寝て起きて鏡を見れば、おろし金にかけられたような顔がそこにある。
「いっ、たたぁ……」
顔を洗って水気をふき取ると鈍い痛みが走る。それは顔だけではない。ダサいという概念を具現化したような小豆色のジャージの袖を捲り上げれば二の腕は切り傷とアザだらけ。シャツの下も、下着の中も同じ具合だ。初夏を感じさせる日差しだけが清々しく、ゾンビじみた彼女の顔を照らしている。
「夢じゃないか。そりゃあ、そうだよね」
きさらぎ駅。影のような鬼たち。白い大狗。カタナと雷。星熊勇儀と名乗る鬼。傷の一つ一つは、あの奇想天外な出来事の動かぬ証拠だ。
「わたし、どうすればいいんだろ」
気が滅入りそうな顔を相手に会話しているうちに、キョーコは手元の歯ブラシに歯磨き粉を山とひねり出していた。
「わ。勿体ない」
なんとか中身を戻そうと悪戦苦闘するキョーコに近づく足音。
「よう、キョーコちゃん」
やってきたのはぼさぼさの長髪を一筋に結った中年の男。
紺色のドテラとサラシに色あせたジーンズという自由人ファッションで固めた姿には、どこか仙人じみた趣さえ漂っている。いつの間にかこの下宿屋にやってきて自由人生活を営み始めた彼は周囲に
下宿は流しも風呂も共同だ。だから、住人たちはこうして毎朝顔を合わせることになる。
「ん。おふぁようございまふ」
身振りで応じつつ、キョーコは口をゆすいだ。なんどうがいしても、『影鬼』たちとのもみ合いでこさえた口の中の傷でハミガキ粉がピンク色に染まる。
「そのカッコ、どうした?」
「制服汚しちゃって。替えが全部クリーニング中なんですよ。はは」
キョーコの足下には口を固く結ばれたビニール袋が置かれている。赤く染まったブラウスを目ざとく見つけて風間が目を細めた。
「それ血? というかひでえ顔だな」
「そんなにですか」
流石に女の子にそれはどうかと思われたが、実際キョーコの顔は気の早いハロウィンムードに模様替えされていたので何も言えない。誤魔化し笑いを浮かべて、キョーコは頬の絆創膏をぽりぽり掻いた。
「実は昨日転んじゃって」
「お、珍しいな。ウソついたっしょ」
吐き慣れない嘘は当然即座に看破された。
「ち、違いますよ。ホント。わたし、足こんなんだから。転んで、先に階段があって」
「ほお、頑張るねぇ。ますます珍しい」
紙やすりみたいな無精ひげをさすりながら風間が訝る。にんまりと歪められた目元から放たれるのは、なんともなんとも、居心地の悪さを感じる視線であった。
「な、なんでしょうか」
「ファイトクラブって映画知ってる?」
意地張りの限界に達したキョーコが洗いざらいぶちまける寸前で、風間が妙な名前を口にした。
「映画、ですか? 昔テレビでやってた番組じゃなくて?」
「いんや。ブラッド・ピットが出てるやつさ」
例に漏れず、昨夜も深酒したのだろう。全身からツンとするアルコール臭を立ち昇らせる風間は二日酔いの最中か。それとも未だに酔いが抜けていないのかもしれない。
「うーんとな、むさっ苦しい野郎どもが集まって、夜な夜な殴り合ったり爆発したりする映画なんだけど」
「それ本当に面白いんですか?」
「どうかな。俺、何観ても面白いって思っちゃうし」
風間を先頭に急な階段を降りる。
平安時代に大工が打ち付けたままのような古い床板がギシギシ軋む音に混じって聞こえてくるのは、騒がしい足音とはじける様な子供たちの声だった。
「でもタイラーってヤツが超カッコいいのは間違いないね。これ、ブラピが
廊下に出た二人は壁に背を付ける。ユニフォーム姿の少年たちがバタバタ走ってきて、キョーコの前でペコリと頭を下げた。
「おはよう、ネーチャン」
「うん、おはよ。今日は練習? 頑張ってね」
「お、おう。任せとけよ、なあ、アツシ」
「試合、近い……がんばる」
キョーコに見つめられた少年たちは、赤くなった顔を隠すように帽子を目深に被って駆け出した。その背中に、風間が声を張り上げる。
「おいカンタ、アツシ、ローカ走んな。それと、俺を無視するな」
「うるせえプータロー!」
「ぶざま」
「コラ戻ってこいガキ共! 懇切丁寧にネチネチ礼儀ってモノを叩き込んでやる!」
子供は風の子とはよく言うもので、風間が拳を振り上げ終わるころには、彼らは食堂のドアの隙間に転がり込んでいた。
「ま、あの元気が有れば一日中しごいてやっても大丈夫そうだな」
肩をすぼめる風間の隣でキョーコが玄関に目を向けると、可愛らしい大きさのスパイクシューズが何足も脱ぎ捨てられていた。
「次こそはカーディナルの連中をペチャンコにしてやるからな。キョーコちゃんよ、応援頼むぜ」
「はい。その時はおべんと持っていきますね」
カーディナルこと『西商店街カーディナル』の名前は風間の率いる子供野球チーム『南町サンダース』の歴史を語る上で外せない。歴史とはサンダース連敗の歴史であり、星条旗が1枚織れるほど白星を集めてなお諦めの悪さを発揮する風間の歴史でもある。
「にしし、ここで勝てれば倍率三十倍だぜ。困ったなあ、百円でウイスキーが買えちまう」
何故そこまで子供たちを勝たせてあげたいかと言えば、ウラには大人の事情が見え隠れしている訳で。風間とはそういう、社会の不純物を煮詰めて作った煮こごりのような男なのだった。
「今日の練習はとびきりハードだぜい。ビシバシやっちゃうぜ、ビシバシ」
「あんまりムチャさせないで下さい。体壊したらタイヘンですよ」
「男は
とにかく勢いはある名言をぶち上げて力瘤を作る風間の横で、キョーコはげんなりする。風間の野球チームに保護者から苦情は来ないのだろうか。
「で、ファイトクラブなんだけどな。最初は順風満帆なのよ。それがいつしか、徐々に雲行きが怪しくなってくる」
「はあ。どんな風にでしょ」
「もともとは深夜に集まって殴り合うだけのクラブを使って、タイラーが何か不穏なことを企み始めている。ヤツの尻尾を掴むため、主人公は全米を駆けずり回ることになるんだが」
そこで急に黙り込むと、風間はわざとらしい笑みを浮かべて見せる。
「風間、さん? なんですか、どうなるんですか?」
「後は自分の目で確かめてくれ。諸々の事情でおっちゃんからはこれ以上詳しく言えん」
「え、えぇー! ひどいですよ!?」
こんなの生殺しもいいところだ。朝食前に消化不良を起こしたキョーコを尻目に、風間はずんずん進んでいく。ガムテープで補強されたドアを開ければ、そこは食堂だ。
「映画はエンターテイメント。聞くだけじゃなくて、観て、感じなきゃあ」
風間の言うことは至言かもしれない。だが、それが意地悪のオマケとあっては素直に受け入れる気になれない。むくれっ面のキョーコが炊飯器からご飯をよそうのを、彼は面白おかしそうに見ていた。
「にしても、今日も大盛況だねえ」
十畳ほどの食堂は満員御礼状態だ。芋を洗うような混雑の中、おかずを乗せたお盆を頭に、二人は空席を探す。
「ミヨシさん、誰でも捕まえて来ちゃいますからね」
「あの子、人に飯食わせんのが好きだからなあ」
ボロ下宿屋『早稲川荘』の朝はいつでも騒がしいものだが、実際ここに部屋を借りているのはキョーコと風間の二人だけだ。
「よう、カザマ。それとキョーコちゃん」
「あ、お――はようございま――ぎゃあ!」
仙人のごとき幽玄な雰囲気を纏う老人が現れて、通り過ぎざまにキョーコの胸を鷲掴みにしていった。大胆過ぎてむしろ清々しいくらいの手際を披露すると、悪戯っぽい笑みを残して彼は人ごみに消える。
「びっくりしたあ」
「あのエロジジイめ。出禁にしてやろうか」
大人も子供もおねーさんも、くたびれた朝帰りのリーマンやお水の姐さんですら。相手が誰であろうが、腹を空かせていれば腹いっぱい飯を振舞う。お代は感謝の言葉で結構です――というのがミヨシさん、つまりここのオーナーの方針なのだった。
「キョーコちゃんもキョーコちゃんだぜ。どこの世界に乳揉まれてビックリで済ます女子高生がいるんだ。どこに」
人でごった返す食堂の中でも聞こえるほど大きなため息をついて、空いた席を風間が示す。仲良く並んで腰を下ろすと、また彼の映画談義が再開した。
「なあ、映画の濡れ場とか平気で見られるタイプ?」
「ヌ、ヌレ……?」
「ファイトクラブは結構エゲつないんだわ。何よりラストシーンは衝撃だったね。いやあ、まさかサブリミナルでちん――ってぇ!?」
いかがわしい方向に話を持って行こうとした風間の脳天にげんこつが突き刺さった。ぐりぐりとねじ込むような拳に、彼は潰されるようにテーブルの上にへばっていく。
「おはようございます、ミヨシさん」
拳の持ち主こそ、この『早稲川荘』の寮母、ミヨシであった。
健康的な褐色の肌をした美女は軽く小首をかしげて微笑む。白雪のような髪が彼女の額を滑ると、前髪に隠れていたダークグレーの瞳が露わになった。
「相変わらずいいの持ってるじゃねえか。お陰で目が覚めたぜ……!」
眉を吊り上げたミヨシが、頭を押さえる風間に人差し指を突きつける。来るもの拒まずの早稲川荘の門戸とは正反対に、彼女の口はいつでも堅く閉ざされている。『ミヨシさん』にしても、いつかの入居者が適当に呼んだ名前がそのまま定着したものらしい。
沈黙の美人は自分の分のごはんを大盛りに盛りまくって卓に着くと、風間に目配せしてわずかに顎をしゃくる。
「ありゃ『よく噛んで食え』かな」
「『何の話?』じゃないかと思うんですけど」
ミヨシが頷きつつキョーコを指差した。
「あぁ、ファイトクラブ」
ボディランゲージのお返しとばかりに、風間がポンと手を打ってみせた。こうしてミヨシの意を汲むすべを、入居者たちは自然と身に着けていくものだった。
「つまり、俺が稀代の超傑作映画を例えに何を言いたいかというとだな」
風間はタクアンを一枚つまみあげる。
「キョーコちゃんがよいこ教の敬虔な信者だってのは分かる。けどな、十代の鬱憤てのはどうやっても溜まってくもんさ。そだろ? ええ?」
小憎らしい笑みを浮かべて弁舌を振るうカザマがタクアンをつまんだ箸をびゅんびゅん左右に振るもので、キョーコとミヨシの視線もそれを追って食卓を右へ左へ。
「溜まったら溜まった分だけどっかでガス抜きするしかあるまいよ。そういうワケで、キョーコちゃんが秘密の決闘クラブを開き、夜な夜な荒くれ者たちとの殴り合いに興じているに違いないと名探偵カザマは推理したわけさ」
「違います」
即答だった。
「いや、でもさ、違うにしてももうちょっと間とか含みとか」
「よいこは怒っちゃダメ。困っている人を見捨てちゃダメ。ましてや人を困らせるなんてもってのほかです。三原則は絶対なんですよ」
ふんす、とキョーコが鼻息を吹いた。
「ほんっと、マジメなのね」
「お前もキョーコを見習って、少しは大人になったらどうだ」
上目遣いのジト目が風間を突き刺した。
「お、出やがったなメスガキ!」
いつからキョーコの隣に潜り込んでいたのだろうか。ずずず、と音を立てて味噌汁をすすったスバルを目視した瞬間、風間はしゃもじと鍋のフタを手に戦闘態勢に移行する。
「やれやれ。相変わらず騒がしいオジサンだ」
対するスバルも静かにハシを構えた。
「なんなら今日こそ決着つけようか」
「こちとら元からそのつもりだぜ!」
早稲川荘、朝の風物詩が始まった。皆巻き添えを恐れて食器ごとテーブルを避難するくらいで、止めに入る者はいない。
「このケダモノが。お前みたいのがキョーコと同じ屋根の下で寝起きしているだって? 考えるだけで寒気がする」
「ごちゃごちゃうるさいクソガキめ。で、何だ。次は俺にキョーコちゃんの爪アカでも煎じて飲めって言うのか?」
「お前にそんな高級品をやってたまるか。隅のホコリでも煎じて飲んでろ」
「ンだとお」
徐々にヒートアップしていく喧嘩祭りを前にして、よいこを自負するキョーコまでもが、笑って卵焼きをつついていた。
「ゴハン冷めちゃうよ。食べようよ」
「キョーコ、なんかヘンなこと考えてるだろ」
「あぁ、間違いねえな」
当人たちは絶対に認めないだろうが、キョーコの目に親と子ほども離れた二人のケンカは微笑ましく映る。つかず離れず、水と油。その二つは振れば振るほどよく混ざるものだ。
「おいバルたん。聞いてんんだろ、おい」
微笑みかけるキョーコに、うっとりと見入っていたスバルは我に返った。
「バル、タン、だ?」
「最近のガキは知らんのか、ウルトラマンを」
「知ってる。知ってるけど」
カザマがスバルをキチンとした名前で呼んだことは、未だかつて、ない。
「ばるたん、今日もキョーコのウンテンシュかー?」
昔懐かしい宇宙人の名の響きは妙に気に入られたらしい。周りの子供たちからも囃し立てられ、スバルはよろよろとキョーコの右肩にもたれかかった。
「キョーコ、風間が私にいぢわるをするんだ」
そこが毎朝のスバルの定位置であった。慣れとは恐ろしいもので、キョーコの首筋に頬ずりして甘いため息を漏らすスバルを妙に思うものは、この場にはいない。
「もー。食事中だってば」
と言いつつスバルという重荷を右肩にぶら下げたまま器用に箸を扱うキョーコの反応にも慣れが見える。
「相変わらず仲がよろしいこって」
スバルにとって重要な朝の儀式へと、ニヤニヤ笑って風間が水を差す。ムッとしたスバルが睨み付ける先で、彼は無精ひげをなぜた。
「当たり前だ。悪いように見えるのか、お前には」
「いいや。むしろ良すぎるくらいと思うがね。夫婦かってんだ」
「そうだろうとも。許されるのなら結婚したいくらいだ。というか今すぐ結婚しよう。キョーコ、愛してる」
「あはは。じゃ、そのうちね」
笑ってスバルを押しのけると、キョーコは牛乳を一気に飲み干した。
ニブい故に仕方がないのだが、スバルの愛の告白を冗談としか思っていないキョーコの返しは、冷淡と言えば冷淡であった。
「そっか。じゃあ待つよ」
「うわ、カワイソ」
悲しいくらい素直すぎる返事も慣れたものである。茶化す風間は一瞥するに抑えて、スバルは腕時計に目を落とした。
「キョーコ、時間」
「あ、うん。ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
キョーコにならって、隣のスバルも手を合わせる。
「む」
微笑みかけるミヨシの動作を目にして、スバルが首をひねる。早稲川荘に染まり切っていないスバルにミヨシのボディランゲージは高度過ぎる。
「あれはおそらく『おそまつさまでした』の構えだと思います」
ドヤ、と胸を張るキョーコに、笑ってミヨシが弁当箱を押し付けた。
「あぁ、今のは私にも分かった」
「『いいからさっさと行け』だな」
◆◆◆
「ならいいけど。私は、そんなに頼りない女かい」
スバルの口調には納得しないものがあったが、キョーコは強引にでも彼女をあの一件から遠ざけておきたいと考えていた。
「ごめん。でもこれは大丈夫なヤツだから。わたし一人でなんとかできる」
朝起きて、寮を出て、スバルの車に乗って学校を目指している間中、ずっと白い大狗の姿が脳裏にあった。
「よいこ三原則もほどほどにな。困ったら、いつでも助けに行くから」
「ありがとう」
登校路の生徒たちの間を縫ってトボトボと駐車場を目指す軽トラックを見送っているとキョーコの胸がチクリと痛んだが、同時にあの血なまぐさい非日常に親友を巻き込まずに済んでよかったという安堵もあった。
きさらぎ駅での出来事がウソだったと言われれば当事者のキョーコですら信じてしまいたい。それだったらどんなに楽だろうか。だがカタナを振るう大狗にたっぷりと刻み付けられた死の実感と恐怖が、それを許しはしない。
「勇儀、無事だよね」
同時にピンチを救ってくれた謎の恩人の存在感も増していく。
身代わりになってキョーコを逃がしてくれた勇儀が今も窮地に立たされているだろうことは想像に難くない。だというのに打つ手ナシのまま自分だけがこうして日常生活を続けていくことが、もどかしくて仕方なかった。
弁当袋をプラプラ揺らして歩いていたキョーコは早足の生徒たちをぐんぐん呑み込んでいく昇降口に背を向け、グラウンドを挟んで反対側。雑木林の向こうに目を馳せた。白い板壁に黒いトタンで葺かれた木造の旧校舎が、朝の光景を恨めしげに見つめている。疎まれ、静かに朽ちて忘れ去られていくだけのソレのありようは、キョーコにとって、あまりに寂しすぎるように感じられた。
「おはよ。今日もいい天気だね」
どこか同情的に呟いたキョーコが周りに目を移すと、すっかり生徒たちは校舎に収まり、キョーコはひとりぽつねんと立ち尽くしていた。
だからこそ、人気の失せた雑木林にそれを見つけることができた。もこもこと動く奇妙な毛玉の塊を。普段なら遠巻きに観察するにとどめるところだったが、昨日のアレやコレやの後で、キョーコは多少のことで物怖じする気になれなかった。
「くああ」
好奇心の突き動かすままにグラウンドを横切って近寄ってみると、何とそれがあくびまでした。
「お前、何か用か?」
おまけに喋った。
「あ、あの……ええと。どちら様?」
「ていうかいい加減暑いわ。散れ散れ野良猫ども!」
一か所にぎっちり固まって寝ていた猫たちが、いっせいに駆けだした。猫玉がほどけていくにつれ、芝生に大の字になって寝ていたものの姿が現れていく。
一晩の毛布となってくれた彼らを感慨もなく蹴散らしつつ、勢いつけて立ち上がった少女はゴテゴテとリボンで彩られたドレスめいた衣装にこびりついた毛玉を叩き落としていった。
「やっぱり野宿じゃ全然寝た気がしないな。ほら、お前も出て行け」
悲しいくらいスカスカなドレスの胸元に潜り込んでいた子猫もつまみ出して、少女はようやくキョーコに向き直った。日暮れの水平線のような淡い橙色の瞳が好奇と警戒を湛えてキョーコを貫いてくる。
負けじとキョーコも同じ感情を持って少女を観察していた。奇妙な装束よりも目を惹いたのは埃と垢にまみれた彼女の黒髪だ。黒髪と言っても白や赤に染め抜かれた房が無秩序に垂らされたものであったが。
「そんなに私のカッコが珍しいかい」
何より、こめかみのあたりから左右にょっきり突き出た小ぶりな角がキョーコの視線を釘付けにした。
「角が」
それまでヘラヘラと笑っていた少女が、急に薄ら寒い微笑を浮かべてキョーコを見据えた。
「見えるのか」
「そりゃあ、こんなところに生えていたら」
思わずキョーコが伸ばした手を振り払って、少女は一層警戒を強めた。
「見えるんだな」
よくないことを言ってしまったらしいことに、ようやく気付いた。
何かがおかしい。何かが起こり始めている。茫然と首を振りながらキョーコは兆候を感じ取っていた。非日常の、兆候を。
「どこから来た?」
静かに戦慄するキョーコの周りを、薄汚れた少女はぐるぐる回った。獲物を追い詰めた野犬のようだ。
「幻想郷の生まれってワケでもなさそうだな。かといってただの現代人でもない」
幻想郷。現代。謎の文句が不穏にキョーコの心をくすぐった。ただ、なぜか敵意満々で臨戦態勢の少女は悠長な会話に応じてくれる雰囲気ではない。
「あなたも鬼なの?」
「お前は本当に人間か?」
キョーコがかすれた声でようやく絞った質問を、少女は一笑に伏した。
「さて困ったな。私はお前を知らない。お前も私を知らない。でも、お互いに何か不気味なものを感じてはいる」
緊張感でキョーコの指先がしびれてきた。睨み合いが永遠に続くかとも思われた刹那、少女は、ふっと脱力した。
「実は私はその、ちょっと追われていてさ。しばらくここを隠れ家にしたいんだ。それだけなんだ」
追われている。
「お前はただ、私を見なかったってことにしてくれればいい」
少女の薄汚れた身なりを改めて見れば、それが嘘かどうかはすぐに分かった。途端、キョーコは彼女のことを放ってはおけないという気持ちになった。
「あの、何かできることってある?」
「いいよ。そっとしておいてくれ」
「でも困ってるみたいだし」
「寄るなってば。うっとおしい」
どんなに邪険にされても、キョーコは少女にまとわりつく。少女も苛立ちを募らせていく。
「何か下心でもあるんだろ、お前」
「違うの。わたし助けになりたくて。あのね、よいこ三原則っていうのがあって……」
「はぁ?」
熱気にやられたのか、少女がふらりと揺れた。キョーコはとっさに少女に向かって駆け出した。はず、だった。
「よいこだが何だか知らないがね」
だが。
「無私で誰かを助けようってヤツに限って、大抵裏腹に何かを隠しているものさ」
まるで距離感が”ひっくり返ってしまった”ようだった。呆気に取られてキョーコは一歩もその場を動けず立ち尽くし、少女は小馬鹿にした笑いを浮かべてその姿を見つめている。
「お前みたいのが一番得体が知れないよ」
前触れなく旧校舎の入り口を守る南京錠が吹き飛んだ。新たな主を迎え入れるように自ら開いていく戸を背に、少女は敵意を叩きつけてくる。
「一歩でも追ってきてみろ。生きて帰さない」
旧校舎の中に渦巻く粘り気のある闇に少女が吸い込まれていくのを、キョーコはただ呆けたように見送ることしかできなかった。
始業のチャイムが鳴り響いた頃になって、ようやくキョーコは自分がチャンスを見逃してしまったことに気付かされたのだった。
「あぁもう!」
しかしもう、遅いものは遅いのである。
少女が鬼であるというのなら、勇儀に至る手がかりを握っていたかもしれないというのに。自責の念が珍しく苛立ちの声をキョーコにあげさせた。
「そこは立ち入り禁止のはずです」
汗ばみ始めたキョーコの背中に声がかけられたのは、ちょうどその時だった。
「あ、おはよう。チヅルちゃん」
頭脳明晰、容姿端麗。二年生の
生徒会長と陸上部部長の二足のわらじを平然と履きこなす超人であり、トラックで短距離を駆ける時も、教師がなかなか首を縦に振らない案件を強引に実行するときも、翼が生えたように行動が早い鳥人でもある。
「また遅刻ですか」
「あはは、面目ないです。チヅルちゃんも遅刻? 珍しいね」
そんな些細な言葉遊びにも顔をしかめるほどの生真面目さが、完璧超人のチヅルの欠点だ。
「あなたと一緒にしないでください」
そして彼女は陸上部の元部長であるキョーコを静かに憎悪してもいた。
赤縁のメガネの向こうから軽蔑の眼差しを容赦なく放って寄越すと、チヅルはキョーコを尻目にずんずんと旧校舎の方へと歩いていった。
「最近よく鍵をこじ開けて侵入する不逞の輩がいるんです」
裏側から弾けたように壊れた南京錠を手にチヅルは振り返る。
「何か知りませんか?」
知っているも何も、下手人とさっきまで話していた。
困った様子の少女を庇ってやりたいが、こうも度々嘘を口にしてはよいこが廃るので、無言のまま強張った表情だけで「知らないよ」とチヅルに訴えかけていると、じりじりとルーペで焼き殺されるアリンコのような気分になっていく。
「まぁいいでしょう。じきに警備員を雇うつもりですから」
ルーペ、もとい眼鏡の位置を治すとチヅルは「おうう」と小さく唸っておもむろに胃のあたりを押さえた。
「ち、チヅルちゃん?」
「大丈夫です。また学園の予算が削られると思って、胃痛がしただけです」
チヅルは若くして、苦労人の片りんを見せつつあった。
「…………とにかく今日もミーティングがあって、メンバーを選抜しなきゃいけないんです。インターハイ、締切が近いでしょう?」
何も言い返さずに頷くだけのキョーコ。彼女のダサいあずき色のジャージに包まれた足を、チヅルはずっと見つめていた。
「本気で復帰できると?」
「ん」
「まぁ、無理はしないことですね」
力強く頷くキョーコから視線を振り切るようにチヅルは踵を返した。
「頑張って。応援してるから」
キョーコの言葉には打算も皮肉もなかった。
それを知ってか知らずか。チヅルの足取りが淀んだのは一瞬だった。それですら熱気漂うグラウンドの蜃気楼に過ぎなかったのかもしれない。
「あっ、お弁当」
我に返ると今日一番のお楽しみがいつの間にか無くなっていることに気付いて、キョーコはきょろきょろあたりを見渡した。
◆◆◆
「年頃の女ってのはどうしてこう、面倒くさくなるんだろうねぇ」
旧校舎の屋根の上からキョーコたちのやりとりを見下ろしていた少女は、かすめとった弁当箱の中身を猛然と平らげながら呟いた。
「こらっ、だーめ。ダメだっつの。これは私んだ」
さっそくあたりに集い始めた野良猫たちがおこぼれをねだって少女の足下にまとわりついてくるが、彼女はうざったそうに彼らを除けるばかり。
「ぐおっ」
数日ぶりの食事に舌鼓を打っていると、一匹の猫が少女の背中に飛び掛かり、鋭い爪を容赦なくズブリと突き刺してきた。
「お、お前、よくも!」
しかしつぎつぎと飛び掛かられ、猫津波に下敷きにされた少女の手からとうとう弁当箱が転げ落ちる。反乱であった。猫の乱である。
「くそっ、おい、タコさんウインナーはやらんぞ! あああ、やめろー!」
猫たちが去った後に残されたのは空の弁当箱だけだ。アルミ製の弁当箱はすっかり奇麗に舐めつくされ、厳しい夏の日差しを少女の顔面に丸ごと反射するほどだった。
倒れ伏したまま、少女は自分の境遇に思いをはせる。追手に怯え、廃墟に身を隠し、野良猫を枕に眠り、その寝床に食事を横取りされる。
こんな生活が、いつまで続くのだろうか。
「……みじめだなぁ」
我知らず漏らした少女の呟きを聞き届けるものはいなかった。