沖波「司令官が……あまりにも強くおっしゃるので、買ってみたんです、水着……」可愛らしい言い訳は女の子の特権。
※
MUR艦隊は秘書艦筑摩の下、鋼鉄の規律、行軍能力、迅速な海上での運動、堅固な陣形……それらの有機的な運用でもって統率される……と、されている。
それはつまり、艦隊という組織が、たとえ提督が知将であろうとなかろうと、まったく揺るがない事を示していた。
一、
「では、提督。そちらのお流しで、お湯を沸かしていただけたら……」
「おう、こっちのでいいのか。……あっそうだ(唐突)。おい扶桑。お前も飲みたいだろ、ビール?」
「え? いえ、その、提督……?」
扶桑の困惑をよそに、MUR提督は休憩室の冷蔵庫をばかんと開けた。彼女としては、手持無沙汰だったので皆にお茶でも淹れようというぐらいであって、お酒を開けるまでではなかったのだが。
伊14がまだいたなら、「それって、提督が呑みたいだけじゃん!」ぴしりと指摘しただろうか。
執務室の隣の部屋は水回りと小さな冷蔵庫が備えられていて、戸棚には種々雑多な甘味がしまい込まれている。そのまま置いておくとよく「行方定カナラズ」になるので、自分の物だとわかるように袋か何かを別途用意しなければならないのが難点だが、戦艦、空母を先頭に色々な艦種が饅頭やら羊羹やらを置いている。部屋からわざわざ持ってくる理由は未解明だが、案外大勢で食べた方が楽しいとか、そんなものかもしれない。一部からは時々こちらの部屋の方を「執務室」呼ばわりされる理由だ。駆逐艦はあまり見られない。やはりギンバエはやや公然とあるのかもしれなかった。
ちょっぴり気になる事があって、扶桑は提督の後ろから一緒に中を覗き込んだ。腰ほどもない小さくて古臭い冷蔵庫なので、自然と、彼の肩にあごを預けられるぐらいにぴったり寄り添う。
軽佻浮薄でひょうきん者の印象があったが、白シャツ一枚の下は意外なぐらいにたくましかった。二言目には同意を求めてくる主体性のない便乗野郎、時折そうやって酷評される彼だが、思わぬほどに男らしかった。
うっすら汗ばんでいるのもわかる。扶桑は自分が何を考えているのかをぼんやり噛みしめて――形の良い鼻の頭を赤く染めた。
気をまぎらわすために、けほんけほんと二度ばかり咳払いをした。
「え、ええと……ビールなんて、そんなものありますでしょうか?」
「お?」
「次に入ってくるのは、まだだいぶ先だった気がして……」
「暑いし、ビール呑みてぇなあ……」
「見てみます?」
そう言って、扶桑は提督と一緒になって冷蔵庫の中を探したが、そこまでしなくてもすぐに終わった。そもそも入れるところのが少ないこじんまりした冷蔵庫なのだ。
彼は目的を忘れてしばし涼しそうにしていたが、扶桑が不経済だとやんわり口にして、閉めさせた。
「なかったゾ……まだあった気がしたのになあ……」
「そんな……気を落とさないで、提督」
いがぐり頭がすとんと落ちた。
彼は扶桑にビールの事をわびた。勘違いで、飲ませられなくてすまないと。口ぶりは子供が母親に皿を割ってしまった事を告げるものとまったく変わらなかった。当の本人が飲みたがっていた事などすっかり忘れてしまっていたようだった。扶桑は少し迷ったが、結局は小さく笑う事にとどめた。提督ったら、少しばかりおかしなところがあるんですから。内心でそんなふうに思った。
もちろん彼の気性をよく思わない者もいる。駆逐艦霞などはまさにそうだった。彼女は水兵らしい実直さでもって痛烈に彼を罵る――つまりは、馬鹿! という一言でもって。それを聞いた彼はいつも笑って聞き流している。無視というよりは鈍感というところか。それが繰り返されるたび、やはり提督殿の頭はいくらか足りないのだという声も根強い。実際に事故で頭に血がいかなくなった時間がやや長過ぎたらしいぞなどもよく聞く話だ。
おそらく霞が期待するのは制裁、より正確には、彼を罵倒し見過ごされている現状への不満があるのだろう。提督が無能であったならばもっと話は簡単だったはず。あまり大きな問題に発展していないのは、つまり霞も彼の能力には一目置いているから。そういう事になる。既に筑摩がいなければ、あるいは彼女が秘書艦となっていた可能性も大いにあった。
なお、その二人の仲はあまり良くない。とはいっても、あの秘書艦と親し気にするやつもいないのかもしれないが。
扶桑などは、二人の顔色を見てうろうろとするばかりだ。彼女にそこまでさせるのも、人徳、提督のその種の能力といえるのかもしれない。けれど扶桑なら、たいがいの相手に対し親切をしてしまうに違いない。霞のような啖呵を切って上官のケツを叩く彼女の姿は、中々想像できないだろう。やっぱり彼は知将なのかもしれない。
だが、気前の良い上官が、必ずしも部下に対して気前のよい上官であるとは限らない。特に今の国のありさまでは。声の大きい人が安全な本土に引っ込み、移民問題を始めとした内患は止まらず、一方で戦火は一向に止まる気配もない中では、提督という地位にあるものがとれる手段はいくつもあるだろう。
皆の士気を継続させるという手腕、彼の場合はその邪気のなさと、極端なまでの放任する態度だろうか。
くどいほどにお節介をする提督。少しでも暗い顔をして歩いていると、あっという間に捕まって、なんだかんだと(ちっとも役に立たない)世話を焼こうとしてくる。艦隊の総評としてはそんなところだろうか。ただし、頼りになる男という意味はまったくない。彼はむしろ逆で、部下がつい面倒を見てしまうようなところがあった。そういった部分が、彼女たちを指揮する上で、プラスに働いているのだろうか。
そしてなによりも彼は自分の領分を弁えていた。艦娘には艦娘の領分がある。それを理解しない者は途端に彼女たちの指揮が非常に困難なものになるだろう。彼はそこへ一歩たりとも踏み入らなかった。全ては秘書艦を通したものでしかなかった。
筑摩が彼の下、旗艦として辣腕を振っているのがその何よりの証左だった。
「でしたら、せめてお茶にしましょうか?」
「ビール飲みたかったゾ……」
「来週までの我慢ですから」
扶桑はきっぱりと言った。その言い切りようは、彼女にしては珍しいぐらいだった。
二、
一方の執務室では、筑摩が相変わらずの笑みを浮かべていた。
といっても、それは普段とは違い、気疲れのみえるものだったかもしれない。
「あの、それでやっぱり、旗艦は私じゃなくて、占守ねえとか、春日丸――大鷹さんにした方が」
「方が?」
「……良いかと思います」
国後、占守型海防艦二番艦、アポロチョコ、ツナ缶ならぬクナ缶、ご飯のおかず(意味深)、通称クナは、曖昧な態度で言葉を濁そうとしたが、筑摩の力のこもった眼差しにせっつかれて、しぶしぶ続けた。あやふやなものや優柔油断さを嫌う秘書艦の性質を、なんとなく理解しつつあるように、さらに言葉を足した。
「今は私が旗艦です。でもそれは、別に能力とかでもなんでもなくて……私が、着任したのが一番最初だからってだけで」
「はい、そうですね」
「……だから一番艦である姉にそれを引き継ぐというのは、別に全然おかしくないです」
丁度、筑摩からは、クナのつむじのくるくるしたところが見えた。全長は78m。
――こういったもろもろのとりまとめは全て旗艦の役目だった。
筑摩は海上において、絶対の支配者である。彼女の指示は全てが正しく、海で彼女が知らない事など存在しない。当然の権利であり、陸に上がってのこうした指導はその義務ともいえた。
なんと答えるべきか。彼女の中にそれは元々あったが、普段使わない鉛筆を探すのに机の引き出しをいくつも開けるように、筑摩は視線は執務机の上をつかの間泳いだ。
一度拳にぎゅっと力を入れて指を伸ばすと、黒いグローブにしわがよった。室内灯の下で筑摩はそれをしばらくまじまじと見つめていた。
その時、礼式の則って執務室の扉が叩かれた。扉はいつも開けっ放しだが、艦影は見えていない。海外艦に多いものだった。
顔を上げる。
クナは「お気になさらず」という顔をした。わきにより、ぴんと直立不動の姿勢をとった。
筑摩は「はい。どうぞ」と答えた。
彼女は、陸の上ではまったく丁寧な言い方を好んだ(当然、海の上で部下を指揮している時――敵と味方に分かれて殺し合いをする時には、また違う)。それはまあ、珍しくもない。彼女たちは船であると同時に女性であり、居丈高な態度や、粗野な罵声を軽蔑する傾向にあった。もちろん、当時の気風が強くあらわれたものもいる。やや短気で、ともすると喧嘩っ早い。だが両者の対立が深刻化する事もなかった。それはやはり、根本にある女性らしさ、協調性なのかもしれない。
しかし秘書艦は、件の能面のような冷たさから、どこか敬遠されている部分があった。冷徹である以上に冷酷だと。これは特に、初期の大規模な海戦の折、共に出撃した艦からの印象が強い。優しい秘書艦さんは、戦場では闘争心がむき出しになる……とでもいえば聞こえはいいが、やはり上官と僚艦に求められるものは違うのかもしれない。
時々、冗談のように「秘書艦でなくなったらどうするのかしら」と陰口をきくものもいる。意味のない仮定だ。筑摩に彼のそばを離れる意思はないだろうし、提督にだって、彼女をとりのぞくだけの能力が残っているものかも怪しかった。鳳翔など、古参も反対に回るだろう。彼女たちは勝利というものが得難い事を知っている。有能な提督と、その秘書艦であればなおさらだ。なによりもその連携が「鉄壁」とまで称されるほどであれば。
そうしてあれこれ言ったところで、無意味と同様の問答だが、かつての舞鶴戦艦、重巡筑摩が稀有な勇者である事は、これは疑いようがない。もしも頭がすげかわるような事があったとしても、それなり以上の敬意をもって、僚艦として迎えられるに違いなかった。
「ローマです。入るわ」
声は重々しく響いた。
戦艦ローマは部屋の中を見回して、少しばかり鼻白んだようだった。
緩くウェーブを描く髪は額にかかるぐらいで切り揃えられ、きりりとした眉と、氷でできたシャープな鼻筋が、彼女の意志の強さをくっきりと示している。鼻梁に乗せた小ぶりな眼鏡の奥、明るいはしばみ色は生来の品の良さを感じさせた。
彼女を一言で言えば、恐ろしいぐらいの美人。公園で隣に座ったなら、男の方から気後れしてその場を離れてしまう、そんなタイプだ。そのせいで、例え本人にその気がなくても、その所作は相手を見下しているように思われがちだった。
「Buon giorno、チクマ。彼はどこ?」
「ローマさん。ええ、どうぞこちらへ。提督でしたら、すぐにお戻りになるかと」
彼女の故国は筑摩とは違う。出自が違うのだから、筑摩の態度もやや改まったものになる。わかりきった事だが、艦隊旗艦ともなれば、要らぬ面倒を起こさぬよう、色々と気を遣うのだ。
提督はその点、まるで気を回せる男ではなかった。しわ寄せを食らう、秘書艦はえらい苦労である。
彼女の要件だって、わかりきっていた。配備の見直し、もっと出撃を、もっと前線へ。そんなところだ。今は隣に引っ込んでいる扶桑だって、同じ事をいうに違いなかった。
「隣で、お茶を淹れてらっしゃいます。差し支えなければ、筑摩が代わりに伺いますが」
返事のかわりに、ローマはむっつりと黙り込んだまま首を振った。
当然、そうだろう。配置願いも、休暇申請も、筑摩にかかれば大抵握りつぶされてしまうのだから。あの愉快な男の方になら、少なくとも可能性はある。彼が筑摩を説得する、ほんのわずかな可能性が。
嫌な沈黙が続いた。ローマは横目でクナをにらんだ(彼女にしてみればそれはちらっと視線をやった程度のものだったが)。クナは少し眉をよせて、筑摩と同じ事を繰り返した。
秘書艦は、こめかみに手をやって、とん、とんと軽く叩く。笑顔の調子を整えているようだった。
扶桑が戻ってきたのは丁度そんな時だった。
三、
「え、ええと……」
扶桑はおろおろしていた。
彼女だって戦艦だ。その場になにか焦げ臭いものがあるのは一瞥してわかったが……。
「お湯が沸きましたから……そのう。いかがかしら……筑摩さん、国後さん……」
「ええ。ありがとうございます」
「失礼しました! 国後、お手伝い致します!」
彼女があっと気付いた時にはすでに、クナ(意味深)のピンクの頭はそそくさと隣に引っ込んでいた。……あっ指令、いいよいいよ、あたしがするから……って、あー!
そして、扶桑は彼女とぴたりと目が合った。
「……ローマさんも、なにか……あの」
切れ長のまなざしは、ガラスを通してじろじろと品定めをしているようでもあった。あるいは、お部屋が少し暗いのかしら……。扶桑はやや心配するぐらいの間があった。
それから次に、ローマはにっこりと微笑んだ。
「冷たいもの……そう、ジェラートがいいわ、フソウ」
公的なところで彼女が意識して出すやや押し殺したような低い声とは違って、オペラ歌手のように滑らかな響きだった。どこか甘えるような調子さえあった。
ローマはそれまでの堅苦しさをすっと取り払って、柔らかい諧謔心のある表情を見せていた。ずらした眼鏡の下からは、いかにも彼女たちらしい、地中海の明るい気風がのぞいていた。
扶桑は、堅物と名高いローマが気を許す、数少ない艦である。なんだかんだで姉力の極めて高い扶桑に、やはり妹であるローマも悪い気はしない、という事だろうか。
とはいえ扶桑の方では態度がややぎくしゃくとしがちだった。外人さんなのだ、なんたって。ものすごい美形でもあるし、すらすらと日本語で意見を述べられると、未だにあわあわ、おろおろしてしまう。
「ええっと……ろ、ローマさん! じぇらーと……?」
「ふふ。もう、冗談よ、フソウ。Grazie、いただくわ」
「そう……ですか……? じ、じゃあええっと、すぐ用意しますね……美味しい、お菓子も丁度あるから」
「Davvero? 楽しみ」
なおざりな返事だけをして扶桑は再び隣に引っ込まざるを得なかった。
けれど、扶桑の手元にあったのは一枚のメモ用紙だけだった。
ちっちゃな丸まった文字で、こんな事が書いてあった。
『扶桑さん、ごめんなさい! 提督と、秋雲と食べちゃいました! 今度代わりに置いておきますから!』
走り書きのメモには、すみに小さく「風雲」とあり、横には彼女の可愛らしいイラストがあった。
扶桑は(あと山城も一緒に)クッキーの空き缶に色々なものを入れているのだが、今はそれだけだったのだ。
たまにある。なくはない。そして、こうなった時は、文字通り倍以上になって帰ってくるのが通例でもある。カップに紅茶を注ぐ時は、勢い余って縁から溢れようともなみなみ注ぐのが伝統なのだ。
損をして得をとる、というのを地で行くのが彼女なのかもしれない(だから手を出されるともいえるのだが)。
しかし問題は、今この瞬間、何かを出そうにも、どうしようもない事なのだった。
扶桑は万感を込めて呟いた。
「ふ……不幸だわ……」
沖波「司令官、夕食はどうされますか? 私、作ります! 何がいいですか? ステーキ? ビフテキ?」
MUR「おっそうだな」違いがわからない大先輩