わたしはカミナリ   作:おぴゃん

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7『夕の街ゆく鬼たちは(上)』

 その日、朝の静寂に別れを告げたものは。

 遅刻の帳尻合わせに路地裏を強引に走り抜けていくトラックの騒音でもなく、下宿屋の前を駆けていく小学生の一団でもなく、電線で点呼を始めたスズメとカラスたちの鳴き声でもなく。

 

「で、なんだっけ?」

「あの……勇儀がね、その、岩を、持ち上げてね……」

「岩って、どのくらいの大きさだい?」

「…………運動場くらいの……かな……」

 

 しりすぼみになっていくキョーコの説明を遮って「ぶはははは」という大爆笑が居間をつんざき、窓枠をガタガタ揺らし、木造のボロ下宿をシェイクする。

 

「なぁゆっぴー、そろそろ笑うの、やめてやれって」

 

 腹を抑えて畳の上に転がった『ゆっぴー』、つまり星熊勇儀は、ひいひいとあえぎながら、尚笑う。

 食卓めがけてぱらぱらと天井から降り注ぐ塵を受けていた新聞を除けたミヨシが、頷くことで風間に同意した。

 

「だってあたし、自分の名前以外思い出せないんだぜ。そこに、この小娘、えーと」

「……キョーコ。鳴無響子」

 

 唐突な星熊勇儀との再会をキョーコが喜んでいられたのは、ほんの数分間のことであった。

 

「そう。キョーコちゃんの御伽話が面白くってさぁ」

 

 きさらぎ駅から戻ってきた彼女は、自分の名前以外のすべてを忘れていた。キョーコと過ごした命懸けの一夜も、そこで感じた絆も、リセットが掛けられ。

 こうしてキョーコは爆笑の十字砲火に逢っている。

 

「ゆ、ゆっぴー」

 

 風間の制止には、キョーコを助けてやろうという声音がまったくない。

 キョーコはぐるぐるかき混ぜ続けた納豆をごはんと一緒に口に放り込み、みそ汁で胃袋に流し込む。味がしない。

 

「見ろよこんなによお、マジメな顔で……くっ」

 

 キョーコは黙って出汁巻き卵を口に運ぶ。

 そこまで聞いてこれからの展開がだいたい分かっていた。大好きなミヨシさんの料理だったが、今朝はずいぶん薄味に思える。

 

「ぶぅえっへっへっへっへッ!! ダメだわ。三メートル越えのゆっぴーとか、想像するだけで、げっははハッ!!」

「んで角ついてんだっけ?」

 

 新聞をくるくる筒状に丸めて額にくっつけて見せると、

 

「こんなん?」

 

 勇儀がまた笑い声を上げる。

 数日前に「あたしは鬼なんだよ」と言った本人とは思えない。キョーコは胸の中で例の正体不明のモヤモヤが広がっていくのを感じながら、うつむく。

 

「わかさぎ姫だっけ?」

「きさらぎ駅です」

 

 なんだかんだで面白がるだけの風間と勇儀からばんばん背中を叩かれるにつれ、キョーコの背は古釘のようにぐにゃぐにゃ前傾していく。ミヨシといえば、その様子をおろおろと見守ることしかできないようだった。

 

「ほら見ろよコレ。この、どこに角があるってんだい」

 

 わざわざ包帯を解いて、勇儀は額を見せる。キョーコは言葉に詰まることしかできない。折れた名残とか派手な傷跡があるとかではなく、本当に何もないのだ。

 

「な。認めちまえよ。あんたの負けをさ」

「そりゃ――ない――けど、も――!!」

 

 あの出来事は、間違いなくあったのだ。簡単に引き下がれないキョーコの言葉は、自然と熱を帯び始めていた。

 

「わたし、ウソなんてつかないから!」

「ま。確かにキョーコちゃんはそういうデマカセ言うタイプじゃないわな」

 

 キョーコが顔を真っ赤にするほど、勇儀に残された片目は喜色を帯びていった。

 

「どうして信じてくれないの」

「どうして証拠もなしに昨日会ったばかりの小娘を信じなきゃいけないんだい?」

 

 間髪入れずに戻ってきたカウンターパンチがキョーコの口を縫い付けた。

 

「証拠?」

「そう。まずは証拠見せてみなよ、証拠をさ」

 

 尋常でない返り血を浴びた制服はとっくに処分してしまった。あの「きさらぎ駅」と大鬼の星熊勇儀の存在を示すものは、何一つ残ってはいない。

 

「ないの?」

「ないけど、でも!」

「こっちも大変でね。小娘のたわごとに付き合ってる余裕はないのさ」

「あの、ミヨシさん」

 

 キョーコは助けを求めるようにミヨシを見る。

 彼女はほんの少し揺れる瞳を伏せて、かぶりを振る。意図はうまく読み取れない。すっかり突き放された気分でキョーコは立ち上がると、

 

「今日、バイトで遅くなりますから。それだけです」

 

 と、蚊の鳴くような声で絞り出して食堂を後にした。

 

「帰ってくるまでにもう少し、ハナシ練り込んどけよな」

「ッ」

 

 勇儀の容赦ない追い打ちが背中をえぐった。

 

「そんなこと、しないから」

 

 極力押し殺した声で、一度だけキョーコは振り向いた。

 

「本当の本当にウソなんてついてない」

 

 キョーコは壁際に置いてあったバッグを取り上げる。

 その場の誰もがキョーコの自制心に感心するほど、食堂と廊下を隔てるフスマはしめやかに閉ざされた。

 

「――なんだよ。ちょっと遊んだらマジになっちゃってさ」

 

 玄関の引き戸がやけに静かに閉まる気配を確かめてから、ようやく勇儀が口を開いた。風間はすぐに同意も否定もせず、ただ肩をすぼめる。

 

「いや、でも、マジでさ。お前笑い過ぎだし言い過ぎだっつの」

「お前さんも笑ってたじゃないかい」

「まあな」

 

 勇儀の大暴れでちゃぶ台のそこかしこに散らばった箸を拾い集めながら風間が頷いた。

 

「あたしだって趣味で記憶喪失やってるワケじゃあないのサ」

「それも知ってる。だけどキョーコちゃんはゆっぴーの名前を知ってた」

 

 言っとくが俺は教えてないぞ。風間は言って、座布団を枕にごろりと畳の上に寝転がった。ミヨシはミヨシで洗いものに没頭しているようで、なんのアクションもしてよこさない。

 

「何者か知らんけど……あたしはあいつの話、到底信じられない」

 

 白っぽく日焼けしたちゃぶ台の上に肘をついて、勇儀は呟く。

 

「なーんか、わくわくしないねぇ」

 

 風間が屁で肯定した。

 

 ◆◆◆

 

 やはりこの町はおかしい。

 逃げ込んだのは、間違いだっただろうか。

 

「あひぃっ」

 

 白銀の閃光が横走りに首筋を狙って走る。

 間一髪で斬首を逃れた小鬼は酒屋裏の路地に置かれたビールケースをなぎ倒し、続く縦一閃の太刀筋がそれらを造作もなく両断するのを尻目に、なんとか立ち上がる。

 

「おおおおお、お前、私が鬼人正邪(きじんせいじゃ)サマと知って刃ァ向けてんだろうなぁ!?」

 

 すりむいた膝からじわじわと血がにじんでくる。

 もとは純白であっただろうワンピースに新しい染みを広げながら、旧校舎の小鬼――鬼人正邪は栄養失調の体にムチ打って再び駆け出した。

 

「誰の差し金だ!」

 

 鉄製のゴミ箱。放置された空き瓶。錆びた工具。何を拭いたかわからないチリ紙まで手当たり次第に投げつけてやったが、その結果は変わらない。

 

「――か? それとも――か? わかった。――の――だろ!?」

 

 正邪の口からは奇妙奇天烈な名前がぽんぽんと吐き出されるが、そのほとんどは喘鳴(ぜんめい)にまぎれて定かではない。

 

「――じゃないとなると、あの底意地悪い――だろ。そうだろ? 違う? クソ。心当たりが多すぎてよくわかんないよな!!」

 

 それも如何なものか。

 T女学院旧校舎の怪人こと鬼人正邪は薄暗い路地をひた走る。アーケード街こそ広く明るく、警察の目も届いているが、それはあくまで表の話。

 

「ンだよこれ」

 

 正邪の驚きももっともだろう。

 一本間違った通りに入れば都市開発から取り残された廃墟や、シャッターを締め切って夜を待つ居酒屋や、許可を取っているのかも定かではないいかがわしい店が立ち並ぶ。

 細く生温く湿った路地がどこまでも続く、K市の盲腸のような区画に彼女は追い立てられていた。

 

「――チ。袋小路か」

 

 どん詰まりに待っていた壁を殴りつける正邪の背後から、湿った足音が響く。だが諦めと意地の悪さにおいて、彼女の前に出るものはいない。

 

「こんなんで終わったと思うなよ」

 

 明かりと言えば、ビルの隙間から僅かに見える空だけ。

 監獄じみた薄暗さの中で、正邪の身に起こりつつある異変は一目瞭然だ。

 

「見せてやる」

 

 彼女の輪郭が黄金色の光を放つ。得体のしれない力の解放に、粛々と彼女の首をはねる予定にあった追っ手は歩調を鈍らせた。正邪の頬を裂く笑みが深まる。

 

 追いつめたはずのものが王手を渋り。追いつめられたはずのものが、王手をかける。

 

 その見事な逆転。それこそが――――

 

「私の能力(ちから)は」

 

 くるり。天を差した正邪の指が円を描く。

 ぞわり。呼び覚まされた力に正邪の黒髪が逆立つ。

 

()()()()()()()

 

 我に返った追っ手が刃を振るう。

 

「ハ」

 

 が、それは髪一束を断って落とすに終わり、正邪は鬼歯をむき出しに、追手を嘲った。

 

「一生吠えてろ、そこで」

 

 控えめに言っても奇妙な光景だった。

 彼女だけだ。正邪だけがこの世界の重力から解き放たれたように、ビルの壁面に薄い影を落としながら空へと落ちていく。

 

「じゃあな、ぶぁーっか!」

 

 砲弾のような勢いでビルの陰りから飛び出た彼女は、数秒夏の空を舞う。数秒間にも満たろうか。この飛翔は切り札だ。時間が無い。目に入った中で最も手近な雑居ビルの屋上めがけて、彼女はさらに加速する。

 

 ぷつん、と。

 

 時間が切れた。

 見えないワイアーが切られたように、真夏の飛翔は唐突に終わりを遂げた。

 ささやかな重力への叛逆(はんぎゃく)のツケとして、彼女は体勢を整える時間も与えられず、ほとんど脳天からビルの屋上へと叩き付けられた。

 

「ふぐぇっ」

 

 頭が割れる。視界に星が散る。

 彼女はコンクリートの床をごろごろ転がった。

 

(奴は?)

 

 痛みにあえぐのは後だ。

 恐る恐る屋上の手すりから身を乗り出した正邪が見たものはビルの谷間に渦巻く黒々とした闇でしかなく、追手の姿は消えていた。

 

「ざまあみやがれ」

 

 登ってくる様子の無い追っ手に改めて勝ち誇ると、正邪はよろよろとエアコンの室外機に寄り掛かった。

 年代物の室外機が轟音を上げて頑張っている。正邪の体も同じ具合だ。爆発寸前の肺腑が、ぼろぼろの体をなんとか冷やしてやろうと最大限に稼働している。

 

「昔はよかった、な」

 

 このワケのわからない外の世界に放り出されて二月と経たないのに、なんて年寄り臭いことを言うようになったのだろう、と正邪は苦笑する。

 昔はいくらでも走れたし、いつまでも飛んでいられた。

 

『手段は問わない。生死も問わない。奴を捕らえろ。どんな褒章でも取らせよう!』

 

 それは黄金の時代。

 悪が正しく悪でいられた世界のはなし。

 

『我が名は正邪! 生まれもってのアマノジャクだ!!』

 

 だがそれは過去の栄光。

 今や彼女たちのちからの大半は取り上げられ、静かに消える運命が待ち受けるのみ。

 イカサマを武器にたった一人で一つの世界を相手取った驚天動地のトリックスターは、今こうして人知れず野垂れ死のうとしている。

 

「…………昔は、よかった」

 

 更に深い感傷に浸ろうとした時だった。大きな影法師が、正邪の影を呑み込んだのは。

 ひやりとしたのは影の内に入ったからか。それとも。

 

「あ?」

 

 疑問符の無駄遣いだ。

 どうやってかビルをよじ登り、音もなく室外機の上に飛び乗り、正邪の背後を完全に捉えたのが何者なのか。そして、影法師が構える――正確には口に咥える得物によって、直後何がなされるのか。

 

(まずい。しくじった)

 

 その時、正邪はどうなってしまうのか。

 

(落ち着け、慣れてんだろ、こういうの)

 

 そうだ。私はただのちっぽけな妖怪じゃない。

 鬼人正邪というオオモノだ。と、自分に言い聞かせる。こんな状況、脳味噌を紐解けば今まで数えきれないほど直面し、生き延びてきた。

 

 ――そうだろう?

 

「ふっ」

 

 だから、あえて。笑う。

 残り少ない力を指先に込めて、首筋に添える。直後、太刀の一閃が彼女の首元めがけて迸り――――薄皮を裂く寸前で奇妙な軌道を描いて反れた。

 

「――うるる?」

 

 追っ手が初めて困惑に声を上げた。正邪が鬼歯を剥く。

 切断されたのは正邪の頸椎ではなく室外機であった。

 高速で回転するファンが軸から解き放たれ、無数の破片をあたりにまき散らしながら明後日の方向へ飛んでいく。

 

「かかったなアホが!」

 

 当の小鬼は再び飛翔し、降り立った手すりの上で危うくバランスを取っていた。

 一方、自らの意思を完全に離れた獲物によって振り回された追っ手は完全に体制を崩し、立ち上がろうと()()()()を必死にバタつかせていた。

 

「私の力はひっくり返す。重力だろうが、お前の太刀筋だろうが、関係ない!」

 

 尚も正邪に対する殺意を萎えさせないそれは、人の形をしていなかった。

 

 ――狗。

 

 鬼人正邪を執拗に追い立てていたのは家ほどの大きさもある狗の怪異であった。

 

「――――ぐるる」

 

 銀の炎じみたたてがみにまとわりついた破片をふるふると払って、大狗は正邪を見据える。燃える両眼の上から突き出たものは、間違いなく角だ。

 

「お。怒ったなぁ」

 

 あくまで相手を小馬鹿にする姿勢を崩さず、正邪は鳥のように両手を広げた。しかし、今度は飛翔のためではない。

 

「じゃな」

 

 そのまま背中から落ちる。

 またまた正邪を捉えそこなった刃がスチール製の手すりを(ネギ)か何かのように易々と切り裂くのが見える。

 

(当たらなければ問題なし、だ)

 

 自分に言い聞かせて、高速で目の前を過ぎ去るビルの外壁に手を伸ばす。細かな凹凸に覆われた壁はおろし金じみて正邪の指先を摺り潰し、爪が剥げて飛んでいく。

 

「ぐあっ」

 

 手は瞬く間に血染めになったが、それでもわずかに落下の衝撃を殺す役割を果たしてくれた。

 

(大丈夫だ。問題ない)

 

 アスファルトに叩き付けられた正邪の体はゴムマリのようにバウンドした。着地のついでに体のどこかで骨が数本折れたようだが、まったく問題ない。遠のく意識を力ずくで引きずり戻し、正邪はよろよろ立ち上がる。

 

 問題は屋上から迷うことなく正邪めがけて飛び降りてくる大狗の存在だ。

 

「ちいっ」

 

 また、地面を転がる。

 正邪は鼻先を掠めた刃に映る、恐怖にひきつった己の顔が見えたような気がした。

 

「どうしたバカ犬」

「――ぐう」

 

 だが当たらなければ素振りと変わらない。

 剣風に後押しされるように正邪はほんの一瞬重力をひっくり返し、宙返りに空を舞う。

 

「当ててみな。骨のひとつもくれてやる」

 

 どうせ体の中はバキバキに折れている。一本二本くれてやっても問題はない。とにかく、今は首が繋がったままにしなくては。

 

 ――咆哮。

 

 路地と鼓膜をビリビリ震わせる遠吠え。

 振り返る余裕もないまま、正邪は駆けた。

 ガス欠の飛行機のような無様な跳躍を何度も何度も繰り返す。路面のわずかなヘコミにすら足をとられそうになる。

 

(もう一歩。路地一本だろ。頑張れよ、私!)

 

 見覚えのある路地を正邪は駆け始めていた。ゴミあさりでさんざん世話になった通りだ。ここを越えれば大路に転がり出ることができる。

 

(人混みに紛れて、こいつをやり過ごすんだ!)

 

 騒ぎになろうが巻き添えが出ようがお構いなし。それが鬼人正邪という存在なのだ。

 

「ははっ」

 

 後ろを見て、正邪は思わず嘲笑した。

 あの巨体でこの通路を抜けるのはさぞ大義に違いない。人々の生活圏により近いこの場所には通路のあちこちに障害物が積まれている。ゴミ箱やビールケースなんてかわいいものだ。

 

「ぐるる」

 

 ましてや長い刀を真一文字に咥えていては。

 正邪の視線の先には壁際にいつから立てかけてあったかもわからないバイクの横っ面に見事に刀を引っかけた大狗。

 

(妙な芸を仕込まれてはいるが、しょせんは獣みたいだな)

 

 と内心馬鹿にしていられたのは一秒もあっただろうか。軽々と持ち上がっていく車体に、正邪は敵の意図を理解してしまった。

 

「やば」

 

 あいつは引っかかったのではない。引っかけたのだ。

 

 牙を剥いたイヌ科の口はもともと笑っているように見えるものの、突き刺したバイクごとカタナを振りかぶった瞬間、そいつは確実に笑っていた。

 ように、正邪には見えた。

 

 がきゅ。

 

 カタナとバイクが別れを告げる音。

 オイルを血のように吹き出しながらバイクが飛んだ。

 それはバイクの製造者が全く想定しない使い方ではあったものの、この状況において最適な利用法であった。

 

「な――にぃ!?」

 

 予想外の攻撃だ。

 火花と砕いた壁面をまき散らしながらやってくる地獄の剛速球が正邪に迫る!

 

 路地の壁に体を寄せる? 伏せてやり過ごす? ――わずかに足を止めればすぐさま追いつかれる。

 では能力を発揮して空高く飛翔するか――ダメだ。不意も打たずにフワフワ浮いていたら今度こそ斬られる。

 

(しゃあないな)

 

 正邪は残り少ない力をかき集める。指先に黄金色の灯を纏う。ひっくり返すのだ。迫る鉄塊をはじき返し、ヤツの鼻ヅラにお見舞いする。

 

 「ぐ」

 

 が、それすら甘い考えだった。バイクは、純粋に重さと勢いで正邪の能力を圧倒した。

 バイクは僅かに軌道を逸らして正邪の肩を直撃した。ボーリングのピンのように、正邪は路面を滑る。背骨を打ち砕かれる感覚。尖った部品の一つ一つが体をえぐる不快感。見方を変えれば軽い交通事故レベルの衝撃だ。

 

「ぐああ、クソ、ふざけんな!」

 

 立てるのが不思議でならない。

 そして不思議とは長続きしない。

 あっという間に足をもつれさせて倒れ込んだ正邪に、大狗はゆっくり迫る。バイクの残骸を踏み越え、口にくわえた刃の刃先を壁面にこすりつけながら。

 

「お前、お前――どこの誰が雇ったのかはわからないけどな」

 

 刃先の散らす火花が大狗の異形を不気味に浮かび上がらせる。

 正邪は、なおも這って逃げる。三叉路の壁まで這って逃げてのけると、尚も絶望の見えない瞳で、大狗を睨んだ。

 

「八つ裂きになったって頭を下げてやるもんか。私は死なない。絶対、こんなところで」

 

 それだけだ。

 それだけが鬼人正邪の矜持だ。それでいい、と彼女は笑う。

 

「絶対に、絶対に。もっともっとお前らを困らせて――うおっ!?」

 

 驚きの声が上がったのも無理はない。

 彼女の口上を待たずして、壁が正邪を呑み込んだのだ。

 薄汚れた周囲の壁と完全に同化していたそれは扉であった。外見に反して正邪が軽く体重をかけただけでするりと開き、彼女を中へと誘った。

 

 からん。ころん。

 

 中は別世界だった。

 香ばしい香り。レコードのノイズ。涼しげな音と、涼しい空気が正邪を抱き留めた。

 

「あら」

「おや」

 

 中には男と女。

 なんの前触れもなくドアベルを叩き鳴らして転がり込んだ正邪に二人の視線が集中する。

 

「珍客到来、だな」

 

 窓際の席に陣取る男がアイマスク代わりにしていた文庫本を顔面からのけて、西日に目を細めた。差し込む陽に無精ひげがきらきら輝いている。

 

「おい、バルバル、なんかワケアリっぽいの来たぞ」

「あぁ。そうみたいだな」

 

 よく磨き込まれたカウンターの後ろから声が返ってきた。

 

「それとヘンな名前で呼ぶの、いい加減やめろよな」

 

 ため息一つして、女はカップを流しに置いた。

 

「外?」

 

 彼女は

 エプロンで濡れた手を拭きながら、彼女は入口へのドアへと歩み寄る。

 

 からん。

 

 途端、すらりとした彼女の手がするりと真鍮のドアノブへと延び、待ち構えていた凶刃がしゃらりと斬って落とされる。

 

 どっ。

 

 ――――と。彼女の首が音を立てて床に転がった。

 

「どうした?」

「いいや。何も」

 

 なんてことは一切なく。

 

「ほら。怖いお化けはまだいるか?」

 

 子供扱いされても怒りより安堵が勝った。

 

「はぁ。あぁ。いや」

 

 岩塩を透かしたような薄茜色の西日が、呆れ笑いを浮かべたスバルの黒髪を染める。

 大路に至る道が近いのか、路面電車がレールを滑る高い音と、信号待ちのトラックの、獲物をお預けされた猛獣のような低いエンジン音が聞こえてくる。

 

 それだけだ。

 

 ドアの外にあったものはそれだけ。K市の日常。

 

「暑気に浮かされてヘンなものでも見たんじゃないか」

 

 窓際の男がヘラヘラ笑いながら文庫本を開きなおした。

 

「無理もない。今日はまだこんなに暑いんだ」

 

 スバルは無残にぶった切られた首の断面を晒す代わりに、きれいな顔に僅かな困惑と、正邪の有様に対する呆れを浮かべる。

 

「あぁ、そう、か。なら、いいんだ」

 

 生き延びた。

 そう実感した途端に心臓でせき止められていた疲労が全身に流れ出し、正邪はロクな返事もできないまま床にひっくり返った。冷えたフローリングと冷房が心地よい。

 

「さて、お客様?」

 

 つぶれたカエルのような姿で床に伸びた正邪に、スバルは無駄のない動きでおしぼりを差し出した。

 

「ようこそいらっしゃいました。脱兎珈琲(ダットコーヒー)へ」

 

 

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