誰であれK市にしばらく住むと、脱兎珈琲という名を自然に耳にするものだった。
K市駅前のアーケードから枝分かれした小道の、その梢の先の先、半ば都市という怪物に取り込まれるような形で存在するという喫茶店は、知る人ぞ知る隠れ家的名店であったーーなんて生易しいものではなく、口さがなく言ってしまえば迷店であり、奇店であり、怪店であり。その奇怪さについての噂を市井から掬い上げれば、
曰く、入るものはいても出てくるものは皆無であるとか。
曰く、そこはK市の闇に潜む怪異たちのたまり場なのだとか。
曰く、客が店を探すのではなく、店が客を探して市内を彷徨しているのだとか。
曰く、少し前にK市全域の新聞部を裏から牛耳る謎のブン屋集団が総力を結集して探したが徒労に終わったとか。
荒唐無稽な噂に枚挙はなかった。
このあたりで話がややこしくなりがちなこの店について夢のない事実を明かしてしまうなら、十数年来の歴史を持つ老舗が都市再開発計画に見過ごされ、気づけばこんなシャッター通りの奥に佇む羽目になっていた、というだけのことだった。
「お疲れ様です」
「おう。今日もよろしく。って、あ?」
目印は暗がりに茫とした光を放つ青い四角看板。
ノスタルジィの香りを漂わせるキーコーヒーのロゴの脇を抜けて扉を押し開けたキョーコを迎えたのは涼しげなウェルカムベルと、年季の入ったカウンターの向こうで所在無さげにしていた風間の営業トーンの声であった。
「よく来たなあ、このガキ」
しかし風間の接客スマイルは一瞬で崩壊した。
有刺鉄線を叩きつけるような険のある声はキョーコに向けられたものではない。彼女の手をにぎって、ただただちょこんとそこにいる、年端もいかない少女に向けられたものだった。ドレスとも和服ともつかない独特なワンピースと、血のように赤い瞳が印象的だ。
「ちょっと、風間さん。話が」
肩をいからせてカウンターへと入っていったキョーコが、風間からエプロンをもぎ取った。
「子供相手に何してくれてるんですか」
「いやーこいつと知り合いだったの?」
「駅前で道を聞かれたんです」
「あのさ、こいつは」
「いいから、話を聞く!」
「はい」
「ちょっと待っててね」
少女は小鳥のように首をかしげる。ツヤのある亜麻色の長い髪が、外の暑気でも汗ひとつかかない少女の額をしゃらりと流れる。どうやらちょっと待ってくれるらしい。
「この子と今日会う約束、しましたよね」
「したね」
「場所、ここだって言いましたよね」
「言ったね」
「道順、教えましたか」
「ううん」
「風間さんッ!!」
悪びれのない風間の様子に、キョーコが眉を吊り上げた。
「この子、半日近く迷子になってたんですよ!」
「やったー」
「やってない!」
「だってこいつ嫌いなんだもん。好きなだけ困ればいいんだゲヘヘ」
「相手は子供じゃないですか、熱中症にでもなったらどうするんですか!」
「子供じゃないっつーの」
鈴を震わすような、澄んだ声であった。
「え?」
「あ?」
きゅぽん。
ここへやってきて初めて口を開いた少女は、腰にぶら下げていた瓢箪の栓を抜くなり、呆気に取られる二人を前にぐいっとあおって見せる。滝のような勢いで透明な液体が彼女の口元へと注がれていく。
「アレって水ですかね」
「そう見えるのか」
せいぜい郵便ポストくらいの背丈の少女から、さっと香気が立ち昇る。今まで手を引いていた時は少女特有の綿菓子のようなにおいがするくらいだったのだが。今のソレは違う。髪から、肌から、日本人なら誰もが嗅ぎ覚えのあるにおいが染み出してきていた。
「げぼふう」
と、かわいげの無いげっぷにあわせて強烈な酒気が霧のように辺りを取り巻いた。
「ほら、こいつ放っておいていいのか、よいこちゃん」
「おあーっ!」
風間が最後まで言う必要もなく、大声を上げたキョーコは小走りに少女のところまで歩いていくと、未だ呆然とする彼女から瓢箪を取り上げた。口の部分に鼻を近づけて、鼻を刺すようなアルコールに彼女は顔をしかめる。
「これお酒じゃん!」
「なんだよ! 返せよ!」
「未成年! ダメ! お酒! 絶対!」
「それと酒と、どういう関係があるんだよ!」
「大有りだよ!」
ぴょんぴょん飛び跳ねて酒の奪回を図る少女と意地でも返すもんかというキョーコがくちゃくちゃになっていると、風間は肩をすぼめて見せた。
「分かったろ? こいつはこーいう奴なのよ」
キョーコに仕事を簡単に引きついで、風間はカウンター席に腰掛ける。「帰るとき、ちゃんと私の酒を返せよな」その隣にイスひとつ分空けて、少女はやや難儀しながら背の高いイスによじ登った。
「何ゆえに距離を取る」
「あんたの真横とか、イヤだ」
瓢箪の一件もあってか、彼女は露骨に不機嫌だ。
「年頃の娘かよ」
「年頃の娘だろうがよ」
「冗談は背丈にくらいに留めとけ」
「あ?」
「あのー、ずっと気になってたんですけど」
キョーコがおずおずと口を開いた。二人の視線を見つめ返しつつ、改めてオッサンと幼女によって開かれようとしている捉えようのない会合に疑問符しか浮かばない。
「二人は、どういう関係なんです?」
「え? あー、カザマが私のこと紹介してよ」
「なんで俺がわざわざ」
「私は見学で忙しいのだ」
言って、少女はサイフォンの観察に戻る。彼女の様子をしばらく見つめて、風間は疲れたように深々とため息をついた。
「このチビ例の助監督。名前は
最低限の情報だけ告げて、風間はキョーコの視線に気づく。
決まり悪げに顔面の絆創膏を指先で撫ぜる。日雇いで鍛えられた肉体を誇る彼が萃香にド惨敗を喫したと、つい昨日に口にしたばかりであった。
「まー今は肩書きだけなんだケド」
派手な場外乱闘のおかげで向こう一ヶ月の試合禁止。商店街を駆け抜けた人間台風たちに下された処罰についてはキョーコも耳にしていた。
「どっかのバカが乱闘騒ぎ起こしてくれたせいでさー」
その片割れである萃香がカウンターの上にでろりと伸びた。
「売られた喧嘩を買った奴にも責任あるだろうが」
「うっわ。何その暴論」
しかし数日前の騒ぎに関しては萃香も負い目がないわけではない。
嬉々として乱闘を始めた彼女が我に帰った時既に遅し。荒れ放題となった商店街と飲み屋の電飾看板に頭から貫通した姿でぐったりした風間を見て、彼女は他人事のように言い放ったのである。
『あーあ、やっちゃったよ』
と。
「そういえばずっと気になってたんだけど、なにソレ」
もとから後悔などしないタチらしく、萃香の興味はさっさと別のところへ移っていった。
「ん。コレはね、サイフォンっていうんだよ」
「さいほん?」
それはこぽこぽという耳心地のいい音を立てていた。
「知らない? あ、喫茶店とか、初めてだよね」
喫茶店よりも研究室の戸棚の方が据わりのよさそうな、一見して奇妙な物体は。木製の台座の上にでビーカーじみたガラスの容器二つが組み合い、さらにその中には鉄製のチェーンやフィルター、そして挽きたてのコーヒー豆が見える。
「ん。はじめて」
「そっか。全部の店でこの道具を使うんじゃないんだけれど。ここ、見ての通りお客さん少ないでしょう?」
「そうみたいだね」
そもそも辿り着ける客がいない。苦笑する間もキョーコはその間も休まず手を動かす。
下側のビーカーに溜まった湯が十分に沸騰した頃合を見計らって、キョーコは二つの容器をしっかりかみ合わせる。やがて熱湯は重力に逆らって上のビーカーへと昇っていく。フィルターを濡らす水の動きを追っていた萃香が「おおお」と声を上げた。
「なんだそれ、魔法か!」
「魔法じゃありませーん」
しかし抽出されたコーヒーをかき混ぜる姿は、確かに大釜の前の魔女じみてもいた。
「大変なここまでたどり着いたお客さんには、せめて一杯一杯楽しんで、おいしいコーヒーを飲んでもらえたらなー、なんて店長に言ったらね、コレ買ってくれたの」
て言っても腕前の方はまだまだなんだけれどね、と苦笑してキョーコは温めておいたカップにコーヒーを注いだ。ひとつは風間、ひとつは味見用、そしてもうひとつは、
「はい、キミもどうぞ」
「ふえ。でもお金もってないぞ」
「サービスだから。気にしないで」
純粋無垢すぎる萃香の反応にくすくす笑いながらキョーコはヘラでコーヒーをかき混ぜ続けた。未だに魔法だ手妻だと目を輝かせる萃香の頭をぐしゃぐしゃ撫でながら、風間はいつものニヤついた笑みを浮かべた。
「なにかと面倒で悪いね。こいつ、結構なド田舎生まれでさ」
「田舎じゃないって。あと気安くアタマさわんな」
「アレだろ、お前いたところ、河童とか天狗とか出るんだろ?」
「お前田舎をバカにしすぎだろ」
「じゃあ出なかったのか?」
「……まぁ河童はいた。そういえば天狗もいたな」
「聞いて驚け。まず都会にその手の連中は出ない」
「マジか」
「あと魔法や術なんてないし、ハタチ以下は酒飲んじゃダメだ。少なくともお前みたいにハタチ以下に見えるヤツは面倒な思いすること請け合いだ。あと夜出歩いてもワリと安全」
「なんてタイクツな世界なんだ」
思わず怪訝の視線を向けるキョーコを傍に、風間はかかか、と笑いを漏らす。
「あぁ。冗談だよ。内輪ネタってやつ。いや、やっぱりマジかな」
「どっちだよ」
「近頃は色々変わった。お前が一番よく知ってるだろ?」
小さく鼻を鳴らして、萃香は手元のコーヒーカップに向き合った。深刻な表情だった。困っているようだった。単に風間の軽口に愛想を尽かしたというわけではなく、目の前のコーヒーをどうすればいいか、純粋にわからないようだった。
「キョーコ」
「ん?」
「いただきます。でいいのかな。その、私初めてだから、味とか分からないかもだけど」
「うん。召し上がれ」
言われてすぐに口を付けようとはしない。香りを嗅いだり、ふうふうと吹いているところを見ると、萃香は猫舌なのかもしれなかった。
それを微笑ましそうに見守っていたキョーコだったが、にわかに表情をこわばらせると、そっと風間に耳打ちする。
「風間さん。今日、スバルちゃんは……?」
「店長は奥」
無精ひげまみれの顎で、カウンター奥の扉を彼はしゃくる。
「そですか」
キョーコは思わず安堵の息をつく。
今朝はいつもキョーコにべったりのスバルが朝食の席に顔を出さなかった上、キョーコはそれを分かっていたように電鉄に乗って学校へ。二人の間に何かがあったのは誰の目にも明らかだった。
「さっきケガした野良猫が転がり込んでな。今手当てしてる」
だけど根掘り葉掘りしないのがいい男の条件さ、と風間は内心うそぶいただけだった。
「ネコ?」
ここまで二人とのやり取りに耳を傾けていて分からなかったが、確かに裏手に通じるドアの向こうから響いてくるどっすんばったんを聞く限り、そうとう賑やかにやっているようだった。
「そ。ちょっとばかし手がかかるな、ありゃ」
◆◆◆
ついに我慢の限界に達した正邪は風呂場から飛び出していった。
「うっきゃあああ」
風間は物事を控えめに表現する天才であった。
猫、もとい浮浪児、もとい鬼人正邪はニンジャもかくやという動きでかさかさと壁を這い上がり、天井の片隅に張り付く。べしゃり。という湿った衣服の音が後を追ってきた。
「やってくれたな、このやろ」
風呂桶に突き落とされたスバルが唸るように言う。二人ともぐしょぬれだった。
「やりやがったのはお前だお前。こちとら襲われるかとーー」
「誰がお前みたいな貧相なの相手にするか」
隠すものも隠さずにへばりついたままの正邪からスバルは目を逸らす。心底嫌そうだった。
「お、お、お、お前も誰かのやとわれか。そうだろ、そうなんだろ!?」
「お前なんか知らん」
「はん。隠したってこの正邪様にはお見通しなんだからな。お前も、あのおっさんも、外の犬ころも、みんなグルだったってぇわけだ」
「いや、だから知らないって」
やっぱり面倒くさいな、こいつ。
仏心なんか見せずに蹴り出しときゃよかったなとスバルが思っていると、それを図星の沈黙と取ってか、得意顔で正邪がするする降りてくる。
大狗には相当痛めつけられたが、正邪の人ならざる生命力が今も身体の修復を続けていた。このくらい動き回る分には問題なさそうだった。
「だが残念だったな。この正邪サマが心を許したところで捕まえる気だったかトドメを刺す気だったかモニョモニョする気だったかは知らん。が、この正邪サマは勘が鋭いのだ。颯爽とこの場を後にすぶふぉ」
彼女が颯爽と全裸のまま駆け出した先には一枚のドア。
それにカギがかかっていることも確かめずに突撃していった正邪はピンボールの玉のように跳ね返され、自分でびしょぬれにした床でスリップした。トドメとばかりに陶製の洗面台の角に後頭部を叩き付けると、派手に音を立てて床に転がる。
「お、おのれー、抜け目のない」
「いやここ内カギだから。おっさんとかに見られたら困るのはそっちだろ」
頭を抑えたまま丸くなった正邪に、スバルはバスタオルを掛けてやった。
「私をどうするつもりだ!」
「どうもしない。こっちはお前の名前なんて知らないし、何をしてきたのかも知らない。興味もない。傷だらけで転がり込んできたから善意半分の哀れみ半分で助けてやっただけだ」
「……ほ、本当にこの、正邪サマをご存じないってぇのか」
「知らん」
「悪逆非道にして不可能をひっくり返すトリックスター。神話の天邪鬼、鬼人正邪を、本当に知らないっていうのか」
「よく恥ずかしげもなくツラツラと言えたもんだ。でも知らん」
「なん、だと……」
なぜか急に意気消沈していく正邪を起こして、スバルは救急箱を下ろした。
「言っとくけど、めっちゃくちゃ沁みるからな」
それからは静かなものだった。
ぱっくり開いた傷口を消毒する間も、きつめに包帯を巻いてやる間も、ぼろぼろのワンピースの代わりにスバルが自分の古着を無理やり着せてやる間も、正邪は完全に脱力しきった様子でスバルを眺めていた。
「しかし、それでも私は恐ろしいだろう」
蚊の鳴くような声で正邪は問うた。
ややあって、かすかな笑い声が漏れる。それがスバルの答えだった。
「いいや」
「私は誰もが恐れるだーー大ーー大、大悪党なんだぞ」
「裏口開けとくから、落ち着いたらそっちから出てけよ」
にべもなく会話を打ち切り、絆創膏を手当ての仕上げに額に貼ってやると、スバルはその場に正邪を残して立ち上がった。
「お、おい。どこ行くんだ」
「こう見えて仕事がある。いつまでもお前に構っちゃいられないんだ」
「わ、私を残していくと大変なことになるぞっ、家中の明かりつけっぱなしにしたりとか、日めくりカレンダーを一日おきにめくっちゃったりとか、ゴミ箱の中身ぶちまけたりとかーー」
「悪いな」
くすり。
「お前に構ってるほど、皆暇じゃないんだ」
薄い笑みを浮かべてスバルは去った。取り残された正邪はへたりと座り込む。そこにぽっかり穴が開いたような気がして、シャツの胸元を握り締めた。
「なん……だ。それ」
分からない。分からないまま、正邪はよろよろと立ち上がる。
◆◆◆
「出直せバカザマ。5:5とかワリに合わないから。7:3だね」
コーヒーがお気に召した様子の萃香はそこでカップを口元に運んで間を置くと、目つき鋭く風間を睨み付けた。
「もちろん百万歩譲歩してだかんな。ありがたく思いやがれ」
「バカ言え。元はといえば喧嘩を大事にしたのはそっちだろうが。半々ったら半々。これ以上は譲らねえ」
「元の元はといえばお前が付けたイチャモンが火種だろうがばーか。じゃあ6:4で手を打ってやるよ。お前が、今、ここで、犬のモノマネして見せたらだけどね」
「ぐぬぬ、背に腹は変えられねえ」
「ええっ、その選択肢をとるんですか!?」
謹慎期間中の練習場所の使用権をめぐっての交渉は平行線を辿っていた。
「キョーコ、おかわり」
「はーいただいまー」
「なぁチビ、お前おかわりはいいけどカネあんのか?」
「ん。ないよ?」
「おいおいこいつ文無しだぞ!」
「だからサービスですってば。当店は最初のお客様からはお代を頂かない方針ですのでー」
いたずらっぽく笑ってポットを持ち上げてみせるキョーコの前で、打って変わって深刻な顔で萃香はカウンターに突っ伏した。
「す、萃香ちゃん?」
「やっぱり先立つものは必要だよあなぁー」
「お前、前はどうやって生活してたワケ?」
「金子なんて持ったこともなかったわ。酔った勢いで畑から野菜ちょろまかしたり、時間があったら一日呑みながら釣りしたり。いっつもどこかで宴会してるからさ、そこに紛れ込んだり。あー、できることなら帰りたい」
どちらかというと何かと理由をつけて酒を飲んでいるだけのような気がしないでもない。よいことしてキョーコは看過していいものかと悩む部分もあったが、とりあえずは萃香の窮状が気になった。
「お父さんとお母さんに電話してあげよっか」
「いや。だから私、そういう歳じゃないんだよ」
まず親なんているのかどうか、と。言って彼女はカップに息を吹きかける。
「あ……あー、じゃあ、その、泊まらせてくれそうなトモダチに連絡取るとか」
「いや、そもそもなくなったんだわ。私の暮らしてたトコ。知り合いバラバラになっちゃってさぁ。マブダチがいるって聞いてこの町に来たんだけど、見つからないし」
かすかにかかっていたレコードのノイズが大きく聞こえるほど、沈黙が色濃く漂った。
萃香は時間が止まったようになった店の中で悠々とカップを傾ける。封を切られたシュガースティックの殻が転がるソーサーの上にそれを戻してから、彼女はきょとんとしたようすでテーブルに集った面々を見回した。
「あれ、どうしちゃったの?」
「急に重い話されるとな、普通な、こういう風に引くもんなんだよ」
「ひくって?」
「めっちゃ白けるってこと」
もっともこの場でヒいたのは風間だけであり、一方からは怒涛の勢いで間違った方向に突き進もうとしているよいこの気配がひしひしと伝わってくるのだが。
「風間さん、わたし、この子」
「スポーツ奨学金だっけ? 打ち切られるんだろ」
二年半も同じ寮で寝起きしてきた風間にはキョーコの考えなぞ手に取るように分かる。なので、ロクでもない考えにはさっさと釘を刺しておくことにした。
「こんなクソチビだってな、イヌネコじゃあねえんだよ。キョーコちゃんが面倒見切れなくなっても、俺ぁ絶対に手出ししないからな」
「そんなの覚悟の上です。がんばりますから」
「よいこなら」
そこまで言って、風間は頭痛がしたかのように眉間を押さえた。どうしてこの子はこうも融通が利かないのだ。
「いいか、よいこなら。よいこのままでいたいなら。首突っ込むのは自分の力でどうにか出来る問題だけにしろ」
「そ、それ。どういうことですかっ」
「キョーコ」
くい、と萃香がキョーコの袖を引いた。
「気持ちはありがたいよ。でも私は貸しを作らない主義なんだ。カネは自分で稼ぐ」
「なんだ、エラいな、お前」
「つーことでカザマ、実入りのいい稼ぎ口あったら教えろ?」
「やっぱエラくないわ」
どう見ても子供の萃香にできる仕事ってなんだろう。キョーコが真剣に考えていると、風間は「いくつかある」と呟き、すぐに「けどな」を付け足した。
「ビジネスにはチャンスってのがあるんだよ。へべれけのお前じゃあ目の前にそいつがぶら下がってても気づきもしねえだろ。ヘマされると俺の信頼にも関わる」
「いいから。何かあったらいの一番で教えてよ」
半ば無理やりナプキンに連絡先を書きとめさせると、萃香は席を立った。いつの間に取り戻したのか、その手には例の瓢箪が握られている。
「カネが出来たらまた来るよ。この店も、店員さんも。あと珈琲、気に入った」
「ふふ。今度は辿り着けるかな」
キョーコに見送られて出て行くときに、彼女は嬉しそうに笑って言ってくれた。反射的に、子供にするようにその頭を撫でていたが、彼女はこそばゆそうにするだけで、文句が飛んでくることはなかった。
「寝泊りする場所はあるみたいだし、大丈夫だろ」
萃香が暮れの町に去っていく。背後でやり取りを見守っていた風間が言った。
「は。い」
「まぁなんだ。結局、練習場所の取り分も決められず仕舞いだったしな。ちょくちょく顔も合わせるだろうし、マジでやばそうだったらおっさんも動くからさ」
「すみません。わたし色々、生意気言っちゃって」
「そんなこたぁねえよ」
そこから二人は定位置に戻る。キョーコはカウンターへ。風間は文庫本を手にぶらぶらとテーブル席へ。今日も今日とて、待てど暮らせどこの魔窟に客が来る様子はない。
「暇ですねぇ」
「そうだなぁ」
表通りの店で忙しくするのも悪くないが、脱兎珈琲の店内を流れる水あめのようにゆるりとした時間をすごすのが好きだ。極稀に迷い込んだか、それとも執念で嗅ぎつけたか、この店を訪れる客たちとの交流を楽しむのがキョーコの楽しみだった。たいてい曲者揃いで、皆置き土産のように面白い逸話をこの店に残していくのだった。
「萃香ちゃん、変わってるけどかわいい子でしたね」
「相変わらずキョーコちゃんはチョロいなぁ」
「ちょろい、ですか?」
「おっさんはキョーコちゃんの将来が心配だよ」
長く引っ込んだままだった「店長」が戻ってきたのは、そんな時だった。
「悪い、長くなっ、た……」
乾かしたばかりでの髪で戻ってきたスバルとキョーコの視線がかち合う。どちらが先
「お疲れ、スバルちゃん」
「あ、あぁ。そっか。今日、バイトだったか」
関節からギコギコ音がしそうな動きでカウンターまでやってくると、スバルは店内を一望した。いつもと何ら代わり映えしない。彼女が唯一両親から受け継いだ遺産は、今日も開店休業状態でそこにある。
「なにか、手伝えることは残ってるかい?」
「あ、あーと、えーと。じゃあ、カップ洗っておくから。うん、カウンター周りの掃除、お願いしちゃおうかな」
「わかった」
バケツとモップを手に戻ってきたスバルは黙々と作業に取り掛かる。流しの水音とモップが栗皮色のフローリングを擦る音。時折風間がページをめくる。レコードはA面のまま二週目に入った。人数が増えた割に、店内の静寂は増していた。
「その……気まずい、ね」
「……うん。そうだな」
なおさら気まずくなるようなことをキョーコが口にして、スバルが同意する。
「そうだ、ネコ!!」
不意にキョーコの上げた大声が沈黙を打ち払った。風間は紙面からふいと目をむいた顔を上げ、至近距離にいたスバルは、思わずモップを落としかけた。
「ね、猫?」
「ケガしたネコのお世話、してたんでしょ。もう大丈夫なの?」
「あ、あぁ――」
風間がどんな説明をしたのか分からないが、話がこじれそうなのでスバルは適当に合わせることにする。
「すぐ元気になって裏から出てった。ありがとうも言わない、恩知らずなヤツだったよ」
「しゃべる猫なんて、見たことないケド」
「だろうな」
「でも残念。ネコ、撫でたかったなぁ」
キョーコはそこに猫の背があるように宙を撫ぜた。
「やめとけ。あれは噛むから」
「それはスバルちゃんが怖い顔してるからじゃない?」
「馬鹿にするなよ。私だって動物には優しくするさ」
「ほら、またそんな顔するから――ふふ、冗談だよ」
スバルが眉間のしわを確認して手を下げると、そこにはいつもの無防備な笑みを浮かべたキョーコがいた。
「まだ私に、笑ってくれるんだな」
今なんだろうな、と。意を決してスバルがモップをカウンターに立てかけると、キョーコも蛇口を閉じて応じる。
「……昨日は、その。ごめん」
「ううん、わたしも。皆がせっかく用意してくれたのに、台無しにしちゃった」
「チヅルのこと、なんだけど」
「うん」
「私はやっぱり、あいつが嫌いだ。キョーコが好きだから、キョーコを嫌いなあいつが嫌い」
「そっか。分かった」
「分かったって……いいのか。だって」
「だいじょぶ」
スバルを安心させてやる。こわばった身体を、鼓動を、全身で感じる。キョーコの抱擁の中で、こわばりはゆっくり解けていく。一日開けただけだというのに、この日課をずいぶん懐かしく感じる。
「時間はかかるけれど、きっとうまくやれるよ。みんな」
そう導いてあげるのが、元部長で、そしてほかでもないよいこの自分に残された仕事なんだと、キョーコは思う。
「ん」
「仲直り、しよっか」
「ん」
キョーコはスバルが満足するまで、洗いたての髪から漂うシャンプーの香りを嗅いでいた。それからややあって身体を離して、モップを手に作業に戻るぞといったところで、スバルが思い出したように口を開いた。
「そうだ。明日はお店を休みにしようと思う」
「え。どうして?」
「そういや夏祭りだったな」
それまで完全に存在感を忘れられていた風間が文庫本に目を落としたまま呟く。スバルは満面の笑みで、濡れるのも構わずキョーコの手を掴んだ。
「一緒に行こう。仲直り記念のデートだ」
◆◆◆
ねぐらにしているT女学院の旧校舎まで、とうとう正邪は誰にも会わなかった。
「ただいま、我が城よ」
当然、返事は無い。
「相も変わらずホコリ高い」
ここと決めている下駄箱の、足跡の形に埃が除けてある場所にスバルからもらった靴を丁寧に並べると、彼女は大きく胸を膨らませる。
「そこにいるのは分かってるんだぞ」
返事は無い。
「ほら、私は逃げも隠れもしないしできない。見ろよ、ボロボロだ」
返事は無い。木造の旧校舎にわだかまる闇が、彼女の声を呑み込んでいくだけだ。
「コレを逃したら次のチャンスは――あだっ」
昼にこさえたタンコブが痛んだ。
下駄箱にもたれるように、正邪はごろりと昇降口に大の字に伸びる。かつては下克上を掲げ、世界ひとつを敵に回して戦った天邪鬼が、いまやこの有様だ。
「にゃあ」
暗がりから現れた黒猫が、正邪の額を舐めた。ざらりとした感触。
「なんだよ、エサならもうないぞ」
数々の悪事を、彼女は少しばかり完璧にやりすぎたのかもしれない。
すべての味方は去り、あとには何が残った?
それは敵などではなかった。そうであったら、まだよかった。うらみとつらみを超越した先にあったのは、無関心と忘却だけだ。それにうすうす感づきながら、今日まで逃避行ごっこを続けてきた。
『お前に構ってるほど、皆暇じゃないのさ』
あの何気ない一言が嘘で塗りたくった壁を壊すまでは。
「やめろ、うざい」
邪険にされて、尚も猫はぺろぺろと正邪を舐め上げ続ける。
「寝かせてくれよ。今日は、疲れた――あーもう」
この分では額がすりむけるまで舐められそうだった。
「なんだよ」
仕方なく正邪が身体を起こすと、既に黒猫は廊下の奥へと歩いていくところだった。一度足を止めて振り返ると、緑色の瞳で彼女を見つめてくる。ただ、静かに。ひたひたとかすかな足音を立てて廊下を進むにつれ、物陰から猫たちが這い出してくる。
「ビビらせてくれるじゃないか」
思ったままを口にするが、猫たちは静寂でもって答えるだけだ。
進むにつれ月光が強くなる錯覚を覚える。単に目が慣れてきたのか、それとも旧校舎に秘められた魔的なものが力を増しているのか。突拍子もないアイディアを首を振ってかき消すと、猫たちがいっせいに足を止めた。
「ふにゃあ」
黒猫が、いた。
「お前、私に何を見せたいんだ?」
「にゃー」
恐る恐る、素足のまま正邪は中庭に踏み入った。
そこはちょうど木造の校舎にぐるりと囲まれていて、三階建ての高さもあってか、荒れ放題の中庭は月夜の明暗がはっきりとしていた。そしてちょうど月光がしらじらと照らす一角。件の黒猫がかりかりと地面を引っ掻いている。
「にゃあ」
「掘れってか。ここを」
せっかくきれいにしたばかりの手にため息を吹きかけると、正邪はわずかに顔を上げた。
「はん。私は気まぐれなアマノジャクだからな。付き合ってやるよ」
そこに跪いて、苔むした粗末な慰霊塔に気づく。
覚悟を決めて爪を立ててみた足元の土は奇妙なほどやわらかく、深く掘り下げるのにたいした労力は必要なかった。
「あ?」
羊羹のような掘り心地の土を掘り進める手が止まったのは、灰色の土の下から白いものが現れた時だった。
それは当然というか、骨だった。やはりというか、骨であった。必然性を感じるほどに、骨であった。慰霊塔を建てるのだ、その下にこういったものが埋まっていたとて何らおかしなことはない。
しかし、誰の?
しかし、何故?
「で、これがどうしたってワケ?」
掘り出して持ち上げれば、それはますます骨だ。
顎のないがらんどうの頭骨に人差し指を突っ込んでくるくる回しながら、正邪は中庭に集結した猫たちを眺めた。
「まったく。弁当の礼だって言うならもうちょっとマシなものにしてほしかったな。せめてもうちょっと分かる形で――」
にゃあ。
ばたばたと、驚いたカラスの群れがねぐらを旅立っていった。
一匹や二匹でなく、今の鳴き声は斉唱だった。
「なんの、マネだ?」
見渡せば、中庭もガラスを通して見える旧校舎の中も、隙間なく光る目で埋められていた。まるでひとつのイキモノのように、彼らはもっともわかりやすい形で『感謝』を正邪に示して見せたのだ。
頭を垂れ、従者のようにひれ伏す猫たちを前に、正邪は呆然と頭骨を見つめる。それは確かに生きていた。血肉を失ってなお、脈動するような力のうねりを感じた。
「は、はは」
なんだ、これは。この、背筋が寒くなるくらいの
「ビジネスにはチャンスを、か」
盗み聞きした風間たちのやりとりを思い出しながら、正邪は笑いながら頭骨を高く掲げる。月光を受けて不気味な艶を放つ頭骨にも、正邪の頭にも、不自然な突起が見て取れた。
鬼人正邪の下克上は、まだ終わらない。
第4話『夕の街ゆく鬼たちは』 おわり