わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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2『鳴無キョーコときさらぎ駅の怪(下)』

「お願い、待って!」

 

 駅を出て走り出せば、石つぶてのように硬い雨粒が全身を打ち付けてくる。月も星もない無明の空の下で、明かりらしい明かりと言えば、手元のケータイが放つ頼りないライトだけだ。それでもサキを追いかけるキョーコには、彼女の後姿だけがはっきりと見える。

 

「サキちゃん。ずっと待っていたんだよ。ずっと、探してたんだ!」

 

 雨になびくプラチナブロンド。模範生徒という肩書がついて回った彼女がすっかり脱色して登校してきたあの日のことを、キョーコは今でも思い出せる。セッケンの匂いも、体の柔らかさも、何一つ忘れていない。だというのに、サキの後ろ姿はどうしようもなく遠く霞んでいるのだ。

 

「速いよ、サキちゃん。速すぎるよ……っ!」

 

 肺も脚も、爆発しそうだ。サキが速いだけではない。キョーコが遅すぎる。

 

「ついておいで。キョーコちゃんなら出来るから」

 

 自分の発する喘ぎ声の間に聞こえたのは、果たしてサキの声だったのだろうか。キョーコにはもう、何も分からない。

 

「話したいことが沢山あるの。言えなかったことが沢山あるの」

 

 これが現実かどうかも、何故自分が泣いているのかも、分からないのだ。出来るのは壊れた体に走れという命令を下し続けることだけ。

 

「あうっ」

 

 それも長くは続かない。太股の傷に錐をねじ込まれたような痛みを感じた瞬間、キョーコは脚をもつれさせ、前のめりに転げていた。ろくに受身も取れずに顔面を擦りむきながら、砂利と血と、涙を味わう。

 

「あなたが消えたのは……わたしが、カミナリになれなかったから?」

 

 サキの姿をした幻影は、かつてのように手を差し伸べてはくれない。

 

「わたしは、よいこになれなかったのかな」

 

 見捨てられた。キョーコは地面を這って、慈悲を乞うように諸手を伸ばす。幻影はススキの穂のように闇の中に散って、消えていった。キョーコはどうすることもできないで、うずくまる。胸の中に、ぽっかりと虚無が口を開けていた。

 

 ◆◆◆

 

 どれくらい、じっとしていたのだろう。

 

「ぐるる」

 

 風と雨に嬲られるままだったキョーコを現実に引き戻したのは、背後から放たれた気配だった。

 例えるなら生ぬるく、えづくような香りの風。未だかつて味わったことのない違和感の正体が自分に対する明確な殺意であることを悟った瞬間、闇の中から白刃が飛び出した。

 

痛ッ()!?」

 

 とっさに飛び上がろうとしたキョーコの脚に痛みの(トゲ)が刺さる。濡れて滑る石畳の上に体を叩きつけられたが、結果的にそれは正解だった。

 切り裂かれた黒髪が一束舞う。キョーコの首筋をかすめていったものは月光のように輝く銀の毛並みだった。

 

「い……イヌ?」

 

 キョーコの背ほどもある刃渡りのカタナを咥え、軽自動車ほどもあろうかという体躯を誇ってはいたものの、それは間違いなく、(イヌ)だ。

 

「おん」

 

 碧の眼をすっと細め、大狗は身を低く屈める。その大口に、冗談のように長い野太刀を咥えている。

 

「じょ、冗談だよね。ホラ、おねえさんお菓子持ってるよ、は、はは――ひいっ!?」

 

 得物が木の棒ならば、まだ好意的に解釈する余地があった。しかし残念ながら大狗が「とってこい」をしたいわけでないことは明らかだ。またも

 

 キョーコの首筋を狙った刃が、しゃがんだ彼女の頬を僅かに裂いて通り過ぎる。

 

「ぐるるるう」

「あ、ひゃっ!」

 

 赤い血の色は嘘をつかない。これは現実で、間違いなくキョーコは命の瀬戸際に立たされている。

 脚の痛みも忘れて脱兎のごとく駆け出したキョーコを尻目に、大狗は優雅なほど緩慢な仕草で毛をつくろうと、闇の空に高く飛び上がる。野獣にはありえない冷静さを見せ付けながら、銀の死神は獲物を狩り立てる。

 

「逃げなきゃ、殺されちゃう」

 

 石柱の影に隠れて、キョーコは息を潜める。

 

「ここにいれば大丈夫。きっと、絶対」

 

 闇に少しずつ慣れてきた目に見えるのは、無数の石柱の輪郭だった。無我夢中で逃げ続けるうちに奇妙な場所に迷い込んだようだが、運はほんの少し、キョーコに味方したのかもしれない。こうして物陰で息を殺していれば、あの大狗もそうやすやすと彼女を見つけることはできない。

 

「あ――あ?!」

 

 そんな甘い考えをあざ笑うように、キョーコの顔のすぐ横から刃の切っ先が飛び出した。

 

「るるる。うるるる」

 

 石柱がぐらりと揺れる。刃を軸に石の塊を引きずり倒すなんて、カタナの強度も、それを振るう大狗の怪力も異常と言うほかない。辛うじて岩陰から滑り出したキョーコの背を、粉々に砕けた柱の破片が叩く。

 

「ど、どこ」

 

 すぐに来ると思われた追撃は、しかし、いつまで待っても襲ってこない。

 あたりを見回したキョーコの前で、銀の尻尾が石柱の物陰に消えていった。直後、轟音を立ててその柱が斜に切断される。その隣の柱も、そのまた隣の柱も。間をおいて、背後で数本の石柱が崩れ落ちる。

 

「やだ」

 

 あれほど心強かった石の柱は、今では殺人者の隠れ蓑でしかない。

 

「やめて。ねえ、お願いだから!」

 

 言葉くらいでアレが手を休めるはずがないのはキョーコには分かっている。だが、叫ばないと気がヘンになりそうだった。あの大狗は遊んでいる。恐怖でという檻で獲物を閉じ込めて、弱っていく姿をじっと観察しているのだ。

 やがて視界の中で最後の柱が切り倒された直後、不気味なまでの静寂があたりを満たした。

 

「うるるる」

 

 唸り声だけが聞こえる。

 

「るるる」

 

 雨に濡れた床を肉球が擦る音。生臭い血のにおい。音と気配だけが、ぐるぐると回っている。

 

「うわあぁっ!」

 

 緊張が極限に達した瞬間、闇の中から大きな赤い口が飛び出してきた。すっかり身が竦んだキョーコを苦もなく地面に押さえ込み、大狗はカタナの柄を吐き捨てた。キョーコの鼻先で、シュレッダーの刃のように立ち並ぶ牙が火花を散らす。食べる気なのだ、キョーコを。

 

「や、やだよっ、やめろよ!」

 

 降ってくるどろどろの涎が首筋を濡らす。溺れそうだ。

 

「いやだ、お願い。死にたくない――助けてよ、サキちゃん!」

「ぎゃうんっ」

 

 捕食者の愉悦に歪んだ大狗の顔が、大きくひしゃげた。キョーコを粉々に引きちぎるはずだった大顎が目の前で粉砕されていく。歯茎が裂け、弾け跳んだ牙がキョーコの額をかすめる。真っ赤な血の帯を引きながら大狗が闇の中へ跳んでいく姿が、妙にゆっくりとキョーコの眼に焼きつく。

 

「御呼びに預かり堂々参上ッ!」

 

 あまりに大きすぎるものを、人は瞬時に認識できないという。 

 

「怪力乱神を操る最強の悪鬼、星熊勇儀(ホシグマ ユウギ)サマたあ、あたしのことさ!!」

 

 目の前のものが、正にそれだ。剛拳一撃で大狗すら粉砕した怪力の持ち主はキョーコの前で大見得を切って見せる。大木のような足が地面を踏み鳴らすと、地球が揺れたような気がした。

 

「迷子かい? こんなところに迷い込むなんて、あんた、本当に人間?」

「あ、あの……あの、その、あのう……」

 

 巨人と話した経験はキョーコにない。しどろもどろで、言葉を探した。

 

「サキちゃん、ですか」

 

 大柄な人影が首を捻ったのが、辛うじて分かった。

 

「違うね。あたしの名前は星熊勇儀。さっきも名乗ったろう」

「その声、女の、人?」

「そうだよ。これでも結構自信あるんだけど。分からないかい?」

 

 雷鳴のような笑い声が降ってきた。

 彼女がしゃがみ込んできて初めて分かる。美人だ。固形化した炎のような、熱く、危うげに研ぎ澄まされた美貌がキョーコの心を鷲掴みにしていた。

 

「ゆー、ぎ?」

「そうそう。あたしは勇儀サマ。ヨロシクな」

 

 傷ひとつない滑らかな頬に夢見心地で触れる。

 

「おい、もう。くすぐったいよ」

 

 身をくねらすが、勇儀はキョーコを振り払おうとはしなかった。勇儀の頬を撫で上げたキョーコの指が金の髪を梳き、額にそり立つ赤い角に触れる。

 

「……つの」

「鬼だからね」

 

 キョーコは困惑していた。どうして自分は、目の前の女にサキの姿を重ねているのだろうか、と。

 

「あなたは」

「おっと!」

 

 衝撃。

 

「――ち」

 

 一瞬で胸の内から酸素がすべて吐き出され、濡れた石舞台をごろごろ転げながらキョーコは激しく咳き込んだ。雨と一緒に彼女の頬に飛び散った液体は生温かく、錆の臭いがする。

 

「ありゃりゃ。そいつはただのカタナじゃないみたいだね」

 

 勇儀に突き飛ばされなければ首が飛んでいた。キョーコの代わりに一太刀受けた勇儀の右腕。スプリンクラーのような勢いで、真っ赤な鮮血と共に、黒い煙が噴き出している。

 

「その腕、わたしのせいで」

「そんなワケがないだろう。あたしは鬼だよ。偶然さね、偶然」

 

 殺気を漲らせた鬼が飛び掛ってくる。口の周りに血がこびり付いていたが、顎も牙も、元通りだ。

 

「あんたは自分の心配だけしてな。いいね!」

 

 首筋に噛り付こうとした大狗の口に右拳を突き立てた勇儀は、食い込む牙もお構いなしで足元の石畳に豪快に叩きつける。大きく陥没した地面から、血飛沫が噴き上がった。

 

「さぁ逃げなッ、ほらもっと急いで!」

「は、はいっ!」

 

 どこへ、とも。いつまで、とも。勇儀は細かいことを言わなかったので、キョーコはひた走る。足を引きずりながら走って走って、

 

「はれ?」

 

 何度か石柱の荒野を振り返るうちに、ゆっくりと岩盤が持ち上がってきていることに気付いた。足を止めたキョーコがあんぐり口を開いて見守る間に、岩盤はほとんど垂直に立ち上がっていく。

 

「むおおお」

 

 腹の底を揺さぶるような地響きと共に聞こえるのは勇儀のうなり声だった。地面を引っぺがすだけでは飽き足らず、卓袱台返しにしてやろうというのか。

 

「あ、あわっ、あわわわわ!!」

 

 なんたる怪力。なんたる乱神ぶり。なんて、無い語彙を絞っている時間はない。

 

「ううううおおおおおりゃあああああッ!!!」

 

 岩の塊が、飛んだ。その真っ白な岩肌に、キョーコの走馬灯が映りこむ。避難の暇すらなかった。陸上部のエースはもはや形無し。迫りくる岩雪崩の中に、キョーコはあっという間に呑み込まれて消えた。

 

 ◆◆◆

 

「いたた……」

 

 生きていたのは奇跡と言っても過言ではない。岩と瓦礫の雪崩から何とか逃れたキョーコは、いくつか纏まって建っていた廃屋の中に身を隠していた。ライトで照らしたブラウスはあちらこちらがほつれ、うっすら血を滲ませている。

 

「こんな時、サキちゃんならどうするのかな」

 

 あの女傑なら、むしろ地獄の方がうまくやっていける気がした。針山の上でいびきをかく姿を想像すると、少しだけ笑えた。

 

「サキちゃん」

 

 降りしきる雨の中に、まだあの幻影は彷徨っているのだろうか。

 

 ――ざ、ざり。

 

 雨音に耳を澄ませていると足音に気付いた。

 

 ――ざり、ず、ざり。

 

 二本足の足音は、ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。

 キョーコは意を決して、廃屋の戸の向こうへ呼びかけた。

 

「サキちゃん?」

「あん。だから違うって言ったろ」

 

 聞き覚えのある燃えるような声が返ってきた。

 

「勇儀、さん?」

「そうだよ。サキちゃんとやらじゃなくて悪かったね」

 

 戸を開けようとして、血の臭いに気付く。廃屋の中に入ってきた勇儀は一目で分かる重症だった。

 

「その、腕」

「はは。まあ――見事に一本取られたって感じかね」

 

 それは勝ち負けの一本なのか、それとも肘から先がなくなった右腕のことを言っているのだろうか。

 

「あ、でも勘違いするんじゃないよ。あたしは負けちゃいない。三本勝負でいこう。うん、今決めた」

「そういうのいいですから。早く、こっちに座ってください」

 

 キョーコは勇儀に肩を貸して、廃材の山に座らせてやる。ぎょっとするほど、体が軽い。雲に届くと思われた巨体はキョーコの頭ひとつ上まで縮み、腕の傷口からは止め処なく血が溢れている。

 

「傷つくねえ」

 

 勇儀は命の恩人だ。素人目にも絶望的な怪我をしていたが、絶対に死なせるわけにはいかない。ブレザーのリボンを解いて腕の傷口を縛り始めたキョーコを、勇儀は不思議そうに眺めていた。

 

「随分おかしなもんを着ているじゃないか。動き辛くないのかい?」

 

 血の気の引いた顔で、勇儀は笑う。キョーコには彼女の神経が理解できない。彼女は心の底から今の状況を楽しんでいた。

 

「……ヘンなのは、勇儀の方だと思うんだけど」

「んー、そうかなあ」

 

 頬をかく勇儀の左腕。鉄の塊のような手かせの下で、ちりちりと千切れた鎖が揺れている。

 

「これからどうするの?」

「あんたのお蔭で血も止まったし、あのワン公ともう一本相撲を取ってくるかね」

「ダメだよ! 今度こそ死んじゃうって!」

「あんた、あたしが負けると思ってるのかい?」

 

 勇儀の眼差しが刃物のような剣呑さを帯びる。彼女は本気で、あの怪物と第二ラウンドを繰り広げるつもりだった。

 

「行かせないから」

 

 腰を上げようとした勇儀の前に、キョーコが立ちはだかる。

 

「あたしを止められると思ってるのかい」

 

 ぐ、とキョーコは言葉に詰まる。深手を負っているとはいえ勇儀は鬼。叩いてこねてキョーコをハンバーグに変身させるくらい朝飯前なのだ。

 

「じゃ、じゃあね、着いていく。戦うって言うなら、引きずられてでも着いていく。足手まといだよ、大変だよ」

「なんだいあんたは。肝っ玉が大きいのか小さいのか、はっきりできないのかい」

 

 それでも思うところはあったのだろう。キョーコを力で除けようとした手を結局引っ込めた勇儀は、再びむっつりと座り込んだ。

 

「……やられっぱなしじゃ悔しいだろう」

「勝ち負けって、そんなに大事なこと?」

「そうだね。あたしには他に何も無いんだ」

 

 再びキョーコが黙り込むと、大砲のような雷鳴が廃屋をビリビリと揺すった。

 

「負けたら何も残せない。死ぬより残酷だよ」

 

 ぐっと唇を噛むと、塞がりかけの傷口から血が染み出してくる。せめて勇儀と同じ鉄の味を感じながら、キョーコはおもむろに口を開いた。

 

「わたしも怖いんだ」

「あたし残酷だって言った。怖いだなんて言ってないもん」

「走れなくなることが、本当に怖い」

 

 様子のおかしいキョーコを不審に思った勇儀が、その顔を覗き込む。吸い込まれそうな瞳の奥底で青い何かがきらめいている。

 

「鬼の中にも仏がいると言うものだしねえ」

 

 残された腕で、キョーコの肩を抱く。雨に濡れた体は小刻みに震えていた。

 

「勇儀ねえさんが、話くらいなら聞いてやる。ただし嘘はナシだ」

 

 ◆◆◆

 

「わたしね、頭はイマイチだけど足だけは速くて。そのおかげでいい学校に入れたんだ」

「大したもんじゃないか。親兄弟もさぞ喜んだろ」

「はは。だったら良かったんだけどね。あんまり家族と上手くいってないから」

 

 はぐらかすような笑顔を浮かべたキョーコの隣で、勇儀は傷口を縛り直す。

 

「でも足ぶっ壊しちゃって。走れなくなっちゃった」

 

 破れたスカートの下。キョーコの左腿のスマイリーが困ったように笑っている。

 

「筋肉とか腱とかよく分からないけれど、とにかく足がグチャグチャで。切らないで済んだだけマシだって、お医者には言われた」

「ふうん。どうしてそんなことに?」

「事故。どこかの誰かが私をはねて、そのままどこかに行っちゃった」

「そいつが憎くならないかい?」

「うん……ううん、よく分からないな。考えたくない」

 

 一呼吸置いて、キョーコは顔を上げる。

 

「よいこだから。怒ったり恨んだりして、濁りたくない」

「よいこ、ねえ」

 

 誇らしげなのに、キョーコが苦しげなのはどうしてなのだろうか。勇儀は気になったが、黙って話に耳を傾け続けた。 

 

「わたしは諦めたわけじゃないから。医者や皆が決めた場所はゴールなんかじゃない。燃えて燃えてみっともなくあがいて、燃え尽きて無くなる瞬間まで夢を追いかけていたい」

 

 足を喪ったキョーコと、腕を失った勇儀。

 

「わたしが怖いのは中途半端で投げ出してしまうことだ」

 

 相手に自分の姿を重ねたキョーコの弁には、自然と熱が入っていった。

 

「勇儀はまだまだ走れるよ。こんな下らない場所をゴールにするなんて、それこそ負けだよ。大敗北だ」

「あたしの意地は、下らないかい」

「うん。下らない。笑っちゃうね。ははん」

 

 笑い飛ばしてやってからキョーコは思い出す。殆ど挑発同然の発破をかけた相手が大陸をひっくり返すような鬼であることを。

 

「あのですね! この口がつい生意気を申し上げちゃいましたけど、別にさっきの恩を忘れたとかじゃあひゃあ!」

 

 床にひれ伏して必死の弁解をするキョーコに、大きな手が差し伸べられた。

 

「あ、あ、あれ?」

 

 自分の頭がスイカの如く爆砕するヴィジョンに二度目の走馬灯の再生が始まったが、キョーコに触れた手は思いの他優しい。くつくつという漏れ出るような勇儀の哄笑は、すぐに鼓膜を殴りつけるような爆笑に取って代わられる。

 

「ちょ、ちょっと、あの怪物が近くにいるから!」

「これが笑わずにいられるかい」

 

 あまりの大声に廃屋はグラグラと揺れ、天上から降り注ぐ塵と埃の中でキョーコは耳鳴りに耐えなければいけなかった。

 

「何百年も生きてきた鬼が、小娘の説教ひとつで心変わりしちまうなんて。なあ?」

「じゃ、じゃあ!」

「地獄のお供が鬼なら、あんたも文句ないだろ?」

 

 勇儀が差し出した手を握って、キョーコは彼女を立たせた。

 

「わたし、キョーコ。鳴無響子」

「そうか。じゃあキョーコ、肩借りるよ。あぁ、それと」

 

 廃屋を一歩出ると、再び雨と風が二人を苛んだ。二人ともズタズタでボロボロだが、構わない。たったひとり外の暗闇に放りだされるよりは数段頼もしく、そして温かい。

 

「いい名前じゃないか」

 

 勇儀に対して、キョーコは微笑んでみる。なんだか、随分久しぶりに笑ったような気がした。

 

「ありがとう」

 

 ◆◆◆

 

 二人三脚で石畳の道を歩く。

 足は、キョーコがこの世界で目覚めた駅を目指していた。

 

「で、あんたが度々口にするサキちゃんって誰なんだい」

 

 キョーコが黙ってケータイの画面を見せると、勇儀は声を上げた。

 

「こりゃあべっぴんじゃないか」

「古臭い言い方するね」

「ふんだ。古臭い女で悪かったな」

 

 口を尖らせた勇儀の顔を、キョーコはじっと見つめる。

 

「ちょっと勇儀に似てるかも」

「じゃあやっぱりいい女だ。間違いない」

 

 空が唸り声をあげ、二人は束の間口をつぐんだ。

 

「よいこナンタラってのは?」

「よいこ三原則。サキちゃんが作ったルール。よいこは怒らない、泣かない、困っている人を見捨てない」

 

 状況が状況なので、さすがのキョーコも短縮版で説明する。

 

「で、それを忠実に守っているキョーコちゃんはどんなご褒美を待ってるんだ?」

「ご褒美?」

「決め事は、きちんと守ったご褒美があるから存在するのさ。あたしが前暮らしていた所でもそうだった。こっちも変わらないだろ?」

「うん……サキちゃんにまた会える。かも」

「なるほど。そりゃしっかり守ってやんないとな」

 

 駅のぼんやりした灯りが見えてきたころに、勇儀が足を止めた。二、三歩たたらを踏んで立ち止まったキョーコにもそれが見え始めた。

 

「ちょっとばかり、マズいね」

 

 ずちゃり。

 

 支え合って歩く二人の前方、何かがいる。こちらへ、やってくる。

 

 ずちゃ。

 

 あたりの闇がひときわ深くわだかまったように、胡乱なモヤが形を成すのは、辛うじてヒトの形。それの体は周囲のわずかな光すら吸収しているようだ。

 

 びちゃ。

 

 それの湿った足音はどんどん増えてくる。

 

 びしゃ、ずちゃ、どちゃ、ぐちゃ――――

 

 その頭に当たるであろう場所には昆虫の複眼めいた赤い眼と、同じく赤い光を放つ短い角が生えているだけ。角。この状況でそれを目にすると、どうしても鬼という単語が頭に浮かんだ。

 

「あたしの同族だと思うよ。なんというか、妙に人間クサい感じがするけどね」

 

 キョーコの疑問が口を突く前に、勇儀が答えてくれた。

 

「あれ、見える?」

「見えなくても聞こえてるさ」

 

 錆びついたレールの上を騒々しく滑ってくる路面電車。駅に向かっている。久方ぶりに見る人工の光が目に染みた。

 

「後ろだ!」

 

 助かる、という安堵がキョーコの集中を殺いでしまった。気を取られた瞬間、数体の『影鬼』が群れから飛び出してきた。瞬く間に勇儀の拳を叩きこまれ、空中で文字通り霧散する。

 

「っ、あたしの体ならもっとビシっとしろっての」

 

 体に凄んでも、黒鬼を殴り潰した拳の痛みは消えない。勇儀にこれ以上戦わせることはできなかった。出口を目の前にして、二人はじりじりと後退を強いられる。

 

「はな、して!」

 

 キョーコに掴み掛った影鬼を、なんとか振り払う。だがその拍子にケータイがポケットから零れ落ちた。

 

「あっ!?」

 

 伸ばした手の指先に弾かれて、ケータイは更に遠くへ。液晶が輝きを一度放って、石畳の上を滑っていく。影鬼の一体がケータイを拾い上げると、顔の高さに持ち上げてしげしげと眺めはじめる。

 

「返して!」

「いいからここは退くよ」

「だって、あれはサキちゃんの」

 

 キョーコの声に、ケータイを持つ影鬼が視線を上げた。煙の塊でしかない影鬼だちが一斉に額の角からぱちぱちと火花を散らした。顔も声もないそれが、下卑た笑いを浮かべているように見えて仕方がない。

 

「キョーコ、だめだ!」

 

 勇儀を下ろして、キョーコは影鬼に向かって一歩踏み出す。

 

「ねぇ、お願いだから返して。じゃないと」

 

 キョーコの頭上、にわかに灯った明かりが上空に渦巻く雲の輪郭を白く映し出した。

 

「かみなり、か?」

 

 そんなことに意識を向けられるほどの余裕がキョーコには残されていなかった。ケータイ片手にどんどん影鬼は下がっていく。必死で追いかけるキョーコは、自分が群れのド真ん中に誘い込まれているなど、気にも留めなかった。

 

「返せッ!!」

 

 キョーコの怒号に反応した影鬼が一斉に飛び掛かった。

 血と肉の饗宴を予感した勇儀は、ほんの一瞬、キョーコに覆いかぶさる影を見た。影鬼たちとは違う。赤い瞳と白銀の髪を持つ、何者かの姿。

 

「お前、は?」

『私は――』

 

 青白い閃光が縦横に駆け抜けた。飛び散ったのは血と肉ではなく、光と暴風。キョーコに手を出した黒鬼達は見えない爪で引き裂かれるようにバラバラになり、断末魔も許されず霧散した。

 

「わたし、一体」

 

 座り込んだキョーコの周囲で、岩が焼けている。赤黒く煮えたぎる爪痕が周囲に刻まれていた。

 

「あたしが聞きたいくらいだ」

 

 強大な力の余韻のように青白く輝き続ける両手を見下ろすだけとなったキョーコを、勇儀の咳ばらいが現実に連れ戻した。

 

「なんにせよ助かったよ。ついでに起こしちゃくれないかい?」

「ご、ごめん!」

「いいさ。ほら。大事なモンだろ」

 

 勇儀に手渡されたケータイを、束の間キョーコは大事そうに抱きしめた。

 

「おい、キョーコ、悪いが」

 

 感傷に浸る暇などない。

 影鬼たちには恐怖感の持ち合わせは無いようだった。キョーコが吹き飛ばした空白を埋める様に、更に多くの鬼が雲霞のごとく押し寄せてくる。おまけに、影鬼の中に白い物まで見える。あの大狗が影鬼を撫で斬りにしながらこちらへと向かってくるのだ。

 

「おやおや。出たね」

「わたし、戦う」

「逃げるんだよ!」

「でも」

「よいこなんだろ。戦うだの倒すだの、物騒なコト言ってるんじゃないよ」

 

 石畳を一歩一歩踏みしめるごとに足の傷が酷くなっていくのが分かる。ほとんど無我夢中で走ってる最中、何度も影鬼たちの爪がブラウスの背中を引っ掻いたのが分かった。

 

「はあっ、はあっ、ひいっ」

 

 殆ど身を倒れこむように駅舎に転がり込んだキョーコを乗り越えて、勇儀が近くの瓦礫を横倒しにする。塞がれた入り口からは、間髪入れずに無数の打楽器を打ち鳴らすような音が響き始めた。

 

「おわっ」

 

 瓦礫の隙間から例のカタナが突っ込まれ、キョーコの目先数センチで切っ先を乱舞させる。とっさに彼女の襟首を勇儀が掴みあげていなければ串刺しだった。

 

「どきな!」

 

 今度はぎりぎりと音を立てながら路面電車のドアが閉まっていくところだ。素早く飛び出した勇儀がスキマに体を挟み込み、ドアをこじ開ける。

 

「キョーコ、早く!」

 

 いつまで待ってもやってこないキョーコの姿を探す。彼女は駅舎の中ほどでうずくまっていた。

 

「あはは、足が」

 

 腐り果てた床板がついに限界を迎えてしまった。運悪く板を踏み抜いたキョーコの左足が膝下まで呑み込まれている。焦って引き抜こうとすればするほど周りの板も軋み、より深く彼女を深遠へと誘い込んだ。

 

「クソ、破られるか!」

 

 瓦礫を叩く音がどんどん強くなる。壁に亀裂が走り、割れた窓の外には赤い瞳がぎっしり並んでいた。

 

「行って」

「何言ってんだい、あんた」

「わたしはダイジョウブ。あの力でババーってやっつけて、次の電車で追いかけるから」

 

 声も、笑顔も震えていた。それでも彼女は自分を置いて行けと言ってのけたのだ。

 勇儀は傷だらけの己の体を一瞬だけ見た。見て、頷いた。

 

「あんた、もう一度走るのが夢だって言ったね」

 

 乱暴に電車の扉をこじ開け、勇儀はふらつく足で駅舎へ戻る。一歩ごとに血が流れた。一歩ごとに体のどこかが壊れていった。自分という存在が消えていく。それでも彼女は笑ってキョーコの襟首を掴んだ。

 

「困ってるやつを見捨てちゃいけない。だろ?」

「それは、よいこのルールだよッ!」

 

 電車のドアの隙間に狙いを定め、暴れるキョーコを振りかぶる。

 

「鬼は悪者だ」

 

 会心のシュートだった。キョーコの体は見事に閉じつつあるドアのスキマに吸い込まれ、残された左腕でガッツポーズを決めた勇儀は、迫りくる鬼の群れに向き直る。

 

「協調性なんてモンも無いから仲間内で奪っただの殺しただのも日常茶飯事だ。これまでずっとそうだったし、これから先も鬼が団結することは無いだろう。奇跡でも起きなきゃね」

 

 駅舎のバリケードがドアごと吹き飛んだ。

 

「だからかな。最後くらい、宿命ってやつに抗いたくなったのは」

 

 幾千とも幾万とも。駅に向かって殺到する影鬼の数のあまり、黒い大地がうねるように見える。それを見据える勇儀は穏やかだった。そのありえないほどの落ち着きが、否応無しに勇儀の覚悟をキョーコに叩き付ける。鬼らしい不敵な笑みは、背後のキョーコと目の前に待ち構える運命のあぎとの両方に向けられていた。

 

「勇儀――ゆうぎ!」

 

 星の輝きのような軌跡を残して勇儀は跳ぶ。たった一つの拳が影鬼たちの間で火の粉を振りまく。その度に何十という単位で鬼たちが消し飛び、勇儀の鮮血が宙に幾重にも弧を描いた。

 

「一緒に逃げようって言ったじゃないか! 嘘は嫌いなんだろ!」

「やめな、キョーコ」

 

 影鬼の中から現れた巨大な一体が勇儀目掛けて丸太のような豪腕を振り下ろす。受け止めた勇儀と力が伯仲したように見えたのは一瞬だけ。すぐ彼女の全身が爆ぜ、赤い霧がさあっと立ち昇った。

 

「あんたに涙は似合わない」

 

 尚も容赦を見せない黒い鬼達が、勇儀の全身に牙を、爪を突き立てる。その姿がとうとう黒い鬼達に覆われ、うごめく影の塊と化した時になってようやく電車が甲高い音を響かせて動き始めた。

 

「勇儀……わたし、こんなの酷いよ」

 

 駅が遠ざかっていくのを見て、糸が切れた人形のようにキョーコは座席の上に四肢を投げ出した。全身を疲労感と眠気が襲っている。ここで目蓋を閉じれば、きっと自分の住む町に帰れるのだという予感があった。

 

 ――ずん。

 

 目を閉じようとした刹那、明らかにレールと車輪によるものではない揺れが電車を襲った。

 

「あ、ゆ、勇儀、なの?」

 

 断続的な揺れに混じって聞えるのは、きゅ、きゅう、と何かがガラスを擦る音。返事はなかったが、苦しげで今にも消え入りそうなリズムを聞いているうちに、キョーコは音の主を確信していた。

 

「待って。今開ける!」

 

 あれが本当に勇儀なら、きっと電車にしがみついているだけで精一杯のはず。勇気と気力を振り絞って、キョーコは立ち上がる。

 

「ぐるる」

 

 しかし、窓際に立ったキョーコを待ち構えていたのは身に覚えのある唸り声と、殺気だけだった。

 耳障りな音を立ててガラスの向こうから刃が突き立つ。間一髪で身を屈めたキョーコを放って、鋭利すぎる刃が真横に走っていく。窓も窓枠も紙キレのように引き裂いて、あれは、電車を”開ける”つもりなのだ。まるで缶詰のように。

 

「ぐるるるるぅ、うるるる」

 

 電車の屋根が前半分引っぺがされ、再び豪雨と暴風がキョーコの頬をなぶる。

 

「お前」

 

 黒い空を背負って悠然と見下ろす大狗を視界に収めたとき、不思議とキョーコが恐れを抱くことはなかった。

 

「お前だけは許さない」

 

 代わりに芽生えたのは赤黒い怒り。身を焦がす憤怒。

 

「ぶッ倒す。ボコボコにして、二度と立てないようにしてやる!」

 

 大狗が顔を大きく歪める。笑っている。嗤っている。だが構ったことではない。キョーコには剥き出しの柔らかい拳しかない。それも構ったことではない。何があっても、たとえ刺し違えてでも、勇儀の命を弄んだ大狗を屠る。おおよそよいこが持ってはいけない感情を、肯定する。

 

「来い!」

 

 キョーコの指先が青白く光る。後はただ、この力の奔流を解き放つだけだ。

 

「よいこが怒るんじゃないよ」

 

 その輝きが極限に達しようとしたとき、炎のように熱い声がキョーコの頬を張った。

 

「怒るのも泣くのも、鬼がやる。だからあんたは、笑ってろ」

「グ――がああッ!」

 

 大狗の背後からにゅっと伸びた手が、その顔面を鷲掴みにする。

 

「あんたの夢が、叶いますように」

 

 満身創痍の勇儀は、高らかに笑って電車の上から身を躍らせた。漆黒の荒野を、一人と一匹がもつれ合いながら転げていく。勇儀を蹴って飛び上がった大狗が、空中で蜻蛉のように身を翻す。それの咥えたカタナが過たず勇儀の胸を刺し貫いた瞬間、今度こそキョーコは意識を失っていた。

 

 

 

 第一話『鳴無キョーコときさらぎ駅の怪』 おわり

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