ラブライブ!サンシャイン!!アンソロジー『夏――通り過ぎて』 作:鍵のすけ
曜ちゃん:ヒロイン。今作ではヤケに回りくどい真似ややや自虐的な面あり。
海について触れていると、いずれ突き当たる物語がある。人魚姫だ。
有名な童話だよね、かいつまんで説明すると悲恋ってことになるんだけどさ。
私がねだるとお父さんが毎晩、その人魚姫の話を読み聴かせてくれた。そうして私は、その漣のような調子で展開していく話を頭の中で映像として繰り広げていった。
――――曜はね、人魚と人間の間に生まれた子供なんだよ。
子供の私はお父さんのその言葉を、鵜呑みにしていたのかもしれないし、よくわかっていなかったのかもしれない。だって、物語の中の人魚と私のお母さんはいろいろと食い違うところがあったから。
人魚は、人間の王子様に恋をして、声を代償に陸へ上がって来る。けれども、王子様に婚約者が出来て、失恋した人魚姫は泡になって消えてしまう、大雑把に言えばそんなお話だった。
お母さんが人魚なら、声を失ってないとおかしい。成長するたび、お父さんの作り話だと笑っていた。
けど、今ならなんとなく、私は本当に人魚と人間の娘なんじゃないか。ふと、思うことがある。
私には好きな人がいる。子供の頃から一緒にいる、というか子供の頃から彼を知っていて、いつの間にか想いを寄せていた。
彼を思うと、とても胸が苦しいし、声が出なくなる。まるで、喉から砂になっていくみたいに、からからとしていて声を出すことが難しくなるんだ。
そんな時、私は決まって水の中に入る。お風呂でも、プールでも、海でも、どこでも。とにかく水の中にいると心の高鳴りを抑えてくれる。
水の中は、なんというか神秘的な感じがする。落下していく中、別の世界に進入するような埋没感。水の中で、上を見る。私が飛び込んだ場所から大きな波が起きてて、そのまま静かになっていく過程を見守る。
やがて水中が完全な静寂に支配される。支配される、というよりは本来の静かさを取り戻していく。
ぶくぶく、と少しずつ肺の中の空気を出していく。まるで工夫して、水の中で呼吸しているみたい。
いっそ、そうできたらいいのに。水の中で息が出来たのなら、そのまま海の底に消えてしまいたい。そう、思ってしまう……
目をすぅっと細めていって、水面の煌きから目を遠ざけようとした。
そのときだった。水面にいきなり、人の顔が飛び込んできた。それも、本当に顔だけ。びっくりして、思わず空気を一気に吐き出してしまう。その顔の主は少しムッとした顔で"早く上がって"と唇を動かした。言われなくても、このままじゃ苦しくっていられないよ。
「ぷはぁっ! もうびっくりさせないでよ~」
「びっくりしたのはこっち、何分上がってこないつもりだよ」
水面から顔を出した私を襲ったのはピンと弾かれたような額の痛みだった。デコピン、中指で弾かれた額は結構ひりひりしていた。
「え、そんなに潜ってたの?」
「しかも自覚無し……曜ちゃんひょっとして人間じゃない?」
……なんかそう言われるのは心外だ。私は分かり易く頬を膨らませてみる。しかし"彼"はそんなことおかまいなしだ。
「父さんたちも帰って飲んでるよ、俺も早く帰りたいんだけど」
「だったら帰ればいいじゃない? 私を待ってる必要ないでしょ~?」
私はわかってて、そんな意地悪を言ってみた。すると彼の頬が分かり易く膨らんだ。
「鍵、閉めないといけないんで」
「そーだよねぇ、わかったーすぐ上がるから」
このプールは彼のお父さんが経営しているジムのプール。彼の一家とは、昔から家族ぐるみの付き合いだった。聞くところによると、私のお母さんを取り合った学生時代のライバルだった、とか。もうこの時点でお父さんの話が作り話だって分かってしまう。
半ば、幼馴染のように育ってきた彼を、私は意識している。彼に、淡い恋心を抱いている。けど、この気持ちを隠し通さなきゃいけない。
千歌ちゃんだ。最近、彼と千歌ちゃんが一緒にいるのを知っている。
私がそうだから、っていうのは少し違うかもしれない。でも、千歌ちゃんだって彼をただの友達だとは、思っていないはず。
だから、もしそうなら、私は友達のためにこの気持ちを沈めてもう呼び起こさないつもりなんだ。そして、それを聞き出す機会が人知れずやってきた。
「はい、タオル」
プールから上がった私に無造作に放り投げられたのは水色のハンドタオルだった。全身を拭うにはちょっと小さいけど、頭や腕の滴を拭き取るには十分だった。今まで彼の首にかけられていたタオルは当然彼の匂いを含んでいて、胸が膨らむようだった。
「待ってて、フロート片付けちゃうから」
「あ、手伝うよ?」
「今頭拭いたばっかでしょ、また濡れる意味ないし、先に着替えてなよ」
素っ気無い態度だった。おおよそ、私と同じ気持ちを抱いてるようには見えない。だから、望み薄なんだ。
彼がレーンのフロートを回収するのを、私は着替えるでもなくそこでジッと見ていた。恋っていうのは厄介なもので、好きな相手の一挙手一投足すべてに反応してしまう。額の汗を腕で拭う動作とか、そんな些細なものでも私の恋心は刺激され、胸が苦しくなる。今すぐ、目の前のプールへと飛び込みたくなってくる。
ぐっと受け取ったタオルを握り締める。この息苦しさは、晴れることはない。彼の恋が成就して私が、泡になって消えるまで、消えることはない。
「曜ちゃん?」
「な、なんでもないよ……平気だよ」
体に付着している水滴が全て沸騰するか、ってくらいに身体中が熱い。彼の視線を感じるだけで、体温は無限に上昇を続けそうな気がする。
「早く着替えなって。夏でも風邪引くよ」
「わかってるよ」
ささやかな反抗にも、君は気付かない。いつもニコニコ、ヘラヘラしてる。相手がどう思ってるとか、たぶん微塵も気にしてないんじゃないかな。
そう思ったら、ほんっの少しだけムッとした。
「やっぱ、手伝うよ。プール使ってたの私だし」
「そっか、じゃあこっちをお願い」
両手に持っていた
ジムの倉庫は湿気が凄くて、コンクリートの床が冷え冷えとしていた。プールは好きだけど、この部屋はあまり長居したくはなかった。
「電気、どこだったっけな」
「そこのラックの奥だよ」
なんで私の方が詳しいのかな。彼よりもこの部屋に来る機会が多いからかな。
けど彼は薄暗い倉庫部屋の電気を探すのに四苦八苦していた。と、そのとき。何かがガラガラと音を立てて落っこちたようだった。ラックの上に放置されていた金バケツみたいな音だったと思う。
それは予兆だった。ただし、悪い方のだ。
私は手のフロートをかなぐり捨てて、彼のパーカーの襟首に掴みかかるとそのまま倉庫の奥の方へと引っ張った。すると、大きな音を立ててラックそのものが倒れた。その一つが倒れた瞬間、釣られるように他のラックまでがバタバタと不快な金属音を奏ながら地に伏していった。
間一髪だった。彼の顔は薄暗くてよく見えなかったけど、部屋の上部にある小窓から入り込む光のおかげで驚愕しているってことだけはわかった。
まだ耳の奥がキンキンと痛んでいた。それに薄暗闇でも分かるほど埃が舞っていた。
「大丈夫? 怪我は無い?」
「いや、大丈夫だけどさ……出来たら、その、離れてくれると、助かる……いろいろ当たってるし、当ててんだわ……」
言われてハッとした、私の胸が彼の胸に押し付けられてこれでもかと潰れていたり、太ももの辺りに感じる感触。私は一瞬だけ身体の全機能が停止したようにピタリと止まって、
「う、うわぁあああああああああっ!?」
「ま、待て! あんま急に退くと、転ぶぞ。さっき、ガラスが割れる音がしたし、あんま無闇に動き回らない方がいい」
彼を突き飛ばして飛び退こうとしたとき、彼に肩を掴まれた。それだけで心臓が胸を突き破ってきそうなほど強く脈打った。
「ライトか何か、持ってないの?」
「スマホでもあればよかったんだけど、プールに電子機器持ってくるやつはいないでしょ」
溜息を吐く私たち。当然プールだってこともあって、私も彼も裸足だ。彼の言うとおり、ガラスの破片とかが落ちていたら危ない。
何か使えるものが無いか、私たちはおっかなびっくり手探りで周囲を物色した。そのとき、私の指先が拳ほどの大きさの何かに触れた。
「何これ、ステンレス……? あっ」
私はその冷たい金属を撫で回して、ようやく気がついた。今私が手に取ったのは、ドアノブだった。根元の部分からポッキリと折れてしまった、ドアノブだ。
「どうしよう、ドアノブが外れちゃってる。しかも、折れてるから……もしかしたら空かないかも」
「嘘だろ……連絡する方法とか、無いしな……内線機は使えないし」
荷物が散乱した場所で、私たち二人はなんと閉じ込められてしまった。いくら好きな相手と一緒でも、出来れば勘弁して欲しいところだった。
だって私、水着だし…………
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それからしばらく、体感的に一時間くらい経った頃だった。俺はなんとか記憶を頼りにラックに積んであったビート板をシートのように並べていた。これならガラスの破片で傷つくリスクは減るはずだ。
俺たちは降ってきた雨が小窓を叩く音を聞きながら、ビート板の上に寝転がっていた。
さっきのラッキースケベを意識しないように、一言も喋らなかった。背中が触れ合ってるのは分かる。けど、曜ちゃんが何を考えているのかとか、まったく分からない。
そもそも、男としてやらかしてしまった。曜ちゃんの水着を意識しすぎて、半身のコントロールを忘れ、起き上がった愚息が曜ちゃんに粗相をしてしまいかけたというか、思いっきりしてしまった。
恥ずかしい、これは猛烈に恥ずかしい。しかしこうして静かにしていれば思い出す、曜ちゃんに触れたときのあの柔らかな感触を。
パーカー越しに俺に押し付けられた二つの双丘はマシュマロのように柔らかく、俺に跨っていたときの太ももの引き締まった筋肉の張りとレスポンスは凄まじいものがあった。
意識してしまうと完璧に下半身に血が巡ってしまう。ハーフパンツに立派なベースキャンプが完成してしまった、情けない。
「ねぇ……起きてる」
そのときだった。曜ちゃんが上体を起こして尋ねてきた。俺は反応しようにもベースキャンプを撤収させるべく総動員で素数を数え始めたせいで答えることが出来なかった。
「寝ちゃった、のかな……」
曜ちゃんが俺の顔を覗きこんでいた。目を閉じてもわかる、彼女の吐息が耳にかかるからだ。くすぐったくて、思わず口元が緩みそうになる。
「――――ねぇ、本当に寝ちゃった?」
耳にキスされながらの囁きは、ほぼ抜ききったはずの下半身に血を
「お父さんが言ってたんだけど、私って人魚と人間のハーフなんだってさ」
まるで言い聞かせるように、けれど独りでに語りだした曜ちゃん。しかしその内容は変わったものだった。曜ちゃんが俺に話す内容と言えば、水着の生地の伸びが悪いだとか、相変わらず背中が丸まっているだとか母さんみたいな小言ばっかりだ。
だけど、曜ちゃんは静かにぽつぽつ、窓の外の雨のように語り続けた。
「人魚姫は、王子様に恋をして、魔女を訪ねて人間になれる秘薬を手に入れる。人魚姫は言いたかった、難破した舟から投げ出された貴方を救ったのは私だ、と。貴方を愛している、と。けれどそれは叶わない。人間になった人魚姫は声を失ったから」
目の前に、台詞を書いた台本があるように曜ちゃんは流暢に続ける。俺の身体も静まり返っていき、いつしかその話を頭の中に思い浮かべるようになった。
人魚を曜ちゃんに当てはめ、図々しくも自分を王子に当てはめた。
「やがて、王子は一人の娘と結ばれるようになった。もちろんそれは人魚姫じゃなく、人魚姫が浜に運んだ王子が目覚めたとき傍にいた少女のことで、王子は彼女を命の恩人だと思っていたの」
当てはめて考えると気分が悪くなりそうだった。曜ちゃんが俺を助けてくれたのに、俺はそれに気付かないで他の女の子と好き合った、ってことだろ。
不条理なのか、それとも……
「人魚姫はこのままでは、泡になってしまう。助かる方法は一つ、王子の血を飲むこと。それで人間の世界への未練を断ち切ること。けれど彼女は王子を殺すことが出来なかった。彼を殺すくらいなら、と人魚姫は自らの身体を海に投げ打って泡になって消えてしまう、ってそんなお話だよ」
まるで子供が、寝る前に童話を読み聞かせられるように、曜ちゃんの話は俺の眠気を誘ってきた。
けれど、今眠ったら全部ダメになりそうな、そんな気がしていた。下半身の力を借りてでも、目を覚ましていなければいけない気がした。
「もしかしなくても、君は千歌ちゃんが好きなんだよね。最近、一緒にいるのよく見るし。千歌ちゃんもたぶん、君が好きなんだよね。」
いろいろ初耳だった。俺が千歌を云々って話は一旦置いておこう。それより、千歌が俺を好いているっていうのは、驚いた。
確かに最近一緒にはいる。けどそれは、別の用事があって、というか……
「あの、今だから言っちゃうね。私、君のことが好きだよ。君を思うとたまらなく胸が苦しいし、君の声だけで心臓が大きく飛び跳ねるんだ。君の笑顔は太陽みたいだった、けど私はその下にはいられない。暗い海の中で見上げることしか出来ないの。だから、私が君のことを好きって気持ちは、泡にしなきゃだめなんだ……」
だいたいわかった。とりあえず、寝なくて正解だった。
「うわぁっ!? ビックリしたっ!」
「あの、勝手に終わりにされると困るっていうか……」
身体を起こして、曜ちゃんの上に覆いかぶさる。街灯の光が小窓から彼女の顔を照らし出す。そして、窓に張り付いた雨水が影になって彼女の頬へと垂れているように見えた。
そのせいで、曜ちゃんが泣いているように見えた。それだけで、俺のブレーキは壊れだす。
「……俺だって、曜ちゃんが好きだよ。たぶん誰よりも好き、だと思うよ」
心臓が高鳴る。もうすぐ爆発してもおかしくないくらいに。それほどの羞恥心が俺を襲う。
最悪だ、下半身に立派なベースキャンプ設えながら言うことじゃない。
が、しかし曜ちゃんには気付かれてないどころか、曜ちゃんは俺が何を言っているのかゆっくり噛み締めているようだった。
そのとき理解した。まるで、俺だけが浮いているような感覚。内心でも、ふざけてられないぞって言われてる気がしたんだ。
「え、い、や……ダメだよ、それじゃあ千歌ちゃんの気持ちはどうなるの? 私たちが、その……好き合ってたら、千歌ちゃんはさ……」
「ち、千歌の話はすんなよ……俺が好きなら俺だけ見てくれよ、俺だってそうするから……」
半ばヤケになって俺は曜ちゃんの水着に恐る恐る手を掛けた。彼女の言う伸びの悪い水着は引っ張られて大きな悲鳴を上げた。
「ダメ、だよ……君のことは大好きだよ。でも、千歌ちゃんのことも大事なの……だから、千歌ちゃんが弾かれるくらいなら、私は君に好かれたくない……」
顔を逸らした曜ちゃんから、本物の涙が零れた。けれど、俺は中途半端に煮え立っていた。既に俺は彼女の水着に手を掛けてしまった。彼女の豊満な双丘は露になっているのに、彼女の涙は、沸騰している俺を冷蔵庫に閉じ込めたみたいに冷却させる。
本当に、中途半端に煮えていた。これじゃ、ただの強姦じゃないか。そんなのは、ダメだ。
「これ、着なよ」
パーカーを脱ぐと、それを彼女にかけた。そしてそっぽを向くと、もう一度寝転がって目を閉じた。すると、後ろからそっと手を伸ばされて引き寄せられた。
「ごめん、中途半端で、本当にごめんね。君の事は、本当に大好きだよ」
「……俺もだよ」
背中に曜ちゃんの暖かさを感じながら、ビート板の下の冷ややかなコンクリートへと意識を埋没させて行った。
次に目が覚めたら、独りになってないか。そんな恐怖とも、安堵とも取れないような複雑な気持ちを抱いていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
朝になると、昨夜の雨が嘘のような快晴だった。俺は破片を踏まないように倒れたラックを立てて、倉庫のドアまで近づいていった。確かにドアノブが折れていた、これじゃ誰かが向こう側からドアノブを弄ってくれない限りは出られそうにも無い。
だけど、父さんが二日酔いにさえなってなければ通常営業。つまり待ってればここを開けてくれるはずだ。俺はロッカーにある箒で割れたものの破片を丁寧に集めてバケツに入れておいた。
一段落すると、倉庫中を見渡す。壁際に寄せてあるビート板の絨毯の上ですやすやと寝息を立てている曜ちゃんがいた。それだけで昨夜の出来事は紛れもない現実だと思い知らされた。
頭をかき回すと、そのままドアに背中を預けた。どうしても、同じ場所でもう一度寝なおす気にはならなかったからだ。出てきた汗や涙をTシャツの袖で拭う。
せめて、曜ちゃんを遠目から眺めるくらいは許してもらえるだろう。
なんでお互い好きなのに、誰かに義理立てて我慢しなくちゃいけないんだろう。確かに、千歌は俺にとっても大切な友達だ。
「はぁ、ままならないのか?」
ままならない、ってのとはまた少し状況が違う気がした。自分の力でどうにか出来るうちは、ままならないって言えるんだろう。けれど、俺たちのこの複雑な事情は俺の気持ちではどうにも出来ない気がした。
はぁ、溜息を吐いたそのときシンと静まり返った倉庫の外から何かが聞こえてきた。人の声だ。
正確な時間が分からない以上断定は出来ない、けれど窓から見える太陽の高さから考えてまだ早いはずだ。だのに、なんで人が?
そうして、その声の主がだんだん近づいていることに気付いた俺はそのまま小さくドアをノックした。
「そこにいるの? 曜ちゃん?」
「いや、俺だよ千歌」
なんとドアの外にいるのは千歌だった。姿は分からないし、なんでここにいるのかも分からないけど、とにかく千歌がそこにいることは事実だった。
「なんでそんなところにいるの? 早く出ておいでよ」
「出られるなら出てーよ。ドアノブがへし折れちゃってんの、そっちのドアノブは無事か」
「う、うん……」
そのとき、ガチャリと千歌がドアノブを握った音がした。
「あのさ、まだ開けないでくれ。話が、あんの」
「なに?」
「お前……千歌さ……俺が付き合ってくれ、って言ったらどうする?」
向こうのドアノブが微かな音を立てた。それで千歌の動揺が見て取れた。俺は半ば祈るように、ドアに背を預けた。
「……き、急にどうしたの。おかしなこと言ってないで、早く出ておいでよ」
「大事な話なんだよ。今、答えてほしいんだ」
薄い扉を隔てて俺たちは言葉をやりくりしていた。ドアの隙間やドアノブの穴から漏れてくる千歌の息遣いがまるで耳元で再生されてるみたいに胸が苦しくなった。
「き、急には答えられないよ! 悪いけど……」
その言葉を、最後の砦が決壊したと思うべきだったのか。それとも、足を踏み外したと思うべきだったのか。
俺にはわからなかった。ドアから背を離すと、ひたひたと意識もせずに足音を殺しながら寝息を立てる曜ちゃんの傍らにしゃがみ込んだ。
最低かな。最もじゃなくても悪い奴だな。
そう思いながら、朝日を受けて艶やかに光を放つ唇に、緊張でカサついた唇をそっと押し付けた。
何十秒にも思えた。大好きな水泳の影響か、だいぶくすんでしまったボブカットの髪に指を差し入れる。手の上で崩れる新雪のような柔らかさがたまらなく愛おしい。
そっと触れ合うだけのフレンチな口づけは、数々の童話や物語の例に漏れず眠り姫を起こすことに成功した。腕の中で目を覚ます曜ちゃんと目が合う。ターコイズを思わせる瞳に、埋没するような感覚。
海に飛び込んだことは俺にもある。深海目掛けてもぐり続けたこともある。だけど、海の中から見上げる空のような色をしていた。
普段見ているものとは違う色を、彼女はしていたんだ。
そっと静かな涙の後、俺たちはドアの外の友人に気づかないふりをしながら唇を宛がいあった。貪るようなキスの熱は理性という水を蒸発させていく。
「……後悔しない?」
「したくないから、こうする」
変なの、お互いが一線を踏み越えてしまった後に、その線を見て笑っていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その日の午後は、ピーカンの空だった。台風が過ぎ去ったみたいに、蒸し暑かった。私は海の臨める人気のない浜で待っていた。
海は静かに、もうすぐ夕日になる太陽の光を受けてその光で私を迎え入れた。
サンダルを履いた私の足はあっという間に小さな波に飲み込まれた。
「後姿、入水っぽいから出来れば勘弁してほしいな」
「……遅いよ」
後ろから振りかけられた声に、振り向くとガラにもなく被っていた麦藁帽子がふわりと舞い上がった。
「曜ちゃんが曜ちゃんが、ってうるさいのがいて、うんざりするほど気をつけろって言われたの」
「納得」
思わず笑みが零れそうになる。千歌ちゃんのことは、私の勘違いだったのか、それとも……
どちらにしろ、私は彼を幸せにしなきゃいけない。そして彼に幸せにしてもらわないといけない。
千歌ちゃんが彼のことをどう思っていたとして、そうしなければならない気がした。それがせめてもの、せめてもの……
「私の一番大事な友達だから、泣かせることはないと思うけどいざというときは覚悟してねって言われた。三年前にやらかしたの黙ってたけど、なんか罪悪感あるね」
「じゃあもう泣かさないでね、約束だよ」
差し出した小指に、彼が自身の小指を絡める。そのまま彼の腕を引き寄せると、噛み合った小指に短くキスをする。
――――君に会うために私は
――――君と結ばれるために、私は声を失ったのかもしれない。
――――君を認めるために、私は声を取り戻したんだ。
――――ありがとう、大好きだよって言うために。