わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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6『ファストフード・スローアライバル(下)』

「頭おかしいんじゃな――いたあっ」

 

 銀髪の少女――二階堂(にかいどう)アンリと名乗った――が話し終えるなりオルガが鋭くつっこんだ。活気を取り戻したファストフード店内に、マヤがオルガの後頭部をひっぱたいた音が高らかに響く。

 

「失礼しちゃいますわ」

 

 キョーコも、正直なところオルガに同感だ。

 県外の高校からやってきたというアンリの辿った一日の足取りは、文字通り常軌を逸したものであった。

 

「いいですか。もう一度最初からわたしくしの正当性を証明しますから」

「や。いらないです。もう十分分かりましたから」

 

 マヤがすばやくストップに入るが、相手は聞いてくれない。

 この日T女学院を目指して彼女が意気揚々と出発したのが午後二時。

 

「予定通りならオリエンテーションに余裕しゃくしゃく間に合うはずだったのですが」

 

 停留所を間違って途中下車。

 通行人から手書きの地図と共に「そんな遠くないよ」という言質をとった彼女は駅に戻るより目的地に直接歩いて向かうという選択を下す。

 

「まったく。あんな善良そうな通行人Aみたいなお顔しておいて悪の手先だなんて」

 

 非の打ちどころのない善良な市民である。二階堂アンリという一匹の方向音痴の怪物をK市に解き放った罪はたしかにある。の、かもしれないが。

 

「そのうちT女学院と書かれたご立派な立札を見付けたので、そこがT女学院だと思ったのですが」

「それがT女学院です」

 

 いきなりゴールインである。キョーコでさえ鈍い頭痛を覚えていた。

 

「でも誰も生徒さんがいませんのよ?」

 

 頬をぷうっと膨らませて、アンリは乱暴に背もたれに体を預けた。ばふうっ、と派手な音を立ててシートにうずまった彼女は自分の正当性を一ミリも疑ってはいない様子。

 

「歴史ある旧校舎を見学するのも楽しみでしたのに、ニセモノ掴まされるだなんて。失礼しちゃいます」

「それが旧校舎ですってば」

 

 捻った首が一回転するような行動。呻くような答え。

 

「あたりを見ると雑木林が見えて、向こうにもそれらしいものが見えたのですが」

「それは今の校舎です。大正解です」

「なんでそれらしいのに確認しなかったワケ?」

「オルガちゃん、頼むからこれ以上刺激しないでったら」

 

 木を隠すなら林の中。などと、一見理解できるようで全く理解できない理論を振りかざし、本当のT女学院をニセモノと決め付けた彼女はぷんすかと大又で駅方向へ。

 

「なんでですか」

「ひょっとして行き過ぎたかとも思いましたので。引き返せばきっと見えてくるはず、だと」

「はぁ」

 

 当然だが来た道を戻れば駅があるだけである。結局、アンリは塩にもまれるキュウリの如く雑踏にもみくちゃにされながらここまで大荷物を引っ張って戻ってきたという。

 

「話には聞いていましたが、本当、都会は怖いところですわね」

「ボクはお姉さんが怖いです」

 

 オルガの言葉にうなずきこそしないが、それはマヤもキョーコも、心の中に思い浮かべたセリフであった。

 

「ケータイのナビ機能とか使ってもダメだったんです?」

「『すまほ』のような『はいてく』は受け付けませんの」

 

 つまり学院に連絡を取ることもせずに今、ということになるのか。

 

「じゃ、じゃあアンリちゃんに学校を案内してくれる人って」

「この瞬間まで待ちっぱなしではなくて?」

「お姉さま、それは、ちょっと……」

 

 非難するような一同の気配に気づいて、アンリはじたばたと苦しい弁解を始める。

 が、ここまでのやり取りで彼女がどうしようもない方向音痴であることは証明済みであった。

 

「だ、だって都会は久しぶりなんですものっ! じ、時刻表とかっ、曲がり角とかっ、いっぺんに理解しろだなんて非人間的な要求だとは思わなくてっ!?」

 

 非人間的な方向音痴である。

 

「うわっ、ゴメン、銀のお姉さん!」

 

 そんなふうにわちゃわちゃしていた時である。

 代わりに学園に連絡してやろうかと考えていたキョーコがケータイの画面から目を上げると、アンリが、慌てた様子のオルガを手で制するところだった。

 

「よろしくってよ。あまりお気になさらないで」

 

 オルガの手にはいつの間にかお替りのハンバーガーが握られ、アンリの襟にべっちょりとソースが塗ったくられている。アンリはあくまで微笑みを絶やさない。

 

「すぐにT女の制服が届くでしょう? そうしたら捨てる他ありませんもの」

「編入は夏休み明けから?」

「そうだったのですけれど。無理を言わせていただいて、来週からT女の二年生ですわ」

 

 後輩なんだね、とキョーコが言うと、アンリは笑う。バラの花弁が開いていくような、可憐な微笑みだった。

 

「テストの際はぜひお力添えくださいね。センパイ」

 

 特に『センパイ』の部分を強調した後、『お姉さま』の方がしっくりときまして? と、アンリは冗談めかして笑った。

 

「うーん。わたし、ベンキョー駄目だからなぁ」

「あら。ご謙遜なんてなさらないで。T女といえば東北難関校の筆頭ですのに。この編入にも前の学長にだいぶお口添えを頂かなくてはなりませんでしたのよ?」

 

 そうなのだが。キョーコは太腿のスマイリーを指先でなぞる。

 スポーツ推薦枠で入ったキョーコとしては、今の複雑な状況をどう説明していいものか、束の間言葉に詰まる。

 

「うーん、取れないや」

「まったく、オルガちゃんってば」

 

 必死にブラウスの汚れを取ってやろうと悪戦苦闘するオルガの頭を、アンリは撫で続ける。

 

「あちゃあ、もう染みになっちゃってるかも」

「クリーニング代、弁償させてください。全部小銭ですけど」

「ですから、お気になさらないで」

 

 オルガが立ち上がった一瞬。その胴がアンリの視線を遮った一瞬、彼女の橙色の瞳が、キョーコに目くばせした。今までオルガが熱心に拭いていたソースの下から現れた、真っ黒に乾いた染み。

 今日昨日でついたものではない。そのくすみ切った茶褐色が、やけに鮮やかな色としてキョーコの網膜に焼き付いた。

 

「――――まぁ、いけない。もうこんな時間」

 

 彼女の手首によく似合う、繊細なシルバーの腕時計に目を落としてアンリは立ち上がった。キョーコが教えてやったT女行きの電鉄が発車するまで、あと三分とない。

 

「じゃ、次は学校で会おうね!」

「はい。ごきげんよう」

「ばいばーい」

「さようなら」

「はい。お二人も。次はお歌、聴かせてくださいね」

 

 慌ただしく駆けていく彼女のトランクが曲がり角でソファにぶつかった拍子に、細長い包みがほどけて転がった。ごろん、ごろんとアンバランスながら転がり続けたそれが、キョーコの前までやってくると音もなく止まった。

 紫色の布地を荒縄で縛っただけのものだが、それらの古び方を見れば、こんなところに転がしたままにしておいていいものでないことは明白だ。

 

「待ってアンリちゃん。おとしもの」

 

 よいこでなくても、大半の人間ならそうするだろう。

 席を立ち上がったキョーコの声に振り返ったアンリの顔には驚きと、そして、なぜか焦りが浮かんでいた。

 

「キョーコ様!」

 

 布地に、正確にはその下にある何かに、キョーコの手はほとんど吸い付くように触れていた。

 

 ◆◆◆

 

 人間の体は。

 

 人間の体は、伸筋よりも屈筋が多い。

 

 伸筋は伸び、屈筋は縮む働きをする。ここではその程度の理解でかまわない。

 

 つまりほとんどのパーツはだらりと垂れている状態よりも、何かを掴んでいる状態の方が自然ということだ。

 

 映画で高圧線を触った悪役がそのまま真っ黒に焼き尽くされるのを見て、大半の観衆は思うに違いない。

 

「いや、離せよ」と。

 

 だがそれは残酷な注文だ。全身の神経系統をギタープレイのように無茶苦茶にかき鳴らす高圧電流は、当然筋肉にも伝わる。結果、犠牲者は「離さない」のではなく、屈筋の暴走によって「離せない」ままに死んでいくことになるのだ。

 

「うあっ!?」

 

 キョーコの体にも、同じことが起こっていた。『それ』が帯びた余りの高圧電流によって硬直した指先は一瞬で炭化し、前腕――上腕と皮をはち切れさせ、むき出しの赤い肉はすぐに黒く焼けていく。陶器を擦り合わせるような異音は強烈に収縮する筋肉が自らの骨を粉砕する音だ。

 

【ねぇ、キョーコちゃん】

 

 もはや光しか見えない。目の中で稲妻が躍っている。

 

【ここの線からあの線。これが、私たちの世界なんだよ】

 

 だが大岩をすり合わせるような声――もはや轟音であった――は、キョーコの意識に直接突き刺さってくる。それは厳めしくも、優しくキョーコの脳髄を切り裂いていく。

 

【50m。私にとっては4秒。キョーコちゃんにとっては6秒あるかないか】

 

 ひときわ激しい光を発した『それ』が解けた。崩れ行く骨の隙間で髄が炎を吹きあげる。

 

【この速度を変えることはできない。それがこの世界のルールだから】

「――――わたしの」

 

 腕の燃えカスの中を何かが激しくのたうちながら駆け上ってくる。それは蛇だ。焼けただれた鉄の流れが遺志を持ち、まるで蛇のようにキョーコの腕を心臓めがけて駆け上ってくる。

 

【それをできるのだとすれば。それを可能とできるのなら。それは】

 

「いや――わたし――は――――」

 

 蛇が心臓に巻き付いた。全身の血液が沸騰する。のに、キョーコの思考は氷の如く凍てつき、灰と化した唇が炎と共に言葉を吐き出す。

 

【それは、とんでもない(ゴウ)だ】

 

 目の前に、『それ』がある。

 

「わたしは」

「キョーコ様!」

 

 ◆◆◆

 

「キョーコ様。キョーコ様ったら?」

 

 雷鳴のような己の名前を呼ぶ声に我に返ると、キョーコは、アンリの腕の中にいた。

 

「あっ――はっ――はぁ――!?」

 

 不安げに見下ろしてくるアンリの、碧い瞳が近い。

 

「ご、ごめん!」

「いきなりしりもちをつかれて。驚きましたのよ?」

 

 包みはそのままの姿で床に転がり、慌てて持ち上げてみた右腕は、全くの無傷でそこにある。恐る恐る腕を動かせば、問題なく関節は曲がる。怪物が肉を突き破って飛び出してくるなんてことはない。あれだけの痛みも嘘のようになくなっている。

 

 キョーコは肉が焼ける匂いまで幻覚したというのに。

 

「お姉さま、汗、ひどいです」

 

 激しい動悸と、鼻先から滴り落ちる脂汗だけが、あの千年にも匹敵する一秒の苦痛を証明するものだった。それを、アンリがハンカチで拭ってくれる。やはり柑橘のすがすがしい香りが漂った。

 

「お客さま?」

「あ、あぁ。ごめんなさい。ごめんなさい。なんでもないんです」

 

 訝ってやってきた店員を追い返すと、その手を掴んで双子が引っ張り起こしてくれる。

 

「大丈夫、ですから」

 

 嘘もいいところだ。学校指定のシャツは絞ればコップ一杯の汗が採れるだろう。そこに天井に据え付けられた冷房の風が直当たりするものだから、立っているだけで眩暈がぶり返してくる。

 

「ありがと」

 

 どうにもフラつくキョーコの体をアンリが支えて席を立てば、双子が入口のトビラを観音開きにして待っていてくれる。大丈夫大丈夫と連呼しながらも気を抜けば力が抜けそうな体を引きずる身としては彼女たちの助力はありがたかった。

 

 ◆◆◆

 

 揺れる提灯を眺めるうちに、具合の悪さは夜風に吹かれて飛んで行ってしまったようだ。

 

「ん。もう大丈夫」

「ホントですかぁ?」

 

 ここまで大丈夫を連呼されると、逆に怪しい。マヤはあからさまに訝った。

 

「今度はホント。大丈夫な大丈夫だから!」

「それならいいのですけれど」

「うん。アンリちゃんもアリガトね」

 

 三人に礼を言って立ち上がる。並んで歩くうち、キョーコの歩みは三人とは別方向に向き始めた。

 

「じゃ、お願いするね」

「うん」「はい」

 

 結局のところ、方向音痴の後始末を双子が請け負う形になった。明日はバイトもある。聞けば丁度学院方面に宿をとっているということで、キョーコは素直に双子たちの好意に甘えることにした。

 

「じゃーねー!」

 

 駅前広場からアーケードに至る大交差点で一度振り返って、三人に手を振る。一人は電鉄待ちの列をなぎ倒す勢いで、もう一人はそれを諫めつつ手を振り返してきた。

 

「アンリちゃんも、ガッコーで待ってるからー!!」

 

 最後に続いた三人目が、大荷物を脇に、瀟洒に頭を下げて見せる。その姿がターミナルに滑り込んできた電鉄の車体に隠れて、キョーコはようやく踵を返す。

 

「遅くなっちゃったなあ」

 

 ようやく夜の町から家に帰るもの、逆にこれから夜の町に繰り出すもの。足を止めれば瞬く間に翻弄されてしまいそうな人の流れを半ば無意識に避けて歩きつつ、キョーコの頭の中は別れ際にオルガの発した一言を何度もリピートしていた。

 

『お姉さん。ちょっと』

『ん。なあに?』

『焼いておきたいお節介があるんだ』

 

 床に転がったキョーコを助け起こす瞬間に、オルガが耳打ちする。

 

『銀色のお姉さん、どうしてお姉さんに声を掛けたんだと思う?』

『どうしてって。私がT女の生徒だから?』

 

 オルガの手がキョーコの手を握った。その力の強さに顔を上げたキョーコは、オルガの視線が秘めた、形容できない重みに、束の間圧倒されていた。

 

『気を付けてね。この町はもう、普通じゃない』

 

 ジャージについた土ぼこりを払ってやりながらさりげなく紙幣をキョーコの指の間に差し込んで、オルガは頬を緩めた。

 

『ごはん、たのしかった』

 

 その時はオルガの言葉の意味を理解できなかった。大小の交差点を信号待ちして八百屋の角を曲がったキョーコは一変して人気のない細い路地から路地を這った。

 

「おっとと」

 

 思いがけず目の前に現れた大きな水たまりをとっさに飛び越えたキョーコは、疼く太腿をさすった。

 ジャージと薄汚れたスニーカーなら水たまりをイチイチ避けて歩く必要がないから楽でいい。替えのきかないブレザーをダメにしたときはそれなりに絶望的な気分になったものだったが、怪我の功名というやつだろうか。

 

(二階堂、アンリちゃん、か)

 

 学校指定のTシャツにジャージ。今日は一日中この格好で過ごしていた。にもかかわらず、何故制服すら届いていないアンリは店に入るなり一直線に彼女たちの元を目指してきたのだろう。

 

『あなた、T女の生徒さんですわよね?』と。

 

 時間は夕暮れ時。店内でごった返す学生たちの中にはキチンとブレザーのスカートとブラウス、リボンで学園の夏の装いに身を包んだ女の子たちも沢山いたというのに。

 

 銀色の。

 

 まるで、月の光を集めたような。

 

 おかしなお嬢様言葉を使って、うふふと笑う異邦の美少女。

 だがその姿形を思い出そうとすればするほど、蘇ってくるものは彼女の柑橘の香水などではなく、赤茶にざらついた、鼻をつく悪臭でしかないのだ。

 

『ごきげんよう、キョーコ様』

 

 口の周りを朱に濡らした彼女が、雨の中に立っている。

 不意に彼女の背中が気球のように膨れ上がり、ブラウスの生地が爆ぜる。きれいな銀髪はいつしかごわついた剛毛となって彼女の全身を覆う。

 豪雨に泡立つ地面に彼女は両の掌をつく。膨張し続ける筋肉の重みを支えるためだ。

 

『――――うるる』

 

 何度振り払おうとしても、そのイメージは脳のひだにこびりついてくる。

 

「違う。違う違う。そんなワケ。何考えてんだ」

 

 お前はちょっと過敏になりすぎているだけだ、とキョーコは必死に言い聞かせる。

 本当に、色々、なんて言葉じゃあ片付かないくらいたくさんのことがあったのだ。得体が知れないと言えばオルガやマヤも同じはずで、そんな忠告を馬鹿正直に信じることこそ、間違いかもしれないのに。

 

 あの怪物たちは勇儀のおかげで今も「きさらぎ駅」に閉じ込められているハズで。一生に一度あるかないかの不幸でキョーコはそこに足を踏み入れてしまっただけで。それが今後、自分たちの「アタリマエ」を脅かすなんてことはあり得ないのだ。

 

 これまでが、そうであったように。

 

(そうでしょう。そうだよね)

 

 言い聞かせる。いや、言い聞かせなければ。路地の石塀に手をついて、キョーコはぶり返してきた動悸と体の火照りを収めようと必死になる。

 

(明日はバイトを休もう。電鉄に乗って、またあの駅に行って)

 

 額の汗をぬぐって、キョーコは足元の水たまりを見つめる。黒い柱のように聳えるキョーコの像の背後で、ちょうど月は分厚い雲の影に隠れていくところだ。

 

(それで、勇儀を連れて帰る。それで終わり。全部)

 

 一生に一度あるかないかの危険に、今度は自ら足を踏み入れる。

 それが非日常を喚ぶものだとしても、勇儀が「よいこ」で賭したその命を、今度はキョーコの「よいこ」で救ってやらなければいけない、と思う。

 

 角を曲がって前を向けば、下宿屋があった。キョーコの頭がどっぷり考え事に浸っている間も、三年間同じ道を行き来してきた足は自動的にそこを目指して動いていたのだ。

 

「あぁ、おかえり。いいところに」

 

 門前にしゃがんでいた風間がのそりと体を起こす。

 

「ただい――ま!?」

 

 塵と埃に塗れた彼の風体よりもキョーコの目を惹いたのは、二階の一室の、開け放たれた窓からもうもうと立ち上る煙だった。

 

「カザマさんっ!」

「いや、俺の寝タバコとかじゃないかんね」

 

 キョーコのにらみを受けて、風間がぶんぶんと首を横に振った。去年の「不幸な事故」でキョーコたちに口酸っぱく注意されてから、確かに風間は寝酒寝タバコといった悪癖とはスッパリ縁を切ったはずだった。

 

「じゃあなんです、アレは」

「ソージだよ。大掃除」

 

 風間の言葉にキョーコがよくよく目を凝らせば、今やK駅前アーケードの上空を席巻する黒雲かとも見紛うものは埃である。目を地面に落として肩をすくめる風間を見れば、彼のぼろ雑巾じみた風体にも納得がいった。

 

 築年数不明。行政のチェックをあの手この手でかわし続ける幽霊のような下宿屋、「早稲川荘」。その開かずの一室が、今解き放たれようとしている――!

 その事実に、キョーコは表情を輝かせた。

 

「新しい人、入るんですか!?」

「そゆこと」

 

 タバコの火を路面でもみ消して、風間は頭巾をかぶりなおす。

 

「会いたい?」

「もちろん!」

 

 無精ひげにホコリを纏わりつかせた男は、今や正面玄関からもごうごうと煙を吐き出す下宿屋めがけて顎をしゃくって見せた。

 

 ◆◆◆

 

「思ったより、キチンとしているものですわね」

 

 四畳半のど真ん中にトランクケースを降ろして、アンリはベッドの柔らかさを確かめ始めた。

 

「高い入寮費を払わされた甲斐があったものですわ」

「T女は深刻な予算不足でして。判を押した以上、ご理解していただけたものかと」

「や、や。いけなくってよ。勘違いしちゃあ」

 

 あくまで瀟洒に笑って否定するアンリ。本当に、悪気はないのだろう。その悪びれの無さにささくれ立つ我が心は余裕を欠いているだけだ、とチヅルは自分に言い聞かせる。

 

 今日は、いろいろ、あったから。

 

「にしても生徒会長自ら案内なんて、恐れ入りますわ」

「丁度学校に残る用事があったものですから」

「お噂はかねがね。名門校の生徒会長と、常勝陸上部の部長、二足の草鞋を履きこなす生徒会長さんにこうしてお会いできて、光栄ですことよ」

 

 そうしてアンリが唐突にとったのはひざまずくような動作。面食らったチヅルは、思わず後ずさっていた。

 

「いやだわ。少し、大仰でしたわね」

 

 絵本やマンガのお姫様の仕草だ。当人も冗談のつもりでやったのだろうが、たとえブラウスにスカートといった一般女子高生の風体であってもサマになるあたり、二階堂アンリという少女は相当に浮世離れしている。

 

「それにしても部員皆様でカラオケなんて、仲がよろしくって結構ですわね」

「え」

 

 チヅルのメガネのフレームを飾る柳眉がわずかに曇った。

 

「迷子になっている間に少しばかりおカラオケ屋の店員さんに道をお尋ねしたのですが。その時、ここの陸上部のジャージ姿が見えましたの」

 

 それは本当に一瞬の変化であったが、真昼の影法師のようにすっと立っていたチヅルがわずかに揺らいだのを、アンリは見逃さなかった。

 

「そう――ですか」

「あら。ご存じありませんでした?」

「いえ」

 

 ポケットからケータイを取り出すのにチヅルが手こずるさまを、アンリはただ見ていた。

 

「それではライン教えますので」

「あぁ、わたくしケータイは持っておりませんの」

「…………では生徒科と私個人の電話番号を教えておきますので」

 

 メガネのレンズが液晶の明かりを反射し、わずかな間を置いてアンリを見据えたとき、チヅルの表情に走った動揺はすっかりなりを潜めていた。

 

「困ったことがあったら、気軽に相談してください。同じ二年ですし、クラスも一緒になれるよう、便宜を図っておきますから」

 

 電話番号を書きなぐったメモを渡す所作は、ほとんど押し付けるようなものだったが。

 

「あぁ、最後に一つお願いが」

「なんです?」

「明かり、落としてくださいます? その方が落ち着きますの」

 

 ぱちん、と照明のスイッチが切られる音はそのまま二人の間に張られた糸が切れる音でもあったようで。気持ち早足にチヅルが出て行くのを音で知って、アンリは四畳半の真ん中にごろりと転がった。

 

「ふふ。頑張りますのね」

 

 カーテンも物干し竿もかけられていない窓から見える上限の月は、まるで巨大な獣が噛みついた饅頭のようだ。あと数日も経てば、綺麗な満月を拝めるであろう。

 フローリングに目を落とせば、そこは月面だ。

 きれいに着飾っても築二十年は伊達ではない。フローリング材に刻み込まれたクレーターのような大小の傷跡。モノクロームの世界。まるで、アポロの月面着陸映像を見ているようで。

 

「ふ」

 

 傷跡をなぞっていた彼女の指先が、例の細長い包みにたどり着いた。

 微笑で頬を彩ったアンリはむくりと上体を起こし、包みに施された擦り切れ寸前の荒縄を解いていく。

 

「今度は逃げないでくださいましね」

 

 袋から床の上に滑り出て乾いた音を立てたのは鞘だった。

 本来そこに収まるべき刃はなく、碧眼の先には光も影も吸い込んでしまうような、深い虚無が広がっているばかりで。

 月明かりの下、深淵を覗き込むアンリの頬に張り付いた笑みは耳元まで裂け、今や彼女の美貌を真っ二つに裂かんばかりだった。

 

「ふふ、うふふ。うふ――――ガ」

 

 キョーコの汗をぬぐってやったハンカチを取り出して、アンリはそれを鼻づらに強く押し付ける。哄笑は、いつしか、絞るような唸り声へと変わっていった。

 

 ◆◆◆

 

「とにかく元気な女でさ」

 

 ガタピシ廊下を軋ませながら、風間は食堂を手で示した。二階からは常に怪獣が暴れまわるような音が聞こえてくる。おびただしい埃が降り注ぐ。

 

「上でミヨっちゃんが頑張ってる」

 

 風間が肩をすぼめる。

 

「その新しい人、どんな人なんですか」

「血まみれでミヨっちゃんに運び込まれてさ」

「待って。血まみれって大丈夫なんです?」

「覚えてないの一点張り。それからグースカ寝始めて。でさっき起きたと思ったら」

 

 朝のように、風間は食堂の扉を開けてキョーコに入るよう促した。もちろん中には惨敗を喫した南町サンダースの少年たちが詰め込まれているわけではなく。

 

「コレだよ」

 

 たった一人の女が座布団の上に陣取り、ちゃぶ台に所狭しと並べられた食事を片っ端から平らげていく。箸はあったが、箸置きの上に寝っぱなしである。遠めに大きな女は、食堂にも渦巻く埃などお構いなしに素手で料理を掻き込んでいく。

 

「あん?」

 

 束の間その手が止まり、緋色の瞳が二人を顧みた。

 

「なんだかアチコチ無くなってんだけどさ、本人はこの通り不自由はしてないみたいで。明日明後日にでもケーサツ行って――」

 

 キョーコの耳はもはや風間の言葉など聞いてはいなかった。

 

「んで確か名前が」

「おい、おい、カザマっつぁん。体はこの通りだが口はきけるんだぜ。自己紹介くらい、あたしにさせてくれよ。あたしは」

「星熊勇儀」

「あ?」「お?」

 

 キョーコの声は、震えていた。

 

「お、おい。キョーちゃ」

 

 風間を押しのけて、ほとんど体当たりするように、大女の背中にキョーコは縋り付いていた。女がつんのめり、衝撃でちゃぶ台が倒れ、食器と食事が、床にぶちまけられる。

 

「勇儀っ、わたしっ、わたしねっ、あなたをあそこに置き去りにして、ずっと――」

 

 まるで恋の告白だな、なんて。

 何か言おうとすればするほど詰まってしまう胸を押さえながら、キョーコは女の背中にはたはたと落ちて染みを作る自分の涙を見つめた。

 

「勇儀!」

「あんなぁ」

 

 おもむろに振り向く女は、大儀そうにため息ついた。

 ふっと吹いただけのため息が、キョーコにとっては頭から氷水を浴びせられたようで。

 

「え?」

「なぁ、おい。あんた。勝手にアツくなってるとこ悪いけど」

 

 頭をかきかき立ち上がる様は、あの日から何も変わらないというのに。目の前に立つ女の隻眼を覗いて、キョーコはすべてを悟ってしまった。

 

 その背後から得心いかない顔で見つめてくる風間と、何事かと降りてきたミヨシ。同じ床の上に立っているはずなのに、キョーコだけが別の世界にはじき飛ばされてしまったようで。

 

 そして、星熊勇儀。

 その姿はあの日から何も変わらないというのに。

 

「随分気安いじゃないか。あたし、あんたのこと、なーんも知らないんだけどねえ」

 

 二人の間から、とても大切なものが失われてしまったのだということを。

 

 

 

 第3話「ファストフード・スローアライバル」 おわり

 

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