意識が浮上する頃には、時刻は七時を回ろうとしていた。
広間のソファーに寝かされていたらしく、がやがやとした喧騒が耳を打つ。鼻腔をくすぐるのはカレーの匂いだろうか。林間学校めいた懐かしい香りを受けて、お腹の虫がけたたましく叫び声をあげている。
「目が覚めましたか兄さん。少しはその気絶癖をどうにかしないと、この先大変ですよ?」
「……おはよう、海未。自分ではそんなつもりまったくないんだけどね」
ソファーの端に腰かけ、子供を寝かしつける様に僕のお腹をポンポンと擦っていた愛する妹に溜息混じりの言葉を返す。三歳下の妹にお世話してもらうとか年頃の男性としては少々情けない感じではあるけれど、僕らは昔から何かとこんな具合だったのでそこまで拒否感はない。日頃僕に甘えてくる海未だが、こうして僕が弱っていると日頃のお返しとばかりに甘やかしてくるのだった。仲良きことは美しきかな。
どうやら晩御飯の準備ができているらしく、広間のテーブルには人数分のカレーとサラダが所狭しと並べられていた。……なんか一人分だけご飯が別盛りになっている気がするけど、どういうことなんだろう。
「あのご飯はいったい……」
「お気になさらず! えぇ、まったく問題ないですよ!」
「……とまぁ、花陽があんな感じなので、気にしない方がいいみたいですね」
「はぁ……」
普段引っ込み思案で自分から僕に話しかけてくることなんかしない花陽ちゃんが、爛々と目を輝かせながらぴしゃりと言い放っている。あまり想像できないハキハキとしたキャラクターに一瞬虚を突かれるものの、海未と凛ちゃん、そして草太の様子を見る限りスルーした方がよさげな雰囲気だ。誰しも触れてはいけないナイーヴな面というものがある。今回もその一つなのだろう。
「とにかく、ちょうどご飯時です。にこが腕を振るったそうですから、存分に召し上がってくださいな」
「うん、そうしようかな。お腹も空いてきたし」
「えぇ。……それと、あそこのサラダなんかは……わ、私が、その……」
「海未も料理手伝ったの? 偉いじゃないか。じゃあ、そっちも美味しく食べさせてもらおうかな」
「あぅ……兄さんにそう言ってもらえるのなら、手伝った甲斐がありました。えへへ」
僕の言葉に恥ずかしそうに目を泳がせながらも、どこか嬉しそうに口元を綻ばせる海未。彼女、どうしてか自分が褒められることに関して耐性がないようで、少しでも称賛されると照れてしまうという可愛らしい特徴があるのだ。普段気丈に振る舞っている凛々しい彼女が見せるこういった一面は、まさにギャップ萌えとして僕ら幼馴染の中で有名である。いやぁ、本当に可愛らしいな海未は。
いつまでも色褪せることがない妹の魅力に癒されながらも、着席を始めている皆に倣って準備を進める。若干二名ほど僕の様子を窺っているメンバーが見受けられたが、僕は長テーブルの端――――誕生日席のにこさんと端を空けていることりちゃんの間に腰を下ろした。もちろん、某幼馴染から身を守る為である。
「あー! 穂乃果も空良くんの隣に座りたかったのにー!」
「ご飯時くらいは落ち着いて食べさせてくれ……」
「ま、まぁ仕方ないわね。私は我儘なんて言わないから、大人しく希の隣に座るわよ」
「その割には悔しそうやんなぁ」
「希うるさい」
見るからに不満そうな穂乃果ちゃんからなるたけ距離を取りつつ席に着く。向かい側では何やら納得いかなさそうな表情を浮かべている真姫ちゃんがいたが、余計な詮索をすると墓穴を掘りそうな予感がしたのであえて触れないことにした。今、全体的にとてもナイーヴな時期である為、いらぬ火種は起こしたくない。
ぐぬぬと言わんばかりにこちらに睨みを聞かせてくる穂乃果ちゃんから全力で目を逸らし、とりあえず一息。全員が着席したのを確認すると、部長であるにこさんが代表して音頭を取った。
「はい、じゃあ合宿一日目お疲れさま。明日はパート毎の練習になるから、気を引き締めてやるよーにっ!」
「はいはいはーい! にこちゃんにこちゃん質問にゃー!」
「なによ凛」
「明日は海水浴あるんだよね!?」
「勿論。練習してから海水浴。夜は歌のレッスンやって、肝試しでフィニッシュよ!」
「にゃー! やっぱり合宿の締めは肝試しだよねー!」
「えぇっ!? ちょ、そんなの聞いてないわよにこ!」
「言ってないもの。ねぇ希?」
「心配せんでも、えりちは私とにこっちと一緒に仕掛ける側だから大丈夫やん」
「よ、良かった……って、でも暗いところに行くのよね!? やだー! おうち帰るー!」
「はい皆さん手を合わせてください。いただきます」
『いただきます』
「ちょっとみんな無視しないでよー!」
最近弄られキャラ著しい三年生の一角、賢い可愛いエリーチカ先輩の心からの絶叫も空しく、他の面々はにこさん特製のカレーを胃の中へとかきこんでいくのだった。
☆
夜。
µ’sのメンバーが大広間に布団を並べて就寝する中、僕と草太は二階の小部屋に布団を敷き、各々寝る準備を進めている。何気にハードな練習に彼女達は疲れ切っていたらしく、電気を消すや否や寝息を立て始めていた。思春期真っ盛りな彼女達の事だから、寝たふりをして笑ったりだとか、枕投げをしたりだとか、果ては恋バナに花を咲かせたりするのかと思っていたのだが、さすがにそこまでの体力は残っていなかったらしい。まぁ明日もあるし、早めに寝て英気を養うのは大切な事だ。
「うぅん……凛、それは俺のチュパカブラだ……」
「どんな夢見てんのさ……」
リアリティの欠片もない寝言を漏らす草太に苦笑を浮かべる。あまり疲れているとは思えないこいつが爆睡しているのは甚だ疑問ではあるけれど、もしかしたら僕の知らないところで何か大活劇を繰り広げていたのかもしれない。草太は草太で色々と複雑な事情を抱えているようであるから、可能性がないとは言えなかった。だけど、わざわざ詮索するような野暮な真似はしない。僕達はただ、互いに馬鹿をやっていつも通りに軽口を叩き合うだけだ。
ルームメイトが寝てしまったため、手持無沙汰になってしまった。昼に海未によって携帯電話を粉砕されている以上、誰かと無駄話をすることもできやしない。文明人にとって通信機器がないというのは非常に忌避すべき状況ではあるのだけれど、今の僕は無力な存在なので大人しく寝る選択肢を取るのがベターと言えるだろう。
部屋の電気を消し、布団に腰を下ろす。と、周囲が暗くなったせいか、窓の向こう側で無数に輝く星々がやけに目立って見えた。山奥なので街灯の類もまったく存在せず、夜空の煌めきがより一層幻想的に映る。普段気にすることもない自然の美しさ。見るだけで夜の帳に吸い込まれて行きそうな感覚。星座の一つもまともに分かりやしないけど、星々が放つまばゆい光から目を離すことができなくなる。
……そういえば、この別荘には天体観測用に屋根の上へと登れる設計になっているって昼間に真姫ちゃんが言っていたような。天体観測が趣味である彼女の希望によって、親御さん達が用意したとかなんとか。その時はお金持ちだなぁって感想しか浮かばなかったけれど、少し興味が湧いてきた。どうせ寝付ける気もしないし、行ってみてもいいかもしれない。
思い立ったがなんとやら。僕は念の為にタオルケットを一枚羽織ると、部屋を出て屋上へと続く階段へと向かう。廊下の突き当り、階段と言うよりは梯子と言った方が良さげなソレは、真っ直ぐ屋根の上へと続いていた。
だけど、ここで一つの違和感に気が付く。
「屋根への入口が、開いている……?」
全員が寝静まっているはずの時間帯。にも関わらず、梯子の先には満天の星空が広がっていた。通常は木板によって塞がれているはずのそこは、既に誰かがこの先にいることを明示している。まさか屋根裏からの侵入者がいるはずもないし、µ’sの内の誰かが星を見ているのだろう。そして、こんな時間にわざわざ天体観測をするようなメンバーに、心当たりは一人しかいない。
妙な緊張感に包まれ、生唾を呑み込んでしまう。別に慄く必要なんてまったく無いのに、少し気が退けてしまうのはどうしてだろうか。生来の気の弱さとはまた違った原因を感じざるを得ない。
しかしながら、いつまでもここでじっとしているのは時間の無駄だ。意を決して梯子に手をかけると、そのまま一気に屋根の上まで登っていく。キラキラと輝く星空の下に顔を覗かせた瞬間、僕は再び息を呑むことになった。
入口から少し離れた屋根の斜面。通常よりなだらかになっているそこに座り、天を見上げる一人の少女。夜風に赤毛を揺らされながら、時折静かに溜息をつくその姿はまさに深窓の令嬢。
優雅、という表現が最も似合うだろう光景が、そこには広がっていた。
薄紫の寝巻に身を包んだ彼女はしばらくの間星空を見上げていたが、ようやく僕の存在に気が付くと、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
「あら、いらっしゃい空良。貴方も眠れなかったの?」
「あ、うん……ちょっとね」
「ふふっ。もしかして、空良も遠足前に緊張して眠れなかったクチ? ほんと子供なのね」
「そう言う真姫ちゃんこそ、意外とそういうタイプなんだ」
「……私は元々、こういう娘よ。ただ、みんなの前では強がって一歩引いているだけ」
少し目を伏せて悲しそうに言葉を漏らす真姫ちゃんだったが、すぐに顔を上げると手招きする様に僕に手を振った。促されるままに隣に腰を下ろすけれど、緊張して鼓動が倍速になった僕を誰が責められよう。タオルケットを羽織ったまま、真姫ちゃんの横に位置を定める。
うぅ、落ち着かない……。
「もう、そんなあからさまに緊張しないでよ。私まで調子が狂うじゃない」
「ご、ごめん……で、でも、これは仕方ないというか……」
「そんな感じで気が弱くて、優柔不断だから苦労するのよ。貴方も、穂乃果も」
「……どこまで知ってるの?」
「まったく知らないわよ。空良と穂乃果の間に何があって、何が起こるのかなんて。だってそれは貴方達の問題で、私達が口を出すようなことじゃないもの。海未やことり、草太さんならさておき、私達はあくまで外野。それを解決するのは、当事者達の役目なんだから」
あくまでも傍観者。きっぱりとそう言い切る真姫ちゃんに、厳しさと優しさの両方を感じる。いつだって海未や草太に頼り切りの僕が、これ以上誰かに選択を委ねないように。僕自身の決断で、彼女との決着を付けなければならないということを分からせるように。
それでも、そうだとしても少しだけ自信が足りない僕は、いつか彼女がやったように空を見上げて、ぽつりと呟いた。
「……ちょっとだけ、独り言を言わせてほしいんだ」
「……好きにしなさいよ」
「ありがとう。……穂乃果ちゃんはさ、昔から僕の後をずっとついてきてて、妹分みたいな感じだったんだ。異性と言うより、家族っていう方が近いかもしれない。だから、彼女が成長して、一人の女性になっても、そういう風に見ることができなかった。もしかすると、僕が女性恐怖症にならなかったら異性として意識できたかもしれない。でも、僕にとって穂乃果ちゃんは、海未と同じくらい大切な幼馴染であり、妹だったんだ」
小学生の時から、何かあれば僕のところに走ってきて騒いでいた穂乃果ちゃん。僕が女性恐怖症を発症し、入院することになっても何度もお見舞いに来てくれた穂乃果ちゃん。僕から拒絶され、心無い言葉を浴びせられ続けても、諦めずに僕のリハビリに付き合ってくれた穂乃果ちゃん。ここまでしてもらっておきながら妹しか思っていなかったなんて最低以外の何物でもないのだけれど、一度認識した関係性はそうそう変えられない。そして、誰かに好意を向けるということ自体を忌避していた僕にとって、彼女を異性として認識することは不可能にも近かったのだ。
だけど、今になってその事実を知らされ、本人からも気持ちを伝えられ。僕は、自分が分からなくなっていた。僕が今まで穂乃果ちゃんに向けていた感情は、果たして本当に純粋な家族愛だったのだろうか。それとも、自分では気が付いていないだけで、もしかすると彼女に恋をしていたのだろうか。
そして、仮にそれが真実だろうと虚構であろうと、僕に彼女を貶める資格があるのだろうか。
「今まで色んなことから逃げていた僕が、これ以上穂乃果ちゃんの想いを踏み躙ることなんて、許されるのかな……」
「…………」
ふと漏れた言葉。それは僕の中にある本音で、決心を鈍らせる最大の想いだ。今まで僕の為に一心に尽くしてくれていた彼女を拒絶する権利が、果たして僕にあるのだろうか。いや、それだけでなく、そもそも僕に何かの選択を決定する権利が、本当に……。
僕の独白を黙って聞いていた真姫ちゃんはしばらくの間「うーん」と首を傾げていたが、ふと思い立ったように僕を見据えると、心底呆れたような表情を浮かべて、溜息と共にこう言い放った。
「アンタ、バカじゃないの?」
「へっ?」
「前々からどうしようもない馬鹿だとは思っていたけど、まさかここまで拗らせているとは思いもしなかったわ。海未とか穂乃果とか比じゃないくらい馬鹿ね、アンタ」
「え、えぇ……?」
予想だにしない解答に一瞬反応が遅れる。まさかこんなに真っ直ぐ罵倒されるとは思わなくて、なんて返せばいいか分からない。え、えぇ!? な、なんで僕貶されているの!?
てんやわんやと目を泳がせる僕に「いい?」と詰め寄ると、胸元にぐりぐりと指先を押し付けながら彼女は言葉を続ける。
「穂乃果への罪悪感がどうとか、今までの気持ちがどうとか、そんなのどうだっていいじゃない。大切なのは、今、空良がどう思っているか、でしょ? なんでアンタの決断に、他の奴の気持ちが考慮されてるのよ」
「いや、だって、穂乃果ちゃんをこれ以上傷つけるのは……」
「甘えてんじゃないわよ! 穂乃果を傷つける云々は、アンタが自分を守りたいだけじゃない! そんな狡賢い考えで選んでもらって、あの子が本当に喜ぶとでも思ってんの!?」
「っ……!」
「それに、穂乃果に遠慮して告白を受けて、アンタは本当に幸せなの? 自分より他人を優先した結果、むしろ自分自身を押し殺す結果になっちゃったら、それは本当に正しい選択なの? 私はそうは思わない。アンタが招いた問題なんだから、最後の答えまで責任もって、アンタ自身の想いを貫き通しなさいよ! それが筋ってもんでしょ!」
「僕が通す、筋……」
「アンタが馬鹿なのは今に始まったことじゃないけど、自分に嘘をつくことだけはやめて。私が好きになったのは、どれだけ回り道をしても、最後には絶対自分の後悔しない道を選ぶ、そんな空良なんだから」
「え……真姫ちゃん、今……」
台詞の中で信じられないフレーズを聞いた気がして、思わず聞き返してしまう。今はそんな時じゃないことは分かっているけれど、ここで今の言葉をスルーするのは間違っている気がした。
僕に指摘されて、一気に顔を赤らめる真姫ちゃん。だけど彼女は決して黙り込むことはせず、僕の服の裾をぎゅっと握ると顔を見上げて想いを紡ぐ。
「えぇそうよ。私はアンタのことが好き。優柔不断で弱虫でシスコンで、女性恐怖症とか言って情けない上に頼りがいなんて1ミリもない。でも、誰にだって優しくて、自分を犠牲にしてでも誰かを喜ばせようとして、どこまでも真っ直ぐで不器用な空良のことが大好き。穂乃果に負けないくらい……いえ、穂乃果なんかよりもずっと、私は空良のことを愛してる!」
「真姫ちゃん……」
「だけど、穂乃果との決着がつかないまま、私の告白に返事することは許さない。穂乃果に遠慮して私に返事することも許さない。私のことは何も考えないで、ちゃんと穂乃果との問題を解決して。そうじゃないと、私は本当の意味で貴方の隣に並べないから」
声を震わせ、目の端に涙を浮かべ。誰よりもプライドの高い彼女がいったいどれだけの勇気を振り絞って今の言葉を口にしたのか。誰よりも本心を表に出すことを苦手とする真姫ちゃんだが、いったいどれだけの覚悟をもって僕への想いをぶつけたのか。僕なんかが到底敵わないくらいの強さを、目の前の少女は放っていた。
そして、ようやく決意する。僕が本当に取るべき行動、その指針を。
恥ずかしそうに視線を右往左往させる真姫ちゃんから少し離れると、不器用ながら笑みを浮かべる。虚を突かれた様に目を見開く彼女を他所に、僕は軽く頭を下げると、誰よりも僕の事を想ってくれている少女に向けて、覚悟を示す。
「ありがとう、真姫ちゃん。僕、頑張るから。僕自身が後悔しない選択をするから、後ちょっとだけ待っててほしい。その時に、僕の答えを伝えるよ」
そう、もう決めた。どんな結果になろうとも、僕は僕自身が後悔しない選択をする。真姫ちゃんがどうとか、穂乃果ちゃんがどうとか関係ない。僕が正しいと思う答えを導き出すんだ。
僕の覚悟を静かに聞いてくれていた真姫ちゃんは軽く目を細めると、朱に染まった頬をさらに紅潮させ、星空に照らされながら麗しい微笑みを零し、
「うん。待ってる」
そう、言った。
今回も読了ありがとうございます。
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