アンリはちらちらと視線を送ってよこしたテニス部を睨み返す。気まずそうにラリーに戻っていく彼女たちは、どう考えても午後の練習に集中できるとは思えなかった。

 

「失礼しちゃいます。そんなにこの髪や目が珍しいのかしら」

「それはどちらかと言うと、あなたの格好に問題があるのでは……?」

 

 小股の切れ上がった体を惜しげもなく夏日と衆目に晒すアンリ。身に纏ったストライプのビキニは、同性のチヅルでさえ赤面しそうなほど布面積が小さい。

 

「町に出られてはどうですか?」

 

 午前中からこの格好でこの場所にアンリが存在していたと考えるだけでチヅルを頭痛が襲う。

 

「なんてことを! 会長様はわたくしに死ねと仰いますのね!?」

「えぇ……」

 

 とにかくこの場からいなくなって欲しい一心の提案だった。しかし、話しを聞くなりアンリはものすごい剣幕でまくしたてる。校内から出られない理由でもあるのか、それとも街歩きに嫌な思い出があるのか。チヅルには分からない。

 

「せんぱい、せんぱーい!」

「あ、子犬ですわ」

 

 失礼極まるアンリの呟きに、チヅルはうっかり頷き返すところだった。

 

「ツルマキさん。自主練、終わったんですか」

「違います。それと、いい加減名前くらい覚えてくださいよ」

 

 息を切らせて駆けてきたチヅルの後輩は、ジャージに刺繍された名前を引っ張って鼻先に突きつけた。

 

「分かりましたから。ちょっと、汗臭いですよ」

「うへへ。それそれ。名前覚えるまで続けますよ」

 

 彼女は、チヅルが受け持った初めての後輩だ。だからなのかチヅルによく懐き、日に日に部員が目減りする陸上部にも毎日顔を出していた。

 

「タイム縮まりました。ほめてください!」

 

 そして、アンリの言葉通り犬に似ている。

 

「はいはい。貸してもらえますか」

 

 ストップウォッチを受け取って、チヅルは液晶に目を走らせる。束ねていた髪を解きながら、アンリが手元を覗き込んだ。

 

「あら。大したものですわね」

「わっ、なんですかこの人!」

「――こういう人です。とりあえず実害はありませんから、そっとしておいてください」

「ちょっと、チヅルさ……ま?」

 

 おそらく神は、大堀チヅルを作るときに素材の配合を間違えたに違いない。合成樹脂でできた顔はめったなことでは表情を浮かべず、今日のように口の端が微かに吊り上がっていることでさえ、珍しい。

 

「よくできましたね」

 

 しかし、この瞬間のチヅルはマネキンを通り越して石仏のようだった。

 

「そうでしょ、そうでしょ。こりゃ来年のエースは決まりましたね」

「気が早いです。せめて私を越えてみなさい」

 

 ただひたすら、異様な光景だった。終始無表情のチヅルも、それを前にして嬉しそうに尻尾を振る何某の姿も。

 

「ツレイシさん」

「ほらまた違う。なんですか」

「最近何かありましたね」

「はい。アマノジャク様に会ったんです!」

 

 チヅルの指先が強張った。

 灼熱のグラウンドの温度が、一気に二度も三度も下がったようだった。ぐっと唇を噛んだチヅルの後ろで、アンリは眉を顰める。

 

「もし、あなた様の願いをお聞かせ願えて?」

「え? えーと、忘れちゃいました。何だかお悩み相談みたいなことした気もするんですけど」

「悩みがあったのですか」

「やだなあ。そんな顔しないでください。願いも悩みも、みーんな忘れちゃいましたから。今はシアワセ。とってもシアワセなんです」

「戻って、自主練の続きをしていなさい」

 

 言うな否やで二人を後に残すと、チヅルは決断的な足取りで歩き始めた。その先には、旧校舎がある。

 

「か、会長様。お待ちになって!」

「いってらっしゃーいー!」

 

 サンダルをつっかけたアンリがその後を追う。残された後輩はいつまでもいつまでも、枯れたヒマワリのように首を傾げ、虚ろな笑みを浮かべていた。

 

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