秋葉原から少し歩いたところの、丘の上にある病院。西木野病院と名前がついているそこの近くには、ブランコと滑り台だけが置かれた小さな公園が存在した。現在僕達は、二つあるブランコにそれぞれ腰かけて、秋葉原の街並みに沈む夕陽を眺めている。
「すみません。わざわざこんなところまで来てもらっちゃって」
「い、いや、それについてはまったく構わないんだけど……」
そう言って頭を下げてくる西木野さんから視線を逸らす。二人きりという事実を妙に意識してしまって、まともに彼女の方を向くことができない。できるだけ平常心でいようとすればするほど、身体がうまく動かなくなる。
このまま黙っているわけにもいかない。視線は空中に固定したまま、とにかく話題を探す。
「あ、あそこの病院って、もしかして西木野さんの親御さんがやってるの?」
「はい。パパ……お父さんが院長で、お母さんが看護師で。私も将来は後を継ぐように言われてはいるんですけど……ちょっとまだ、悩んでて」
「お医者さんになるのって大変だもんね。勉強ばかりやるのも辛いでしょう?」
「いえ、勉強自体はそこまで辛くもないんですけど……なんか、まだ自分の中で決心できていないというか、なんというか」
「…………」
「ご、ごめんなさい。急にこんなこと言っても困りますよね」
「うぅん。こっちこそ、何か気の利いたことを言って上げられればいいんだけど……」
正直に言うと、どう返事をすればいいのか悩んだというのが沈黙の答えだ。彼女の将来に関わる話題なのだから、僕のような部外者がおいそれと口出しするわけにもいかない。それに、西木野病院の跡継ぎともなれば人生を左右する選択だろう。迂闊な事は言えなかった。
それにしても、どうして彼女は僕をここに連れてきたかったのだろう。縁もゆかりもない場所なのに、何故。
「あの、空良さん」
疑問に首を傾げていると、再び名前を呼ばれた。今度は自然に西木野さんの顔を見る。特に意識しない中での行動だったから、あまり緊張もしなかった。
西木野さんは夕陽を真っ直ぐ見つめたまま、誰にともなく呟く。
「今から私は独り言を言います。誰に向けたわけでもない、私の勝手な愚痴を。だから空良さんは、それをあくまで独り言として聞き流してください。その後の対応は、任せます」
「……独り言、ね。素直じゃないなぁ」
「う、うるさいですよっ」
「はいはい。ほら、好きに愚痴りなよ」
「もう……」
僕に茶化されたのが気に食わなかったのか、ハムスターのように頬を膨らませて拗ねた表情を浮かべる西木野さん。普通に相談に乗ってくれとか、愚痴を聞いてくれと言えばいいのに、あえて独り言として聞き流してほしいと言うあたり本当に素直じゃない。そして、そういう不器用なところがどこか海未を連想させて、親近感が湧いた。海未も落ち込んだ時はこうして隣で勝手に愚痴を言っていたっけ。
そんな彼女の姿に、なんとなくではあるけれど僕がここに呼ばれた理由が分かった気がする。音ノ木坂から離れたこの公園ならばµ’sのメンバーと鉢合わせることもないし、変な噂を流される心配もない。僕が呼ばれたのは、あまり親しくはないけれどかといって他人というわけでもない絶妙な距離感の存在だからだろう。変に仲のいいメンバー達には相談しづらかったのかもしれない。後は、僕が大学生だからというのもあるだろうが。
僕の勝手な考察はさておいて、西木野さんは咳払いを一つ。気を取り直すと、憂いを帯びた表情で言葉を紡ぐ。
「私、本当はピアニストになりたかったの」
「ピアニスト……?」
「昔からピアノが好きで、暇さえあれば鍵盤を叩いているような、そんな子だったんです。勿論勉強も好きだったけど、それ以上にピアノを弾いている時間がどうしようもなく幸せだった。将来は絶対にピアニストになるんだって、そう思ってたんです。でも……」
「……親に、反対された?」
「反対されたというか、パパやママは最初から私はお医者さんになるんだって思っていて、ピアノはせいぜい習い事にしか過ぎない程度の認識しかなかったんです。ピアノのコンクールを見に来てくれたこともなかったし、いっつも勉強のことばっかりで。だから、私のそんな夢は、いつかの昔に置いてきちゃった」
「西木野さん……」
「それでも、ピアノは嫌いになれなくて。今でも暇を見つけては鍵盤を叩いちゃう。自分の気持ちすら親に言い切れなかった私の、たった一つの抵抗なのかしら。もしかしたら心の中で、私は今でもピアニストの夢を諦め切れないのかもしれません」
遠い目をしながら宙を見上げる西木野さん。視線を辿ると、天に向かって羽ばたいていく一羽の鳥が。大空を自由に飛び回るその姿に、彼女は何を思うのだろう。親からの期待に羽を奪われて、籠の中でしか生きていけなかった彼女は、何を。
西木野さんの話を聞きながら、僕は一人の知り合いの姿を思い浮かべていた。おそらくは、境遇が似ているであろう女の子の事を。
「……僕の知り合いにさ、将来は日本舞踊の後を継ぐことが決まっている子がいるんだ」
「日本舞踊……それって……?」
「まぁ聞いてよ。その子の家は昔から代々続く日本舞踊の家元で、全部で三人の兄妹がいた。一人はいっつも遊び呆けてマトモに帰っても来ない長女。もう一人は大して秀でたものもない平凡な長男。そして、品行方正で学業優秀、運動神経も抜群の次女。彼女らのうちで一人が後を継がないといけないという話になったんだ」
「後を、継ぐ……」
「常識的に言うと、長女が家を継がないといけない。でも、誰の目から見てもそれは正しい選択とは言えなかった。だって、遊び人の長女が後を継ぐなんて、聞いたことがない話だったからね。かといって長男が継ぐわけにもいかない。日本舞踊は代々、女性の当主が継いできたのだから。ということは、自然と誰が継ぐか決まってくる」
「まさか……」
「必然的に、次女が次期当主として育てられるようになったよ。毎日毎日厳しい練習をやらされて、自分の意思とは無関係に将来を決められた。でもね、次女は誰よりも家族想いだったんだ。『姉さんや兄さんの分まで、私が頑張ります』って、目を真っ赤に腫らしているくせに、堂々と言い切ったんだよ。その姿に長男は言葉を失った。自分が女に生まれていれば、妹をこんな目に遭わせることはなかったのにって」
今思い返しても、胸が痛む。幼いながらに僕達を案じて、自分が犠牲になることを選んだ妹の姿に、何度後悔を覚えたことだろう。彼女の優しさに、何度罪悪感を抱えたことだろう。「大丈夫ですよ」と微笑む海未を、何度抱き締めたことだろう。
幸い海未は舞踊も稽古も好きだったらしく、辛いながらに日々を過ごしていた。それでも、稽古を優先して友達と遊べないことは悲しかったに違いない。何度誘われても断らなければいけなかった彼女が次第に孤立していくのも無理はなかった。どれだけ辛い思いをしてきたか、想像できる訳がない。
「家を継ぐために自分を殺す。これについては西木野さんも同じかな。家の都合を優先して、自分を犠牲にする。決して良い事とは言えないけれど、一概に悪いとも言えない。家業を継ぐっていうのは、昔からやってきたことだからね。たぶんだけど、穂乃果ちゃんも同じなんじゃないかな。和菓子屋の跡継ぎについて、いろいろ言われてはいると思う」
「でも……そんなの、親の言うがままに生きていく人生なんて、意味がないじゃないですか」
「うん。それは言う通り。だから、言われて従うだけじゃ駄目なんだよ。何か行動しないと、絶対に状況は変わらない」
「そんな気軽に言われても、簡単なことじゃ――――!」
「海未は、言ったよ」
「っ!?」
「言ったんだよ、海未はさ。親父達に向かって、泣きながら。『友達と……穂乃果達と、遊びたい』って」
気持ちが入りすぎたのだろう、目の端に涙を浮かべて異を唱える西木野さんだったが、僕の言葉に虚を突かれたように目を見開いていた。あまりにも純粋なその反応に、思わず笑みが零れる。
あの日のことは、今でも忘れない。
妹が中学生になった頃だったろうか。いつも通り稽古に励む海未の元に、どこから忍び込んだのか穂乃果ちゃんとことりちゃんが飛び出してきたんだ。激怒する親父達に向かい合い、二人は涙混じりながらも、一歩も引かなかった。背中に海未を庇ったまま、真っ直ぐな表情で彼女達は言ってくれた。
『海未ちゃんを、縛り付けないで! 海未ちゃんは、お人形なんかじゃない……私達の大切な、お友達なの!』
心臓が破裂するかと思った。妹の為に身体を張って行動してくれた彼女達に、どう感謝すればいいのか分からなかった。僕も姉さんも、そして海未も、どうしようもない程に泣きじゃくっていた。
二人の親友に後押しされて、海未は顔を真っ赤に腫らしながら親父達と対峙した。狼狽える彼らを真正面から見据え、両手を穂乃果ちゃん達に握られながら。彼女は今まで言えなかった気持ちを、初めての自分の想いをぶつけたのだ。
それから、海未は稽古の毎日から解放された。将来後を継ぐことは変わらなかったけれど、学生でいる間は、海未のプライベートを優先して生活していいことになったのである。無論、最低限の稽古はやらなければならない。それでも、自分を殺して生活する日々は終わりを告げた。あの日の行動が、海未の人生を変えたんだ。
「だからさ、何かを変えたいのなら、自分で行動しないと始まらないんだよ。一人で無理なら、友達に頼ってもいい。それこそ、µ’sのメンバーに協力してもらってでも、自分の気持ちを伝えなきゃ。ピアニストになりたいならその気持ちを。医者として後を継ぐけれど、今は好きにやらせてほしいと言うのなら、そのままの想いを。仮にも親なんだ、子供の真っ直ぐな主張くらい聞いてくれるさ」
「……医者になる決心がつかないって話から、どうしてこんな話題になったんでしょうね」
「あ、え、えっと……うわ、そうだ僕何の話してるんだ。まったく答えになってないじゃないか……ご、ごめんっ。つまり何が言いたいかというと、周囲の反応とか親からのプレッシャーとかを気にしないで、自分のやりたいように――――って、これだとすっごくふわふわしたアドバイスだーっ!」
呆れたような彼女の言葉に、ようやく自分がどれだけ的外れな話をしていたかに気が付いた。うわうわ恥ずかしい。なんか得意げに語っていたけれど、これ自覚すると相当に恥ずかしい! 西木野さんに変な奴って思われる……!
「ご、ごめんね! なんか変な事言っちゃって……」
「うぅん、いいんです。でも、ちょっと思い出しちゃったな。昔の事」
「へ?」
「この公園で会った男の子の話。もう顔も覚えてないけれど、前にもそうやって的外れな話をして慰めてくれた男の人がいたんです。あの時はピアノをやめて落ち込んでいた時で……それなのにその子ったら、『お医者さんって凄いじゃん! 格好いいよ!』だなんて……もしかしたら、医者になるって将来を毛嫌いできなかったのは、あの男性のせいなのかもしれません」
「その人、相当馬鹿みたいな返事しているね。きっと何も考えていなかったんだよ」
「そうかもしれないです。でも、その言葉できっと私は救われた。少なくとも、あの時は少しだけでも胸が軽くなったんですよ。その時から、ここは私の思い出の場所。悩みがあるとここに来て、夕陽を見つめるんです。そうすれば、またあの男性が馬鹿みたいな事を言ってくれるんじゃないかって」
「西木野さん……」
「空良さんの話を聞いていたら、うじうじ悩んでいるのが馬鹿らしくなりました。だから私、やりたいことを好き勝手にやってみます。勿論勉強して、将来はお医者さんになるかもだけど……でも今は、スクールアイドルをやりたい。µ’sの皆の為にピアノを弾きたい。そう、思うんです」
「……キミがそう思うのなら、きっとそれが正解だよ。僕なんかに言われるまでもなく、さ」
「でも、もしパパに怒られてしまったら、その時は……その時は、空良さんが一緒になって言ってくださいね。責任を取って」
「うえぇ……ぜ、善処します」
「ふふっ」
悪戯っぽく笑う彼女に肩を落とす。もしかすると、とんでもない重荷を背負ってしまったのではないだろうか。相手が西木野さんだから必要以上に感情移入して色々言ってしまったけれど、最近知り合ったばかりの部外者が介入していい範囲だったのか微妙なところだ。僕の言葉で将来が左右されるわけではないだろうけど……うぅ。
「空良さん」
「はい……なんでしょう……」
勝手に落胆している僕ではあったが、名前を呼ばれた以上反応を返さなければならない。内心後悔に苛まれつつ、彼女の方を見る。夕陽に照らされているせいか頬は茜色に染まっており、その艶っぽい表情に思わず胸が高鳴った。変態か、僕は。
西木野さんはブランコを下りて僕の前に立つと、
「私の事、名前で呼んでくれませんか?」
「え、えぇっ!? そ、そんな急に言われても……」
「いいから。女性恐怖症を治す一歩と思って頑張って。その代わり、私も貴方のことは『空良』って呼ぶから」
「と、年上にタメ口はどうなのさ……」
「だって空良は年上っぽくないんだもの。それより、ほら早く」
「そ、そんなぁ」
普段通りの強気な態度で言われてしまい反抗もできない。なんか結構無理矢理なお願いをされている気がするんだけど……ぐ、これが恋に落ちた男の末路というやつか。ま、まぁ、距離が近づくと思えばいいことかもしれない。年上っぽくないという発言には少々傷つくものの、名前呼びというのは凄い進歩だと言えないだろうか。
生唾を呑み込む。名前を呼ぶだけなのに、変に緊張してしまい喉が渇き始めていた。
数分間からかわれながらも覚悟を決める。
そして、
「ま……真姫……ちゃん」
「むぅ、ちゃんづけかぁ。まぁ、及第点ってところね」
「呼び捨ては無理だよ……これが精一杯」
「女性が苦手って大変ねぇ。でも、私に任せなさい。将来日本一の名医になる予定の真姫ちゃんが、空良の恐怖症を完璧に治してやるんだから!」
「ふぁ、ふぁい……」
いつの間にか立ち直っていたらしく、天に拳を突き上げて宣言する西木野……真姫ちゃんに完全に気圧されている僕。四歳年下の女の子に圧倒されている現実を直視したくなくて、苦笑いの末に溜息をつく。だけど、ちょっとだけ真姫ちゃんと仲良くなれた気がするから、多少のマイナスはよしとしよう。
自信満々の笑顔を僕に向けてくれる素直になれないちょっぴりナルシストな美少女高校生を前に、嬉しさと残念さが入り混じった苦笑を浮かべる僕であった。
今回も読了ありがとうございます。