わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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10『虚飾(中)』

「とにかく笑わない子でさ」

 

 旧校舎が燃えている。

 火影で真っ赤に染まった校庭は、どことなくキャンプファイアーの夜を思わせる。マイムマイムでも流してやれば、立ち尽くす正邪の傀儡たちも陽気に踊り出すかもしれない。

 

「ミヨっちゃんが腕にヨリかけたメシ持って行っても、俺がどんなにふざけ倒しても苦笑いの一つも返しちゃくれねえ。正直、愛想悪いクソガキだって思ったよ」

 

 潰れたビールの空缶に、風間はちびたタバコを突っ込んだ。じゅう、と断末魔が聞こえた。

 

「それ……キョーコのこと、だよね?」

 

 困った顔で、萃香が問うた。

 彫りの深い顔立ちに濃い影を垂らして、風間がこくりと頷く。

 

「う、うっそだあ。あのノーテンキが? どうせなら、もっと上手いウソ吐けよなー」

 

 へらへら笑って萃香が脇を小突いたが、風間は黙って次のタバコを咥えただけだった。

 

「今思うと、笑い方を知らなかったんだろうな」

「はん。そんなバカな話があるかい」

 

 思わず勇儀は口を挟んでいた。

 

「あたしを引き留めようって魂胆なんだろうけど、時間稼ぎにしても上手い作り話をしちゃくれないかねえ」

 

 信じられないし、信じたくない。あの、脳味噌の代わりに金平糖が詰まっているようなキョーコが。暗く塞いだ少女だったなど。

 

「人は誰でも生まれつき、笑い方を知ってるもんさ。笑えないのはあんたの冗談だ」

「信じる信じないはお前さんに任せるよ」

 

 いつものように風間が意地を張ったなら、まだこの話を笑い飛ばす余地もあったろうに。妙な潔さを見せつけられて、勇儀も萃香も、顔を見合わせて肩を竦めることしかできない。

 

「それに、人は笑い方を忘れる」

 

 古い木材が焼けて爆ぜる音に紛れるように、風間がぽつりと付け足した。

 

「忘れる? なにそれ、どういうこと?」

 

 風間は答える代わりに、心の澱を絞り出すように、細く長く煙を吐いた。

 

「あの子が推薦受かったT女に通い始めて、陸上やらせたサキって奴に再会して。すべてが変わったのは、それからだったな」

 

 タバコに火事。煙っぽい空気から逃れるように勇儀が空を仰ぐと、満点の星空が目に染みた。

 

 ◆◆◆

 

 幾度、打ち込んだろうか。

 幾度、はじき返されたろうか。

 

「お前は確かに速い。が、馬鹿のひとつ覚えだ」

 

 あまりに出来過ぎたワンサイドゲーム。没頭するうち、キョーコは足し算する余裕すら無くしていた。

 

「もっと全力で私を潰しに来い。かつて幻想郷の連中がそうしたようにな」

 

 拒絶の言葉と共に、正邪が大きく体を開く。蹴りだ。ここまで散々足癖の悪さを披露されてきたキョーコの脳裏に選択肢が提示される。

 

 即ち――受けるか、守るか、退くか。

 

 しかし、いつになっても正邪が攻撃を仕掛けることはない。キョーコも同じく、膠着を保つ。

 

「……なんだ?」

「月が」

 

 二人同時に、ガラスの天井を見上げる。

 視線の先には丸い月。そこにポツリと浮かんだ、針の先で刺したような小さな小さな陰り。

 それが高速でこちらに落ちてくる何かであることに気付いた瞬間、二体の鬼は全力で距離を取った。

 

「ごきげんよう。アマノジャク様」

 

 ばりり。

 

 天井に亀裂が入った次の瞬間、ガラスは無数のナイフとなって二人の鬼へと降り注ぐ。

 殺意の雨の中から一際異様で、巨大な切っ先がぬっと顔を出した。

 

「お前、あの時の……!」

 

 二人の鬼が固唾を呑んで見守る先に、銀色の塊が着地した。衝撃でガラスと花弁が嵐と渦巻く中で、それが長い首をもたげる。

 

「その節は大変なご無礼を致しました」

「ゆーぎを斬った、悪い犬……」

「えぇ。悪い、わるーい狗ですことよ」

 

 忘れたくても忘れられない。

 乗用車ほどもある大きな犬。割れた天井から降り注ぐ月光に、銀の毛並が濡れたように輝いている。

 

「お二方、こうして参って早々に大変不躾とは存じますが――」

 

 落下の一撃のまま床に突き立てられていた西洋剣を、大狗は器用に口で引き抜いた。

 波打つような、炎のような、特徴的な加工を施された刃がギラリと光る。

 

「――どうぞ、ここで、おっ()にあそばせ」

 

 再び、烈風が吹きすさんだ。

 

「そうか。勇儀を斬った鬼ってのはお前だったか」

 

 ひとつ飛びで目の前に迫った大狗。首に向かって流れ来る太刀筋を前に、正邪は焦るでもなく呟く。

 

「まあぁ」

 

 ぎしり、と音が響いた。

 

「器用でいらっしゃいますこと」

「剣と犬の相手は初めてじゃない。宴会芸の一つも披露しようと思ってな」

 

 真一文字に振りぬかれた刃を足場に、正邪は冷たく大狗を見下す。

 

「せーちゃん、大丈夫!?」

「…………あぁ。ま、あ。いや」

 

 能天気な呼びかけに、巧みにバランスを取っていた正邪は危うく転げ落ちるところだった。

 

「お前、敵の心配するのかよ!」

「敵じゃない。トモダチだよ!」

「へえ。ならわたくしは?」

 

 攻撃の起こりを察知して、正邪が飛び上がる。

 

「わたくしは敵ですの、味方ですの? それとも、トモダチにしてくださる?」

「わたしはあなたのこと、何も知らない」

「はくじょうですわねぇ。色々と世話を焼き合った仲ではありませんこと?」

「……なんのこと」

「ニブいふりはおやめになったら?」

「行ったぞ、キョーコッ!」

 

 正邪が叫ぶが、会話に気を逸らされたキョーコの反応は完全に遅れた。意識の間隙を貫くように肉薄した大狗が、キョーコの胴めがけて刃を翻す。

 

「よくってよ。敵と言いつつ、情はお捨てになられない」

 

 慌てて大狗から離れていく青い稲妻。赤い筋が、じわり、とその通り道に滲みだす。

 

「ぐっ」

 

 壁際に膝をついて、キョーコは血で染まったブラウスの脇腹を押さえた。

 

「いいわ、アマノジャク様。そういうのは、実にいい」

「――――お前、馬鹿か?」

 

 だが、正邪が狼狽えたのは一瞬のこと。剃刀もかくやというほど鋭利な笑みを浮かべて、正邪は空中でくるりと宙がえりをして見せた。

 

「そいつに死なれちゃ、あのカタナの担い手がいなくなるんだ」

 

 大狗が、低く唸った。

 そこから高笑いの一つでも飛ばすかと思えば、正邪に向けるのは鋭く研いだ剥き身の殺意だ。

 

「どういう仕組みかは知らんが、あれはキョーコにしか使えない。だからお前はこいつを消したい。違うか?」

「……驚かせてくれますわね。さすが、邪知暴虐を極めるアマノジャク様ですこと」

「吐き気がするくらいの誉めっぷりだな。生憎キョーコは我が王国の尖兵だ。お前の好きにはさせないぞ」

 

 あくまで天邪鬼っぷりを発揮する正邪。大狗は、今にも飛び掛からんばかりに全身を張りつめている。

 

「それを知るなら猶のこと。アマノジャク様にも消えていただかなくては」

「いいよ、来いよ。出来るものなら」

「わたしにしか、使えない? どういうこと?」

「うるさい。鬼のクセして甘い台詞ばかり吐きやがって。こっちが終わるまで引っこんでろ」

 

 地を擦り、火花を散らす大狗の刃は、形状も相まって本当に燃えているように見える。

 

「お覚悟はよろしくって?」

「お前の方はどうなんだ?」

 

 正邪の手中で紫炎が沸き立つ。地獄めいた低さの唸りをあげて、大狗の体がぼんやり光り始める。御互いに、唯我独尊の笑みを浮かべていた。

 

「うるる」

「なん、だと?」

 

 しかし、両者の激突は起こらない。

 

「あれは。きさらぎ駅で見た」

 

 突如、床から黒い炎が立ち昇った。

 戦いの余波を受けて倒れ伏した生徒たちの体から、それは沸き出してくる。呆気にとられる鬼たちの前で、黒い渦は徐々に形を成していった。

 

「業鬼」

 

 ずちゃり、と湿った音を響かせて、はじめの一体が立ち上がる。手足をバタつかせて関節の馴染みを確認する仕草は、妙に人間くさい。

 

「ごー、き?」

「人の悪が織りなす鬼。誰もが持ちうる悪業は、時として形を成すことがございますの」

 

 勇儀と駆け抜けた暗黒の世界。

 大狗に追われた祭りの夜。

 

「このK市では、とりわけ激しい形で」

 

 思い返せば業鬼は、どこにだって現れた。

 瓦礫の隙間、月の光を逃れた暗闇。ありとあらゆる場所から、業鬼たちは際限なく生まれ出てくる。無貌の頭部に生えた赤い角をアンテナのように揺らして、キョーコたちの居所を探っているようだ。

 

「なあるほど。学生の中に様子の可怪しいヤツがいると思ったら、そういうことだったか」

 

 ぽん、と手を打つ正邪にも、じわりじわりと業鬼が迫る。ただひたすらに悪食を極めようとする彼らには、それがかつての主人かどうかなど、些細な問題でしかないのだろう。

 

「おいおい、見境なしかよ」

「悪業は悪しきに集う。我々鬼に食指が動くのは当然のことですわね」

「鬼は、悪いものだから……」

「その通り、ですわ」

 

 大狗が無造作に剣を薙ぎ払う。

 体を両断された業鬼たちは床の上を這いずり回り、互いを喰らい合ってひとつに戻ろうとする。

 正邪は暫く面白そうにその様を眺めていたが、すぐに飽きをきたして階上をあおいだ。

 

「ここも手狭になったもんだ。場所を変えよう」

「ま、待って!」

 

 シャボン玉のようにフワフワ漂っていく正邪の後を、業鬼たちの合間を縫うようにしてキョーコが追いかける。

 

「逃がしませんわよ」

 

 無数の業鬼を切り刻みながら、大狗が続いた。

 

 ◆◆◆

 

 長い、長い廊下を、正邪を追ってキョーコは駆ける。

 

 ――――で、あの鬼を捕まえてどうするんだ?

 

 脚のスマイリーが目で問いかけてくる。キョーコは彼を黙らせるようにスピードを上げた。

 

「こんな、時に!」

 

 廊下も業鬼でひしめき合っている。舞い散る花弁を追いかけていた彼らは、キョーコたちの姿を目にした途端に我先へと押し寄せてきた。

 

「質問の答えがまだでしてよ」

 

 殺人旋風がキョーコの背後に追い上げる。

 

「ねえ。仲間外れはいけないわ。わたくし、キョーコ様と仲良しになってはいけないのかしら。ねえ、ねえ、ねえ」

 

 ならまず、その物騒なものを仕舞えと叫びたかった。しかし今のキョーコは走るのに精一杯。大理石の壁に黒い体液が飛沫く。業鬼も壁も床も無残に引き裂いて、大狗が吼えた。

 

「せーちゃん!」

 

 影鬼たちの頭の向こうに、正邪の姿が見える。

 

「ねえ、せーちゃん。こんなことに意味があるの。いくら戦っても、傷付くだけなのに!」

「私は私を守るために戦っている」

「だから戦う相手なんて、もう」

 

 ごう、と音を立てて古びた学習机が飛んできた。

 

「あぐっ」

 

 避ける暇もなかった。顔面に一撃もらったキョーコが体制を崩す。床に寝そべる業鬼に足を取られ、彼女はごろごろ転げていった。

 

「相手ならいるさ」

 

 不思議と、今の正邪はその無様さを嘲笑うことはしない。ただ、無表情のままに淡々と言葉を吐き連ねた。

 

「私の華とは悪の華。失って、ようやく気付いた」

「待っ、うわあ!」

 

 大階段に辿り着いた正邪が別れを告げるように手を振る。重力がひっくり返った。

 

「この先でお前を待つ。犬に負けたら、笑ってやる」

 

 ほとんど垂直に傾いていく廊下に、キョーコと大狗はしがみつく。

 無数の業鬼たちが人形のようにその周りをごろごろと転げ落ちていった。

 

「キョーコ様」

 

 床、というか今では断崖だが。

 板目に剣を突き刺した大狗はその上に「おすわり」して、大階段向けてよじ登っていくキョーコを見上げた。

 

「あのカタナはわたくしの主の忘れ形見」

 

 大狗は、深々と頭を下げて見せる。

 

「どうか、返して頂きたく存じます」

 

 そこには確かに切実な響きがあった。しかし、キョーコは振り返りもしない。

 

「カタナを取り返して、どうするの?」

 

 大狗が、碧い目を細めた。

 

「成すべきことを、成すだけですわ」

「それは、誰かを傷つけること?」

「必要があれば」

 

 壁に、キョーコの爪が深々と突き刺さる。

 

「人を傷つける必要だって?」

 

 忘れかけていた憤怒が、腹の底から沸き出してきた

 

「勇儀を、双子ちゃんを殺そうとしたことに、ちゃんとした理由があったってこと?」

「恐れ入ります。わたくし――」

「何と言おうが絶対にお断りだ。お前にだけは、死んだって渡してやるもんか」

 

 大狗を振り切るように、キョーコは力強く壁を蹴った。弾丸のように飛んだ彼女の前に、大階段がぐんぐん迫る。

 

「愚かなお方」

 

 しかし、下方から異様な気配が迫りくる。

 あと一息で大階段の縁にかけようとした手を引っ込めると、キョーコは真横に飛ぶ。

 直後に奏でられた大音響。キョーコのすぐ傍で爆発した昏い光が、大階段の一部をくり抜くように消滅させていた。

 

「『月に執り着く』わたくしの力は、宵闇の中でこそ最も明るく輝く。これは導きの月光。あなた様の死出の旅路を飾る」

 

 足下に目をやれば、大狗も、西洋剣も、今や狂おしいばかりの碧光を纏っている。

 

「脅かしても無駄だよ」

 

 大狗の力には底知れないものが有ったが、今更キョーコは恐れない。正邪と手を取り合うのだ。日和った選択肢は自ら切る。

 

「わたしは、絶対お前に負けてやれない」

「ハ」

 

 大狗が剣先で天頂を指す。不気味な響きを奏でる光波が、ゆらりと刀身の上に漂った。

 

「大した吠えっぷりですわね鳴無響子!」

 

 その光が解き放たれた瞬間、キョーコはカギ爪で壁を掴んで飛び上がった。

 

「吐いた唾飲むんじゃありませんことよ、ほらァ!」

 

 迫りくる光波の渦。触れようものなら即ジ・エンド級の破壊力を秘めた光の嵐の中を、危うげにキョーコは飛び回る。

 

「くうっ」

 

 廊下は、既にこれ以上破壊できないくらい蹂躙されていた。あばた面の焼け野原。炭化したクレーターを伝って逃げるキョーコの運も、すぐに尽きた。

 

「もらったッ!」

 

 構造的耐久性の限界に達した廊下が、偽りの重力方向へと崩落を始める。急に足場を失ったキョーコが体制を整える隙を与えず、全てを焼き尽くす月光がその身に迫った。

 

「――――出やがりましたわね」

 

 だが。

 

「た」

 

 それの介入が無ければ、間違いなく死んでいた。

 命を拾ったキョーコが目と口を開くと、異様に冷たい空気が粘膜を凍て付かせる。

 

「助けて、くれたの?」

 

 月の色の炎を突き破って、巨大な腕が現れる。その色は、果てしなく黒い。キョーコと大狗の間の虚空に翼も支えもなく浮かんでいるのは、うっすら霜を纏った、鎧の鬼。以前にもキョーコと大狗の死合に割って入ったそれが、僅かに兜を揺らして頷いた。

 

「あ、ありがと……ござい、ます?」

「ねえ、あなた。どこから沸いて出やがりましたの?」

 

 寡黙な鎧の鬼に対し、お喋りな大狗は、既に限界まで苛立ちを募らせていた。

 

「あなた、お名前は?」

 

 当然というか、返事はない。

 

「お住まいは? ご趣味は? 自己アピールなどございまして?」

 

 ふざけた問いの数々。返答は、あくまで沈黙。

 

「静かな方ですのねえ、えぇ!?」

 

 怒号と光波が迸った。二発目の光波の直撃に、鎧の鬼の体が大きく揺れる。砕けた鎧の欠片がバラバラと飛び散った。

 

「――氷?」

 

 キョーコは目を剥く。頬に触れた鎧の破片が、彼女の掌であっという間に水になる。

 

「思い出しました。随分昔のことで、わたくしとしたことが、今までコロっと忘れていましたわ」

 

 大きくひしゃげた鎧が瞬く間に元の姿を取り戻していく。欠けた装飾を補うのは、また、氷だ。

 

「主の傍に、似たような鬼がおりましたわねえ」

 

 それ以上、喋ることは許されなかった。透明な拳で殴りつけられたように、大狗の体が大きくひしゃげた。

 

「氷……だけじゃない。一人に二つの能力……やはり、あなた様は……」

 

 壁に叩きつけられた大狗の目には、これまでの比ではない殺気が込められている。

 その片隅に宿る僅かな郷愁が、キョーコをひどく困惑させる。

 

「ふふ……今更どの面下げて腰抜けがお出ましに?」

 

 大狗の体が反対側の壁に激突する。次はまた反対へ。交互に、交互に、戦意を手折る様に丁寧丁寧丁寧に廊下を血染めにしていく鎧の鬼は、指の先すら動かしていない。

 

「あ、あのっ」

 

 鎧の鬼は攻撃の手を休める。馬鹿丁寧に靴を脱いだキョーコが、小鳥のように肩の上にとまっている。

 

「そのくらいに、しませんか?」

 

 そっと兜に触れたキョーコと、今や虫の息の大狗。それらを交互に見比べて、やがて鎧の鬼は静かに頷いた。それを見て、キョーコはつい、微笑む。

 

「よかった。あなた、優しい人なんだね」

「勝手に……矛を収めた気に……なってんじゃねえですわよ……」

 

 肉団子寸前だというのに、大狗はよく喋った。

 

「もう、やめようよ」

「ぐふふふふ。見くびってもらっちゃあ困ります。わたくし、まったく、これっぽっちも草臥(くたび)れておりませんことよ」

「…………はぁー」

 

 呆れというか、憐れみというか。

 兜の下から聞こえた微かな溜息。それが、この鎧の鬼が初めて見せた感情の片鱗だった。

 

「あ」

 

 鎧の鬼は壁の窪みにそっとキョーコを降ろす。次にその剛腕で掴んだものは、壁に磔にされていた大狗の頭。

 

「よくってよ。わたくしたちの仲ですもの。チリになるまで――ほぐぅえっ」

 

 壁に押し付けられ、大狗の顔も、その声も奇怪にひしゃげる。直後、鎧の鬼は自らを空中に固定する見えない糸をプツリと断ち切った。後はすべて、重力が解決してくれる。

 

「がああああッ! キョーコさまああぁぁ……!」

 

 がりがりがり、と激しく壁を削る音に、悲鳴にも似た大狗の叫びが混ざる。

 猛烈な勢いで落ちていった一鬼と一匹はあっという間に遠ざかり、見えなくなった。

 

「殺さない、よね?」

 

 不思議と、あの巨大な鬼からは敵意を感じなかった。無口な鬼が最低限の手心くらいは加えてくれることを祈ったキョーコが気を取り直して頭上を仰いだ直後、遥か下方でズンという重い音が響き、校舎が揺れる。

 

「いや、本当……大丈夫かな」

 

 ◆◆◆

 

「そのサキってやつと私、どっちが仲良かった?」

「答えるまでもないな」

 

 風間の答えに、萃香は一気に機嫌を悪くしたようだった。見ている方が心配になるくらいの勢いで瓢箪をあおって、少女の物とは思えないくらい汚いげっぷをぶっ放す。

 

「グエエエェ――プ」

「ゲップで抗議するんじゃねえ。酒くせえ」

「私とキョーコの仲良しこよしっぷりを甘く見るなよ。何を隠そう、一度斬られてるんだぞ」

「どんな価値観の中で育てば友情と刀傷を結び付けられるようになるんだ」

 

 風間の背中を叩くのは、包帯に巻かれた萃香の手。細腕でぽこぽこと軽い音をいくら奏でたところで、風間は涼しい顔だ。

 

「ん。ゆっぴー、どうした?」

「あん?」

 

 猛烈なデジャヴュに襲われていた勇儀は、風間の言葉で我に返る。キョーコに「よいこ三原則」を仕込んだという紅坂サキ。その名前が、妙に引っかかっていた。

 

「……なんでもないよ。ちょいと、考えゴトさ」

 

 前の「星熊勇儀」は、知っていたのだろうか。サキの名。キョーコにとっての、彼女の立ち位置。いくら考えても、当然答えは見つからない。

 

「なあなあ。どういうことだよ。これ以上キョーコと仲良くしたら溶けてくっついちゃうぞ。たいへんだぞ」

「そういうことだったんだよ」

「はあ?」

 

 平安の貴族は月を愛で、虫の音に風流を見出したという。果たして本当にそれが楽しかったかどうかは置いておいて、今宵の勇儀は燃え盛る旧校舎とサイレンの音を肴にビールを飲む。こんなに味気ない酒は久しぶりだ。ビールは生温いし、泡は油膜のように口の中にへばりつく。

 

「鬼のお姫様は純粋無垢でいらっしゃる」

「なんだよ、馬鹿にしてるのか、風間」

 

 頬を膨らませる萃香。今までその隣で静かに酒を飲んでいた勇儀が、おもむろに口を開いた。

 

「教えてくれよ、風間っつぁん。女の子同士で唇を触り合ったり、抱き合ったり。それって、悪いことなのかい?」

「え、仲良しって……そういう、こと……?」

 

 風間の言う通り、萃香は無垢なのかもしれない。すっかり置いてきぼりを喰った彼女が、火影の中でも分かるほど頬を赤らめる。

 

「さあな。おっちゃんは見ての通り男だから」

 

 無精ひげが輝く頬を、風間は掻いた。

 

「じゃあ男同士はどうだと聞かれればモチロン無理だ。とにかく俺は絶対ご免こうむる」

「じゃあ、悪いことなの?」

「別にそうとは言ってねえよ」

「逃げるなよ、風間ぁ」

「……うるせえな。悪いことなら鬼の専門分野だろうが。お前らさっきから中学生みたいなことばっかり聞きやがってよお」

 

 自棄になってビールを飲み干す風間の足元には空き缶の山。今夜の酒の回りの悪さは、彼も感じているらしかった。

 

「まあ、でも確かに。あの子は少しだけ後ろめたいのかもしれないな」

 

 キョーコは、よいこだ。

 

「あの子、少しおかしいだろ」

「あんたはそう思うのかい」

「まあな。少なくとも普通じゃない」

 

 結局、キョーコは未来であろうが、夢であろうが。よいこであるためなら、いかな代償でも差し出すだろう。それは清廉潔白というよりも、無菌室や漂白剤のような、どこか不健全な純粋さを思わせる。

 

「一年前に紅坂サキが行方をくらませた時も、あの子はニコニコ笑ったまま。足をやっても、部活をヤメても、ずっと」

 

 サキの「よいこ三原則」が善意の産物だったとしても、それはキョーコを縛る重い枷だ。手足を縛られ、彼女はどこまでも沈んでいく。はずだった。

 

「こりゃそろそろヤバいなって思った時に現れたのが、ゆっぴー、お前だ」

「あたし?」

 

 筆舌に尽くしがたいキョーコの過去。いつしか静かに耳を傾けていた自分の名前が急に織り交ぜられたので、勇儀は思わず聞き返していた。

 

「言ったろ。あの子のよいこは筋金入りだ」

 

 ここに来て、風間は打って変わって愉快そうだ。夜風に吹かれる口元から、歌うように彼の言葉が溢れ出す。

 

「あのキョーコちゃんが、だぜ。お前が来てから泣くし怒るし。ケンカした時なんか、本当にムナクソ悪そうにしてるんだ。こりゃ、ノーベル賞ものの快挙だよ。さすが鬼だって思ったね」

 

 唖然。そうする他ない。同じように呆然と立ち尽くす萃香と目を合わせてから、勇儀はおずおず口を開く。

 

「そ、それは……風間っつぁん。あたしは一体、けなされてるのか? 褒められてるのか?」

 

 豪快な風間の笑いが響く。

 あっはっはっ、と。燃え爆ぜる木の音も、激戦の音も、彼の濁声にかき消されていった。

 

「色っぽいよなあ。年甲斐もなくそそっちまったよ。あの子が怒ってる顔にさあ」

 

 ◆◆◆

 

 それは、一切が白によって構成された世界だった。

 

「お前、本はあまり読まないだろ?」

 

 壁が白なら床も白。果てしなく広がり続ける空間に点々と屹立する建造物も同じく真白だ。

 

「ここは昔、図書室ってやつだったらしい。とはいえ棚だけで本もなくてな。見ていて寒々しいからこうして詰めものをしてやったわけだ」

 

 正邪の言葉で、初めてわかる。

 墓標のように立ち並ぶそれは、超巨大な書架だった。そこに並ぶ背表紙も、また白い。

 

「優しいんだね、せーちゃんは」

「お前、本当はわざとやってるだろ」

「ふえ。何を?」

「もういい。少し、黙ってくれないか」

 

 虚白(きょはく)の世界の中で、ただ、室内に広がる一面の青空と書架の上に腰掛けた正邪だけが色鮮やかだった。

 

「弱者とは、開かれざる本だよ」

 

 バタム、と大きな音を立てて本を閉じ、正邪はそれを無造作に放り捨てる。本は空中で回転すると、鳥のようにページを羽ばたかせながら二人の頭上を旋回し始めた。

 

「誰からも見向きされず、いずれ埃を被って朽ちていく。そこに、ただ有るだけなんだ」

 

 チヅルの眼鏡が、正邪の膝の上で光を反射する。

 外見こそ煌びやかに飾り立て、肌も髪も綺麗に整えられてはいたものの。キョーコの目には、彼女が出会った時以上に弱っているように見えた。

 

「堪らないな。忘れられていくというのは」

「じゃあ。やっぱり、せーちゃんは」

 

 低く、低く、まるで、朽ちかけた木のうろが風に啼くような。キョーコはそれが笑い声だと言うことに気付くまで、時間がかかった。

 

「まったく、寝覚めの悪い夢だ」

 

 鬼人正邪は、孤独な鬼だ。

 古今東西で尽くした悪逆非道の限り。果てに無関心と忘却が有るとすれば、それは望ましい悪の姿だと、かつての彼女は考えていた。

 

「悪の華とは、人の屍の上に憎しみを浴び続けてようやく芽吹くものだというのに」

 

 するりと、絹が滑るように正邪は書架の上から落ちた。

 頭から床めがけて真っ逆さま。床に激突すると思われた矢先に、彼女はキョーコの目と鼻の先で静止する。

 

「敵がいないのなら、新しく作るしかない。私がこれから始める戦いは、そういうものだ」

 

 そっと、正邪はキョーコの頬に手を添える。

 

「驚天動地の大騒乱(メイヘム)。この世界への下克上」

「待ってよ。死んじゃうよ、そんなの」

 

 鬼人正邪がいかに力を増したところで、たった一人の鬼に現代世界という敵は大きすぎる。もちろん、彼女だってそれは承知のはずだ。

 

「生きるか死ぬかは問題じゃない」

 

 唇に、柔らかいものが触れた。

 いたずらに小鳥がついばむようなキスをして、正邪はクスクス笑った。砂糖菓子のように甘い香りがキョーコを包む。

 

「これは私の存在証明だ」

 

 正邪の目の色が変わる。頬にヒヤリとしたものを感じた直後、持てる力を総動員してキョーコは後退していた。

 

「お前はどうせ、私の前に立ちはだかるのだろう?」

 

 直後、正邪の両手から迸った炎は地獄の色。空間も現実も歪曲する温度で燃え盛る紫炎の中で、無数の虚が煮えたぎる。

 

「えぇ。わたしはあなたと戦いたい」

 

 方針を、改めねばなるまい。

 逃れられぬ戦いを決意したキョーコの体は、既に雷光の青に輝く。その右手で凝集していく光が象るのは、禍々しい拵えの日本刀だ。

 

「私をぶちのめすか。それでいい。らしくなってきたじゃないか」

「あなたが憎いからじゃない。死なせたくないからだ。下克上の夢は、ここで捨ててもらう」

 

 虚飾の炎と、憤怒の雷。焦熱の地獄から逃れようと、無数の本が書架から飛び立つ。

 

「いい顔だ。本当にいい顔だ、キョーコ。憎らしすぎて愛おしくなる」

 

 翼を焼かれて落ちる本。炎の雨が降りしきる地獄絵図で、髑髏を抱きしめた正邪が手招きする。

 

「さあ来い。我が名は正邪。生まれもってのアマノジャクだ!」

 

 鬼は地獄で踊るのだ。

 

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