わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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8『願い星が堕ちる速度で(下)』

「なあるほど、ですわね」

 

 旧校舎の壁も、アンリの白い尻も、虎のように目を吊り上げたチヅルの横顔も。多分に傾いた陽は地上の一切を茜色に染め上げつつあった。

 

「旧式のストップウォッチで叩き出した新記録。ただし、それはゼロコンマ数秒の差」

 

 スタートを見て、手で計測を開始し、ゴールを確認して、手でスイッチを押す。それでは、どうやっても記録に誤差が出る。

 

「だから、公式な記録は写真や機械で計るんです」

「はあ。なんてハイテクなのかしら」

「常識ですよ、陸上をやるなら」

 

 もちろん、それはチヅルの後輩にとっての常識でもあるはずなのだ。

 

「ズブの素人だってあんな風には喜びません」

「では何かが、あの子の認識を捻じ曲げていると?」

 

 一見してチヅルは無表情だ。しかし、ストップウォッチを握る指先は白く染まっている。プラスティックのフレームが歪んで軋む音が聞こえた。

 

「たとえば、催眠術」

「クスリを使うという話を聞いたことがあります」

「洗脳とか。おっかないですわね」

「そもそも、アマノジャク様が実在すると?」

 

 きわどい水着姿のままのアンリは、サンオイルの香りを振りまきながら髪をかき上げる。傍らで旧校舎を見上げるチヅルの眉間に、また一本縦ジワが刻まれた。

 

「ここへは、それを確かめるために来たのでは?」

「確かに」

 

 チヅルは正面口の戸に近づく。もはや当たり前のように壊された錠を放り捨てて、扉を開く。カビ臭い空気が押し寄せてきた。

 

「ここから先は生徒会が受け持ちます。二階堂さんは日焼けの続きを楽しんでください」

「いけなくってよ、会長様」

 

 アンリの指がチヅルの眼前で振れる。

 

「愉快ごとを一人占するめおつもりかしら? いけなくってよ、会長サマ。本当にイケナイ」

 

 もはや持病になりつつある片頭痛が押し寄せてきて、チヅルはこめかみを押さえる。アンリは何か勘違いしているのか。これは遊びでも何でもないのに。

 

「そもそも、旧校舎は一般生徒の本来立ち入りを禁止しています」

「ふふ。そう遠慮しないでくださいな。あの桃太郎様も鬼ヶ島の戦いでは数を頼ったものですのよ。この二階堂アンリ、今は頼もしきイヌとでも思ってお連れになってくださいな?」

 

 遠のいていく声にチヅルが顔を上げれば、アンリは既に廊下を歩き始めている。踵の高いサンダルの足音が、空っぽの校舎に高らかに響いた。

 

「きびだんごが……欲しくなりますね……」

 

 そうであれば、二階堂アンリというどこに突っ込むか分からない猛犬も、幾らか御しやすくなるだろうに。

 

 ◆◆◆

 

「にしても、意外でしたわね」

 

 埃の上に残る大小無数の足跡を蹴散らして、二人は旧校舎の奥を目指す。理由は分からない。だが、前に進めば進むほど、あたりに漂う異様な気配は濃密になっていった。

 

「たいへん恐れ入りますが、会長様は、もっと冷たい血の通ったお方だと思っておりました」

「どんな理由があろうと人の意志を捻じ曲げることだけは許されないし」

 

 大股に歩くチヅルに、アンリは影の如く、平素の足取りで苦も無くついてくる。

 

「何よりあの子が悩みを抱えているのに気付けなかった。そんな私に腹が立ってしょうがない」

「相変わらず不器用な正義を振りかざしますのね」

「正義とかじゃありません。ただ、腹に据えかねただけです」

 

 埃のカーペットが赤いバラの絨毯に変わったことにも、すすけた柱が大理石の輝きを帯びていくのにも、二人はさしたる関心を寄せずに進み続けた。

 

「ふふ」

「まだなにか?」

「昔、会長様のようなお方にお仕えしたことがありまして。こうしていると、色々と思い出してしまいますの」

 

 いつの間にか、あたりに濃い霧が立ち込めていた。一直線とはいえ一寸先の視界も危うい廊下を歩く足取りは、自然と遅くなる。

 

「今、昔話するような状況ですか」

「いいえ。ここは虎穴。ですから虎の児を得んとする前に、ひとつ忠告でも、と」

「……耳だけは傾けておきますが」

「それは何より。老婆心の甲斐があるというものです」

 

 くすくす、という笑い声がチヅルの背中をくすぐる。

 

「にしても仕える、とは。妙な言い方をしますね」

「立派な主従でしたのよ?」

 

 アンリの考えが、チヅルには分からない。今のイカれた状況をきちんと理解しているのかどうかですら、謎だ。

 

「誰よりも強く、誰よりも優しく。そして、誰よりも孤独なお方でした」

「私は強くも優しくもないはずですが」

「ですが、孤独でしょう」

「むう」

「それに、やはりお優しい方と存じます。ゆえに、どうか狂気に飲まれることだけはございませぬよう」

 

 いつの間にか足を止め、チヅルは聞き入っていた。

 

「狂気?」

「えぇ。あのお方も狂気の虜となってしまわれた。それはそれは、見事なまでに」

 

 ギイ、と音を立てて頭上のシャンデリアが揺れる。蝋燭の茫漠とした光が生み出したアンリの影は暗く、長く、獲物に忍び寄る獣のように、チヅルの足元にまで伸びてきていた。

 

「……その人は、今どこで、何を?」

「何も。首が飛んでは、それでお終いでしょう」

 

 張り巡らせた緊張の糸が、不意に音を立てて千切れた。

 

「――え?」

「やあやあ、誰かと思えば!」

 

 だしぬけに響いた甲高い声。弾かれたように顔を上げたチヅルの頬を、突風が張る。その暴力的なまでの勢いに、メガネがずれる。

 

「こちらへ」

 

 言われるがまま、チヅルはアンリの体に寄り掛かって暴風に耐える。

 

「二階堂さん、これは」

「えぇ。どうやらお出ましのようです」

 

 霧も花弁も、見えざる巨大な手に払いのけられるようにして掻き消えていく。そして現れたのは一息に両端を見渡せないほどの大階段。

 

「色いい返事を携えて、ってワケじゃないみたいだな」

 

 その最上段。大理石の白と金無垢の、目を焼かんばかりの輝きを背負って玉座が一つ据えられている。

 

「初めまして、は違うか。とはいえ久しぶり、なんて言葉を掛け合うほど気安い仲でもない。これは中々難しいぞ」

 

 そこから立ち上がった異様な風体の少女に、チヅルもアンリも見覚えがある。

 

「やはり、アマノジャク様はあなたでしたか」

 

 思えば、彼女が理事長を引き連れて学園を訪問した瞬間から、チヅルの中に予感はあった。

 

「名乗りがまだだったな。私は正邪。お察しの通り、アマノジャク様をやらせてもらっている」

 

 と、そこで正邪はアンリの存在に気付いたらしい。

 

「で、そっちの痴女は?」

「二階堂アンリと申します。今はこちらの会長様のお犬をやらせていただいておりますの」

「お、お犬、だあ?」

 

 怪訝の目で見られても表情一つ崩さず、アンリはチヅルの隣でにこやかに立ち続ける。

 

「時に……わたくし達、以前どこかでお会いしたような気がいたしますが」

「ないな。気のせいだろう」

「ねえ、本当に? しっかりわたくしを見て。ほら」

「あぁ?」

 

 大儀そうに、正邪はビキニ姿のアンリへと目を凝らす。楽しげに細められた瞼の奥へ。

 

「っ」

 

 その、地獄めいた碧の色に、束の間心を奪われていた。

 

「くどいな。無いものは、無いんだよ」

「そうですね。思い違いだったようですわ」

 

 慌てて目を離した後も、その色はしばらく正邪の網膜にこびり付いてきた。

 

「単刀直入に言います。あなたがやろうとしていること。そして、生徒たちに対して既にやってしまったこと。即刻やめて、ここを立ち去っていただきたい」

「へえ。出てけ、だ?」

「素直に従ってくださるのなら、事を荒立てたりはしません。約束します」

「じゃあここで私が食い下がったら? 荒立てるって、どんなことをしてくれるんだ?」

 

 チヅルは、ポケットから取り出したケータイを掲げて見せる。

 

「警察に通報します」

 

 現代においては最強の言葉だ。しかし、正邪は歪んだ笑いを崩しもせず、玉座のひじ掛けに置いた手に、頭を預けた。

 

「それで?」

「学園の土地の占領に生徒の監禁、洗脳。その他諸々、言い逃れ出来ないだけの証拠がこの場にあると思いますが」

「は。ケーサツにどうこう出来るかねえ」

「国家権力を甘く見ると痛い目見ますよ」

「そっちこそ私を甘く見ないことだ――おい」

 

 正邪の合図に合わせ、チヅルたちの背後からゾロゾロと生徒たちが押し寄せてきて、二人を取り囲む。

 

「ずいぶん汚い手を使いますね」

「打てる手は打つ。そこに汚いもキレイもないんだよ」

 

 生徒たちは武装していた。それは尖らせた何かの柄だったり、ガラスの破片だったり、錆びたバールのようなものだったり。なまじ日常に溶け込んだ凶器である分、かえって生々しく身の危険を突きつけられる。

 

「あらあらあら。まあまあまあ。随分としょっぱい余興を用意してくれたものですわねえ」

 

 だが、それはあくまでチヅルのはなし。

 

「この人数でわたくしとやり合おうだなんて。桁が違うんじゃありませんこと、桁が」

 

 指の関節を鳴らしながら進み出た水着女。それを目にした途端、ほとんど反射的にチヅルは彼女を取り押さえていた。

 

「会長様、アマノジャク様が血をご所望ですわ」

 

 思いの外強い力に、チヅルは面食らう。

 

「この子たちの血も、あなたの血も。一滴たりとも流すことは許しません」

「それは、命令ですの?」

「あくまでお願いですが。ただ主様とやらを私に重ねているのなら、少しは言うことを聞いてくれませんか」

「チヅル様」

 

 ふっと、アンリの体のこわばりが解けた。恐る恐る手を離すチヅルと、正邪を交互に見比べ、僅かに肩を落とす。

 

「命を拾いましたわね。この方に感謝なさい」

 

 生徒たちは一言も発しない。諸手を上げた二人を見て、彼女たちも武器を下ろしただけだ。依然として包囲は解けていない。

 

「感謝か。考えるだけでじんましんが出来そうだ」

 

 だが、正邪の口元は笑っている。鳴無響子との対面を前に飛び込んできた二人組。口にせずとも、自覚せずとも。その巡り合わせに、確かに正邪は感謝していた。

 

「倉庫に閉じ込めておけ。こいつらは利用できる」

「会長様、やはり暴れちゃった方がよろしいのではないかしら?」

「大丈夫です。彼女は私達に手出しできない」

 

 音も無く近づいた生徒たちが、二人を拘束する。日に焼けた腕を古い荒縄が擦る感覚に顔をしかめながら、チヅルは冷静に言い放った。

 

「ほう。どうしてそう思うんだ?」

「あなたの欲しがる旧校舎は、私の許可なしに絶対手に入りませんから」

 

 鼻で笑って、正邪はチヅルの得意顔に手を伸ばす。頬を撫でさする鋭い爪を前に、彼女は瞬きもしない。

 

「それもそうだが。お前には餌になってもらう」

「エサ?」

「そう。キョーコ。出来損ないの鬼。あいつを怒らせたい。あいつの力を確かめたいんだ。もう一度」

「鬼? キョーコ、先輩が? あなた、一体何を」

「会長。私と共に来る気は無いか」

 

 流石に動揺を隠しきれないチヅルを正邪が遮る。離れていく彼女の手には、赤いフレームのメガネが握られていた。

 

「人のことなど滅多に、いや、曲り間違っても誉めるつもりはない。だが、お前はそこらの学生とは違う。せっかく出た芽がこのまま踏みにじられていくのは、あまり勿体ない」

「今度はどんな魂胆ですか」

「悔しくなったのさ。それだけだ」

 

 チヅルはドの付く近眼だ。メガネなしでは正邪の表情を確かめることはできない。ぼやけた像を結ぶので精一杯だ。

 

「例えるならば、人も通わないような深山の谷間に紅を差す一輪の花」

「――なに?」

 

 それでもかろうじて、正邪が足を止めたことは分かった。

 

「私から芽吹くのは、そういうものです。踏みにじられようが、無視されようが、私は私が正しいと思うことをするだけ――あなたの誘いには乗りません」

「お前、その目」

 

 ろくに焦点も合わせられないチヅルの瞳。その奥にあったものは、正邪が忘れもしない、あの輝きだ。

 

「いつもだ。ことを成そうとすると、いつもお前のような連中が現れる」

 

 チヅルは黙る。正邪は睨む。

 

「……連れていけ。すぐに」

 

 やがて放たれた、ためいきのような正邪の声。縛られたチヅルとアンリを小突きながら、生徒たちは廊下に渦巻く霧の中へ進んでいく。

 

「正しくてイイコちゃんの会長に一つ教えてやる」

 

 罪人のように引っ立てられながら、チヅルはその声を聞く。

 

「私の華は、お前のようにはいかないんだよ」

 

 背後で大扉が閉まる音が響き、あとには微かな息遣いと、降り積もった花弁を踏む音だけが残された。

 

「ごめんなさい。やはり、連れてくるべきではなかった」

 

 視覚を失うと、アンリの存在感は途端に希薄になる。それでも辛うじて、彼女がチヅルに微笑んだ気配は感じ取れた。

 

「会長様が謝ることではありませんわ。それにわたくし、縛られるのは嫌いではありませんから」

 

 思えばアンリは全裸といっても過言ではないような水着一枚を身に着けただけだ。

 

「寒いですか」

「いいえ。これっぽっちも」

 

 アンリの声が、僅かに震えている。夏だというのに廊下に漂う冷気は冷たく、チヅルですら鳥肌が立つほどだった。

 

「それはさておき、今は別のことに考えを巡らせるべきでは?」

 

 アンリの言う通りだった。正邪の口ぶりからすると、間もなくキョーコがこの場にやってくる。

 

「先輩まで、危険な目に遭わせるワケには……」

「ふふ。キョーコ様。あのお方がいらして、怒りのままに大暴れしてくれるというのなら」

 

 焦燥に駆られるチヅル。その隣でひそかな笑い声を漏らすアンリの頬が大きく深く裂けていく。

 

「願ったり、叶ったりですわねえ」

 

 その奥でカチカチと打ち鳴らされる鋭い牙。その震えの源は寒さなどではない。もっと獰猛で、血なまぐさい衝動だ。

 

 ◆◆◆

 

「鬼人正邪はそれほど強い鬼じゃない」

 

 夏日に焼かれたグラウンド。ついに動きの止まったローラーに腰掛けて、萃香は白い素足をぶらぶら揺らす。

 

「うーん……じゃない、ハズなんだけどなあ」

「ハズって。しっかりしとくれよ」

 

 勇儀が指についた泡を舐める。近場で買ってきた缶ビールを手にした彼女は、あまり楽しそうな様子ではない。

 

「幻想郷のことも、正邪のことも、あんただけが頼りなんだからね」

「文句たれるな。勇儀が記憶を無くさなきゃ、私がこうして頭をひねる必要はなかったんだよ」

「ケンカ、しないで……ね?」

 

 二体の鬼は足元に目をやる。炎天下での過酷な労働の末、ついにぶっ潰れたキョーコは陸に打ち上げられたクラゲのように伸びていた。

 

「正邪が幻想郷に対して戦いを挑んだのは二度」

 

 萃香がキョーコの手を取り、離す。なんの抵抗もなく、手はくたりと落ちる。

 

「二度だって?」

 

 勇儀が驚くのも無理はない。幻想郷は一つの世界だ。それを相手にして二度。尚も生き延びて新しい革命を企てる正邪という存在は、明らかに只者ではない。

 

「とある一族の末裔。そいつに有ること無いこと吹き込んで起こした大混乱。それが一度目」

「その一族って?」

「コビトだよ、小人。お椀の船に箸の櫂ってやつ」

 

 そして萃香に寄せられる、明らかに困惑したまなざし。二人にとって信じがたい話であることは承知の上なので、無視して彼女は続ける。

 

「二度目はあいつと幻想郷の連中との追いかけっこ。とはいえ、どいつもこいつもやる気満々でね。よく凌いだもんだよ、あいつ」

「おいおい。それのどこが『それほどでもない』んだい?」

「一度目はあくまで影から糸を引いていたわけだし。二度目だって、反則級のアイテムを使い捨てながら、なんとか逃げ切ったみたいだからね」

「つまり?」

「こと権謀術数を繰る力と悪運にかけては鬼の中で最強。あとはからっきし」

 

 だからこそ、萃香は改めて首を捻らなければいけない。

 

「勇儀、はじめてアマノジャク様の噂を聞いたのはいつだい?」

「細かいこたあ覚えちゃいないが、先週くらいのことだったかな。野球チームのチビ助どもが急に騒ぎ出して」

「キョーコは?」

「大体ゆーぎと同じくらい」

「つまり、噂の発端はおおよそ一週間前。そこから爆発的にK市中に広がっていったことになる」

「ウワサは、怪異を強くする」

 

 ようやく喋る程度の体力が戻ってきたが、キョーコの頭は霞がかかったように朦朧としている。そんな状態で発したうわごとのような言葉に、萃香は頷きを返した。

 

「だけど、それにしても影響の規模もスピードもおかしすぎる。チビ鬼たちから聞いた話じゃあ、旧校舎の中には城が建っているって言うし、時間の流れまで狂っているそうじゃないか」

「正邪の能力ってことは?」

「あいつの能力は『ひっくりかえす』だけ。まして、人間の認識を操ることなんて」

「新しい能力に目覚めたってことはないかな?」

「ふむ」萃香は伊吹瓢を取り出した。「キョーコ、能力っていうものは鏡なのさ」

「能力が、カガミ?」

 

 紫色の瓢箪が傾く。こんな夏日の下で飲む酒はさぞかし回りが早いのだろう。ぷはぁと息をついた萃香の影法師が、早くも千鳥足を踏み始める。

 

「そう。能力が映し出すのはね、持ち主の本質なんだ」

 

 そこまで言われてもキョーコに実感はない。大狗の怪物と戦う最中、遮二無二呼び出した青白い稲妻。あの激しく荒れ狂う力のどこに、自分の本質が現れているのだろうか。

 

「鏡の像が変わるのは、自分の姿が変わった時だ。そして本質とは往々にして不変のもの。そう簡単に変わったりはしない」

 

 ドロドロに溶けた鉄から作り出した一本の棒。それを別の形に変えるためには途轍もないエネルギーを必要とするのと一緒だ。

 

「それにホラ、正邪ってへそ曲がりだから。一朝一夕で心を改めるとか。ないでしょ?」

「うーん、確かにそうかも」

 

 だが、そうなると正邪が操る力の説明がつかない。

 

「誰かが力を貸しているってのは、ないかい」

「実はね。私も同じことを考えていた」

 

 打って変わって、萃香は真剣な表情を浮かべる。

 

「キョーコ。覚えはないかい。あいつが能力を使う時、すぐ傍に変な奴はいなかった?」

 

 記憶の糸を、必死にたぐる。たぐればたぐるほど、キョーコの脳裏には全く別のものが像を結び始めていた。

 

「ナマクビ」

「首、だって?」

「あ――ごめん。誰かじゃなくて、何か、なんだけど」

 

 違う、とキョーコの頭は否定する。しかし、記憶の中の正邪の腕に抱かれたしゃれこうべは見る間に姿を変えていく。

 

「鬼みたいな角が生えた」

 

 少女の、

 

「白い」

 

 薄ら笑みを浮かべた、

 

「ガイコツ」

 

 生首。

 

「キョーコ、大丈夫かい?」

 

 勇儀の言葉に我を取り戻すと、キョーコの全身を氷雨のように冷たい汗が覆っていた。

 

「急に遠くを見詰めたと思ったら真っ青になってさ。日陰、行く?」

 

 肌に感覚が戻ってきた。体がゆっくりと温まるのを感じながら、うるさい程だった蝉の声を、懐かしく感じる。

 

「……ううん。大丈夫」

「にしてもガイコツか。メチャクチャ怪しい。あいつとやり合う時は注意しなきゃね」

 

 やり合う――キョーコは、何気ない一言を噛み締める。それは、戦うということだ。

 

「あの子を殴ったり、できないかもしれない」

「向こうは手加減しないよ。まして相手は鬼人正邪。旧校舎自体、あいつの仕掛けた罠とかかってもいいくらいだ」

 

 それは、キョーコも理解している。正邪がカタナを使って何かをする気だということも、今や、生徒の命運は彼女の手に握られているということも。

 

「目的のためなら手段を選ばない。そこだけなら、私は正邪をちょっとだけ尊敬しているよ」

 

 これからキョーコが立ち向かうのは、そういう相手だ。三人が見上げた空は気が早いもので、日も暮れないというのに宵の色を浮かべつつある。

 

「行かなきゃねえ」

 

 勇儀の声を合図に腰を上げたのは、しかし、二人の鬼だけだった。

 

「ねえ、最後は?」

 

 ぴたり。萃香の足が止まる。

 

「それは、どういう意味の質問?」

「正邪は最後に、どうなってしまったの」

 

 萃香があえて結末を省いたということを、キョーコは分かっていた。彼女は言葉にせず問うていたのかもしれない。聞く勇気はあるか、と。

 

「大方の想像はついているんじゃないかい」

「うん。でも、教えて欲しい。知らなきゃいけない気がするの」

 

 キョーコはまっすぐに萃香を見つめていた。

 

「ひとりだよ。たったひとり」

 

 そうして小さな唇から語られたのは、あまりに当たり前で、あまりに虚しい事実だった。

 

「あいつはついに、ひとりになってしまった。それだけ。あいつの物語はそこでお終いなんだ。本当に」

「そんなのって」

 

 キョーコの握りこぶしの下で、腿のスマイリーがひしゃげている。

 

「寂しそう?」

 

 幻想郷は、ハグレモノ達が集う場所だ。そこでも世間に忘れられ、更には仲間たちからも見放され。自らの周りに埋めがたい堀を巡らせた後に、彼女は何を感じたのだろうか。

 

「それとも、カワイソウ?」

 

 萃香が問う間、キョーコは唇を真一文字に引き結んだまま、一言も発さなかった。

 

「そんなんじゃないんだ」

 

哀れみにまみれた言葉をかけたなら、今度こそ完全に正邪は心を閉ざしてしまう気がする。だが、どう歩み寄ってやればいいのか、キョーコにはわからない。

 

「なんだか胸のあたりが、ぎゅってする」

 

 日焼けした肌がじりじりと痛む。勇儀を見捨てた時も、萃香を斬りつけたときも、キョーコは同じ痛みを、体のもっと内側で感じていた。

 

「キョーコは正邪をどうしたい?」

「ずるいね」

 

 思わず、キョーコは呟いた。

 

「ごめんね。でも、こうしないとキョーコの本音ってのは聞けないと思ったから」

 

 今日一日ローラーを引かされて、骨の髄までクタクタだ。今すぐ寮に帰って布団に入りたいくらいなのに、これから正邪との対決が待っている。

 

「身も心も限界まで疲れれば、正直なことしか言えなくなるだろ?」

 

 キョーコはよいこだ。そして、心のどこかでは、正邪を倒さなければいけないということも理解している。

 

「答えたく、ないな」

「ダメだよ。今決めて」

 

 戦ってよいこをやめるか。それとも皆を見捨ててよいこをやめるか。キョーコは誰も傷つけられないという正邪の言葉は正しい。だからこそ、決断できないのだ。

 

「簡単なことじゃあないか」

 

 堂々巡りに手を差し伸べたのは、勇儀だった。

 

「これはキョーコと私の問答なんだけど?」

「手助けをしてやるだけさ」

 

 何か言いたげな萃香を後に残して、勇儀はキョーコの前にしゃがみ込む。目線の高さを合わせてみると、彼女はずっとずっと大きく見えた。

 

「嘘偽りなくって言うんなら、先にあたしの質問に答えな。あんたの夢ってなんだい?」

「夢。わたしの夢は」

 

 数日前にアンリと同じ話をした。空白の未来の前に浮かぶ自分の夢は、なんてささやかで、なんてちっぽけなのだろうと。キョーコは自分という人間に絶望しそうになった。

 

「夢に大きいも小さいも無いんだよ」

 

 勇儀のたった一声が、その疑念を打ち砕くまでは。

 

「あたしには記憶がない。正邪が言う通り、中身のないただの抜け殻なのかもしれない」

 

 そんなことはない――キョーコが必死に掛けようとした言葉は、かすれて上手く出てこない。

 

「だけど。この空っぽさを感じていると、あたしはワクワクしてくるんだ」

「……それは、どうして?」

「夢を失ったわけじゃない。だって、あたしの夢は、あんたを送り出す時、あんたの夢に上乗せされたはずなんだから」

 

 その瞬間、豪雨と雷鳴の音がキョーコの頭の中を埋め尽くした。それはあの日、きさらぎの駅で感じたもの。黒い鬼。大狗。サキの面影。勇儀の血の香り。そして彼女の決意。今まで忘れていたものが、全てが戻ってきた。この瞬間に!

 

「わたし、の」

 

 長い夢から覚めたようだった。

 

「なあ、教えておくれよ。あたしを夢中にさせた、あんたの夢を」

「わたしの夢は、もう一度走ること」

 

 それこそが嘘偽りのない本心。あの日の勇儀とキョーコが、暗黒の世界に光明を見出したものなのだ。

 

「わたしはこの足で走るんだ。誰かと戦うのが、わたしの夢じゃない」

 

 もう一度、はっきり言い放つ。

 

「だから、正邪――せーちゃんを傷つけることはできない。いや、しない」

「ふうん。で、具体的にキョーコはどうするのかな?」

「仲良しになるよ。あの子と」

 

 勇儀が言っていた、見据えるべき『先』。それが、この瞬間はっきり見えた気がした。

 

「本当によいこバカなんだから。きっと骨が折れるよぉ」

 

 しかし、言葉でそう言いながらも萃香は笑っている。キョーコは彼女が予想だにしなかった答えを、見事に導き出して見せたのだ。

 

「そう。それが一番、あんたらしいよ」

 

 固く強張った勇儀の顔にも、かすかな笑みが浮かんだ。

 

「走りな、キョーコ。走っている限り、あんたには誰も追いつけない。誰もあんたの夢を邪魔できないんだから」

 

 勇儀は立ち上がり、汗でキョーコの額に張り付いた前髪を優しく除けてやる。

 

「眩しいね、あんたは」

 

 勇儀を見上げるキョーコの瞳。その潤みが、夕日を受けて星のようなきらめきを宿していた。

 

「……ゆーぎ、あのね」

「なんだい。ガラにもないとか何とか、そこの飲んだくれみたいなことを抜かすつもりかい」

「違うの。ありがとう」

 

 口を半開きにしたまま勇儀が固まった。

 

「ま…………参ったね。礼を言われるほど、大したことは言ってないはずなんだけど」

「大したことあるよ。ゆーぎがいなかったら、また取り返しのつかないことをしていたかもしれない。せーちゃんを、萃香のように斬り捨てていたかもしれない」

 

 勇儀の手は、キョーコのそれと比べ物にならないほど逞しく固い。しかし、きゅっと握りしめていると、優しい温かさを感じた。

 

「だから、ありがとう。ゆーぎの夢も、きっといつか取り戻そう。一緒に」

「分かった、分かったから。顔っ、近っ、少し離れてってば!」

 

 勇儀が何度振り払っても、キョーコは吸盤で吸い付いたように離れない。そうして、不思議そうに見上げてくるのだ。

 

「具合、悪いの?」

 

 もはや勇儀の額は脂汗でびっちょりだ。尚も心配げに顔を寄せようとするキョーコを、萃香が引き留めた。

 

「そこいらでやめとき。あたりが火の海になる」

「え?」

「いい加減火を噴くってこと。顔が」

 

 勇儀が、実にばつの悪そうな舌打ちをする。

 

「照れてるのさ、こいつ」

 

 キョトンとしていたキョーコが、ようやくすべてを理解して吹き出した。そこに萃香まで加わって馬鹿笑いを浴びせかけられるうちに、勇儀は大きな体をどんどん縮めていく。

 

「何だよう。よいこが人様を笑っていいのかよう」

「そういうわけじゃないよ。ないけどさ」

 

 とまれ、気持ちは大分軽くなった。しかしこれ以上礼を言って勇儀の顔からマグマが噴出しても困るので、キョーコは微笑を浮かべるに留める。

 いじける勇儀を背にキョーコは木陰に置いていた荷物をかき分ける。取り出したものは細長い包み。巻きつけられた汗臭いツナギの上からでも、薄皮を撫で削るような鋭い気配を感じる。

 

「戦いに行くわけじゃない」

 

 自分に言い聞かせるように呟いて、包みを持つ。準備完了だ。

 

「我々の力は特別だよ」

 

 歩き出したキョーコと勇儀に半歩遅れて、萃香が続く。

 

「力とは本質。だけど、鬼の場合はそれだけじゃない。『どうありたいか』はね。『どうありたくないか』でもあるんだからね」

 

 足元はふら付いているというのに、萃香の言葉はまっすぐキョーコの心を捉えて離さない。その意味も、理由も、今のキョーコに知るすべは無いというのに。

 

 ◆◆◆

 

「なんだよォ!」

 

 風間風太郎は吠えた。

 

「全ッ然終わってねえじゃん!」

 

 河川敷の片隅に、うち捨てられたローラーが物悲しく転がっている。中途半端に作業がなされたグラウンドに三人娘は影も形もない。

 

「……ま。そんな気はしてたんだよなー」

 

 しかし、風間の身を焦がした憤怒の炎は、すぐに消え失せた。代わりにタバコに火を灯すと、夕風に紫煙の帯をなびかせる。

 

「あんたもそう思ったんだろ。だから来た」

 

 返事の代わりに、あたり一面の木々が嵐に吹かれたようにさざめいた。暮れ合いの空に飛び交う木の葉と鳥影。それらに紛れ、巨大なヒトガタのシルエットが、飛んだ。

 

「やれやれ。モテすぎるのも考えものだぜ、キョーコちゃん」

 

 不意に吹きつけた冷風に、風間はドテラの襟元に首を埋める。グラウンドにはうっすらと、季節はずれの霜が降りていた。

 

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