『――――学院の火事については未だ出火の原因が突き止められていませんが――――』
一週間が経った。
土曜の朝となれば熟練のアナウンサーにも辛い時間であるに違いない。ケータイのスピーカーから流れ出す眠たげな声を聴きつつ、キョーコはハミガキ粉のチューブを絞る。
『――――休日にもかかわらず多くの生徒が残っていたことから、消防関係者は学生の火の不始末として――――』
気付けば、大人たちは旧校舎の火事を彼らの現実にとって都合のいい物に整形しはじめていた。
「チヅルちゃん、大変だったろうなあ」
本当は自分もあの場に残るべきだったろうかと考えてみたが、キョーコが口出ししたところで焼け石に水どころか火に油だったに違いない。
面倒事のにおいを嗅ぎつけて、さっさとキョーコを連れ出した勇儀たちの判断は正しかったのだろう。
『続きましては速報です。本日未明、K市のA川にて女性のものと思われる遺体が――――』
大きな事件の記憶はもっと大きな事件のインパクトによって忘却されていく。
「なんか、ヤなかんじ」
ラジオを消して、キョーコは寮の共同水場の外から差し込む朝日に目を細める。
頬の絆創膏を剥がす。鬼の治癒力とはやはり凄まじいもので、普通の人間なら一生残るような傷跡も、数日寝てれば跡形も無く消えてしまう。
だが、記憶の治癒力というものは鬼も人も変わらない。どれだけ辛い事故も、悲しい別れも、喜びも、出会いも。キョーコの傷と同じく、いずれまっさらになってしまう。
――――あの子は、それが怖かったのだろうか。
それは、忘却だ。
太腿のスマイリーを無意識になぞりながら、キョーコは姿を消した天邪鬼へと思いを馳せる。
「せーちゃん……」
忘却。
そんな化け物を相手に、たった一人で戦いを挑んだ鬼は、きっと今もこの世界のどこかを彷徨っているのだろうか――――なんてことを考えながら、キョーコは口に突っ込んだ歯ブラシをしゃこしゃこと動かし始めた。
水場の天井板がパカリと外れたのはその時だった。
「だからその名前で呼ぶなと言ったろ、ばか」
目の前にぶら下がってきたのは黒髪を逆立てた少女。
「あびゃあッ!」
彼女が何者か認識する前に、キョーコの口から白い飛沫が噴射された。
「何をしやが――ぶええ」
何も鬼の力が優れるのは治癒力だけではない。肺活量だってそうだ。
まるで特上のケーキの上にデコレーションされるホイップクリームのごとくきめ細やかなハミガキ粉によって水場のガラスが一瞬にして真っ白に染まった。
「どうしたんだい、キョーコ!」
「泥棒か、痴漢か。私も混ぜろ殴らせろ!」
ほうきを、丸めた新聞紙を、年季の入ったハエ叩きを手に騒ぎを聞きつけた住人達が駆けつけるとそこには腰を抜かしたキョーコ。
「うああ、汚いよう。前が見えないよう。口に入っちゃったよう」
「あ、あ、あんた、正邪――――だよ、な?」
そして、つい数分前までキョーコが身を案じていた相手。鬼人正邪らしき人物が懸命に目元を擦っていた。
なにぶん極上の泡によって白塗り状態なので今一つ正体がつかめないのだが。
「おんやあ。一体全体、どうして俺らの巣穴にアマノジャク様がいるのかね」
「ミヨシぃ、拭くものくれえ」
へたりこんだままのキョーコの頭越しに、すっとタオルが差し出される。
「なるほどねえ。みっちゃんが犯人ってわけだ」
この場で唯一事情を知るらしい黒い肌の美女は、唖然とする住人達の視線などどこ吹く風で、天邪鬼にこびり付いた泡を拭ってやる。
「あぁもう、何しやがる! 第二ラウンドっていうならこっちも容赦しないんだから……わぶっ」
口元にタオルをあてがわれて尚モゴモゴ不平の声を上げ続ける正邪。
その面倒を見てやるミヨシは、どこまでも楽しそうだった。
◆◆◆
チヅルは馬鹿じゃない。
学園の重役を総ナメにしながらやってきた彼女の経歴からも察せられる通り、むしろその対極だろう。
「あなたも懲りない人ですね」
だから、アマノジャク様をめぐる不可思議現象については口をつぐんだ。
賢く立ち回ったつもりだ。消防にも警察にも、彼らが納得できる範囲で旧校舎火災について話した。それでも、事情聴取と現場検証の立ち合いでほぼ一週間の拘束。
やっとひと段落ついて帰ってきてみれば、彼女を置いてけぼりにして、T女学院は夏休みに突入していた。
「会長様からあれこれ指図される覚えはねえのですわ」
気付けばインターハイまで残り二週間。気合を入れて練習するかと学園に足を運ぶと、グラウンドには見覚えのある光景が広がっていた。
「グラウンドは公共の場です」
「だからこそ、ですわよ。パブリックスペースで何しようがわたくしの勝手ですわ」
「みんなの場所はあなたの庭ではありません」
白いビーチチェアのすぐ横をテニスボールが跳ねていく。
「このヘタクソ!」
銀髪の転校生、二階堂アンリのヤジがグラウンドに響き渡った。
かわいそうに、テニス部のメンバーたちは言われっぱなしだ。エビのように背を丸めて、窮屈なラリーに精を出すほかないようだった。
「迷惑だからやめてください」
「うるせえですわよ」
チヅルがたしなめたところで、急角度に傾いたアンリのご機嫌が直ることはない。むしろ、悪化の一途を辿るようだ。
「で? ここへはわざわざ世間話にでも? お茶の一つも差し上げたいのですが、あいにくこのザマですの」
その理由は明白だった。
アンリが持ち上げた左腕は、すっぽりギプスに覆われている。顔面の半分はガーゼに覆われ、水着を脱ぎ捨てても何ら問題ない密度で全身に巻きつけられた包帯が痛々しい。
そんな状態での日光浴にどれほどの意味があるのだろうか。
「ひどくやられたものですね」
チヅルは一応、人間らしい心配はしておくことにする。それにしても随分控えめな表現をしたものだった。
「全ッ然。わたくしが主様のお傍にいた時に比べれば、への河童ですことよ」
「随分と荒っぽい方に仕えていたようで」
「……あのお方はお優しい方と申し上げたはずですわ。ただ、敵が多かっただけで」
肩をすかすような会話を続けるのには、ワケがある。
「それに比べればあんな脳筋バカ」
「あなたをそんな姿にした相手ですか?」
「次に遭ったら容赦いたしません。けちょんけちょんにしてそこらにバラ撒いてやりますわよ。ふんだ」
旧校舎での出来事を、それ以上深く掘り下げることはしない。
もはやアンリが常ならざる者であることにチヅルは気付いており、アンリもそうした機微を嗅ぎつけている。
二人の間には無数の地雷が埋まっている。真相を知りたいならそれを掘り起こすこともしなければならないだろうが、それは今、この場ですることではない。返す返すだが、チヅルは馬鹿ではないのだ。
「一応、誤解ないよう申し上げておきますわね」
じりじりと照りつける日光を浴びて、アンリはサングラスの下で目を細めた。
「わたくし決して負けたわけじゃなくってよ」
「何を言い出すかと思えば、そんなことですか。どうでもいい」
「よくない」
ツンとそっぽをむいたアンリは、今度こそチヅルと話す気がなくなったようだった。
「二階堂さん。提案があるのですが」
それは十分承知の上で、チヅルはバインダーに挟まれた一枚の用紙を取り出した。
「入部届をお持ちしました。陸上部への」
「はあ? どうしてそんなモノをわたくしに?」
「勝った負けたに拘る気持ちは競技者として尊重します。ですが、汗より血を多く流す現状はいただけない」
アンリの碧い視線が、入部届とチヅルの顔との間をせわしなく行き来した。
「生活態度の改善を提案します」
「それは……生徒会長としての忠告? 陸上部部長としての勧誘?」
「あくまで友人としてのアドバイスです」
T女学院の入部届は至って簡素なものだった。おまけに必要事項はチヅルの手で記入済み。あとは名前を書くだけだ。
「……はあ。バカバカし」
そこまでお膳立てされても、一匹狼の心は揺るがなかったようだが。
「何度も申し上げた通り、わたくし、群れるのは嫌いでしてよ」
「頑なですね」
「当たり前ですわ。うわべだけの友情ごっこなんて――」
「せんぱーい!」
と、アンリの言葉を遮る、溌剌とした声。
「出ましたわね。子犬ちゃん」
二人が目を向けると、小柄な一年生がストップウォッチ片手にぱたぱたと駆けてくるところだ。
「名前くらい覚えてあげてください。ねえ、ツルガサキさん」
「全然惜しくないし字余りもいいところですけどね。そんなことよりセンパイ、これ、これ!」
「これって、どれです」
「だからタイムですよ。私の新記録!」
ストップウォッチを受け取って、チヅルはにわかに黙り込んだ。
――――あの時と一緒。
アンリは黙って様子を見る。チヅルの表情は、相変わらず固い。まるで、学園がアマノジャク様の影響下にあった時の再現を見るようだった。
「ど、どうでしょうか」
唯一の違いは、部長の反応を見守る後輩の顔にも緊張がみなぎっているという点だ。
「……ふむ。悪くないですね」
後輩にとっては、長い長い沈黙であったに違いない。
再び彼女の顔へと視線を移したチヅルは肩をいからせ大股に旧校舎を目指すでもなく、依然としてその場に残った。
「あら。珍しいこともあるものですわね」
彼女の微妙な、そして大きな変化にアンリですら驚きの声を上げた。
炎天下のグラウンドに渦巻く熱気がプラスティックをとろかしてしまったのだろうか。チヅルの口元には、確かに笑みが浮かんでいた。
「や、やたっ! 記録更新ですよね!」
「ですが調子に乗らないこと」
飛び跳ねて喜ぶ後輩に、チヅルは素早く釘刺した。
「記録は気分屋。モノにするには時間と根気が必要ですよ。ちょうど、そこの二階堂さんのように」
「わあ。またこの人だ!」
後輩は今になってアンリの存在を認識したようだった。
よほど緊張していたのだろう。そのぶり返しのように大げさに驚いて見せる彼女を、アンリは醒めた目で見つめた。
「そうだ。あなたからも何か言ってやってください」
「い、言ってやるって、何をですぅ?」
「ちょうどこの方――二階堂アンリさんが陸上部に入るかどうかの瀬戸際だったのです。何か一押し、あればと」
「うえぇっ!?」
「ですから先刻から、他人の汗の臭いに塗れるつもりは毛頭ねえって言ってるのですわ」
「そそそそ、そうですよ。やめましょうよ。この人を入れると、何かよくない気が……」
「あら。聞き捨てなりませんわね」
木製のチェアが悲鳴のような音を立てた。
「どうしてそうお思いになられるのかしら?」
立ち上がったアンリの長い影法師から逃れる様に、「子犬ちゃん」は身をすくめ、チヅルの背後にこそこそと隠れはじめた。
「だ、だって、怖いし。軽そうなんだもん」
「軽薄? このわたくしが!?」
「ひいぃっ」
ドスの効いたアンリの声に震えあがったのは後輩だけではない。
たまったもんじゃないのは流れ弾に晒されるテニス部だ。彼女たちはラリーを止め、固唾を呑んで陸上部とミイラの戦いを見守っていた。
「怖いよう。食べられちゃうよう」
「この失礼チビ。誰がアンタなんか食べるもんですか!」
アンリは怒り心頭だ。
もはや取り繕ったお嬢様言葉すらかなぐり捨て、悪鬼のような形相で迫る彼女の前に、チヅルが立ちふさがった。
「そうですねえ。軽いかどうかはさておいて、二階堂さんには忍耐が足りていないように思えますねえ」
「は? それはどういう」
その言葉がよほど予想外だったのだろう。瞬間、怒りを忘れるほどの呆気に囚われたアンリの手から、チヅルはさっとバインダーを取り返した。
「実は勝負に向いていない方なんじゃないかな」
「あぁ!?」
燃え盛るガソリンにナパームを投入するような一言だった。そのくせ、炎天下のグラウンドにいた面々を襲うのは永久凍土を吹き渡る風のような悪寒でしかない。
「向いてない? 今向いてないとおっしゃいました? このわたくしが、勝負に?」
「二階堂さん、怒りっぽい方みたいですから」
早口でまくしたてるアンリに飄々と付き合うチヅルは、そんな寒さでもまだまだ物足りないと言いたげだ。
――――ほんとう、ほんとうに頼むからやめてくれ。
必死に目で訴えかけるテニス部たちなど目にも入っていない様子で、チヅルは首筋をバインダーであおいで見せる。
「スポーツは日々の地道な努力が結果に直結しますから。それをこなす忍耐が無いようなので、実はそれほど勝利に貪欲ではないのかなー、と」
「かいちょうさまああぁ」
ついにアンリの怒りが爆発した。
びゅるん、という風切り音を立てて彼女の腕が霞む。
「ぎゃあっ」
「子犬ちゃん」が、実に小動物じみた悲鳴を上げた。
「よくってよ。えぇ、よくってよ」
しかし、それだけだった。
チヅルの顔面にお約束の烈風ビンタが炸裂するようなことはなく、代わりに彼女の手からバインダーが消え失せている。
「無理にとは言いませんよ」
「おだまり!」
鬼気迫る表情で入部届にペンを走らせながら、アンリが吠えた。
「会長様、あなた様の一番を教えてくださる?」
「一番とは?」
「陸上とは走るだけではないのでしょう? 投げたり、飛んだり」
「はあ。得意分野ということなら短距離走ですね」
「では今から走りますわ。それ」
「いや、でも先輩、そのケガじゃ」
怪訝な表情を浮かべる後輩を後ろに、チヅルは全身の包帯を脱ぎ捨てていくアンリをじっと見つめた。
「会長様の記録、全部塗り替えてご覧に入れますわ」
「それはそれは。楽しみですね」
力任せにギプスを引っこ抜き、ガーゼは丸めてボールにしてテニスコートにシュートする。
一週間前にアンリが病院に担ぎ込まれた時は身動きもできないほどの重症だったとチヅルは聞いている。だというのに、露わになった肌には傷の一つも見当たらない。
「では、もしそれが出来なかったら?」
傷のかわりに、アンリの額にはぶっとい青筋。あくまで挑発的なチヅルの言葉に、それが凶暴に脈打った。
「その入部届、煮るなり焼くなりしてくださって結構ですことよ。いち部員として、会長様のどんな命令でも聞いてやりますわ」
「ツキシロさん、とりあえず50メートルからタイム測ってあげてください」
「は、はあい。名前違うけど、よろこんでー」
ヘリコプターのように空めがけて吹っ飛んでいくのではないかと心配になる勢いで肩を回すアンリの後を、子犬ちゃんがおっかなびっくりついていく。
「目ん玉かっぽじってご覧になるがいいですわ!」
相変わらず声のでかいアンリにひらひらと手を振って、チヅルはビーチチェアに体を横たえた。
そうしていると、今日の運動らしい運動は自宅から学園までの道のりを走っただけにも関わらず、身をとっぷり浸すような眠気が襲ってくる。
「思えば一週間、ほとんど休んでませんでしたね」
生徒会長の仕事は生徒たちの生活を守ること。
そのために骨も身も砕いて頑張ったのだ。少しくらい寝てもバチは当たるまい。
「あの……チヅルさ、いえ、部長」
こんなことなら念入りに日焼け止めを塗っておくんだったなあ、と考えて目を閉じた矢先だった。
自分の名前を呼ばれていることに気付いたチヅルが薄目を開けると、面持ちの固い数人の生徒がこちらにあるいてくるところだ。
「もう部長と呼ぶ必要はないと思いますが」
自分の口から飛び出た言葉の刺々しさに、チヅル自身が驚いていた。
「その、悪かったよ」
先頭に立つ三年生が、気まずそうに頭を下げた。
「ヤメた時の私達はどうかしてた、頭に血が昇ってたっつーか。で、でも部長、もとはと言えばあんただって」
「ちょっと待って」
大柄な三年生を押しのけた別の生徒にも見覚えがある。
当然だ。皆、アマノジャク様の噂が流行り出した時期に陸上部をやめていった部員たちだった。
そんな彼女たちが、今は揃って陸上部のユニフォームに身を包んでこの場に集合している。
「口悪いけど、謝りに行こうって言い出したのはこの子なの。この子、乱暴でガサツでぶきっちょだから。こういうことしか言えないみたいで」
「おい。言わなくていいんだよ、そんなこと」
束になった書類が、チヅルに差し出される。
それはチヅルが手にしたものと同じ、入部届だ。風もないと言うのに、その端がわずかに震えて見える。
「部長、ムシのいい話だってのは分かってる。でも、もう一度、私たちにチャンスをくれないか」
「雑用でも何でもします。私からも、お願いします」
エラい役職についたところで、感謝や尊敬が必ずしも伴ってくるとは限らない。
これまでの数週間で、それを痛いほど味わってきたチヅルにとって、こんな風に深々と頭を下げられてしまったのは初めての経験だった。
「あの……もう、それはいいですから」
当然、途方に暮れる。チヅルが何と返事していいやら迷いながら彼女たちの顔を見渡すうちに、三年生が一人足りないことに気付いた。
「吾妻先輩は?」
チヅルの問いかけに、彼女たちは顔を見合わせた。戸惑うような表情が、答えだった。
「そう、ですか」
鬼神正邪の力が、彼女たちの退部にどのくらい影響したのかはチヅルの預かり知るところではない。
しかし彼女の王国が崩壊して尚戻ってこないというのなら、スバルは自らの意志で部を離れていったに違いない。
決してうまくやっていたとは言えない仲だったが、慣れた顔が減っていくことにチヅルは表情を曇らせていた。
「ダメか。部長」
その沈黙をノーと取って、先陣を切った三年生が呻くように言った。
「過去に向き合うことと、過去に縛られることは違う」
「なんだって?」
「私、ずっと結果を残す事ばかり考えていたんです。それが部長として、生徒会長として当たり前のことだって信じて」
チヅルは何度も拳を作っては開いていた。
旧校舎での戦闘。その中でこさえた真一文字の傷は未だ塞がらず、ズキズキという疼きを送ってよこす。
「そのせいで、本当にいろんな人を傷付けてしまった。部のみんなも、前の部長も」
『薄々、こうなるんじゃないかと思っていたんだ』
あれやこれやと策を弄し、嘘を弄し。
好き放題してくれた鬼神正邪だったが、この一言については全くの真実だった。
以前のチヅルでは絶対認めたくないことだったが、あの火事の後となっては、不思議なくらいすっと納得できた。
「私にも、チャンスをくれますか」
ぎゅっと拳を固めれば、傷が痛む。きっとこの痛みは、ずっと続く。
過去を捨てて、やり直す――あの日放った宣言を。鬼神正邪との約束を果たし、真に彼女にチヅルが打ち克つ、その日まで。
「もう一度だけ、あなたたちの部長でいさせてください」
「チヅル、お前……」
静かに話を聞いていた三年生が、そっとチヅルの肩を抱いた。
ポーズなどではない。顔を見合わせて笑いあう部員たちの言葉通り、彼女は本当に不器用な性質なのだろう。
「ありがとう。よろしく頼むぞ。部長」
チヅルはその不器用さを噛みしめる。
「こちらこそ。頼りにしています」
こうして彼女の短すぎる休憩は終わった。
「さあ、やろうぜ皆。長い長いブランクだ。さっさと帳消しにしないとな!」
この瞬間からチヅルはT女学院の名門陸上部を束ねる立場に返り咲いた。スケジューリングとミーティングと練習に忙殺される日々が舞い戻ったのだ。
それでも部室へと駆けていく“新入部員”たちを見送るチヅルの心は晴れやかだった。
「センパイ……よかったね……!」
遠くから固唾を呑んでやりとりを見守っていた子犬ちゃんが、夏日に輝く目尻を拭って微笑んだ。
「ホラよそ見しない! 行きますわよ!」
「ひゃ、ひゃい! ただいま!」
アンリの声が彼女の横っ面を引っ叩く。
驚いた後輩が、スターターピストルを取り落とし、見事に暴発させ、腰を抜かし――とんだあわてん坊劇場に肩をすくめながら、アンリの目もまた、チヅルの姿を追っていた。
「そこがスタートラインですわよ、チヅル様」
◆◆◆
「え。倒れてたって」
「大げさなんだよ。腹を空かせてへばってただけだ」
未だに落ちないミントの匂いに文句を言いながら、正邪はグリーンのボトルを手に取った。狂気じみた量のシャンプーが、彼女の頭にひねり出される。
「あのミヨシってやつにすぐ捕まったよ」
激しくシャンプーを泡立てる正邪は、風呂とは無縁の数日間の穴埋めをしているようだった。湯船のへりに顎を乗せ、キョーコはその様子を見守る。
「でも、どうして屋根裏に? 空き部屋は沢山あるけど」
「高い所じゃないと落ち着いて眠れないんだ」
しばらくキョーコが観察して分かったことだが、正邪の髪の中に見える色とりどりの房は、どうやら地毛であるらしい。
しかし濡れ髪を梳く彼女の指をいくら見つめたところで、ああも奇麗に色が分かれる仕組みは一向に分からないままだった。
「こら、ヘンタイ」
いつしか食い入るように見つめていたキョーコのすぐ傍で、水柱が上がった。正邪がセッケンを投げつけたのだ。
「人の裸をじろじろ見るな。非常識だろ」
「ご、ごめん」
まさか正邪に常識を解かれるとは思わなかったが、確かに彼女の言う通りだった。
仕方なく、キョーコは視線を逸らす。
ほとんど年中貸切の共同浴場に漂う湯気を見つめる内に、どうしても、正邪の王宮に漂っていた霧のことが思い出された。
「せーちゃん、あのドクロは一体なんだったの?」
「さあ。よく知らんね」
「でも」
「旧校舎の中庭に埋まっていたんだ。それを猫が掘り出して――あとはとにかく、知らん」
洗面器の湯を一気に被って、正邪は肩口に鼻を近づけて自分のにおいを嗅いだ。
「ま。こんなもんでいいや」
呟くなり、正邪はおもむろに腰を上げる。
「わ」
見るなと他人に言う割に、自分から隠そうと言う気はさらさらないらしい。タオルの一枚も巻かずに湯船までやってきた正邪は、ざんぶと音を立てて湯に浸かる。
「本当に……常識、あるのかな」
「こちとら天邪鬼だぞ。私にそっちが合わせりゃいいのさ」
とことん勝手なことを言って、正邪は湯船の湯を蹴散らした。
「ただあのドクロ。あれは普通の生き物の骨じゃない」
「それは、例えばわたし達みたいな鬼とか?」
「そんな気はするがな。死んでああも力が残るとは、只者でないのは確かだ」
共同浴場の湯船はそう大きくない。
キョーコが尻半分くらい横にのけてやっても、すぐ隣にいる正邪の息遣いが分かるほどだった。
「記憶を操る力も、ヒトや獣を操る力も、すべてアレが寄越したものだ」
これからも知りようは無いのだろう。
角のような突起を持つ不気味なドクロは、正邪の王国の崩壊と共に消滅してしまった。
――――だから、もう全部終わったんだ。
しかしいくら自分に言い聞かせても、正邪の手に握られて笑う不気味な少女の生首の姿が頭を離れない。
それを無理やり振り払うようにして、キョーコは明るい声を張り上げた。
「でも嬉しいなあ。歓迎会しなきゃね。せーちゃん、好きな食べ物とかある?」
「その呼び方、そろそろやめにしないか」
「だってさあ。こうしてトモダチになったわけだし」
「勘違いするなよカミナリ女」
キョーコの両手首を、正邪の手が掴んだ。
「大ボスを倒せば仲良しになれるってか? 笑わせるなよ」
湯船の縁に置かれていた洗面器が転げ落ちた。二人っきりの浴場に、その音がいやに大きく反響した。
「確かに私はお前に負けた。気が済むまでその身勝手ってやつにも付き合ってやる。だが」
正邪に導かれるまま、キョーコの掌が熱い物に触れた。
「感じろ、私を。この憎悪を」
女の子の体は本来暖かくて柔らかいはずなのに。
キョーコの掌の下で脈打つ心臓は、熱した鉄のように熱く、どくどくと煮えたぎっている。
「だから私は敵であるお前の傍にいてやる。私の下剋上を邪魔しやがったお前が分不相応な「よいこ」とやらに潰される姿を、一番近くで見ていたいからな」
正邪の頬を、汗の粒が滑る。瞬きもせずじっと見つめる彼女は、人形のように美しく、そして恐ろしい。
「私たちはぜったいにオトモダチとやらにはなれない。それでもお前との間に絆があるとすれば、それは憎悪というものだ」
肌に吸い付いたように離れなかった掌がゆっくり引きはがされていく間、キョーコは何も言わなかった。
彼女が薙ぎ払い、踏み潰したものは、確かに鬼人正邪の夢であり、野望だったのだ。
「最後に一つ言っておくぞ」
湯の中でふやけたスマイリーを見つめていたキョーコは、正邪の言葉にはっとして顔を上げた。
「私はお前のことが大嫌いだ」
夢を失うことの痛みと、奪われることの憎しみ。キョーコはそれをイヤというほど知っている。
だが、言っておかねばならないことなら、キョーコにもあった。
「それでもわたしは、せーちゃんの味方だよ」
正邪は壁を覆うタイルを見つめたまま、湯に顔を沈める。そのままぽこぽこと音を立てて潜っていく彼女に、今度こそキョーコも掛ける言葉が無くなった。
◆◆◆
『――近隣の住人に不安が広がっています。六件の事件において、いずれも犯人は鋭い刃物のような凶器で犯行に及んだとみられ、同一犯の―――』
街頭のモニターには河川敷のグラウンド近くの空撮映像が映し出されている。
「お姉さまは、やはり」
荒い画素の中で運び出されていくブルーシートを見つめる双子は、根が生えたようにその場から動けずにいた。
「あーあ。あの人もしょせんは鬼ってことだよね」
軽い調子で言ってのけるオルガ。
夏休み真っ盛りの混雑の中に立ち尽くす双子を、雑踏は小突き、怪訝と小声の罵りを放って寄越す。
オルガの腕を掴むマヤの手は、細く、冷たい。凍えにも似た震えをほぐすように、オルガは優しく指を絡めた。
「私にはオルガちゃんしかいません。あなたまでいなくなったら、私」
「大丈夫だよ、マヤちゃん」
マヤを庇うように抱きしめたオルガの背中を、革のビジネスバッグが打ち据えた。
「おい」
「あはは。ゴメンナサイ。よそ見してた」
舌打ちだけを残して去って行った若いスーツの男の背中に、無邪気に笑ってオルガは手を伸ばす。
「ボクはどこへも行ったりしない。ボクが生まれたことに意味があるのだとすれば、それはマヤちゃんを守るためだ」
オルガの皮膚が、指先からゆっくりと剥がれていく。やがて、ぱたぱたと体を二つに追って舞いあがったそれは、蝶の形をとっていた。
「だから、何も心配する必要はないんだよ――――大事な大事な、ボクのいもうと」
陽炎にゆらめく町を、一匹の蝶が飛んでいく。
白い蝶が白いワイシャツの背中にふっと溶け込んだ直後、どさりという重い音が聞こえた。