わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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3『ワタシはノロワレ/ボクはイツワリ』
序章『それは世界を置き去りにする速度』


 

【挿絵表示】

 

 

 子供の頃を思い出す。

 とはいえ、今でも外見は十分に子供なのだけど。

 怪異という曖昧な存在。その中でも鬼というとりわけ曖昧なものに生まれたせいで、年月の経過すら彼女に取っては曖昧だった。

 背はちっちゃいままだし、シャツを軽くつまんだような胸の膨らみとか、お酒を受け付けないところとか。何ひとつ変わらないまま十とも百ともつかない冬を越して来たように思う。

 

 小さな鬼は震える肩を抱き、石壁にもたれた。

 この震えは寒さなのか、それとも恐怖なのだろうか。それすらも分からない。自分が何に恐怖しているのか──そもそも、恐怖とは一体なんだっただろうか。それすら満足に思い出せない。綿雲がほつれて千切れていくように、彼女の記憶も、知恵も、忘却の彼方に押し流されていく。

 子供の姿でありながら徐々に白痴に近づいていく自分。

 どうしようもない無力感と共に心を蝕むのは、彼女に課せられた『呪い』だ。

 

 ねずみ色の空から粘り気のある雨が降り始めていた。

 気付けば見知らぬ町の、見知らぬ通り。濡れた氷のような石畳は、真っ黒に擦り切れた彼女の素足に容赦しない。

 あまりの冷たさに心が折れてへたり、と腰を下ろせば、今まで立っていられたことが不思議なくらい精も根も尽きている自分に気付く。

 

 あぁ、この肌を突き刺す雨の、なんと冷たいことか。

 故郷の麦穂を濡らしていた雨は、確かもっと暖かかった──はずだ。

 

 あの麦穂。あの黄金の海。

 薄暮の時間がやってくると、彼女はつと足を止めて振り返る。

 薄紫に染まる家々と風車が遠くに見えて、それは、母が夜な夜な読み聞かせてくれる絵本の挿絵そのものだった。

 星を数えながら辿る家路。

 一番の高台にある赤い屋根の家。

 樫の木のドアが軋む音。

 

 そこには優しい母がいた──はずだ。

 

 そこには威厳溢れる父がいた──はずだ。

 

 彼女が生まれた場所。

 故郷に有ったものは、彼女にとっての紛れもない日常だった。

 外の世界では手に入らない、黄金に輝く時間だった。

 毎晩母の膝に頭を預け、暖かなブランケットに包まれたまどろみの中で、この幸せが果てしなく続くものと彼女は疑いもしなかった。

 

 それが、どうしたことだろう。

 今、彼女は力の一滴まで使い果たし、見知らぬ町の路上に朽ち果てようとしていた。

 

 マヤ。マヤ・カミンスカ。死に掛けた鬼の少女は、そういう名前を持っていた。

 

 彼女は力なく壁に背中を預けたまま、濡れた膝の上に止まった蝶を眺めていた。

 いつからそこにいたのか分からない。ぼろぼろの白い羽は風もないのにそよそよと動いている。感情を映さない複眼が、すっと彼女を見上げてきていた。

 

「あなたも、帰れなくなっちゃったの?」

 

 答える代わりに蝶は舞い上がった。

 その羽はマヤに負けずボロボロだというのに風をはらみ、蝶は雨の中に飛んでいく。それがとうとう見えなくなってしまうまで、マヤは呆けたように口を開いて視線で追い続けた。

 後に取り残された彼女は崩れるように前にのめると、石畳にぴったりと口をつけた。

 

 雨はまだまだ強くなる。石畳の敷石の隙間を流れる雨粒に、灰色にくすんだ舌を這わせる。野良犬のように水をすすることに、もはや抵抗はない。

 そういえば、最後に水を飲んだの時のことも思い出せないや──必死に水を舐める自分をどこか遠い所から俯瞰するように思った。

 

 鬼の体は強靭で、素直にできている。

 喉が渇いたり、お腹が空いた時の欲求は、人の比ではない。たとえ頭が拒否していても、暴力的なまでの衝動がマヤの頭を石畳に押さえつけた。ほんの少し水分があれば、それだけでしばらくは生きていける。それが、いたずらに苦痛を長引かせるだけだとしても。

 

「おかあさん」

 

 雨のつぶてがマヤを打ち据えた。

 こうしていると『呪い』をすぐ傍に感じる。大事な記憶が、毛糸の球を解くように消えていくのが分かる。

 

「おとうさん」

 

 黄金の海も、星の数も、父も、母も、家族と過ごした故郷の風景も。

 途方もない絶望に苛まれながら、どうして自分がこんな目に遭わなければいけないのかと何度も自問した。しかし、答えは出ない。

 ある日、急に世界が牙を剥いた。そうとしか言い様がなかった。

 

「おい」

 

 こつり。

 

 硬いものが、ごわごわに髪の絡まったマヤの頭を小突いた。

 

「山から流れてきた鬼か。放っておけよ。病気かもしれない」

 

 マヤが頭をもたげると、どす黒いシミのついた灰色の革靴が見えた。ネズミ色の町には似つかわしい、ネズミ色のコートを着た、ネズミのような顔をした男たちが、庭先に野良猫の死骸をみつけたような顔をして彼女を見下ろしている。

 

「ここで死なれても面倒だろう」

 

 爪先を腹の下に入れられると、枯れ木のようにスカスカになったマヤの体は簡単に仰向けに転がされた。あまりにぞんざいな扱いを受けながら、それでもマヤは嬉しかった。路傍の石のように転がる自分を、誰かが気に留めてくれただけで十分だった。

 

「お前どうした。親はいないのか」

「待て、何か言おうとしてる」

 

 たすけて。

 

 懸命に言葉を絞ろうとする。

 マヤの喉が、ごぼりと不吉な音を鳴らした。その口からこぼれ出したのは黒く濁った塊だった。慌てて口を押さえても、指の隙間から止め処なくヘドロのような塊があふれ出る。それが石畳のくぼみに溜まった水の中で、ぐるぐると影絵のように渦を描く。

 

「こいつ、呪われてる」

「どうする?」

「どうするもこうするも……」

 

 ◆◆◆

 

「悪いな。死ぬなら一人でやってくれ」

 

 ネズミ男たちが町外れまでマヤを引きずっていく間、誰も彼らの行く手を阻もうとはしなかった。

 それが、当たり前の時代だったのだ。

 子供も大人も、それ以外も、何か厄介なものを抱えていればモノとして捨てられる。ましてや、それが呪いであれば尚更だ。

 

「私、何を期待してたんだろ」

 

 男たちが行ってしまうと、することも、他にできることもないので、マヤは再び泥をすすり始めた。

 こうなることは分かっていたのに。あの人間たちにすがろうとして分かったことは、結局自分が愚かだということだけだった。

 

 目を閉じると、泥の味を強く感じる。目の前に、湿った闇が見える。ざあざあという雨の音が、ごうごうという唸りに変わり──いつかこの渦が、すべてを真っ白に洗い流すのだろうか。マヤの中にとぐろを巻く呪いのように。

 

 ────どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないの? 

 

 闇の中に問いかける。

 何かも曖昧になりつつあるマヤの中では、自分の背負う呪いこそが、今や最も確かで最も傍に存在を感じることができるものだった。

 しかし、やはり彼女の問いに答えるものはない。

 いずれすべてを忘却の大河に押し流してしまう時が来るとすれば、その時私は何を思うのだろうか。

 力ない動きで体をもたげたマヤが、今一口だけ泥水をすすろうと水溜りを覗き込んだとき、思わず息を呑んだ。

 

「やあ。こんなところにいたんだね」

 

 水面に映し出された自分が語りかけてきた。

 と、思ったが違う。彼女は生きて、息をして、確かに目の前にいる。

 

「探したよ、マヤ」

 

 屈託なく笑うその顔は、マヤと瓜二つだった。

 

 ◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『わたしはカミナリ』

 

 第三章・ワタシはノロワレ/ボクはイツワリ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆◆◆

 

「立てる?」 

 

 彼女が優しく小さな掌を開くと、まるで雨の中に白い花が咲いたように見えた。暖かく、柔らかい香りが立ち昇り、その笑顔に見入るうち、マヤは束の間、自分の苦しみをすべて忘れてしまっていた。

 

「お腹すいてない?」

 

 輝くような少女は、実際に輝いていたのかもしれない。ねずみ色の空から降りしきる雨の中で、彼女の髪も瞳も、燃えるような光を放っている。

 その色は、すりきれた記憶の中にある黄金の麦穂のものだ。

 

「ねえ、美味しいものを食べにいこうよ!」

 

 白い蝶のあしらわれた小銭入れを取り出して、彼女は屈託なく笑いかけた。

 

「お小遣いあるからさ。丁度すぐそこの店がボクのオススメで」

「やめて」

 

 少女に得体の知れないものを感じたマヤは、気付くと彼女を押しのけていた。

 

「私、呪われてる」

 

 黙って手を差し伸べ続ける少女の前で、マヤはぼろきれのようなネグリジェの襟を掴むと、左肩をはだけて見せる。擦り切れた肌を滑る雨粒のせいで、皮膚の下に息づく()()の形がくっきり浮き出て見える。

 

「何もかも忘れていく呪い。お母さんの顔、お父さんの顔、家族も、みんなすべて無くなっちゃう」

 

 自分の言葉に、マヤはひそかにぞっとした。

 親の顔。故郷の風景。さっきまで確かに思い出せたのに。おぼろげな記憶の残り香ですら、もはやマヤの中から消えて失せようとしていた。

 

「だから……近づかないで」

「ボクはキミを助けたいんだ」

「やめてよ。見せ掛けだけの優しさなんて、もうたくさん」

 

 しかし少女は何度も何度も。

 

「ねえ、ぎゅってしてあげる。いいでしょ」

「やめてよ。やめてったら」

 

 何度も何度も何度も、うんざりするくらいの根気強さで。

 

「欲しいものはない? 痛いところは?」

「やめて。やめてったら……もう、いいから」

「分かった」

 

 それ以上の意固地さを発揮し続けることにマヤが辟易してきた頃合にようやく相手が折れた。

 

「じゃあ、ここで待ってて。すぐ戻るから」

 

 小走りに遠ざかっていく小さな背中は、どうしてもさっきの白い蝶を連想させた。

 

「うん。待ってるね」

 

 マヤは雨に囁いた。

 止め処なく振り続ける雨が、伸びっぱなしの前髪を伝って胸に落ちるのを数える。

 百数えて雨は止まず、二百数えて雨はもっともっと強くなった。

 そして、どうやらあの少女は戻らない。元から期待していたわけではないが、マヤは雨の中に小さくため息ついた。

 こういう出会いは初めてのことではない。さっきの男たちなんて、だいぶ親切なほうだ。人がすべてそうだとは思わないが、好い顔をして近づいて、手に負えないとわかるや彼女を投げ出したり、そもそも彼女を利用しようという魂胆が透けて見えたり。他人に振り回されて傷つけられることに、マヤはいい加減疲れ果てていたのだ。

 

「ぎゅってしてあげる、か」

 

 それでも少しだけ、あの少女の態度に心は満たされてはいた。

 

「ありがとう」

「なにが?」

「ひゃあっ」

 

 だから本当に彼女が戻ってきた時は、心底驚いた。それも、死角からコンニチワなんておまけつきだ。ただでさえ中身が残り少ないのだ。口から飛び出しそうになった心臓を必死に手で押さえているマヤを見て、少女はくすくす笑った。

 

「いやー、やっぱり大繁盛だったよ。すっごい行列でさ」

 

 彼女は紙袋を抱えていた。

 座ったままでも、マヤの嗅覚は袋を通して漂ってくる香ばしい香りを嗅ぎ取っていた。途端に、水だけでは膨れなかった腹の虫が猛烈に主張し始める。

 

「はずかしい、ね」

 

 やはり、鬼の体とは素直なものだ。持ち主の恥じらいなぞお構い無しにぐうぐうなり続けるお腹を抱えるマヤが血の気のない頬を赤らめるのを見て、少女はむしろ安心したように焼き菓子をひとつふたつと手渡してきた。

 

「けほっ」

「急がないでいいからね。全部あげるから」

 

 食べれば食べるほどお腹が膨らんだし、疑問はもっと膨らんだ。

 

「さっき、並んだって」

「うん」

「こんな雨の中、みんな真面目に列を作って?」

「そう。物好きだよねえ」

 

 大袈裟に少女が肩を竦めて見せるとマヤは笑い声を洩らした。

 

「じゃあ、あなたも物好きの一人ってことね」

「キミのためなんだけど?」

 

 一緒に笑っていると目の前の少女の正体なんてどうでもよくなった。最後に呪いのことを忘れて、こんなに大きく口を開いて笑ったのがいつだったのか、マヤには思い出せない。

 

「げほっ」

 

 たったひとつの咳で、全てがぶち壊しになったが。

 

「そっか、飲み物も一緒に買ってくればよかっ……」

 

 マヤの咳は収まるどころかどんどん激しくなる。とうとう地面に手をついて喘ぎ始めた彼女の背を少女がさすってやっていると、腐臭を放つ黒い液体がマヤの口から溢れ出た。膝の間に黒い水溜りを広げながら、マヤはため息が出る思いだった。実際はそれどころではないが。

 

「ごめんなさい。せっかく買ってきてくれたのに」

 

 マヤが口元を拭うと、頬に黒い筋が残った。

 

「私と一緒にいると、あなたも呪われちゃうかも」

「構わない」

「私は構う。ほら、行って。お母さんが心配してるよ。こんな天気だし、おうちに帰らないと」

「金の麦畑と星の海。赤い屋根の家に」

 

 我知らず喉が鳴った。

 それは、マヤが己の記憶の中にしかないと思っていたものだった。

 

「あなた、誰なの」

 

 少女が泥の上に膝をついた。

 

「ボクはキミを知っているし、キミもボクを知っている」

 

 鏡と向き合っているような錯覚を覚えていると、ふいに少女が手を伸ばしてきた。びくりと体を引きつらせて逃げようとするマヤの頬を掌で包み込んで、少女は優しく語り掛ける。

 

「さあ、ボクの名前を呼んで」

「知らないよ。そんなの」

「そんなはずがない。もっとよく見て」

 

 マヤの視線が少女の目元をなぞる。目尻にうっすら浮かんだほくろも、尖った小さな角も、彼女の持つものとまったく同じ。

 鏡像の少女を見つめるうちに、ひとつの名前が喉の奥からせり上がってきた。

 

「……オル、ガ」

 

 口が勝手に動いていた。

 知らないはずの名前のはずなのに、響きだけで胸の奥に電気が流れたように切なくなった。

 目の前の少女もそうだったに違いない。マヤにはそれが手に取るように分かる。なにせ、彼女とは全てが一緒なのだから。

 

「そう。ボクはオルガ。キミのお姉ちゃんだよ」

 

 雨を受け付けないオルガの頬が濡れている。

 潤んだ目からこぼれた一粒の涙が彼女の頬を滑り落ちていく。

 

「おねえ、ちゃ……」

「おいで」

 

 鬼の体は、正直にできている。

 足りないものを補おうとする欲望は、なんのためらいもなく泥水をすすらせるくらい強い。だが、今のマヤを突き動かす衝動は、喉の渇きなんて比べ物にならないくらい強かった。

 もう二度と立てないと思うほど萎えていたマヤの手足が、ばね仕掛けのように跳ね上がる。抱擁を求める妹の勢いにオルガは泥の上に押し倒されたが、そんなことは気にも留めない。

 

「ごめんね。お洋服、汚しちゃうね……オルガ、ちゃん」

 

 妹を胸に抱いていれば、泥濘の感触はむしろ心地良いくらいだった。

 

「ボクこそごめん。キミと出会うのに時間をかけすぎた」

 

 マヤの気が済むまで優しく抱きしめてやると、オルガは立ち上がった。

 これほど長い時間雨に打たれていたというのに、その服も肌も、まったく濡れていない。血色のいい頬を輝かせながら雨のカーテンの中でくるりと踊った彼女がハミングをはじめた。雨の中にかかる虹のように明るい歌声だった。マヤの世界が、僅かに輝きを帯びた。

 

「東の果てには、鬼の王様の国があるんだって」

「鬼の……王様?」

「そう。キミの呪いよりもずっと偉くて強い、鬼の王様」

 

 未だ雨脚は強いが、雲間からは鈍い橙色の光が差し込み始めている。夕陽が出番を待っているようだった。

 

「王様なら呪いを解くことができるかもしれない」

 

 しばらく間を置いてから、マヤは力なく笑った。口の端から、黒いヘドロが流れ続けていた。

 

「きっと、私は王様に会う前に全部忘れちゃう」

「なら、忘れた分だけ奪い取ればいい」

 

 あっけらかんとオルガが言った事は、マヤにはすぐに理解できなかった。

 

「キミはずっと奪われて生きてきた。今度はキミが奪うんだ」

「そんなことどうやって。私にはできないよ」

「出来るとも。だって、キミの声はこんなにも美しいのだから」

 

 一小節か、二小節か。オルガの奏でる短い繰り返しはマヤの耳の中にするりと入り込み、頭の中で乱反射する。

 忘れていたはずの、失われていたはずの記憶を揺り起こす。

 

「マヤ。歌ってよ」

「歌なんて、歌えない」

 

 雨の作り出す霞のカーテンの中に、オルガの白い牙が煌いた。

 小さな形のいい唇から、細く長く流れ出した歌声がどうしようもなくマヤの心を揺さぶった。

 

「……知ってる」

 

 オルガは雨に唄う。雨もオルガと共に唄う。

 

「……わたしは、この歌を覚えてる」

 

 目の前で白い花が咲く。蝶が乱れ飛ぶ。オルガが差し出す手を、マヤが拒むことはもうない。

 

「雨に歌おう。世界に歌おう」

 

 手を握る。暖かい。

 久しぶりに感じる、生きた暖かさだった。

 あの黄金色の海の中、煉瓦の家の中、母の膝、父の背中。そして、大好きな姉。

 

「マヤ。キミになら出来るよ」

 

 自分の名前を誰かに呼んでもらえるだけで、心の中に陽光が差すようだった。春の陽気に誘われた蕾がゆっくりと膨らむように、マヤの唇が最初の音を紡ぎ出す。その瞬間、強い風に吹かれたような気がした。記憶の引き出しが一斉に解き放たれた。

 止め処なく溢れるメロディと歌詞で頭が爆発しそうだ。世界の始まりから終わりまで歌い続けても尽きないほどの。自分がまるで自分ではなくなったような、浮遊感にも似た高揚の中でマヤは歌い始める。

 

「聞いたことがあるかい。雨は歌なんだ。天が世界に囁く歌」

 

 本当に、この歌が永久に続けばいいのに。

 願いながら想いを乗せて歌詞を飛ばすと、マヤの鼻先をかすめて白い蝶が飛んでいく。

 彼女の足元では『呪い』が吐かせた黒いあぶくが冷たく沸騰していた。マヤが言葉を紡ぐたび、泡が一つ弾けるたび、白い蝶が花弁のような羽をはためかせて舞い上がる。ガラス細工のような羽と羽の間で彼女の歌声は反響し、どこまでも広がっていった。

 

 ────もう一度、家族のもとへ帰りたい。

 

 歌詞にいっそう強い感情を乗せて歌い上げた時、ついに町が綻びはじめた。

 今や町の空を覆って舞い飛ぶ蝶に紛れて石畳から黒い煤が立ち昇る。マヤの足元で、頑強に固められた地面がビスケットのように砕けていった。たった一枚の石畳から生まれた亀裂は蛇の舌のように素早く道を這い、漆喰で練り固められた建物の壁を登っていく。

 

 ────私の家族を、私のきおくを返して。

 

 とうとう重みを支えきれなくなった壁が砕け散り、巨大な尖塔が二人の頭上に向かって崩れ落ちる。その瓦礫は二人を押しつぶすより早く空中で塵になり、言葉と旋律を練り上げながら、マヤは頬を撫でる塵を感じている。

 彼女たちからは全てがよく見えた。

 世界が砕け、崩れていく。人も町並みも消えていく。つんざくような悲鳴でさえ、マヤの歌声を遮ることはできない。

 

「音より速いものなんて存在しない。僕たちの歌に、世界だって追いつけない」

 

 塵に還る焼き菓子を見ながらオルガが言い終わる頃には悲鳴も聞こえなくなって、ただ、塵が降り積もるサラサラという音だけが辺りに響いていた。

 

「世界が僕らを忘れる前に、僕らが世界を置き去りにしてしまえばいいんだ」

 

 不意に、言いようのないものが背筋を駆け上って、マヤの歌声が上ずった。

 異様に硬く節くれだったものに手を包まれた気がした彼女が目を落とす、が、そこにはマヤの手を握って微笑むオルガがいるだけだ。柔らかく、暖かい香り。彼女は地球上、たった一人、マヤの味方でいてくれるお姉ちゃん──の、はず、なのだ。

 

「さあ、続けて」

 

 オルガの奏でる音色に導かれるように、マヤは歌い続ける。

 二人の音は、文字通りありとあらゆるものを置き去りにした。

 

「あ」

 

 崩れる町並みを前に、オルガがぽつり呟いた。

 

「あの店、好きだったんだけどな」

 

 数え切れない死と滅びを弄びながらすることではないのだろうが、マヤは堪えきれず笑っていた。オルガも腹を抱えて笑う。ひたすらに無邪気な二人の笑い声が歌と共に空を満たしていく。

 

「ねえ、マヤ」

「うん」

「愛してるよ」

「うん」

 

 そして、一つの町が忘却の彼方に消え去った。

 夕陽に染まる灰の平野に、ただ、二人分の足跡だけが残されている。

 

 双子の鬼が極東の島国に流れ着く前の、遠い遠い日の出来事。

 

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