最近兄さんの様子がおかしい。
「そうは思いませんか、穂乃果! ことり!」
「いやぁ、放課後急に呼び出されたかと思ったら、想定外の議題で穂乃果ちゃん頭の中が真っ白になってるよぉ」
「冗談言っている場合じゃありません! これは一大事です!」
「う、海未ちゃん落ち着いて……」
事の重大さを分かっていない穂乃果の反応に声を荒げてしまうが、ことりの制止に応じて一旦腰を下ろす。幸いにも周囲にお客さんはいないようで、私達の騒ぎに反応する群衆も存在しなかった。行きつけのファストフード店とはいえ、あまり問題を起こすのは得策とは言えない。
一度深呼吸で気持ちを落ち着けると、仕切り直す。
「兄さんの様子がおかしい件について」
「いや、そんなライトノベルのタイトルみたいなこと言われても」
「おかしいのですよ! 最近は何を言っても上の空ですし、話しかけても『僕はもう駄目だ』ってベッドのぬいぐるみ抱いて寝てばかりですし!」
「確かに、それは変だね……」
「あの日です……私がお弁当を忘れた日から、どうにも様子が変なのです!」
もうかれこれ一か月くらいあぁいった調子なのだ。一応大学の講義にも出ているしアルバイトも休まず行っているようではあるけれど、なんというか生気を抜かれた感じというか……、
「私が耳掃除をしてあげると言っても、『うん……』とかいう空返事しか返ってこないのですよ!」
『待って何その話聞いてない』
「? 急に身体を乗り出してどうしたのですか二人とも」
「なんでそこは普通に首を傾げるの!? 海未ちゃん結構とんでもないこと言っているんだよ!?」
「おかしなことを言いますねことり。兄妹ならば耳掃除の一つや二つ普通にするでしょう?」
「しないよ!」
普段のことりらしくない声の荒げように私としては戸惑うばかりなのだが、彼女の隣で盛んに頷く穂乃果がいるので反応が難しい。はて、私は何か変なことを言っただろうか。いや、もしかしたら異性の兄弟がいない二人だからいまいちピンと来なかっただけかもしれない。確かに姉妹と兄妹では接し方が異なるというのはその通りだ。彼女らもそのギャップに驚いているのだろう。
ならばこの話を掘り下げるのは無駄だ。今はとりあえず、本題に入らなければ。
「兄さんが私にお弁当を届けに来てくれた日、二人は兄さんに会っていましたね?」
「まぁ、偶然というか何というか、顔は合わせたけど」
「そうですか……」
「海未ちゃん?」
「穂乃果、怒りませんから、兄さんに何をしたのか正直に話してください」
「海未ちゃん!? え、なんで急にそういう話になるの!?」
穂乃果の肩を掴んで引き寄せる。目を白黒させながら一気に青褪めた穂乃果はじたばた暴れながら悲鳴を上げていた。……ふむ、この反応はシロですか。まぁ、穂乃果に限って兄さんにどうこうするとは思えない。彼女はこう見えて、他人を気遣える人間であるし。それに、とても兄さんを傷つけるような性格には思えない。
「ことりは絶対に違うでしょうし、穂乃果ではないとすればいったい誰の仕業なのでしょうか……」
「私は全力で疑われたのにことりちゃんが最初から全面無罪なのは納得いかない」
「え、えぇっとぉ……」
「日頃の行いに決まっています」
「海未ちゃぁん! せっかく私が誤魔化そうとしていたのに、言っちゃったら駄目だよぉ!」
「いや、言おうとしてたんかーい!」
突っ込みのつもりなのか見事に空を切る穂乃果の手刀。納得いかないとは言われたものの、それこそ彼女の自業自得だ。昔から兄さんの手を煩わせることが多かったのは圧倒的に穂乃果なのだから。ことりはそもそも他人に迷惑をかける性格ではないし、私は例外だし。……なんですか。妹が兄に迷惑をかけるのは例外ですよ、れーがい。
にしても、二人とも心当たりがないのは確からしい。もしかすると、女性恐怖症の兄さんが音ノ木坂に足を踏み入れたこと自体がまずかったのかもしれない。ちょっとしたトリガーで発症する恐れがあるのだから、迂闊に無茶をさせるべきではなかったのか。軽いリハビリと思って配達を頼んだのだが……少々無理をさせすぎたのではないだろうか。
「ねぇねぇ海未ちゃん。空良くんはさ、今具体的にどんな感じなんだっけ?」
「なんですか藪から棒に」
「いーからいーから。症状を説明してみてよ」
唐突にカウンセラーみたいなことを言い出した穂乃果。彼女に心理診療の心得があるという話は聞いたことないが……何か打開策を得るきっかけになるかもしれない。多少の不安は残るが、聞いてくれると言っているのだからここは素直に話してみるとしよう。何を察したのかわくわくした顔で待機していることりの様子も気にはなるけれど。
最近の兄さん……ここ一か月の空良兄さんの様子を思い浮かべながら、できるだけ事細かに説明を試みる。
「いきなり【女性との接し方】みたいな本を大量に買ってきたり、思い立ったようにジョギングに行ったり、急に叫び出したかと思うとベッドに飛び込んで唸ったり……あぁ、最近だと真姫のことをやけに聞かれますね。一度も会ったことはないはずなのに、いったいどうしたのでしょうか」
『原因分かってるじゃんこの天然ブラコン娘!』
「悪口がいきなりストレートすぎやしませんか!?」
もうオブラートとかそういう歪曲的なものを一切合切取り払った見事なまでに真っ直ぐな罵倒に称賛すら湧いてくる。今まで見たことがない程の剣幕で顔を寄せてくる二人がなんだか怖い。あの癒し系まったり少女南ことりでさえも目を血走らせて言い寄っているという事実に恐怖だ。現状が把握できない。何故穂乃果達はこんなにも怒っているのでしょう?
「落ち着いてください二人とも。そして、私にも分かるように懇切丁寧に教えてください」
「いやいやいや! なんで分からないの海未ちゃん! 空良くんの様子がおかしくなった原因は、確実に真姫ちゃんだよ!」
「は、真姫ですか? そもそも関わりがない相手なのに、そんなわけないでしょう。馬鹿を言いますね穂乃果は。お饅頭の食べすぎではありませんか?」
「返しが辛辣!」
「ねぇ海未ちゃん。何か心当たりはないの? ほら、空良さんが真姫ちゃんを知ることになったきっかけとか、そういうの……」
「きっかけ、ですか……」
そうは言われても、兄さんが真姫と話しているのは見たことがないし、そもそも彼は女性恐怖症だ。私や穂乃果、ことりといった幼馴染三人は例外だとしても、初対面の女性と関わり合える精神状況だとは到底思えない。そんな兄さんが、真姫のことを知るとしたら……。
と、そこまで考えたところで、一つだけ。ついひと月前ほどにあった出来事を思い出す。
「もしかしたら、ですが……」
「おぉ、なになに?」
「いえ、実際に会ったかどうかは分からないのですが、先月程にですね、兄さんが真姫の学生手帳を渡してきたことがありまして……。拾った、とは言っていたのですが、あの兄さんが女性に関わるものを拾うということ自体が珍しいな、と思った記憶はあります」
「海未ちゃんってホント空良くんが関わるとポンコツだよね」
「先程から毒吐くのやめませんか、穂乃果?」
「べぇーっ、さっきのお返しですぅー」
彼女の言い方に少々ムッとするものの、本気で言っているわけではないようで、悪戯っ子のような笑いを浮かべながらポテトをパクついていた。まぁ本気だろうが冗談だろうが、穂乃果にポンコツとか言われる筋合いはないのでナゲットを一個強奪しておく。これで両成敗です。
「私しか被害受けてないじゃーん!」
「私は精神面で傷ついたのです。ナゲットくらいで済んだのを感謝してください」
「じゃあ海未ちゃんのホットケーキ貰うもーん!」
「あぁっ! 楽しみに残しておいた最後の一切れをよくも!」
「あはは……ね、ねぇ海未ちゃん。もしかしたらなんだけど、空良さんは真姫ちゃんに恋しちゃっているんじゃないかな?」
「そんな馬鹿な……女性恐怖症の兄さんが恋をするなんて有り得ません。ことりも知っているでしょう? 兄さんが女性に好意を持つなんて考えられないことくらい」
「それはそうなんだけど……でもでもっ、真姫ちゃんのことを聞くときの空良さんって、恥ずかしそうだったり嬉しそうだったり、そんな複雑な表情していたりしない?」
「複雑な表情……?」
ことりの言葉に、最近の兄さんの様子を思い返してみる。
どこか照れたように、でも興味津々といった様子で練習中の真姫の様子を聞いて来たり。
たまにぼーっとしたように天井を見上げては、定期的に首を振ったり。
突然ランニングに出かけたかと思えば帰宅するや否やベッドに飛び込んでむーむー唸ったり。
……確かに言われてみれば、これらの意味不明な行動は一般的に恋をした時にとると言われる――――
「まままままっさか! ににににに兄さんに限ってそそそそんなばかかかな」
「大変だよことりちゃん! 海未ちゃんの頭がオーバーヒートして言語中枢が焼き切れちゃった!」
「う、海未ちゃーん! しっかりしてー!」
「兄さんが……あの兄さんが、恋愛……?」
「ま、まだ決まったわけじゃないから~! 言ってみただけだよ~!」
「そ、そうですよね! まだ確定したわけじゃありませんもんね!」
再び呼吸を整える。うん、早とちりはいけない。たまたまそう誤解されるような言動が目立っただけかもしれないではないか。女性恐怖症の兄さんが恋愛感情を持つなんて、通常考えられない。過去にあれだけのトラウマを負ったのだから、むしろ恋愛自体を毛嫌いしてもおかしくはないのだ。うんうん、そうに違いない。
「海未ちゃんって、自分では気が付いていないけど潜在的にブラコンだよね……」
「駄目だよ穂乃果ちゃん。それ聞こえちゃったらまたお説教されちゃうよ」
「どうかしましたか、二人とも?」
「う、うぅん! なんでもないよ!」
「そうですか? それなら良いのですが」
どうしてか顔に汗をかいて焦ったようにジュースを飲み始めた二人を怪訝には思うものの、なんでもないと言い張るのでそれ以上は追及しないようにする。何かすっごく失礼な話をされていたような気がするのですが……まぁ聞き間違いでしょう。兄さんのトラブルに気が動転していただけかもしれませんし。
彼女達も兄さんが恋愛をしていないということに安堵を覚えたのか、やけに深い溜息をついていた。
「う、海未ちゃんはさ! 空良くんにもしも好きな人ができちゃったら、どうするの?」
「はい? 私がどうするか、ですか? 兄さんが恋愛をすることなんて金輪際有り得ないというのに?」
「た、例えばの話だよ!」
「うーん、そうですねぇ」
何か奇妙な話題を提供してきた穂乃果に苦笑しながらも、私なりに考えてみる。仮に、もし仮に
兄さんの現状と過去。私なりの兄さんへの家族愛を鑑みて、しばらく首を捻った後に、とりあえずまとまった答えを返してみた。
「やはり兄さんに釣り合う女性だというのが最低条件ですからね。その為には少なくとも私が納得する必要があります。そうですね……例えば、剣道なり柔道なり弓道なり、武の道で私と張り合うかそれ以上の方ではないと交際を許すことはできませんかね……」
『……………………』
「穂乃果、ことり? 笑顔のまま固まってどうかしましたか?」
表情が笑顔で完全に固定されたまま微動だにしない二人。今日はなんだか変な言動が目立ちますね。二人とも日々の練習で疲れているのでしょうか。後輩も入ってきたことですし、気を抜いてはいられないのですが。
未だに固まっていることりの頬をつんつんと突いてみる。相変わらず餅のように柔らかな肌だ。触っているだけでこう、幸せな気持ちになってくる。
「つんつん」
「……」
「つんつんつん」
「…………」
「ふふ、柔らかい」
「何やってるんですか先輩方……」
「ひゃっ」
ことりのマシュマロほっぺたを堪能していた矢先に背後から声をかけられ、反射的に身構えてしまう。別にやましいことをしていたわけではないが、普段のクールな園田海未的イメージが崩れるのだけは少々避けたい。必要があらば目撃者の記憶を消し飛ばそう、と勢いよく振り向く。
背後に立っていたのは、赤毛の綺麗な美少女高校生。少し強気な印象を受ける吊り上がった目と、自信に満ち溢れた凛々しい表情。ファッション誌のモデルをしていると言われても納得してしまう程の外見を持った後輩が、何やら呆れたような視線でこちらを見ていた。
西木野真姫。先程話題にも出ていた、私達µ’sの作曲担当。そして、最近兄さんが妙に話を聞いてくる少女。
真姫はチーズバーガーセットが乗ったトレイを持ったまま、どこか馬鹿にしたような調子で告げる。
「イチャつくのは構いませんけど、こういう公衆の面前でやるのは私達が恥ずかしいんでほどほどにしてくださいね?」
「忘れなさい。今すぐに」
「いや、そんな人を殺しそうな目で言われても……別に言いふらしたりしませんから」
「当然です。このことを他の人に言ったが最後、音ノ木坂から西木野真姫の存在が抹消されることになります」
「怖いわよ!」
私の物騒な物言いに顔を真っ青にさせながら悲鳴を上げる真姫。どうにも反応が大きくていじり甲斐のある後輩だ。以前穂乃果も言っていたが、根は良い子なのだろう。ただ、素直になれないお年頃というだけで。ふふ、可愛らしいですね真姫は。
億パーセント有り得ないけれど、兄さんが彼女のことを気になっているというのも分からない話ではない。綺麗で上品で、ピアノも上手で頭もいい。スポーツは少々苦手ではあるが、そこがむしろギャップになっている。私が男性であれば、おそらく真姫のことを好きになっていても不思議ではないだろう。少々口が悪いのが玉に瑕だが。
「なにニヤニヤしているんですか」
「いえ、真姫は可愛いなぁと思いまして」
「うぇぇ!? ちょ、いきなり変な事言わないでよね!」
嫌がっているような物言いだが、顔を真っ赤にして言われても説得力がない。純粋な好意から褒められるということに慣れていないのか、視線をあちこちに泳がせる姿は可愛らしいの一言に尽きる。嗜虐心をくすぐられるというか……何かこう、猫を相手にしているような感覚に陥るのだ。癒される。
トレイをテーブルに置き、手持無沙汰に髪を指でくるくると弄る真姫に温かい視線を向けながら話しかける。
「今日はどうしたのですか? 真姫がこういうところに来るのは珍しいですね」
「別に、凛と花陽が誘ってきたから仕方なく、よ」
「素直じゃありませんね……」
「余計なお世話」
つん、とそっぽを向くものの、その顔がやや嬉しそうにはにかんでいることを私は見逃さない。愛情表現が致命的なまでにヘタクソな彼女だけれど、やはり友人に誘われるというのは嬉しいのだろう。もう少し素直に表現すればいいのに、というのは野暮か。
しばらく恥ずかしそうに視線を彷徨わせていた真姫だったが、ふと何かを思い出したように制服のポケットをごそごそと漁り出す。
「そうだ、先輩方に聞きたいことがありまして」
「聞きたい事、ですか?」
「はい。ちょっと前の事なんですけど、学校で知らない男の人と会って……その人が落としていったんですが、見覚えありませんか?」
そう言って取り出したのは、桃色の、桜があちこちにあしらわれたカバーが特徴的の音楽プレイヤー。長い間使われているのか、画面のあちらこちらにヒビが入っているのが痛々しい。赤いイヤホンのシリコン部分は色もまちまちで、よく無くすのだろうことが窺えた。
……そして、私はこの音楽プレイヤーの持ち主に心当たりがある。というか、これ自体昔に私がプレゼントしたものだ。先程、学校で男性が落としたと言っていたから、もしかしたら例のあの日、真姫は彼と会っていたのかもしれない。
なんか変な予感に苛まれながらも、真姫に答える。
「これは……この音楽プレイヤーは、私の兄のものです。具体的に言うならば、以前貴女の学生手帳を拾った男性、というところですか」
「あの人が、海未先輩のお兄さん?」
「えぇ、少々頼りない御仁でしたでしょう?」
信じられないとばかりに目を見開く真姫に対し、苦笑交じりに肩を竦める。世間は狭いというが、ここまで小さいともはや驚きすら湧いてこなくなるのか。なんだか、奇妙な感覚だ。何故彼女と兄さんが会うことになったのか、ちょっと今から問い質す必要性がありますね。おそらく、穂乃果達も気になっているでしょうし。
やっと硬直から解放された穂乃果とことりに事情を話すと、別のテーブルで待っているであろう凛と花陽の元に向かった。
今回も読了ありがとうございます。次週もお楽しみに。