知将MUR   作:ピュゼロ

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BGM “Living for the City” by Stevie Wonder


第114514話 とねねねーさん

 ……しかし彼女は、どうして怖くないのかという疑問には、結局答えてはくれなかった。

 

 

 空を飛んだら妙な気持ちがするだろうな、と利根は思った。吾輩は重く、強くあるように作られた、鉄の塊であるけれども、あの鳥のように大空から海を見たなら、いったいどんなふうに見えるじゃろうな。

 うむ。

 ……わからんな。

 利根は偵察機を上げて警戒をする事こそあるが、それを自分の体験と呼ぶには、少しばかり不格好だった。なんと言っても飛んでるのは妖精たちじゃからな。当然その内容を一番にやりとりするのは吾輩じゃが、だからといってそこをひとくたにされては面白くもなんともない。“おい、利根、何か見えたか?”“いいや。今のところ何も見えぬと言っておるぞ”まだ時々勘違いされている。

 とはいえ、飛行機はちょっと飛びすぎじゃな。雲の上から見る景色はさぞ眺めの良いものじゃろうが、吾輩はもう少し低いのがいい。魚が見えないからな。

 魚が集まりやすい場所というのがある。僚艦たちはあまり気にしない知識ではあるが。港から出てすぐは浅くてなだらかな海底が、少し沖の方に出ると急に数百メートルも深く落ち込んだりしていて、そういうところは得てして色々な潮流がプランクトンや餌魚や小海老を運んでくるのだ。それらを求めて様々な魚が、そしてさらに大きい魚たちも集まってきて、それを上から見たならば、薄暗い朝もやの闇の中から、やがて徐々に徐々に昇る太陽の光が水面にきらきらと反射して、たくさんの魚たちの背が緑や紫や青や銀に光って見える事だろう。

 なんじゃ、利根よ、お主中々詳しそうではないか。これならいつでも漁船に転向できるのう。

 そんな事を考えて、利根は一人苦笑した。しょうもない事よの。案外お主も余裕があるようじゃ。第一、抜けられぬのだから代わるしかない。しかし、いったいどこにそんなやつがいる?

 利根は海の事を考える時、自分が驚くほど何も知らない事に気づく。自分が作られた目的である、船としての手足の動かし方、考え方。あとは細々した歴史。思い出。それだけだ。あとは何も知らなかった。魚の獲り方でさえまるで知らない。自分たちの浮かび上がり、幾度となく戦い、やがて一人で沈んでいくだろう水の底の事を。例えるなら、海というのは中身の見えない箱のようなものだ。利根は、あるいは、利根たちは、箱に手を入れてこう言う。まるで主砲のようじゃ。それだけで満足して、残りは見向きもせずに出撃を続ける。しかし別の者は、もやい綱のようだと言うかもしれない。あるいは張った帆のようだとも。鉄板のようだとも。それは間違いなく正しい。だから皆そこで口を閉ざしてしまう。

 利根は鎮守府を出てからゆっくりと歩き続けていた。岸壁に沿うようにして歩いてはいるが、別に理由があるわけではなかった。鈍い群青色の空模様はとても具合がいいとはいえなかった。天気と同じく冷え冷えする海風が束ねた髪をたなびかせているが、利根は今まで寒さを苦にした事はなかったので、いつものラフな格好のままだった。

 時々、港のどこかで話し声がする。それは間に何重にも分厚い幕があるかのように低く、聞き取り辛く、どこからするものなのかはわからなかった。旗艦である自分を呼び止めているものかと思って、その場に立ち止まる。しかし、周囲には人影はなく、ただ波の音だけが一定の間隔で微かに響いていた。やがて利根が再び歩みだすと、みんなばらばらになって散っていった。

 提督を見つけたのはまさにそんな時だった。

 もうすぐ夜が明ける。利根は近寄る朝の気配を感じていた。

 提督は一人きりだった。

 利根の目には、いつもなら一枚の板のように背筋を伸ばしているその背中が、いつになくしおれて見えた。

 昔、昔に武術をやっていたらしい。

 彼が直接口にしたわけではないが、例えば拳の傷だとか、正座した姿勢、鍛えられた体躯、潰れた耳、そういう部分から利根は勝手に推測していた。好きか嫌いかで言えば、実に好ましい傾向だ。暴力に慣れ親しむ事と指揮官の経験を積むというのは、中々相反するようなところがある。だが利根は、自分を乗りこなす提督には、是非ともそういうやつでいてほしかった。いくらお勉強ができようとも、人の一人も殴った事のないようなやつが、ハッ、戦争で遊ぼうなどと……烏滸がましい話じゃ。そういうふうに思う。

 痛みに耐えて、耐えて、耐えて、敵の喉笛に食らいつくその時までじっと伏して、生きて戻れないとわかっていてもなお突撃するのが、猛将と呼ばれる条件である。これは性質の問題だ。なろうとしてなれる類のものではなく、だから彼は、平和な時代には無用なある種の才能を抱えて、それを十二分に生かせる時に生まれたのだ……。

 だからその時、利根は沸き上がる怒声を内心で止める事ができた。……これもいわゆる喧嘩慣れか? どうじゃろうな?

 仮にも艦隊を指揮する者が、こんなところで背中を丸めて何をしておる、そんなふうに、利根はよっぽど背中を蹴りつけてやろうとしたが、それはぐっとこらえて、何でもないような顔をして口を開いた。

 

 おお、提督よ。先ほどぶりだな。うむ。ワガハイである。

 どうした? そんなにシケた面をしおってからに。

 

 振り返った提督は、利根を見て露骨なまでに嫌な顔をした。おそらく彼は今、世界で一番、利根にだけは会いたくなかったのだろう。

 はてな? 胸の中でこっそりと、首を傾げて考える。すると、もしや提督殿は怖がっているのかもしれないぞと、利根の中で誰かが合点した。普通……ふつうの人間は、なるほど、こうした邂逅を嫌がるものかもしれない。……なぜか?

 なぜなら、吾輩は危うく沈むところだったのだ。

 提督殿のミスによってな。

 この考えは、中々いいところだと思った。考えを胸中でころころと転がしてしばらく検討してみたが、まずまず、そんなところだろうと。だから利根は、厭じゃなあ。面倒じゃなあ。心底そう思った。

 利根は重巡であり、鉄と油でできた船であり、そうした心の機微というのが、まるでわからないのだ。

 そういった些事は、利根にとってはたった一言、

 ――クソ食らえじゃ。

 胸の裡で吐き捨てた。

 そのままなんでもないような顔をして、隣に座った。

 わざとらしく肩をぶっつけたりして腰を下ろしたのに、提督ときたらぴくりともせずに、目深に被った軍帽で表情を消して、ただただ海を見つめているだけだった。

 利根はその横で背中を丸めて小さくなっている。尻の下でコンクリがひんやりとしている。隣に座ると、いつも提督と旗艦として並び立つ時よりも余計に、背丈の差を感じる。横目でちらちらと様子をうかがう利根より二回りは大きい輪郭だった。

 けれど利根は今どうしても、そいつが小さく思えるのだった。

 提督の重苦しさなんて、初めから気づいてもいないような調子で、軽口をたたく。

 

 ……先ほどの軍議はまったく、大したものじゃったな。

 議論の騒がしさと知的レベルでいえば、古代アテネと最近の政府の討論の、丁度まんなかぐらいじゃ。

 保守。安全。現状の維持。死にかけた人間に電流を流せば再び心臓を動かす事もできるかもしれんが、点滴などしてもまるで役に立たん。

 

 あー。なんじゃな。

 ……今回の海戦については、そう気に病むでないぞ。

 

 提督の返事は返ってこなかった。利根は二度ばかりふんふんと鼻を鳴らしたが、それ以上言及はしなかった。

 こてんと肩を預けられるぐらいの距離だ。利根にはそのどくどくという心音までもがはっきりと聞こえるぐらいだった。彼女が座ってから今までずっと、哀れな罪人のように跳ね躍るその鼓動が。不思議なものじゃのうと思う。人間だって、ずっとずっと最大船速でいたならば、炉が壊れてしまうじゃろうに。重巡である自分と比べて人とはなんとも、脆くて、不均等で、非合理的であり、複雑なものじゃのう。

 利根はそんな事を考えながら、服の隙間に手を入れて腹を撫でていた。船渠で負傷を塞いだばかりだから、掠めた砲弾が腹の肉を半分ほどごっそりと持って行ったというのに、状態はきれいなものだった。ゆっくり船体を休めるよう勧める筑摩の言を断って、バケツをひっくり返しただけだから、時間も大してかかっていない。

 なんともなあ。

 つくづく人間とは、不便なものじゃなあ。

 そしてなによりも、暖かい。横におるとこれがとてもよくわかる。まったく無駄な排熱じゃ。これでは例え四万先の海からでも迷わずに戻れるじゃろうな。

 鼓動に合わせて左右にゆっくりと、振り子時計のようにゆらゆら揺れていた。隣の提督に何度も結んだ髪の先があたって、その度にやめろとばかりに手を振られるが、利根はやめなかった。

 やがて利根は提督に長々としたため息をつかれた。

 

 怖くはないのか。

 死ぬのが。

 

 その言葉に利根は、今度は逆に静かにほほ笑むだけで、何も答えなかった。その表情には普段の子供っぽいところや短気なところとは違った落ち着きがあって、彼が何を言っても受け入れてしまうような、深い海の底のような雰囲気があった。

 怖い事などないよ、と諭しているようでもあったし、できるものならやってみろ小僧めが、と嗾けているようでもあったし、話をはぐらかして、問題を曖昧にしようとしているようでもあった。

 

 ……砲弾の雨の下で冷静に指揮をとれる者も少ないじゃろうからな。

 いるとすればそれは残酷な話だが、きっと頭のどこかがおかしくなってしまっているんじゃろうなあ。

 ほれ、よく言うじゃろう。

 身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ、じゃな。違ったかな。

 

 少し、違うな。提督がやっと返事をした。声は、今までずっと歯を食いしばっていたかのような呻きだった。

 けれど、利根はそれを聞き逃さなかった。途端に、利根はにんまりと笑みを浮かべた。

 

 うむ、うむ。なんでもいいのじゃ、なんでも。わかればな。

 覚えておくといいぞ、提督。ワレワレはな、負けるようにはできていないのじゃ。そりゃあ、殺される事はあるかもしらん。しかし、きっと負けはしないよ。炉に火がついている限り決して、負けないようにするのはな……。

 

 そうそう。こう見えて新聞も読んでおるぞ。

 ボンカレーはどう料理してもうまい! うむ、本で読んだぞ。

 ……ま、まんがで何が悪い!

 

 それからずっと他愛もない雑談をしていた。依然として喧嘩でもしたみたいに顔も見合わせないままだ。

 利根は提督と肩を合わせてぴったりと寄り添っていた。

 幾度となく繰り返す波の音を聞きながら、彼女は海の上を飛ぶ夢を見ていた。

 




あけましておめでとうございます。
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