わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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9『虚飾(上)』

「馬鹿正直に約束を守るとはな」

 

 玉座の端に乗せられた盆から葡萄の房を掴み取って、正邪はキョーコを見据える。武装した傀儡の生徒たちが衛兵のように立ち並ぶ大階段にあって、彼女の表情には恐れの欠片も見えない。

 

「勇儀や萃香はどうした?」

「外で待ってるよ。あんまり、時間をかける気はないから」

「へえ。面白い」

 

 正邪は盆を差し出す。キョーコは首を横に振る。

 

「おかしいな。普通、家来っていうのは、主の差し出すものを断ったりはしないはずなんだが」

「わたしはあなたの家来になったりしない」

「つまり、敵陣に一人で乗り込んできたってことか。私を倒して、こいつらを助けるために?」

 

 ブラックな皮肉に、正邪は嗤う。キョーコが助けに来た生徒たちは、今や武器を手に彼女をなます切りにしようとしているのだ。

 

「あなたを倒すつもりはない。傷つけるつもりもない」

 

 それでも凛と、キョーコは言い放つ。

 

「わたしはトモダチになりに来たんだよ、せーちゃん」

「“せーちゃん”だあ? トモダチだあ?」

 

 あたりに積み上げられた菓子や玩具を乱暴に蹴散らして立ち上がった正邪は、狂人でも見るような目をキョーコに向ける。

 

「いいか、私は追われているんだ。いつも命の危険に晒されてる。トモダチになりたいなら、まずは家来として私を守ってもらおうか」

「もういいんだよ、せーちゃん」

 

 足元に転がってきた葡萄を一粒拾い上げ、キョーコは口に含む。渋い。

 

「何だよ、キョーコ、その顔」

「知ってるんだ。せーちゃんはもう自由だ。追いかけてくる人達なんて、とっくの昔にいなかったんだ。そうでしょ?」

「お前……」

 

 正邪の口の端が吊り上がった。笑っているのではない。剥き出しになった牙の切っ先で、憎悪と怒りが輝いている。

 

「お前までそんなことを言うのか」

 

 自分が押してはいけないスイッチを次々と押しているのは分かる。それでも今更やめる訳にはいかない。正邪に現実と向き合ってもらうためには、避けては通れない。

 

「だから、わたしと一緒に帰ろう。安心して暮らせるよ」

「以前……私が騙した小人もそんなことを言って手を差し伸べてきたっけな」

 

 ぞわり。

 

 重力の方向を狂わせて、正邪の体が浮かび上がる。その手には角のある髑髏(ドクロ)。青紫色に煌めく炎に焦がされるそれが、只ならぬ気配を放っている。

 

「そいつは気に食わないから簀巻きにして叩き出してやったが」

 

 戦闘態勢の正邪を前に、キョーコの両手はだらりと垂れたままだ。隠し玉で意表を突く気も、騙し討ちの気配も感じられない。混じりっけなしの無抵抗。

 

「家来になるつもりもなければ、戦うつもりもないってか」

 

 それは、正邪が初めて見せた怒りの形相だった。

 

「だったらくれてやるよ。戦う理由ってやつをな」

 

 正邪が上着のポケットから取り出したものは何てことのない、ありふれた眼鏡だった。スクエアフレームの、赤い、まるでどこかの誰かのカタブツさを象徴するような。

 

「さっき向こうから乗り込んできたんでな。捕まえさせてもらったよ」

「せーちゃん、それは」

 

 メガネのつるを咥えた正邪が、フレームをぐにゃりと曲げて見せる。今やキョーコは顔面蒼白だ。

 

「それだけは、ダメだ」

「そうだ。少しは鬼らしい顔になったじゃないか」

「それだけはやっちゃダメだったんだ」

 

 既にキョーコの背後に刃物を手にした生徒たちが迫っていた。完全に彼女の死角。不意を打たれれば、鬼だって危うい位置だ。

 

「かかれ」

 

 邪悪に笑った正邪の一声で、彼女たちは一斉に飛び掛かった。

 

「お前、自分が何やってるのか分かってるのかよッ!」

 

 キョーコの怒号と共に、無数の機関銃が火を噴くような爆音が広間を満たした。彼女から飛んだ青白い放電が柱を舐め回し、正邪は全身の毛が逆立つのを感じる。

 

「あははっ、いいぞ、キョーコ。その怒りだ。その憤怒こそお前なんだよ。もっと私に見せつけろ!」

「違う、こんなの!」

 

 数日ぶりに思い切り能力をぶっ放した気分は、最悪だ。

 

「いいや違わないね。鬼は元々悪いモノ。見ろよ、そこに転がっているのがお前の本質なんだ」

 

 黒く焼け焦げたカーペットの上に燃える花弁が降り注ぐ。バタバタと折り重なって倒れ込んだ生徒たちに駆け寄ったキョーコを、正邪はせせら笑った。

 

「あぁ、よかった」

 

 脈を確かめて、胸を撫でおろす。まだ能力に覚醒して間もないキョーコには、十分に力を使いこなすことができない。出力全開で放電していたら、今頃床には炭の塊が転がっていただろう。

 

「お前はどうしようもなく歪んでるよ。そのイビツさと言ったら、この私といい勝負だ」

 

 そっと、見知った顔の生徒を床に寝かせて、キョーコは正邪に向き直る。

 

「鬼でありながらキレイゴトを抜かすお前は、間違ってる」

「わたしは、サキちゃんは間違ってない!」

 

 その怒気に反応して、キョーコの全身から火花が散る。うって変わって上機嫌の正邪はメガネを弄んだ。

 

「教えて。チヅルちゃんはどこ?」

「そうだなあ。このメガネを私から取り返したら」

 

 空気が破裂する音がした。

 

「――教えてやろうか」

 

 音を感じた瞬間には、正邪の目と鼻の先までキョーコが迫っていた。振り上げた拳の爪が、鋭い輝きを放っている。

 

「へえ。知恵を付けたか」

 

 ――――ごめん、せーちゃん。ゆーぎ、萃香。

 

 たった一発、全力で打ち込ませてもらう。狙いは余裕の笑みを崩さない口元でも、眼鏡を握る指先でもない。髑髏だ。

 

「力の源を見破ったのは誉めてやろう。だが」

 

 電撃の爪が髑髏の頭蓋を叩き割る寸前、正邪も、髑髏も、キョーコの視界から完全に消失した。

 

「遅すぎるよ、お前」

 

 耳元にふっと息を吹きかけられた瞬間、キョーコは背中に鈍い痛みを感じた。そこから襲い来る、胃袋を掴んで揺すられるような急加速と、衝撃、轟音、激痛。

 キョーコを蹴り飛ばした正邪の足。優雅な曲線を描く太腿をうっとり撫でて、彼女は髑髏に口づけする。

 

「今の私は無敵だ」

 

 ◆◆◆

 

「ぐえっ」

 

 何度目かの衝撃が倉庫を揺らした後、重い物同士をぶつける音に混じって、くぐもった悲鳴が聞こえた。

 

「始まったようですわね」

 

 見張りを手早く片づけたアンリは、チヅルの縄を解きにかかった。

 

「に、二階堂さん? どうやって……」

「武術の心得がありますの。縄抜けはまあ、趣味が高じて、ということで納得していただければ」

 

 我が身の一部同然である眼鏡を失ったチヅルには、大正時代から存在する倉庫の風景も、薄汚れた床に落ちた荒縄も、その鋭すぎる断面も見えなかった。

 

「ここから動きますわね。手をお取りになって」

 

 それでも、旧校舎で何か良くないことが起こっていることくらいは分かる。

 

「ところで二階堂さん、まだ水着のままなんですか」

 

 ぼやけた視界のせいで、前を行く二階堂の後ろ姿は殆ど肌色一色に見える。

 

「えぇ。制服はきゅうくつで困ります。特に、今日みたいな日は」

「周りの人間が窮屈な思いをするとか、考えないんですか」

「いいえ。わたくしの一番は、わたくしが気持ちいいかどうかでしてよ。他は二の次三の次といったところですの」

 

 チヅルは呆れる。呆れるが、今はこの痴女のポジティブさが心の支えだ。手を引いて、迷わず進み続ける足取りも心強い。

 

「ところで、どこに向かってるんですか」

「騒ぎの火元を確かめようと存じます」

 

 やっぱりそんなことはなかった。野次馬根性丸出しのただの変態だ。

 

「ひ、火元って! 明らかに異常事態じゃないですか。ケガしたいんですか、死にたいんですか!?」

「うふふ。会長様は心配性でいけないわ」

「あなたがチャレンジャーすぎるんです! いいから外に出て、警察を呼びましょう。これは犯罪です。テロ行為です!」

 

 及び腰のチヅルをずるずる引っ張って、アンリは粉砕された大理石の壁をなぞって歩く。延々と続く廊下を真っ二つに引き裂くように、破壊の跡も長々と続いていた。

 

「もう、いい加減にしてください。これは私達の手には終えません。二階堂さん、あなたも私も、ただの学生なんですよ」

「しっ!」

 

 アンリの手が、チヅルの口元をぴしゃりと打った。

 

「っ、なんなんですか、もう」

「恐れ入りますが、音が」

「音?」

 

 アンリに倣って耳を澄ませば、遠くから響いてくる奇妙な騒音に気付く。硬質の物体同士がぶつかり合う鋭い高鳴りや、壁や床を打ち砕くとどろき。

 

「戦っておいでですわ」

 

 その音はどちらかと言えば工場の騒音を思い出させたが、実際に目にするアンリがそう言うなら、間違いないのだろう。

 

「戦い? 一体何と何が」

「鬼と鬼。同族の戦いです」

「オニ……」

 

『キョーコ。出来損ないの鬼。あいつを怒らせたい』

 

 どうしても正邪の言葉が思い出されて、チヅルはアンリの肩越しに首を出す。

 

「教えてください。キョーコ先輩なんですか。あの人が、ここにいるんですか。どうして!?」

 

 その肩を乱暴に掴んで、アンリが瓦礫の間に二人の体を滑り込ませる。

 

「伏せて!」

 

 恐ろしく速いものが二人の頭上を通過していった。温室のように廊下を覆うガラスが一斉に砕かれ、瓦礫と共にアンリの背中に降り注ぐ。

 

「チヅル様、お怪我は?」

「はい。おかげで。二階堂さん……それは?」

「大事ございませんわ。石くずが降りかかっただけですの」

 

 手の甲を貫通した破片を顔色一つ変えずに引っこ抜いて、アンリは戦い続ける天邪鬼と雷神に視線を馳せる。戦況は、極端に傾いているようだった。

 

 ◆◆◆

 

「驚いただろう」

 

 顎をカタカタ鳴らしながら、正邪の周りを燃えるドクロが旋回する。嘲笑の二重奏を浴びせられながら立ち上がるキョーコの全身に刻まれた傷が、ゆっくりと癒えていった。

 

「出来るアマノジャクは頭脳で殺す。今どんな気持ちだ? ん? 食物連鎖(ヒエラルキー)のどん底に叩き落とされた気分は?」

「強いんだね、せーちゃんは」

「あ?」

 

 正邪の舌打ちに合わせて、天井から崩れ落ちた巨大な岩の塊がキョーコを押し潰した。

 

「その名前で呼ぶな、虫唾が走る」

 

 もうもうと立ち込める砂埃の中で、折れた牙と血の混じった唾を吐く。勇儀や萃香はああ言っていたが、キョーコは一瞬たりとも正邪を侮ったりはしていない。それでもここまで追い込まれるのは予想外だった。

 

「なあ、時にキョーコちゃんよお。どうして旧校舎と私の名前をセットで広めたと思う?」

 

 体制を立て直す暇も与えず、天井から岩石の雨がキョーコに降り注ぐ。砂塵の中を疾走する青い稲妻を、“とるに足らない鬼”である正邪の瞳が追えている。

 

「どうしてここを抜けると記憶が無くなる? どうして学生共はここでしか私のことを覚えていられない? このご時世に神様は出張営業もしてくれないのか?」

 

 計算づくで配置した岩の牢獄にキョーコを誘い込んで、本命の一撃を叩きつける。煙幕の中で断末魔のように散った青い光を見て、正邪は強者の感覚に打ち震えた。

 

「教えてやろう。ここは私の聖域。私への信仰をあえて限定して集中させた場所。この場所が“旧校舎である限り”私は絶対に負けることはない!」

 

 勝ち誇る正邪の背後から、砂塵に紛れて忍び寄ったキョーコが飛び掛かる。

 

「それに、お前と私じゃ潜ってきた修羅場の数が違い過ぎるな」

 

 ひらりと身を捻った正邪が、キョーコの横っ面に踵を叩き込む。ピンボールのようにバウンドしながら壁にぶち当たった彼女の上に大理石の柱が倒れ込んだのを見て、正邪は腹を抱えた。

 

「あ、ぐ……い、ったあ……」

 

 痛いと言って痛みが無くなるわけではないが、声に出して状況を認識することは大事だ。特に、窮地に立たされている時ほど。

 

「まだやるのかよ。そろそろ見てるこっちが痛くなってくるんだケド?」

 

 勝手極まることを言う正邪を尻目に、キョーコは瓦礫の山から這い出す。正邪の言葉が真実でも嘘でも、このままでは勝ち目がない。

 

 ◆◆◆

 

 埃にむせるチヅルは、しきりに押し殺した咳をしていた。

 彼女を背後に、アンリは注意深く瓦礫の間を移動する。暴風雨のように攻撃を吹かせる天邪鬼は、幸いにもキョーコに首ったけで足元の二人に気付いた様子はない。

 

「キョーコ……先輩が、ここにいるんですか。どうして、教えてくれないんですか」

「恐れ入りますが、わたくしの口からは何とも申し上げられません」

 

 あくまで答えず、アンリはチヅルを抱きかかえる。すらりとしたモデルのような体型にも関わらず、彼女の手足は軽々とチヅルを支えた。

 

「え、ちょ、二階堂、さん。自分で走れますから!」

「ごめんあそばせ。こちらの方が早くってよ」

 

 言うが早いかサンダルを脱ぎ捨て、アンリは疾風のように駆け始める。彼女の素足はガラスの破片の上に血の足跡を残しながら、決して止まることは無い。

 

「む」

 

 煙幕のように立ち込める砂塵の中に道を嗅ぎ取っていたアンリが不意に飛び退った直後、青い稲光が彼女たちの鼻先を擦っていった。

 

「うわあ! 何ですか、今の」

「カミナリ」

 

 アンリは瞼を閉じている。驚くべきことに、視界の一切が利かない砂塵に包まれた彼女が頼りにするのは耳と鼻。それのもたらす情報は、方向音痴という欠点を補って余りある精密な地図を彼女の頭に描き出す。

 

「か、かみなり?」

「えぇ。速くて強くておっかない、現代の鬼」

 

 チヅルには謎めいたアンリの言葉を半分も理解できない。それでも、今目の前を掠めていった砲丸のようなものが天邪鬼と戦っているのなら。

 

「敵の、敵は」

「味方、となれば心強いのでしょうけれど」

 

 ガラスを踏みしだいて、アンリが飛ぶ。

 

「心して聞いて頂きたいことがございますの。よろしくって?」

 

 暴風圏の外側に逃れたアンリは、チヅルを降ろして足の裏を眺める。ズタズタに引き裂かれた肉が激しく蠢き、奥深く埋め込まれたガラスを次々と吐き出していった。

 

「今更改まって、なんですか」

 

 常人には不可能な慣れ業をやってのけたアンリより、状況を上手く把握できないチヅルの方が緊張で息が切れている。それが常識なのだ。ごくごく当たり前の女の子の姿は、理外の理がしのぎを削る戦場ではあまりに頼りない。

 

「アマノジャクの言葉をお聞きになったことと存じますが、確かにわたくし達は勝ちを見込めそうにございません。このままでは」

 

 しかし、アンリはその頼りなさに勝機を見出したようだった。

 

「あのにっくきアマノジャクを玉座から引きずり落とし、ぎゃふんと言わせることが出来るのは、この手だけですの。今この瞬間、チヅル様のお手に、切り札が握られておりますの」

「私に、これを収拾できるって言うんですか」

「左様に存じますわ」

 

 月の香りがする銀の髪。毛先をつまんで弄びながら、アンリはチヅルを値踏みする。碧眼の深淵は、どこまでも冷たい光を灯していた。

 

「今朝は」

 

 いつの間にか真一文字に切り裂いた掌を握ったり閉じたりしながら、チヅルは心細く呟いた。

 

「今朝の内は、結構いい気分でいられたんです。上手く行っていなかった人と少しだけ話せたりして。ここからようやく始められるんだって思ってた」

「それにしてはぶっ飛んだ一日になったものですわねえ」

「えぇ、本当に」

 

 血を流したのは久しぶりだった。皮膚と一緒に、自分の体をすっぽり覆って、感情も感覚も鈍らせていた重いゴムの膜が、切り裂かれていったような気がした。

 

「大袈裟なことを言いますが、個人的に生徒会長の仕事は生徒の日常を守ることだと考えています」

 

 アンリは何も言わない。それでもいいとチヅルは思う。得体の知れない彼女が何を考え、何を企んでいるのだとしても。自分さえブレなければそれでいい。

 

「こんなケバケバしく飾り立てられた(ウソ)は我が校に相応しくない」

 

 決意を宿したチヅルの瞳の中で、アンリが口の端を吊り上げた。

 

 ◆◆◆

 

「よくないねえ。こりゃあ、よくない」

 

 旧校舎の屋根の一部が粉々に吹き飛んだ。そこから迸った青い稲妻が薄闇の空を真白に染め上げ、グラウンドに立つ勇儀たちと、うつろに佇む生徒の輪郭を闇夜に浮かび上がらせた。

 

「正邪のヤツ、何か手を打ったみたいだね」

 

 ちゃぽり、と伊吹瓢の傾く音がする。高みの見物を決め込むことにした萃香は、さっそく一杯やりはじめていた。

 

「キョーコが心配じゃないのかい」

「だって、如何しようもないじゃないか。私たちが旧校舎に入ったら人質がジサツするっていうんだ。任せるしかないでしょ」

「あの子がまた、誰かにカタナを向けることになったら?」

「私はキョーコを信じてる。この傷に誓ったっていいよ」

「おお、やってるやってる。遠くからでも目立つなあ、コレ」

 

 言葉に詰まった勇儀の背後から聞き覚えのあるギコギコ耳障りな音。

 

「おうおうお前ら。整地ほったらかして何処行ったかと思えば。こういう見世物には俺を呼べったら。ズルいぞ」

 

 ママチャリでグラウンドに乗り入れた風間の手にはビールのケース。この修羅場で完全に花見気分の二人に挟まれて、勇儀はじりじりと焦りを募らせていく。

 

「そうかい。真面目ちゃんはあたしだけってか」

 

 更に連続した爆発音が数度。地獄から吹き出したような紫炎に叩き破られた窓ガラスの破片が、月の光を乱反射する。

 

「ゆっぴー行くな!」

 

 堪らず旧校舎に駆け出した勇儀を、鋭く風間が制止した。

 

「止めるな風間っつぁん!」

「お前が行っても足手まといだ。悪いがな」

「だけど、だけどあたしは約束したんだよ。どんな時でもキョーコと一緒だ。それしかしてやれないんだ」

 

 巨大な梁が回転しながら飛んできて二人の間の地面に突き立った。それを蹴倒して腰を下ろした風間は、勇儀に手招きした。

 

「信じて待つのも女房の仕事だぞ」

「誰が女房だい、誰が」

「ま、座れよ。んで頭冷やせ」

 

 端の燻る梁から火種を貰って、風間が煙草をふかし始める。

 

「少し、昔話でもしようや」

 

 息を吹き返したように割れ砕けた旧校舎の窓が輝く。数条の雷光が校舎を直撃し、雷鳴が三人の鼓膜を殴りつけた。

 

 ◆◆◆

 

「本当に、こんなもので?」

 

 部室から持ってきたスペアの眼鏡は度が合っていない。書類にびっしり印刷された文面を呼んでいると、目の奥がチカチカしてきた。

 

「当たるも当たらぬも八卦と申しますもの。当たって砕けろ、清水の舞台から飛び降りるヤバレ=カバレの輝きこそ、青春の華ですことよ」

 

 アンリのうそぶくトンデモ青春論が高らかに響き渡るほど、校舎の中は静まり返っていた。休日ということを差し引いても、この静寂は異質すぎる。

 

「虎穴は新校舎の方だったようですが」

 

 例えるならば、虫の巣。教室の中にうごめく無数の気配が、息を殺してこちらを見ている。

 

「えぇ。皆さん真面目でいらっしゃるのね」

「せえんぱあい。どこへ行くんですかあ?」

 

 やがて、暗がりの教室からぬるりと生徒が現れる。黒い闇が膜を張った瞳は、さながら昆虫の複眼のようだった。

 

「……自主練していろと、言ったはずですが」

 

 その手元で、チキチキと顎を鳴らすような音を立ててカッターナイフの刃が伸びていった。

 

「しましたよお。そんなマジメな後輩をほったらかしてサボりだなんて、こりゃあ部長にはお仕置きが必要ですよねええぇ」

 

 へろへろと力ない動作で上がった腕が、猛烈な勢いで振り下ろされる。ろくすっぽ狙いもつけていなかったのだろう、刃は壁にはじかれ、彼女はバランスを崩して大きくよろける。

 

「もお、どうして避けるんですかあ」

 

 これなら一晩続けても当たらないだろうが、問題はその背後に見えたものだ。

 

「今日はよく袋にされる日ですわねえ」

 

 あたりにひしめく生徒たちの手には金属バットに鉈やノコギリ。殺意の配分が、旧校舎の比ではない。

 

「会長様、あれが見えまして?」

 

 アンリの指さした先に広がる薄闇の中に、チヅルはかろうじてドアを見出す。彼我の距離はおよそ50m。チヅルの足なら六秒強。

 

「殿はわたくしにお任せになって。合図を致しますから、チヅル様はただ只管、脇目も振らず猪の如く駆けてくださいませ」

「二階堂さんはどうするんですか」

「わたくしには野暮用がございますの」

 

 もはやアンリを止めるのは無駄だと悟ったチヅルはカバンの中に書類の束を突っ込んで、廊下の先を睨みつける。

 

「それも、キョーコ先輩が関係することですか」

いちについて(On your mark.)

 

 こんなハチャメチャな状況だというのに体に染みついた習慣とは恐ろしいもので、有無を言わさずアンリが唱えた呪文を耳にしたチヅルの全神経は、既に扉に向けて収束されている。

 

よーい(Get set.)――――どん(Go)

 

 アンリのフィンガースナップが軽やかに響いた。

 片や放送室。反逆への叛逆へと最初のステップを踏み始めたチヅル。片や雲霞の如く殺到する生徒。奇怪に歪んでいくアンリのプロポーション。

 

「はっ、はぁっ」

 

 ただ走るということが、これほど怖いと感じたのは初めてだ。

 ビン底眼鏡で歪んだ景色。背後で次々と開いていく扉から生徒たちが飛び出してくる気配。バタバタと、不揃いで、奇妙な足音が追いかけてくる。

 

「はぁっ――」

 

 背中に忍び寄った恐怖の手を、邪険に振りほどく。そんなものにバトンをくれてやるものか。旧校舎が正邪の聖域というのなら、この50mはチヅルの絶対領域だ。

 

「どうだ、このっ!」

 

 鋼の心臓に鉄の腱。引き絞った弦のようにしなやかな筋肉で、更に速く、更に先へ。

 『放送室』のプレートを弾き飛ばしてドアを開け放ったチヅルは、一度振り向いてアンリの無事を確かめる。

 

「せんぱあああい、待ってくださいったらあああ」

「わあああ!?」

 

 廊下の奥で躍動する銀の光を見付けた直後、目の前に生気のない顔がヌっと現れた。

 

「ツ、ツルサキさん、離してください!」

「だから名前が違うんですったらああ。ぶちょおおおう、私のこと、どうでもいいヤツとか思ってますよねえええぇ」

「…………え?」

 

 放り出されたカッターナイフが床に突き立った。チヅルにすがりついた彼女は、泣いている。

 

「知ってるんですよお。私がバカでぶさいくで出来ない戦力外だってことくらいぃ。だからいっつもテキトーにあしらってるんでしょおぉ!?」

 

 黒い涙と鼻汁がチヅルのジャージに染みていく。がくがくと揺さぶられながら、チヅルは自分の表情が和らいでいくのを感じていた。

 

「そんなことは、ありませんよ」

「え、えぇ? ほんとうですかあ?」

 

 袖を使って顔を拭ってやる。結果的に煤のような汚れが顔じゅうに広がっただけだったが、彼女の瞳を塞いでいた黒いモヤは徐々に薄れて、消えていった。

 

「本当です。私は嘘をつきません」

「で、で、でも。私、使えない子だし。インターだって、エースだって、遠い遠い、また遠い夢のまた夢のはなしだし」

「焦らなくていいんですよ」

 

 愛おしさを込めて、チヅルは彼女の肩に触れた。

 きっと今夜が終われば彼女はすべてを忘れてしまうだろうが、自分だけは、この会話を覚えていようと胸に刻む。

 

「ゆっくりゆっくり、走ればいいじゃないですか。私はずっと、待っていますから」

「じゃあ……えと……なあんだ……私、ずっと勘違いしていたんですね……?」

「はい。ですから誤解も解けたところで」

 

 彼女の背後から無数の足音が迫ってくる。本当はもう少し話したいところだが、仕方がない。

 

「今は取り敢えず、眠っていてください」

 

 後ろ手に持っていたバッグを、脳天めがけて思い切り振り下ろす。ごす、と鈍い音が響いた。真面目一辺倒で本当によかったと思った。休日でも持ち歩く分厚い参考書が、絶妙のエッジをヒットさせたのだ。

 

「え、えぇえ、そんなぁ……?」

 

 意識を失って倒れる寸前、彼女は明らかに正気だったような気もしたが、深く考えないことにする。チヅルはその体をドアの外に優しく蹴り出して、カギを閉めた。

 

「さあ、アマノジャク様。いや、鬼人正邪」

 

 狂ったように叩かれ始めたドアを無視して、チヅルはマイクのスイッチを入れる。スピーカーから流れだした低いうなりを聞きながら、深呼吸を一つ。

 

「私の華を活けて差し上げます」

 

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