わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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12『意地と勝手と正邪のゆくえ(上)』

 旧校舎が、()()()

 その日一番の稲妻が辺りを真っ白に染め上げた直後だった。

 

「ひゃあ!」

 

 不意に迸った悲鳴に、勇儀は声の出所を探す。

 彼女の背後で、地鳴りのような音を立てて旧校舎の三階が横にずれ込んでいった。まるで、ショートケーキをナイフで切り崩すように。

 

「あんたら、正気に戻ったのかい」

 

 勇儀に掴まれた生徒は、可哀そうなくらい取り乱していた。今まで正邪の見せる幻の中にあったのだ。無理もない。

 

「えひゃっ、だっ、誰ですか。ていうかどうなってるんですか、これっ!」

 

 彼女を生徒を放り出して辺りを見れば、グラウンドはすっかり恐慌状態だった。そのせいか、消火活動も思うように進んでいないようだ。

 

「アマノジャク様の噂が、もう噂以上の意味も力も持つことは無い」

「むぐぐ」

「そー暴れなさんな。ただの魔法の水だよ。こいつをぐーっとやって落ち着くといい」

 

 生徒たちの一人に無理やり酒を飲ませてやりながら、萃香がもうもうと煙る砂塵の向こうに視線を馳せる。

 

「鬼人正邪は敗れた。強いよね、私達のキョーコは」

「そうだ――キョーコ!?」

 

 弾かれたように走り出した勇儀には、おそらく煙も炎も見えていないのだろう。消防隊を押しのけて、彼女の姿はあっという間に砂塵の中へ。

 

「やれやれ。相変わらず活きがいいねえ」

「お前は行かなくていいのか」

 

 肩をすくめた萃香のもとへ、じゃりじゃりと砂を蹴散らしながら風間がやってくる。

 

「あんたの話に、少し思う所があってね」

「……おかしいな。俺ぁ二人に何もかも、包み隠さず話した筈だが」

「じゃあ、私の疑問にも当然答えてくれるよな」

 

 その瞳は炎よりも熱く赤く輝く。

 

「何が聞きたい?」

 

 目線を合わせるように腰を落とした風間は、萃香の放つ熱にほんの少し顔を背けた。

 

「キョーコには親がいるんだろう」

「おそらくな」

「おそらく?」

「あぁ。おそらく」

 

 ――お前、いい子だなあ。

 

「なんだよ。その顔」

「いんや。思い出し笑いだよ」

 

 口をつきかけた言葉を、風間はヤニ臭い唾と一緒に飲み込んだ。ライバルチームの選手を褒めるなんて、とうとうヤキが回っただろうか。

 

「私はまだ、知りたいことを聞けてない」

 

 信じられないことだが、萃香は怒っていた。

 いつもニコニコしているのが当たり前の彼女が、この時ばかりはぐっと下唇を噛んで地面を睨みつけている。

 

「言ったろう。知っていることは全て話した、と――だから、ここからは下衆(ゲス)の勘繰りってやつになるぞ」

「構わない。お前の考えを聞かせろ」

 

 ともすれば風間にも矛先が向きかねない怒りをかみ砕くように、萃香はこくりと頷いて見せた。

 

「ヒトには家族ってもんがあるんだろ」

「大抵はな。だけどおっちゃんなんか酷い男だから――」

「いいんだよ、そんなこと。キョーコは。あの子の親共は何をやってるんだ?」

「そりゃ、どういう意味の質問かな」

「とぼけるなよ。娘が走れなくなっても、学校に行けなくなるかもってドン詰まりにも、手を差し伸べるどころか顔も見せやしない」

 

 突き付けられたのは、今にも解けてしまいそうな、小さな拳だった。

 包帯の裾が夜風に泳ぐ。その下、月の光のもとで露わになったものは。

 

「答えろよ、おっさん。ヒトの親子の絆ってな、そんなものなのか。これじゃあ鬼の方がまだまだ有情だろ」

 

 萃香の包帯の下には、何も無かった。腕という形をした、ただの空白でしかなかった。それが風間の胸ぐらを、ぎゅっと掴んで離さない。

 

「あの子を育てたのは、そういう家族なのさ」

「だから……キョーコは笑い方を忘れたって?」

 

 硝子のように透けた腕の異常。

 その理由は語られず、決して風間も問わず。只、火影の作る地獄めいた色彩の中で二人は冷たい視線を交わし合う。

 ややあって、風間はゆっくりかぶりを振った。

 

「――言ったろ、下衆の勘繰りだ。これはあくまでキョーコちゃんの家の話だ。俺達にはどうすることもできない」

「思ったより薄情なんだね、あんた」

「お前さんより分別があるだけさ」

 

 萃香の言うことはもっともだ。その怒りも、とても正しい。訳知った顔の大人でいることが急に後ろめたくなって、風間は奥歯を噛み締める。

 

「俺たちは所詮、赤の他人だ」

 

 ぶん殴られても文句を言うつもりはなかった。

 

「なら、これから私達があの子の本当の家族になってやればいい」

 

 だからこそ、風間は意表を突かれた思いだった。包帯を巻きなおしながら空を仰いだ萃香は、心地よさそうに月の光に打たれている。

 

「あの子はずっと、虐げられて生きてきた」

 

 空前の忘却と、絶後の無関心。

 それは、かつて小さな世界に引きこもることになった幻想たちに突きつけられた現実そのものだった。

 

「だからこそ、忘れられていく者、消えていく私たち鬼の痛みを誰よりも理解できる」

 

 そして包帯をキツく結び直したなら、もう彼女はいつもの伊吹萃香だった。

 

「鬼人正邪の痛みも、ひょっとすれば。だから私も、あの子の痛みを知ってやりたい」

 

 すっかり泥酔した生徒から瓢箪を奪い取って、萃香は「くああ」と軽くあくびをする。

 

「本当はあんたもそう思ってるんだろ、風間」

 

 火に照らされた萃香の小粒な歯が、真珠のように光っている。答えは要らぬと知って、風間は彼女の横顔を見つめ続けた。

 

「うん。私、明日からがんばる。ぺったりくっつくまでやってみようかな、あの子と」

 

 勇儀を追って、旧校舎へ向かう彼女は何か可愛らしいことを言っていたような気がした。

 風間は苦笑する。その笑みが、唐突に凍り付いた。

 

「そだ。ミヨっちゃん、俺やっぱウソついた。あいつらに言ってないこと、あったわ」

 

 暗がりの中に蝙蝠のように佇んでいた美女が顔を上げた。彼女の小麦色の肌を、うっすら霜が覆っていた。

 

「おっちゃん嫌いだったんだよね。あのサキって女」

 

 ◆◆◆

 

「わたしは一体……何を?」

 

 目を開ければ、満点の星空。

 校舎の屋根は粉々に吹き飛び、双子も、正邪もその場にはいなかった。

 ただ、手の中に納まった刃の、しんとした感覚だけが実感を呼び起こしてくる。

 

『キミの憤怒で世界を壊せ。正しい地獄を作るんだ』

 

 その、虚無じみた響きを宿した声。

 ぞっとするような衝動に身を任せ、正邪を斬ろうとしたことを。

 

「オルガちゃん?」

 

 斬っては、いない。

 

「マヤちゃん?」

 

 いない、はずだ。

 

「せーちゃん」

 

 キョーコは思い出したのだ。

 正邪を一刀両断しかけた刹那。その顔と、その声に感じた不思議な既視感の理由を。

 

「ねえ、答えてよ、せーちゃん」

 

 あれは間違いなく、かつてのキョーコだった。家族から忘れられうち捨てられ、毎朝絶望と共に見つめた鏡に映る、自分の顔だった。

 だからこそ、あの不気味な呪縛を振り払って我を取り戻すことができた。

 咄嗟に真横に払いのけた光刃は途方もない威力と共に校舎を切り崩し、夜空を真白に染め上げて――その後のことは、よく覚えていない。

 

「せーちゃん!」

「……その名前で呼ぶんじゃない」

 

 今にも消え入りそうな返事が返ってきたのは、絶望に駆られたキョーコが膝をつきそうになる一歩手前だった。

 

「今回の下克上も失敗か。そもそも、私の計画が上手くいったためしなんか無いけどね」

 

 焼け落ちた本棚に背中を預けて座っていた正邪は、校庭に乗り入れてきた消防車が放水の準備をするさまを眺めていた。

 その向こうには、この一大事に我関せずを決め込むK市の夜景が見える。

 

「さっきのは手心を加えたつもりか?」

 

 金糸銀糸が光るドレスの装飾は、もはやただただ重いだけ。正邪がそれをむしって次々床に投げ捨てていくうちに、彼女はかつてキョーコと出会った時の、襤褸切れのような姿に戻っていった。

 

「脆いものだよな、私も、私の王国も」

 

 立ち上がって、正邪は呻く。

 白いドレスはほとんど血染め。直撃せずとも、カタナの一撃の余波だけでこのありさまだ。

 おまけに、傷の治りは途方もなく遅い。

 

「一緒に帰ろう」

 

 それは今のキョーコも変わらない。

 血肉を電力に変えてカタナに与え続けたのだ。

 もはや、二体の鬼は会話が出来ることですら不思議なくらいの満身創痍っぷりを発揮していた。

 

「この期に及んでよく言うものだ」

「何度だって言うよ。わたしはせーちゃんのトモダチになりたいんだ」

「見なよ、キョーコ」

 

 崩れた壁から顔を出せば、煙臭い空気が吹きあげてきた。

 煤で真っ黒な顔が、グラウンド中に見える。現実に絶望し、正邪を頼り、虚飾を受け入れ、そしてキョーコの手によってふたたび現実に直面させられた、生徒たちの顔が。

 

「お前の善意ってやつが私の嘘を払いのけた。だが、あいつらの顔と来たら。夢うつつの時の方が、よっぽど生き生きしていたじゃないか」

「でも、わたしは」

「寄るんじゃない」

 

  キョーコが一歩進めば、当然正邪は一歩退く。その先に待ち受けるのは、奇しくも、かつて彼女がキョーコを突き落とした高みだ。

 

「結局お前も私もそう変わらないのさ。自分の気持ちいいと思うことを力で他人に押し付けているだけだ」

「うん。わたしの「よいこ」が結局押し付けでしかないってことくらい、よく分かってるよ」

 

 意外な反応だった。お気に入りの「よいこ」を否定してやればすぐに頭に血を昇らせるとばかり思っていたキョーコは、重々しく頷いただけだった。

 

「だけど、わたし達の間には大きな違いがある。あなたは負けて、わたしは勝ったってこと」

 

 正邪が僅かに目を見開いた。

 

「へえ……存外、言えるもんだ」

「せーちゃんは押し付けの「よいこ」の中では絶対に幸せになれない。だけど、このままあなたを放っておくわけにもいかない」

 

 もはやカタナは用済みだ。

 キョーコが床に投げ捨てた瞬間から刀身は光に還元され、青い蛍のように瞬きながら散って消えていく。

 

「だから、わたしは勝者の特権を行使することにした」

「特権だと?」

「そう。あなたにわたしを押し付ける。わたしの、よいこを。身勝手な幸せを」

 

 青い燐光舞い散る中で、キョーコの髪と瞳も、またぼんやりと輝きを帯びていた。

 

「あなたには、わたしの身勝手の中に溺れてもらう」

 

 その意味が、一瞬分からなかった。

 キョーコが諸手を差し出した意味も、その真意も。

 

「お前。ほんとうにキョーコなのか」

「うん。わたしは間違いなく鳴無響子だ」

 

 正邪はキョーコを鬼にも人にもなれない、どっちつかずの出来損ないとばかり見積もっていた。

 だが、どうだろう。今の彼女が纏う得体の知れなさは、歴戦の怪異が放つものにも等しい。

 

「私のしでかしたことを忘れるなよ」

 

 動揺を悟られたくない。正邪は暗がりに顔を背ける。

 

「バカな学生共を騙してやった。いけ好かない生徒会長には大恥かかせてやったし、旧校舎を買い取るカネにしたって元は私の下僕共から搾り取ったものだ。私は身銭を切らない主義だからな。わはは!」

 

 やけっぱちに正邪が笑えば、張りも自信もない声が廃墟に響く。

 ガラガラと、どこかで校舎の崩れた音が、その虚しさを一層ひきたてた。

 

「分かるだろう。世間一般から見た私は邪悪というやつだ」

「そうなのかな」

「そうなのさ。望んでこの道を歩いてきた……なぁ、お前。こんな悪くて愉快なやつを助けたら、正義の名折れというものだ」

「よいこは正義の味方じゃないよ」

 

 更にキョーコが近づいて、正邪は思わず後ろに転げ落ちそうになった。もう、彼女の背後には奈落が控えているだけだ。

 

「よいこは皆を幸せにする」

 

 とっさにキョーコがその腕を掴む。

 正邪は爪先を校舎の壁に引っかけただけの宙ぶらりんの状態だというのに、不思議なくらい落ち着いていた。それは、真っ青に輝くキョーコの瞳が目の前にあるから、なのだろうか。

 

「わたしの前で、誰一人として不幸にするもんか」

「そこまで……言うのか」

 

 その色に心を奪われていた正邪が言葉を取り戻すまで、長い沈黙の時間が必要だった。

 

「だったらキョーコ、試してみるか」

 

 散らばった単語をかき集めるように、薄い氷の上を渡るように、正邪はゆっくり、ゆっくりと煙る空に言葉を浮かべていく。

 

「お前の身勝手で、果たして私を貫けるのか。その、よいこってやつで」

「それって。じゃあ」

 

 固く引き締まったキョーコの顔が一瞬でふやけた。

 

「せーちゃんっ!」

「うわ。なんだお前、やめろ、くっつくな!」

 

 砂と汗と血のにおいが正邪の鼻腔を満たした。

 朝もはよから整地に精を出し、着替えずその足で正邪の城へ殴り込み。今のキョーコは、正直クサい。

 それでも彼女の腕の中で安堵の息を聞いていると、自然正邪の体の強張りも解けていった。

 

「やっと、やっとなかよしになれるね」

 

 両手を取り合えば、あとはお約束。死闘を繰り広げたなかよしの鬼たちは、熱いハグで友情を確かめ合うのだ。

 

「ね。もっとぎゅっとしていい? なんだか夢みたいで」

「そういうのはお断りだ。お前、いいか、私は。はは。あははははっ」

「何さあ。いきなり笑っちゃってえ」

「だっておかしいじゃないか。この私が幸せとか仲良しとか友達とか」

 

 さあさ皆さんお立合い。ここに見えます友情物語は、これでめでたし拍手喝采。鬼同士の戦は一人も泣かぬ大団円――

 

「安い言葉で飼いならせる、ありきたりな小物と思われていたとは」

 

 ずん、とキョーコの両腕が重くなった。

 

「耳障りのいいコトバばかり吐くじゃないか。ちょっと大人しく聞いてりゃ、ウンザリさせやがって」

「――――身代わり、地蔵」

 

 正邪を抱きしめていた腕の中には穏やかな笑みを浮かべる地蔵が一尊。正邪の高笑いが、夜空高く昇っていく。

 

「ダメだよ。そんなことしたら!」

「あぁそうさ。これは最後の贈り物だ」

 

 高く高く、天女のように美しく雲海を泳いだアマノジャク。

 その哀れな飛翔に、最後に残された一欠けの力まで使い果たせば、ついに彼女は散々騙してきた重力の手に捕まってしまう。

 

「お前のよいこを否定してやる!」

 

 月に別れを告げたなら、地上の星々はあっという間に冷たい夜景へと姿を変える。

 風を切りながら見えてくるのは固い地面と、地蔵を手に正邪を見上げるキョーコ。

 

「さらばだ、偽善者」

 

 そのマヌケ面に、たった一言吐きかけて。正邪は自分の周りに立ち込める黒いものを知る。それはきっと光をとざす黒雲であり、舞台を締めくくるための幕だ。

 生まれながらに一人の正邪。最後の最後の瞬間まで、この幕の中で一人、孤独に舞台は終わっていく。

 嘲笑と忘却で閉ざされるはずの独り舞台。その客席で、たった一人の少女が立ち上がった。

 

「わたしは認めない」

 

 地上まで、残り五十メートルといったところか。

 

「こんな幕引き、認めてやるものか」

 

 身代わり地蔵はもう使えない。

 勝ち誇った笑みを浮かべて死を覚悟した正邪は、我知らず、その世界に踏み入っていた。

 

「わたしのよいこを見くびるなよ、アマノジャク!」

 

 最速の雷神、鳴無響子が支配する世界へと。

 月に吼えた彼女が力強く足を踏み切れば、校舎は振るえ、大地が揺れる。

 計り知れない力の喚起に、足の縫い目が爆ぜる。血を吐きながらスマイリーが笑う。

 彼女の姿が霞んで消える。

 

「鬼人正邪の物語を、ここで終わらせたりしない」

 

 地上から遡ったイカズチが、天を貫いた。

 

「つかまえたよ。せーちゃん」

 

 キョーコは、我が身可愛さに指をくわえて正邪の落下を見守ったりはしなかった。

 世界がハッピーエンドを拒絶するのなら、キョーコは何度でもアンコールをし続ける。出来の悪い脚本があるというのなら、カギ爪で引き裂いてやる。

 そしてその手は、確かに正邪に届いたのだ。

 

「前から思っていたけれど!」

 

 ふわり、という浮遊感はたった一瞬。

 落ちる正邪を受け止めて、キョーコが浮きあがったのはたったの数メートル。

 

「お前何も考えてないな!? バカのフリとかじゃなくて、本当に行き当たりばったりだろ!」

 

 二人は力を使い果たした。後はただただ、落ちるだけだ。

 

「ふふ」

「ふふ、じゃなくて!」

 

 もう地獄の閻魔もお目こぼしのしようがない距離だ。砂粒が見えるほど地面が近い。

 

「ねえ、せーちゃん」

 

 わななく天邪鬼を抱きすくめ、優しくキョーコは囁いた。

 

「あなたはどこに落ちたい?」

 

 ◆◆◆

 

「能力とは鎧だ」

 

 あたりに白煙が立ち込めている。火消は上手くいったようだ。

 

「世の理を越えた力が、世の理からその身を守る。それが発揮できなければ、しょせん鬼は角の生えたヒトでしかない」

 

 ささくれた木材を杖にやってきた正邪は、うつぶせに倒れていたキョーコを爪先で蹴って転がす。

 鈍い痛みが足首に走って、正邪は小声で悪態をついていた。

 

「私を守って自分も助かる気だったのか? 救いようのない馬鹿め」

 

 涙が零れるほどの痛みが全身を襲っている。

 意識を失ったらしいキョーコは怪我も出血も明らかに正邪より酷い物だというのに、それでも笑ったままだった。

 

「お前と私は、どうあっても相容れない」

 

 正邪は焼け落ちた旧校舎の中から、キラリと光るものを引っ張り出す。折れて砕けた西洋剣の切っ先だ。

 キョーコの傍らに膝をついた正邪は、白い喉元に刃をあてがった。

 

「そして、お前のようなやつは何度でも何度でも私の前に立ち塞がるだろう。私の夢を、葬りにくるだろう」

 

 キョーコの喉に刃先が触れる。

 

「だから、やることをやっておかないと」

 

 溢れる血糊がそのシャツを汚す。赤く赤く、染め上げていく。

 

「……それなのに、な」

 

 しかし、正邪の頬を汚すのは返り血ではなく煤だけだ。相変わらずキョーコは安らかに眠っている。

 

「なあ……身代わり地蔵ってあったろ?」

 

 ――想像の中では何度でも殺せたのにな。

 

 キョーコの首筋に散った鮮血は正邪のものだ。あまりに強く握りしめた刃が、彼女の掌を食い破っていた。

 

「アレが引き受けるのは、私にとって本当に致命的なミスだけだ。タンスの角に小指をぶつけたくらいで地蔵と入れ替わっていたら、きりがないからな」

 

 どうして気を失った相手にジョークを飛ばしているのか、正邪自身も分からなかった。

 

 ――こいつ、起きてたらこんな下らない冗談でも笑ってくれたのかな。

 

 他愛のないことを考える正邪の手は、キョーコに垂れた血を拭う。ほとんど無意識の行動だった。

 

「……だったら。お前の手を取った時、私は」

「キョーコ!」

 

 白煙の中から声が迸って、正邪は弾かれたように顔を上げた。

 

「キョーコ? おい、キョーコ、いるんだろ。さっさと返事しな!」

「は。相変わらず声の大きいやつだな」

 

 校庭の明かりに照らされて、どこかのお節介鬼の大柄な影がブロッケンの怪物じみて白煙の中に浮かび上がる。

 潮時を察した正邪は、結局刃を放り出して腰を上げた。

 

「そもそも邪魔者あっての天邪鬼だ。勿体ないが他に適任がいない。その役目はお前にくれてやる」

 

 痛めた足首を引きずって、正邪はひとり歩きはじめる。

 体を寄せあう生徒たちも、首を捻る警官たちに何事か力説する生徒会長も、顔面にガーゼをあてがわれて救急車に運ばれていく水着の痴女も、誰も彼女にかかずらうことはない。

 校門で、一度だけ正邪は振り返る。

 

「目障りな鬼共よ。汝らに悪運あれ、だ」

 

 楽しげにキョーコと言葉を交わし合う勇儀を見ていれば、自然そんな言葉が口をついたりするわけで。

 薄い笑みを浮かべて、正邪はK市の闇へと還っていった。

 

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